再会
そして、まだどろどろしているうちに、そのうちの一人が、わたくしたちのいちばんいい敷物のちょうどまん中にそれを落としてしまいました。
このこぼしたあとをきれいにふきとることは、
もうぜったいできないだろうと思います。
ーー 『あしながおじさん』より
あ、この匂い、嗅いだことある。
意識の片隅でそう思った。忙しない雑踏の中で、買ったばかりの冬物のコートが入った紙袋を右手に下げて、私は左手首の腕時計を見た。
案外早く買い物終わっちゃったな。
なんだっけな、この匂い。
寒いな、ストール持って来ればよかった。
そう言えばあの特番の録画予約しておいたっけ。
なんか、懐かしいな。なんだっけな。
とりとめなく散らばった思考はそのままに、私はぶらりと歩き出した。ウエッジソールのボルドーのパンプスは歩きやすくてお気に入り。昼前から買い物に出てもう三時間ほど経っているけれど、まだまだふくらはぎもつま先も元気だ。待ち合わせの時間まで、どこかでお茶でもしていようか。それとも少し頑張って、線路の向こうのデパートまで足を伸ばしてみようか。秋から冬へ移ろい始めた冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。なんか、浄化される感じ、と考えて、じゃあ私、汚れてたのかしら、なんて、少し可笑しくなってひとりで小さく笑った。
鼻腔をまたあの匂いがくすぐる。歩き出しながら、今度は、すん、すん、と、その匂いを意識して嗅いでみる。
いがいがと、鼻の奥にひっかかるような。
それでいて、熟れすぎた果実みたいな。
なんだっけなあ、この匂い。なにか分からないのに、なんだか少し悲しくなるくらいに懐かしい。
記憶を手繰りよせようとして、もう一度大きく空気を吸い込んで。
その息を、吐ききる前に、背骨のあたりが、じんと痺れた。
あ。
意識する前に喉から漏れた私の声に、
え。
向こうもざらついた声を返した。
あと一歩ずつ、お互いに何も気づかず踏み出していれば、たぶんもう二度と気づくことはなかっただろうし、たぶんもう二度とこんな偶然が降ってくることもなかっただろう。何も知らず、ただすれ違い、見知らぬ通行人として、二度と交差することもなく。
それなのに、気づいてしまった。
私たちは、お互いに。
斜め向かいで立ち止まった男のことを、私はまじまじと見つめた。男もまた、斜め向かいで立ち止まった私のことを、瞬きもせずまじまじと見つめた。そして私たちは、同時にすっと目を伏せた。
雑踏の中、私と男の二人が立つ空間だけが、時間から取り残される。
口を、開くべき、なんだろうか。声を出すべきなんだろうか。何か、さらりと大人びた言葉を。それとも通り過ぎるべきなんだろうか。何も気づかなかったふりをして。あるいは何もかも忘れたふりをして。
どうすればいい。こういう時の正解は、……正解なんて、あるんだろうか。
嗅ぎ慣れたあの匂いが絡みつき、頭がうまく働かない。この匂いが否応なく私を満たしていたあの頃は、もうずっと前のことなのに。なんで、煙草、変えていないの。理不尽な苛立ちがぐるぐる回る。下唇を噛み締めて、ぐっと眉を寄せた私に、
「……ひさしぶり」
喉のあたりで不純物が引っかかるような声が降ってきた。
あまりに彼に不釣り合いな言葉に驚いて顔を上げると、
「……って、言うべきなんだろうな、ここは」
そう、口の端を微かに持ち上げて、目を細め、男が何かを自嘲するように笑った。
その枯れた笑い方は記憶の中の男と確かに重なった。泣きたくなるくらい、ぴったりと。
男が横目で私を見る。
前にも、こんなことあったな、と。
口に出さずとも互いにそう思っていることがわかってしまって、それが未だに分かってしまうことに、どうしようもなく死にたくなった。
二名様ですね、と店員に問われて、頷く男の背中をとても奇妙な気持ちで眺めた。通されたのは窓際のテーブル席で、男が手前に座ったので、私は奥の椅子に座った。
控えめにポップな洋楽が流れる店内は明るく、それなりに客が多かった。窓から差し込む傾き始めた日の光が向かいに座る男を照らす。注文を取りに来た店員に、男が、珈琲、ホットで、とぼそりと注文したので、私も慌てて、同じのを、と言った。
店員が下がり、私たち二人の間に沈黙がじわりと広がる。窓側に立てられた季節のおすすめメニューのプレートが、長い影をくっきりとテーブルに落として、まるでそれが私と男の間に横たわる深い深い谷底みたいだ。健全な昼の光のもとでこの男と向き合っていることがなんだかとても不健全な気がして落ち着かない。膝の上で意味もなく指をいじりながら、なんでこんなことになってるんだろう、と、何度目かの問いかけを自分自身に投げかけた。
私の向かい、男の後ろ側のテーブル席にはカップルが座っていて、彼氏はずっと携帯をいじっている。彼女はつんつんと崩れたショートケーキをいじっていて、ころりとイチゴが転がったのに、あ、と少し残念そうな顔をした。
すぐそこで勉強をしている大学生たちの明るい笑い声が響く。店員がせわしなく動き、張り付いたみたいに完璧な笑顔を振りまく。
流れている曲が変わる。窓の外を寒そうに肩を上げた人々が足早に通り過ぎ、街道に整然と植えられた銀杏は鮮やかに風に揺れていて、どの角度から見ても世界は正しく回っているのに、目の前に座る男だけがこの風景の中で何か歪だ。
珈琲が来た。しぼりたての牛乳を勢いよく注ぎながら時間を止めたみたいな乳白色のカップを持ち上げると、柔らかい湯気がふぅわりと揺れた。
男が、ミルクも砂糖も入れないまま、無造作にカップに口をつける。その仕草を、まるで新しい生き物を見るみたいな、とても不思議な気持ちで私は見つめた。
そして、気づいた。
そうか。
あの日々、私の短い人生の中で、たった一瞬、けれどたしかに、必死に生々しく生きていたあの日々で、私は、この男と、お茶すらまともにしなかったんだ。
気づいてしまったら、虚しくなった。珈琲に口をつけると、刺すような苦味が、虚しさと一緒に舌から喉へと転がって、腹の底まで落ちていった。
まだ私が制服を着ていた、あの夏の夜から。
あの、悲しみが歪み始めた、あの夜から、私たちは、まるでそれ以外の何かを知ることを怖がるみたいに、正しい会話ひとつすら、できなかったのだ。