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月を飲む  作者: 隼海よう
12/14

ぜつぼう


 一応、少し大人っぽくしておこうかな、と思って、洋服はちゃんと選んだ。ついでに、少しだけ、化粧もしてみた。その試みは成功だったようで、待ち合わせた先輩たちは、口々に、え、いいね、かわいい、と褒めてくれた。

「どうすっか、プレゼント」

「店長の趣味分っかんねぇなー」

「もうネタでいいんじゃね?別にまともなもん選ばなくてもいいっしょ」

 バイト先の店長に子供が生まれたらしいので、そのお祝いのプレゼントを選ぶ、という名目で休日の街に繰り出したメンバーの中で、あたしが一番年下だった。別にその中の誰かを狙っているわけでもないのに子供っぽく見られないようにと意識した自分が阿呆らしくも思えたけれど、先輩たちがあたしを間に入れて歩いてくれること、そしてすれ違う同年代の男の人たちに対してどこか自慢げにあたしに話しかけてくれることに、正直ほっとする自分がいた。あたしが彼らのステータスになることができることへの安心感。外見でもなんでも、存在に価値を見出されることへの優越感。

 あたしはいつの間にか、彼らがあたしに求めるものをなぞるように、明るい声、軽いノリ、そつのない笑顔で振舞っていて、だから、その影を雑踏に見つけた時、なんだかさっと映画館で突然電気をつけられたみたいな気分になった。

「あ」

 意識するよりも先に声がぽろりと漏れてしまった。

「え、なに?」

「どした?」

「知り合いでもいた?」

 先輩たちは普段頭の悪そうな会話ばかりしているくせにそういう反応は素早くて、さっとあたしの視線の先を辿った。

 その先に立つ男は白いシャツにネイビーのジャケットを羽織りスラックスを履いていて、会社のお昼帰りかなにかみたいだった。

 いつもと違う。

 あたしはその姿に釘付けになる。

 雑踏に溶け込んで、当たり前みたいに仕事途中の空気を纏って、伏し目がちに歩いている。

 あの男は、誰だ。

 たぶん日本人男性の平均よりは背の高いその姿は街中でも少し目立つ。向こうはこっちに向かって歩いていて、こっちは向こうに向かって歩いていて、たぶんそのまま歩いていたらぶつかるような、そんな直線上であたしたちは向かい合っていた。

 男の目は、一瞬だけあたしを見た。

 けれど次の瞬間、風景を通り過ぎるように、自然にふっと逸らされた。

「え、どれどれ?」

「友達?」

「え、あの男の人?」

 先輩たちが興味本位であたしと男を交互に見る。あたしはぱっと男から目を逸らした。いや、なんでもないです、と、さっきまでの軽い口調で言おうとしたのだけれど、男のあの匂いがふっと漂ってきて、何も言えなくなってしまった。

 男が微妙に進行方向をずらす。それだけで、もうあたしと男の間に何人もの人が流れ込んでくる。

「え、あの人?めっちゃ歳離れてない?」

「お兄さん?いや違うか、一人っ子って言ってたよな」

「え、もしかして……オトコ?」

「えーまじで!?そっちいっちゃう!?」

 急に人混みが息苦しくなって、あたしはきゅうっと眉を寄せた。興奮したように質問してくる先輩たちの声がわんわんとうるさい。オトコ、と、わざとらしく声をひそめたその質問に、何言ってんですかぁ、と馬鹿っぽく返す気力も削がれてしまった。

 男の匂いが遠ざかる。

 後には騒々しい雑踏だけが残る。

 あはは、ちがいますよ、近所に住んでるお兄さんで、微妙な顔見知りなんです、と。

 ようやく笑って白々しい嘘を返した時には、もう男の姿は視界のどこにもなくなっていた。





 がちゃんとリビングの扉を開けたあたしに、座椅子に座って雑誌を読んでいた男は、驚きもせず、おう、とだけ言った。低くざらつくその声はどこまでもいつも通りで拍子抜けする。別にバイトでもなかったくせにバイト先でハンバーガーを二つ買って来てしまって、あたしはその紙袋をテーブルに置きながら、うん、と言った。

 こち、こち、と時計の秒針が硬く時を刻む。ぱらり、と男が雑誌をめくる。動かない静寂。沈滞した部屋。

「……ごめん」

 唐突なあたしの謝罪に、男は雑誌から目だけを上げた。

「あ?」

「今日の夕方、街で会った時」

「なにが」

「……騒がしくて?」

 謝ったくせに疑問系で首を傾げたあたしに、あー、とだけ男は言った。納得した「あー」でも、不満そうな「あー」でもなく、ひどくどうでもよさそうな、ただ音を出しただけの、「あー」だった。それだけで、また、雑誌に目を戻す。ぱらり、とページをめくる。

 街で会ったことを否定しない代わりに、特になんの感想もない。不機嫌になることも、あそこにいた理由を聞くことも、馬鹿みたいに笑っていたあたしをからかうことも。何か、少しぐらい何か言ってくれてもいいのに、と思いながら、あたしは制服より短いスカートをぎゅっと引っ張る。

 雑誌を2ページめくったところで、男が再び目だけであたしを見た。なんとなく突っ立っていたあたしに、何やってんの、とだけ問う。そしてテーブルに置かれた煙草の箱から一本取り出し、口の端に咥える。

 その視線はあたしの何も見てやしない。白く滑らかな肌も、つるりと桜色の爪も、まだ余るところなんてない瑞々しい肌も、化粧も、服も、何もかも。

 馬鹿みたいだ、と思った。

 ここに来る前、なんだかんだと理由をつけて、駅の狭いトイレで化粧直しをした自分が馬鹿みたいだ。あの、隅から隅まで大人の姿で町を歩いていた男の目に、あたしもいつもより少しは大人に見えるだろうかと、睨むみたいに薄汚れた鏡で服装をチェックした自分が、ほんとに、心底、馬鹿みたいだ。

 この人、あたしに全然興味なんてない。

 若かろうが、しわくちゃだろうが、可愛かろうが、ブスだろうが、そんなの全然、たぶん、この人には関係ないのだ。たぶんあたしが今、ねえ、あたし、可愛いんだよ、って言ったとしたら、たぶんこの人はいつもと同じように煙草を少し噛みながら、へえ、お前、可愛いんだ、と何の抑揚もない声で返すのだろう。

 それはほとんど、ぜつぼう、だった。

 絶望は、音も匂いも色もなく、こうやって人を毛布みたいに包み込んで、形も失くしてしまいそうな途方もなさにゆっくりと突き落とすのだと、知った。





 真夜中に、目が覚めた。

 布団を抜け出ようと起き上がり、

「さみぃよ」

 嗄れた声が隣で低く文句を言った。

 季節が過ぎるのはなんて早いんだろうと驚く。いつの間にか秋も終わりになっていたのだ。夜はもう肌寒い。

 もぞもぞとベッドから出る。床に散らかっているはずの下着を探して、自分がまだ上も下もつけていることを思い出し、思わず小さく苦笑した。

 かちり、と小さな音が部屋に響いた。男が煙草に火をつけた音だ。部屋の中では滅多に聞かないその音で、男が珍しく少し苛立っていることがわかった。それはきっと、昨夜、ベッドの中で、初めて拒んだあたしのせいだ。

 ベッドの端に腰掛けて服を着る。制服ではなく、いつもより気合いを入れた私服たち。キャミソール、薄いカットソー、ミニスカート、カーディガン。順番に身につけていく。肌が布に包まれるたび、ひたひたと、体の奥が冷たくなった。それを男に気付かれぬよう、静かに、静かに、服を着る。

 月明かりが青白く外から差し込んできた。それはテーブルの上で冷え切った食べかけのハンバーガーを、散らかった部屋の床を、あたしの爪先を寂しく撫でる。今日は満月だ。いつだったか、珍しく陽気に酒を飲んでいた男が乾杯をしたあの夜と同じ。眩しいくらいの光に、あたしひとりだけの影が、長く長く伸びた。

 立ち上がる。ベッドが軋んだ。

 バッグはどこに置いただろう、と部屋をぐるりと見渡して、

「もう電車ねぇぞ」

 引き止めるわけでもない、ただただ面倒そうな声で、煙草を咥えながら男がそう言った。

 それが、どうやら、引き金だった。

「ねえ、あたしのこと、見えてる?」

 振り返らずに、絞り出した。口に出すと何てみっともなくて意味のわからない言葉だと驚いた。けれどもう止められなかった。あたしを満たした絶望は、そう簡単には引いてくれない。

「あたしじゃなくて、誰でもいいの?あたしより綺麗だったり、大人だったり、逆にもっと制服が似合ったり、そういう女が出てきたら、その女を今度は抱くの」

 だめだ、いやだ。

 かわいてしまう。

「ねえ、何を、抱いてるの」

 馬鹿みたいなテンションで、もしかして、オトコ?と尋ねてきた先輩のはしゃいだ声と、近所に住んでるお兄さんで、と答えた自分の白々しい嘘を思い出す。

 あたしたちは、結局、兄妹にも、恋人にも、フレンド、にすら、なれなくて。嘘をつかなきゃ名前すらつけられない、あたしたちは、どこにもいけない。

 迷子みたいに途方にくれた。思ったよりも、あたしは男に心を捧げていたらしい。理由もないこの関係に、名前が欲しいと思うくらいには、どうやら縋っていたらしい。だから、あたしの価値を見失った途端、そのいきどまりに、どうしたらいいかわからなくなってしまった。

 女であるのだ、あたしも、所詮。

 なんてかなしいいきものだ。

 化粧を落としもせずに、男を拒んだまま体を丸めて眠ってしまったから、きっと顔はどろどろだ。でもそんなのも男には関係ないんだろう。

 ぎしり、とベッドが軋んだ。あの匂いが揺れた。男が起き上がったのだろう。けれどあたしは振り返れない。

「お前、それ、自分に言えよ」

 心臓を震わせるような低い声が、そう言って。

 手加減なく、腕をぐんと引かれた。

 窓の外の、月が、揺れる。

 よろけてベッドに尻もちをついたあたしの顎を、ぐっと乾いた指が掴んだ。乱暴に引き寄せられて、鼻先が触れそうな距離で、男があたしを睨みつける。

「お前だよ」

 暗く燃えるような色が瞳の奥で揺れている。

「俺が抱いてんのはお前だよ」

 顎を掴む指に力が入る。がり、と、男の爪があたしの皮膚をひっかいた。

「お前こそ、誰に抱かれてんのか、分かってんのか」 

 心臓を鷲掴みにされたみたいに、あたしは男の熱を見つめて動けない。

 そういう制服とか、目とか鼻とか、胸とか喘ぎ声とか化粧とか、そういうのを見る男になら、誰にでも足開くのか。そういうのを求める男がいたら、そいつの上で喘ぐのかよ。お前、そういうのがなきゃ、自分すらちゃんと認識できねえの。そんなら俺が抱いてるのはなんなんだ。そればっかり見て欲しくて腰振ってんのか、お前。

 言うだけ言って、男は捨てるみたいにあたしの顎を離した。ベッドに手をつき、呆然と男を見上げる。

 男が煙草の煙を深く深く吐き出す。吸い込みたくなくても匂いが這いずるように肺の奥まで入ってきて、なんとなくあたしは、ああ、これが、かなしみの匂いか、と思った。

「かわいそうだな」

 深く、青い、月夜に。

 男の、言葉が、ぽとりと、落ちる。

 お前、かわいそうだな。

 かわいそうなひとだな。

 かわいそうな、ひと、という、あまりに不釣り合いに丁寧な響きに、どうしようもない本物の哀れみが滲んでいた。

 泣いたら終わる、そう思った。

 泣いたら終わる。この夜も、あたしたちも、なにもかも。

 ぎゅっと唇を噛み締めた。

 けれど、ひとつぶ。

 まだ何事も起こっていない真っ白なシーツに、たったひとつぶだけ、滲んでしまった。

 

 そうして、終わった。

 終わってしまった。

 あたしは月を飲み込んでしまった。


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