理由
なんで、
するん、と唇の間から声が漏れた。それは記憶の底であふれ続ける夜に、あるいはまるで懐かしむように躊躇なくあの日々を口に出す男に、しかしたら引きずり出されたのかもしれない。
「なんで、寝たの」
音になってから、背筋が震えた。
言ってしまった。
あの頃の私が決して男に投げかけなかった問い。それをずっと訊かなかったのは、聞いてしまったら関係に輪郭ができてしまうからで、あの頃の私は心のどこかでそれを恐れていた。
それを、今、訊いてしまった。
男は私をじっと見ている。指先を、ぐっと握りこむ。小指のピンキーリングが西日に煌めく。
なんで、寝たの。
ただの幼い子供だった私と。
妹になるはずで、なりそこねて、結局最初から最後まで赤の他人だった私と。
男の覗き込むみたいな深く暗い瞳。内臓まで透かし見られているような気がした。
あの頃は、理由がわからない関係を、分からないままにしておくだけの幼さがあった。
けれどこうやって再会して、記憶は鮮明に残り続けていることを知ってしまった今、理由をつけないと、忘れ方すらわからない。そのことに、気づいてしまった。
男が乾いた唇を、薄く開いて。それだけで、心臓がひっくり返る。
「……それは、お前が知ってるだろ」
けれど返ってきたのはそんな言葉で。
結局煙に巻かれるのかと拍子抜けする。
男はそれきり口を開こうとしない。お互いに、カップを持ち上げ、もう底に少し残るだけの冷えた珈琲を啜る。こびりついた苦味が舌をじんと痺れさせる。
やっぱり、私たちは。
どうなったって、友達にすら、なれはしないらしい。
「……いっつも、ほんとのことは、何も教えてくれなくて」
呟いたそれは、からんからん、と誰かが店を出て行ったドアベルの音に消されるくらいに小さかった。届かなかっただろうか、届かなくても別にいいけれど、と思いながら男を見ると、カップに口をつけた男もまた、静かに私のことを見ていた。
「なのに、勝手なこと、言うのね」
「勝手なのはお前だろ」
突然男の視線に烈しい色が宿った。息を飲む。睨んでいるわけではなく、まるで、何かを強く求めるような。
「勝手なこと言うだけ言って、勝手にいなくなった奴が言うんじゃねぇよ」
言葉を失った私の横を、カップルが通り過ぎていく。窓の外、色づいた街路樹が風に揺れている。珈琲のお代わりいかがですか、と、店員が近づいてきて、でも言葉を失った私は反応できず、男だけが右手を挙げ首を微かに振ることでそれに答えた。
訪れた、唐突な幕切れは。
たしかに、私が決めたことだけど。
それは、たしかに、そうだけど。
でも、結局私のことなんて、どうでもよかったのは、あなたじゃないか。