返らない図書室の本
給食後の中休みに流行っている遊びがある。僕たちはその遊びを「かくれ鬼ごっこ」って呼んでいるんだ。「かくれ鬼ごっこ」は名前の通り、かくれんぼと鬼ごっこが合わさった遊びで、鬼以外のみんなが隠れているところから遊びが始まるんだ。学校の廊下は走ると怒られるけど、校庭はサッカーやドッジボールに占領されているし、体育館は高学年の人がバスケットボールをしているし、遊ぶスペースがなかなか確保できないから、仕方がないよね? だけど怪我をしたら困るから、一応、早歩きっていうルールでやってるよ。
僕は今日もかくれ鬼ごっこに参加して、今、まさに図書室前にある柱の陰に隠れてるんだ。そして窮地に追いやられている。鬼の俊樹くんがこっちへ向かってきているのがさっきチラッと見えてしまった。
「あ! 見つけたぞ、正太郎!」
見つかった。僕は柱を飛び出して図書室前の廊下を駆け抜けようとした。
「走るな! 反則だぞ!」
俊樹くんに注意されて速度を落とそうとしたとき、
「うわあっ!」
「イテテテテ……」
僕は図書室から出てきた人と衝突してしまった。
ぶつかった僕は尻餅をついただけで済んだけど、僕にぶつかられた相手はお腹を押さえている。
「あ、鮎川くん。ごめんなさい。僕が走ったせいで」
図書室から出てきたのは六年生の鮎川カエデくんだった。三年生と六年生が交流する行事はほとんどないけれど、鮎川くんは運動会の備品係で一緒だったから下の名前まで知っている。
「ほら見ろ。だから走るなって言っただろ」
俊樹くんは偉そうに腕組みをして僕を見下ろした。
「鮎川くん大丈夫? お腹、痛い?」
「いや、痛くない。痛くない、大丈夫」
鮎川くんはお腹を抱えたまま首を横に振った。
「立てる? 僕、先生呼んでくるよ」
「正太郎くん、呼ばないでいいよ、本当に大丈夫だから」
あんまり断るので、僕はもう一度鮎川くんに謝って、お腹を抱えながら歩いていく鮎川くんの背中を見送った。
「鮎川くん大丈夫かなあ」
「正太郎も走るなよ。先生に言いつけられて、かくれ鬼ごっこが全面禁止になったらどうすんだ」
そう言って俊樹くんは僕の肩に手を置いた。
「元気出せよ、鬼さん」
俊樹くんは僕を心配するどころか、去り際に「タッチ返しなしだからな!」と言い放って、僕を鬼にして逃げて行った。
タッチ返しは鬼になった人が前の鬼にタッチし返してはいけないっていう鬼ごっこのルールのこと。それなら、逃げて行かなくてもいいじゃないか。ああ、お尻が痛い。
結局、僕が最後まで鬼のまま中休みが終わった。五時間目の総合は世界の国々について資料集めをするから、三年一組のみんなは図書室へ集まった。配られたプリントには国の名前を書く場所と国旗を描く場所と、表がある。二列十五行の表には左上の四マスだけ言葉が書いてあるけれど、他の場所はすべて空欄になっている。すでにマスに書いてあるのは、面積・人口・言語・首都だ。この四つは必ず調べなくちゃいけないらしい。
「みなさん。調べたい国は決めてきましたね? 食べ物でも、洋服でも、乗り物でも、興味のある本を探して自分が調べたい国の情報を集めてください」
僕はお父さんが仕事で行っている台湾について調べようっと。
「マリモ先生! 『かいけつゾロリ』がずっと借りっぱなしなんだけど」
俊樹くんが資料集めとは全く関係ないことを先生に質問した。俊樹くんは明るくて、リーダーシップもあるからクラスの人気者だけど、目立ちたがり屋でもある。
「竹中さんはどこの国について調べてるんですか?」
「ドイツ! 表が埋まったら読書でいいんでしょ?」
僕はまだ上の四マスしか埋まってないって言うのに、俊樹くんはすべて埋め終えたらしい。でも、だからって騒ぐのはよくない。気が散るじゃないか。
「プリントの表を埋めて、先生に合格をもらった人から読書です」
俊樹くんは急いでプリントを取りに行って先生に提出した。先生は俊樹くんのプリントを眺めて「まあいいでしょう」と言ってプリントを受け取った。
「ヨッシャ! いちぬけ!」
そんなに早く終わるなら僕もドイツにすればよかった。と思ったけれど、俊樹くんが台湾を選んでいてもきっと同じ結果になっただろう。
「『学校の怪談』も借りっぱなしかよー。誰だよ借りてんの」
「竹中さん、静かに」
僕は俊樹くんの行動ばかりに目が行ってしまって集中力を切らしていた。俊樹くんは普段図書委員が座っているカウンターの向こう側に回って、なにやら棚を漁り始めた。
「竹中さん。席に戻りなさい」
「本を借りられるのは二週間なのに、もう一ヶ月以上も返って来てないんだ。なあ正太郎、お前探偵だろ? 借りっぱなしの人を探し出してくれよ」
「竹中さん! 戻りなさい」
先生が怒りはじめたので、俊樹くんは適当に本を選んでしぶしぶ席に戻った。
「又貸ししているのかも知れないね。それか、クラス文庫に混ざっちゃったとか」
「呑気な探偵だな。本を借りたら自分の図書カードに日付と本のタイトルを書いて図書委員に渡すルールなんだから、図書カードを見れば誰に貸し出してるか分かるはずだろ。だから、さっき」
先生の視線を感じて俊樹くんは話すのをやめた。僕も話している場合じゃない。台湾の料理でも調べよう。
俊樹くんはことあるごとに「犯人は見つかったか」と僕に聞いてくるようになった。そう言われるうちに、僕もなんとかして見つけてあげたいという気持ちになってきた。
数日後、僕は俊樹くんと一緒に図書カードを確かめに行くことになった。カウンターには当番の鮎川くんが座っていた。
「鮎川くん! あのときはごめんね。もうお腹は大丈夫?」
「あ、うん。なんともないよ」
「そっか。よかった」
図書室には僕たち三人以外誰も居ない。
「鮎川くん。お願いがあるんだけど……」
借りたい本を誰が借りているのか知りたいから図書カードを見せてほしいと伝えると快く承諾してくれた。図書カードは全部で三十枚くらいしかない。
「これで全部?」
「クラス文庫もあるし、たまにカードに書かないで借り行っちゃう人もいるからね」
「書かないで借りていくなんて、ルール違反だろ! なんのために図書カードがあるんだよ!」
俊樹くんが声を上げたのに驚いた鮎川くんは目を丸くして顎を引いた。
「正太郎くんたちは、なにか本を探してるの?」
「『かいけつゾロリ』と『学校の怪談』がここ一ヶ月くらいずーっと借りっぱなしになってて、俺、自習の時間は図鑑くらいしか見るものなくって困ってるんだ」
「その二つは結構人気だよね」
「図書委員に無断で借りてる人がいるってことだろ? 図書委員から呼びかけて早く返すように言ってくれない?」
「そう言われても……」
「借りられるのは一人三冊までで、二週間しか借りられないだろ? ゾロリの本を借りてるのがもし同じ人間だったら、七冊も借りっぱなしってことになる」
俊樹くんは鮎川くんを追い詰めるように言った。
「俊樹くん、鮎川くんが借りてるわけじゃないんだから」
「図書委員が無断で借りていくのに気が付かなかったからこういうことになったんだろ」
「図書委員だって棚の整理とか、カードの受け渡しとか、やることがあるから、図書室に来た人全員を見張っているのは無理だよ。僕たちも自習のときに読むくらいだから、他に面白い本がないか探そう」
俊樹くんは「ゾロリが返ってきたら俺が一番な」と言って図書室を出て行った。
「ねえ鮎川くん」
「な、なに?」
「オススメの本ってある? 面白い本が良いな」
「歴史上の人物を紹介する漫画とか、恐竜について学べる漫画とか、絵が多い本はやっぱり読みやすいよ。勉強にもなるし」
「歴史の本か。難しそうだなあ……。今度読んでみるね。ありがとう!」
借りた本人も借りたことを忘れてしまったかもしれないし、借りたまま間違えてクラス文庫に戻してしまったかもしれない。僕にはこれが事件とは思わなかったし、この小さな出来事がリカルドの言う面白いゲームとも思えなかった。けれど、ただ本が借りっぱなしという小さな出来事が、ごく限られた一部の人間にしか影響がないと思われた出来事が、たくさんの人を巻き込む事件に発展するかもしれないという考えが頭を過った。
以前、しまおじさんが教えてくれた“ハインリッヒの法則”というものがある。ひとつの大きな事故の裏には、実は29件のちょっとした事故があって、そしてそのさらに裏にはヒヤッとするくらいの、ハッと気づくくらいの、事故にはならない程度のことが300件ほど潜んでいる。逆に言えば、300件のヒヤリハット(ヒヤッとして、ハッとするようなこと)を未然に防ぐことができれば、せめて29件の段階で食い止めることができれば、1件の大きな事故を起こさずに済むのだ。
もしこの本が借りっぱなしという小さな出来事が300件のうちのひとつだとすれば、ここでなにか手を打たなければ、29件あるとされるちょっとした出来事に出くわしてしまうのではないだろうか。そしてそれさえも見逃してしまえば――。
僕の頭にはリカルドの顔が浮かんだ。リカルドの顔を覆うように真っ黒なカラスの羽根が舞った。
借りられた本はあれから数週間経っても返ってこなかった。一体どこへ行ってしまったのだろう。先生たちも新しく買ってくれたっていいのに。
「また絵の具持ってくんの忘れた!」
美術室へ移動するときに俊樹くんが騒ぎ出した。
「僕のを一緒に使う?」
「いいよ。先生に謝って貸してもらう」
僕は絵の具セットを学校に置きっぱなしにしているけれど、俊樹くんはアトリエという習い事をしているらしくて、たまに絵の具セットを家に持って帰るから、図工の時間に持ってくるのを忘れてしまうこともある。
「マリモ先生、絵の具セット忘れたので貸してください」
「竹中さんまた忘れたんですか? 連絡帳に書いておきなさいってあれほど言ったのに」
「連絡帳にはちゃんと書いたけど、連絡帳なんて見ないから」
先生は小さく溜息を吐いた。
「来週は必ず持ってきてくださいね」
「はーい」
「貸し出し絵の具セットからひとつ選んで使っていいですよ。使ったあとはきちんと返してくださいね」
「ありがとうございます!」
貸し出し用の絵の具セットは三つある。ひとつは新品みたいに綺麗だけれど、残りの二つは何年も前の卒業生が置いていったものだから、デザインも古くて、パレットや水差しもかなり汚れている。絵の具セットを忘れた人が数人いるときは新品のものの取り合いになるからいつもジャンケンで決めている。ちなみに僕はお姉ちゃんのおさがりを使っているよ。
「汚いのしかないじゃん! 先生、綺麗なやつは?」
「あら、どうしてないのかしらね」
「この学校、絶対盗人がいるよな。本だってずっと返ってこないし、絵の具セットもないし、そういやサツマイモ畑だって荒らされたし。同一人物による犯行だったりして!」
朱音ちゃんは肩をすくめて下を向いていた。確かに朱音ちゃんは子犬にご飯をあげるためにサツマイモを勝手に掘り起こしてしまったけれど、本と絵の具セットまで朱音ちゃんが持ち出したとはとても思えない。
「竹中さん、この学校に犯人がいるような言い方はよしなさい」
「それ以外ないだろ。だって、図書室は中休み以外鍵が閉まっているし、授業で使うときだって先生が鍵を持ってこないと入れないんだから」
「竹中さんも森の動物の絵を仕上げてください。今日終わらなかった人は中休みや放課後に描いてもらいますよ」
俊樹くんはしぶしぶ古い絵の具セットを選んだ。
「おかしいわね……」
先生は画材が置いてある棚を眺めて、確かにそうつぶやいた。
図工の授業が終わる前に先生から「借りたい道具や色画用紙があるときは必ず先生に言ってください。勝手に持っていくことは絶対にしないでください」という話をされた。
「マリモ先生、絵の具セットの他にも物がなくなってるの?」
「そうなのよ。24色のコンテも少なくなっている気がするし、デッサン人形も六体くらいあった気がするのに」
「他のクラスで使ってるのかな」
先生は画材置き場を眺めて首を傾げたまま、なにも言わなかった。
僕は早速今回のことをしまおじさんに相談することにした。相次いで物がなくなるのはなにかの予兆かもしれない。これがヒヤリハットなのかもしれない。
「確かに危険な因子を含んでいる気もするね」
おじさんはお茶を一口飲んで小ぶりのカイゼル髭を撫でた。
「でしょう?」
サツマイモの事件を例に挙げると、朱音ちゃんはお腹を空かせた子犬のためにサツマイモを結果的には盗む形になってしまった。今回も誰かのための盗難だとするなら、犯人の周りには必ず困っている人がいるはずで、盗まれている本や絵の具がどういった場所で必要とされているか、どんな人が欲しているかを考えればなにかヒントを得られるかもしれない。犯人は自分の意志なのか、悪い奴に吹き込まれたのかは分からないけれど、今回もただ悪さをしたいだけだとは僕には思えなかった。
「最初は保育園とかに寄付してるんじゃないかなって思ったんだ。だけど、それなら本じゃなくて絵本がなくなるはずだから、この推理は却下」
「現段階で紛失しているものは本数冊と絵の具セット、コンテ、デッサン人形だったね」
「他になくなっているものがないか先生と校内を探検したら、紙も少なくなった気がするって先生が言ってたよ」
「なんの紙か聞いたかな?」
「藁半紙だよ」
昔はよく学校の配布物を印刷するのに藁半紙を使っていたそうだけど、藁半紙は普通のコピー用紙よりも柔らかくってプリンターで紙詰まりを起こす頻度が高いから、今では裏紙と同じようにメモ用紙として使われているらしい。
先生曰く、コピー室にあった藁半紙がどっさり減っているのだと言う。
「そうか! 犯人は絵の練習をしているか、誰かに絵を描く道具を提供してるかのどちらかだ!」
「絵の具セットは必ず一人ひとつ持っているんじゃないのかい?」
「じゃあやっぱり誰かにあげてるのかなあ」
「絵を描く道具集めて、他の用途で使用しているとも考えられる」
「僕には筆を逆さにして箸の代わりにするくらいしか思いつかないな」
「奇抜な発想だね」
僕は褒められた気がしたので、にこっと笑った。
「そう言えば、正太郎くん怪我はよくなったかい」
「怪我?」
「お尻が痛いと言っていたじゃないか」
「痣ができてたけど、痣の色も大分薄くなったし、もう触っても痛くないよ」
「それはよかった」
「この間ぶつかっちゃった鮎川くんに謝ったら、なんともないって言ってたよ」
「その様子じゃ、お友達もおうちの人には話していないようだね」
「僕はおじさんに話したじゃないか」
「私はおうちの人ではなくて、おうちに遊びに来ている人だろう」
僕が廊下を走ったことが原因で起こったことだから、お母さんに言ったら怒られると思って黙っていたけれど、そういうわけにもいかないみたいだ。
「そのお友達が今後、別の出来事で怪我を負ったときに、正太郎くんと図書室前でぶつかったことが原因かも知れないと言い出したらどうする」
「なんともないって言ってたのに?」
「確かに正太郎くんはきちんと謝ったかもしれないが、怪我を負わせてしまった場合は特に、なにが原因で起こったことなのか相手の親にも説明しておいたほうがいい。あとから話が大きくなるのが一番厄介だからね。許してもらえるかどうかは相手次第だが、誠意を見せるべきだと思うよ。だから近いうちにお友達の家に菓子折りでも持っていきなさい」
「僕ひとりで?」
「美智子も仕事を休めないだろうから、私がついていこう」
よかった、と安堵してすぐに僕はある事実に気が付いてしまった。相手の親に謝ると言うことは、いずれ僕のお母さんの耳にも今回のことが入るということだ。廊下を走ったなんて言ったら絶対怒られる。
「あー。怒られる」
「怒られるようなことをしたのは君じゃないか」
「そうだけど」
「なら、なにか問題があるかね」
僕はジュースを飲み干して覚悟を決めた。
「悪いことはするもんじゃないね」
僕が参った顔をするとおじさんは笑った。
翌日僕は中休みに鮎川くんの教室を訪れた。高学年の階へ行くだけで緊張するのに、これから教室を覗くのだから僕の心臓は今にも飛び出しそうだ。身を半分乗り出して恐る恐る教室を覗いた。が、鮎川くんの姿はなかった。
「誰に用?」
教室にいた六年生が僕に気付いて声を掛けてくれた。
「鮎川カエデくんはいますか」
「カエデ? カエデは図書当番だから図書室にいると思うよ」
給食当番の片づけで中休みに入るのが遅くなったのと、高学年の階へ行く勇気が出ずにウジウジしていたせいで、だいぶ時間が過ぎていた。
「ありがとうございます」
僕は速足で図書室へ向かった。丁度、鮎川くんが施錠をしているところだった。僕は施錠をする鮎川くんを見るなり異変に気が付いた。
「鮎川くん」
鮎川くんは特に具合が悪そうな顔はしていなくて、ただ、片手でお腹を押さえたまま振り返った。
「まだお腹痛いの?」
「正太郎くんか。誰かと思ったよ。お腹は、まあ、少し」
なんともないと言ったのは強がりなのか、僕を気遣ってくれたのか、どちらなのかは分からないけれど、日数が経っても痛みがひかないのなら重症なんじゃないだろうか。
「病院には行った?」
「病院に行くほどじゃないよ」
「それならいいけど……。鮎川くん、今日の放課後空いてる?」
「今日は塾がある」
「なら塾が終わってからでいいや。怪我をさせちゃったから、鮎川くんの家にお菓子を持っていこうと思ってて」
「気を遣わなくっていいよ。本当に大丈夫だから」
「まだ痛いんでしょう? 家の人には言った?」
「言うほどのことじゃないから」
鮎川くんは僕から目を逸らした。
「怪我をさせちゃった僕としては、鮎川くんにも、鮎川くんのお母さんにも謝らないと気が済まないから、やっぱり今日の夜に行くよ。夜に予定があるなら違う日にするけど」
「別に、いいけど」
「何時頃家に帰る?」
「六時半には帰れると思うから、六時半にうちの門の前で待ち合わせでもいい?」
「うん。分かった」
中休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「正太郎くん、やっぱり」
少し間が空いて、なんでもない、と言った。
鮎川くんはお腹を抱えたまま図書室の鍵を職員室へ返しに行った。
鮎川くんの家の住所は聞かなくたって知っている。南ノ小学校で鮎川豪邸を知らない者はいない。鮎川くんのお父さんは有名な外科医で、鮎川くんのおじいちゃんも腕利きのお医者さんなんだって。しまおじさん曰く、お医者さんはとってもお金持ちで、生きている世界も僕たちとはまるで違うんだとか。
僕は菓子折りを持って、おじさんと一緒に鮎川豪邸へ来た。
「大変立派なお屋敷だね」
「家族六人で住んでるんだって。それにしても大きいね」
門越しに見える庭に飾られたオブジェについていろいろと話していたら、背後に車が止まった。真っ赤な車の運転席から降りた女性がきっと鮎川くんのお母さんだろう。続いて後部座席から斜め掛けの鞄を背負った鮎川くんが降りてきた。
「寒いところでお待たせしてしまって申し訳ありません。鮎川カエデの母です」
「私たちは今来たところですよ。私は彼の叔父の須藤一と申します」
「こんばんは。今井正太郎です」
僕も流れを読んで一応自己紹介をしておいた。
「この度はうちの正太郎がとんだご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。よく注意しておきます。お子さんの体調はその後、いかがでしょうか」
「この子はなんともないみたいですよ。ごはんもきちんと食べていますし。良好です」
鮎川くんはもうお腹を押さえてはいなかった。重そうな鞄のベルトが襷のように斜めにかかっているのがお腹に食い込んでいるように見えて、心配になった。
「ささやかなものではございますが……」
おじさんはそう言いかけて僕の背中をトンと叩いた。僕は合図を理解して持ってきた菓子折りを鮎川くんに差し出した。
「僕が廊下を走ったせいで、ぶつかって、痛い思いをさせてしまってごめんなさい。よかったらみんなで食べてください」
鮎川くんは、ありがとう、と言って菓子折りを受け取った。
「ご足労いただいた上に、手土産までいただいてしまって申し訳ありません。ありがとうございます」
「お怪我を負わせてしまったのですから、こちらから出向いていくのは当然のことです。ご夕食の時間帯にお邪魔して申し訳ありませんでした。なにより、お子さんの顔色もいいようで安心しました。それではこの辺で、失礼します」
僕はおじさんに倣って深くお辞儀をした。塾へ行って疲れたのか、僕には鮎川くんの顔色がいいようには見えなかったけれど、そのことには触れなかった。
「鮎川くんもお医者さんになるのかな」
「医者になりたいと言っていたのかね」
「ううん。おじいちゃんもお父さんもお医者さんだから、そんな気がしただけ」
「そうなると、正太郎くんは将来旅行会社で働くことになるね」
「僕は探偵になるんだ」
僕は自分でそう言って、自分の間違いに気が付いた。
「どんな夢を持つのも自由だ。その思いを他人が摘み取るなんてことは、あってはならないと私は思ってる。ただすべての夢が叶うとも限らないし、叶わないとも言い切れない」
「夢ってどうすれば叶うの?」
「さあ。私にも分からない」
「じゃあ、おじさんはどうして探偵になれたの?」
「私はね、幼い頃から探偵になりたかったわけじゃないんだ」
そう切り出して、おじさんは自分が探偵になるまでの経緯をざっくりと話してくれた。
私には陽平という友人がいて、小学校から大学までずっと同じ学校だった。私にとって陽平は一番の友人であり一番のライバルだった。私たちは歴史について学ぶことがとても好きだったから、お互い、将来は学校の先生になるんだろうと思っていて、夢を語り合ったこともあった。
私は探偵ではなく、歴史を教える先生になりたかった。今の世の中が出来上がった背景や、先人の知恵や志を知ることで、未来を生き抜くヒントを得られると信じていたから、若い世代の人にも歴史の面白さを知ってもらえるような授業をしたいと思っていた。
当時大学三年生だった私と陽平は『第一回有形文化財研究報告会』に足を運んだ。有形文化財は、人々の文化的活動によって生み出された後世にも受け継いでいくべき大変価値のある世界文化遺産のうち、建造物や絵画、彫刻品など形として残っているものを指す。第一回目は建造物についての研究報告が主だった。
有形文化財研究報告会で私たちは同い年の島津遥という女性と出会った。興味本位で参加した私たちとは違って、彼女は大学の卒業論文を書く上で知識を一層深めたいという明確な目的を持って参加していた。
色の白い、横顔の綺麗な人という最初の印象を今でもはっきりと覚えている。
内容がどれも興味深いものだったから、私と陽平は第一回に留まらず、第十二回まであった有形文化財研究報告会のすべての回に参加した。必然的に彼女と顔を合わせる機会も増えて、第四回目以降は隣の席に座って一緒に参加した。彼女も歴史に詳しかったから、私たちが打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
互いを知っていくうちに私は彼女に惹かれていった。彼女と話していると嫌なこともすぐに吹き飛んでしまった。彼女の笑顔を見ると春の匂いを嗅いだときのようにくすぐったい気持ちになった。色白の肌だけではなく、心まで透き通った人だった。
しかし彼女の心を掴むのはどんな難題を解くよりも難しかった。誰に対しても分け隔てなく接していて、ときには私に好意があるのかと思うときもあったが、注意して見てみると、私だけが特別な扱いを受けているわけではないことが分かった。私と陽平と三人で会うことが多かったけれど、私も陽平も彼女にとっては単なる友人に過ぎなかったのだろう。
運命は残酷で、なんの前触れもなく、別れは突然訪れたんだ。
おじさんの歩く速度が少し遅くなったので、僕もおじさんに合わせて速度を落とした。
「別れ? 遥さん引っ越しちゃったの?」
「彼女はね、死んでしまったんだ」
僕はおじさんの顔を見上げることができず、視線を落として、なにも言わなかった。おじさんもそれ以上続けようとはしなかった。冷えた秋の夜道には脇を通り過ぎていく車の走行音と僕たちの足音が響いた。
僕は沈黙に耐えられず、ついに口を開けた。
「事故?」
「事故だったんだが、それがね、死体もまだ見つかっていないんだ」
「なら死んだとは限らないじゃないか」
「助かったもうひとりが、彼女は死んだと言っているんだから、彼女は死んだと言ってひとしきり泣いていたんだから、本当に死んでしまったんだろう」
おじさんは珍しく探偵らしくない言葉で言った。
「遥さんの死の真相を知るために探偵になったの?」
「前にも言っただろう。私は怪盗リカルドの謎を解き明かすために探偵を志したんだ」
これまでの話と怪盗リカルドを結びつけるとすれば、陽平という人物くらいしか心当たりがない。
「陽平さんが怪盗リカルドになったんだね」
「正太郎くんは察しが良いね」
「でもどうして? 遥さんの死と怪盗リカルドはなにか関係があるの?」
そうこう話しているうちに僕の家の前まで来てしまった。カレーの匂いがする。カレーの匂いが鼻を通り抜けた途端、思い出したようにお腹が空いた。
「もう夕食もできているだろうから、今日はここまでにしよう」
「えー」
「ああ、重要なことを話すのを忘れていたね」
「なに?」
「どうして私が探偵になれたのか」
「聞きたい! どうして探偵になれたの?」
カイゼル髭の下から白い歯が覗いた。
「これだけは誰にも負けないという強い思いが、私を探偵にしてくれたんだと思う」
おじさんは胸を張り、誇らしげに語った。
「私には怪盗リカルドの謎を解き明かせるのは私しかいないという自信があった。その強みが私の背中を常に押してくれたんだ。どんなに小さなことでもいいから、正太郎くんも誰にも負けない思いを、強者と戦える武器を持つと良い」
「どうすればいいの?」
「大いに学びなさい。そのうちに自ら学びたいと思えるものに出会えるから。必ず」
おじさんの手が僕の頭の上に置かれた。
「君たちが学校で学んでいることに無意味なことなんてない。なにが誰の心にどう響くのか、なにが君の感性を磨くかなんて、分からない。だからひとつとして甘く見ちゃいけないよ。学校の先生たちは君たちの未来のために、君たちの未来が少しでも明るくなるように、学ぶ場を与えてくれているんだから」
僕はおじさんの言葉を呑み込んで、ゆっくり頷いた。
「自ら学びたいと思えるものに出会ったとき、君はまた一段と強くなれるはずさ」
僕はおじさんと話して探偵になりたい気持ちが強くなった。僕がもっと学びたいと思えるような、知らない世界に出会いたくなった。
同時にみんなの夢について知りたくなった。
「俊樹くんはさ、将来なにになりたいの?」
「決まってんじゃん。プロ野球選手」
「どんな選手になりたい?」
「どんなって? 相手バッターと駆け引きができるくらい頭がよくって、剛速球が投げれるピッチャーに俺はなるよ」
「どうやったらそんなピッチャーになれるの?」
「努力するしかないだろ。毎日素振りしてるし、仕事帰りの父さんとキャッチボールもしてるよ。キャッチボールは父さんが早く帰ってきたときしかできないけど」
驚いた。俊樹くんは夢に近づくために小学三年生の今から努力を積み重ねているのか。
「正太郎は?」
「僕?」
「そもそも探偵ってどうやったらなれるんだ? 資格とかあるのか?」
「それが僕もよく分からないんだ。でもとにかく、一生懸命勉強してみようと思う」
「国語? 算数? 理科? 社会?」
「全部」
「まじかよ。まあでも、探偵って頭よさそうだもんな」
僕は探偵になると口に出した一方で、本当に僕みたいな人間が探偵を目指していいものかと不安になった。
「そういや俺の父さんが本を読むと頭がよくなるって言ってたぜ。野球は頭を使うから、お前もできるだけ本を読めって」
「そうなの?」
そう言われてみると、おじさんもよく本を読んでいる。
「俊樹くんありがとう」
思い立ったが吉日ということわざもあるから、僕は中休みに図書室へ急いだ。図書室へ向かう途中、鮎川くんの背中を見つけた。鮎川くんは考え事でもしているのか、腕組みをしながら歩いている。
「鮎川くん!」
「正太郎くん。最近はよく会うね。この間はお菓子ありがとう。美味しかったよ」
鮎川くんは腕を組んだまま微笑んだ。
「ねえ、鮎川くんは将来なにになりたいの?」
「なに? 突然」
「今、みんなの夢を聞いて回ってるんだ」
「僕は医者になるよ」
やっぱり、と思ったけれど僕は喉まで出かかた言葉を声にしなかった。
「僕は生まれたときから、医者になるために育てられたから」
僕にははっきりと、鮎川くんが医者になることを自ら望んでいるわけではないのだと分かった。
「お医者さん以外になりたいものはないの? 第二希望とか!」
「あったとしても、家族の誰も望んでないんだから、思い描くだけ無駄だよ」
話しながら曲がり角に差し掛かったとき、丁度、人が飛び出してきた。飛び出してきた人が鮎川くんにぶつかって、鮎川くんの体重が僕にかかって、僕が下敷きになるようにして倒れた。ぶつかってきた相手も仰向けになっている。
「正太郎くん! ごめんね、大丈夫?」
鮎川くんは僕の上からすぐに降りて、僕の顔を覗いた。僕は幸い泣くほどどこも強打していない。肘を擦りむいたのと、尻餅をついた痛み以外に異常はないみたいだ。
「鮎川くんこそ……」
床に落ちている一冊のノートと『かいけつゾロリ』の本が僕の目に留まった。そして僕の視線に気づいた鮎川くんは掻き集めるように、ノートと本を慌てて拾いあげた。
「あ、あれ? 鮎川くん本なんて持ってた? ぶつかって来たあの子のかな?」
ぶつかってきた相手は起き上がるなり「ごめんなさい!」と謝って、キョロキョロ辺りを見回して、また走って行った。
「あの子の持ち物じゃないみたいだね」
僕は擦りむいた肘を押さえて鮎川くんを見た。もしかして、という推測が頭のなかを巡る。鮎川くんが会うたびにお腹を押さえていたのはお腹が痛かったんじゃなくて、洋服とお腹の間にあるなにかを押さえるためだったんじゃないだろうか。
顔をあげた鮎川くんは泣いていた。
「図書室から本を盗み出していたのは僕なんだ」
「え、」
「僕は漫画家になりたい。僕は医者になるけど、漫画家になりたい」
鮎川くんが抱えているノートには『練習ノート』と書かれている。
「でも漫画家にはなれないから、せめて、絵がうまくなりたいんだ」
「練習ノート見てもいい?」
鮎川くんは目を擦りながら、僕にノートを差し出してくれた。かいけつゾロリの絵がたくさん練習してある。お化けの絵が描いてあるページもある。どれもすごく上手だ。
「本を読みながら、印象に残ったシーンを絵に描く練習をしようと思って、それで」
「どうして普通に借りなかったの?」
「最初は毎日三冊ずつ借りていたんだけど、本を読むのも、絵を描くのも早くなって、一日三冊じゃ物足りなくなっちゃったんだ」
僕は見回すように首をゆっくり左右に振って、辺りにカラスの羽根が落ちていないか確認した。羽根はどこにも落ちていない。
「それは誰かに提案されたの? 例えば、黒いマントを羽織った男の人とか」
「正太郎くんもあの人を知ってるの?」
鮎川くんも怪盗リカルドに心を揺さぶられていた。
鮎川くんは二ヶ月ほど前、塾帰りにお母さんの迎えを待っている間、自分の練習ノートを眺めていた。そのとき、突然リカルドに声を掛けられたという。
「絵がとてもお上手ですね。絵を描くのが好きなんですか?」
驚いた鮎川くんは咄嗟にノートを閉じたけれど、褒められたのが嬉しくて、またノートを開いて見せた。
「うん。でもこれは誰にも見せたことがないんだ」
「どうしてですか? きっとご両親は褒めてくださるでしょうに」
「絵を描く暇があるなら勉強しなさいって言われるから、見せないんだ」
「なら、絵をもっと描かせてあげたいと思わせるほど、上手くなればいいのです。あなたにその気があるのなら、絵が上手になる方法を教えて差し上げましょうか」
鮎川くんは目を輝かせて頷いた。
「たくさんの本を借りて、物語を読みながら情景を思い浮かべて、絵に描くのです。描けば描くほど上達しますよ。ご両親があなたの絵を認めてくれたとき、あなたははじめて自分の夢のために生きることができるのです」
“自分の夢のために生きる”その言葉が鮎川くんの未来に灯りをともした。
「でも僕の家にある本は文字も小さくって、漢字も多くて難しいのばっかりだ……」
「図書室の本を借りればいいのです。手に余るほどの本を借りて、手にタコができるほど絵を描くのです」
「図書室はひとり三冊までしか借りられないよ」
「少し頭を使えば、いくらでも借りられますよ。たくさんの本を借りる、とっておきの方法を教えて差し上げましょう」
鮎川くんは必死に絵の練習を重ねた。最初は三冊の本をルール通り借りて練習した。描き終わったらもう一度読み返して同じシーンを何度も練習した。しかしすぐにもっとたくさんの絵を描きたいという欲に駆られて、図書室から持ち出す本の量が次第に増えていった。描き始めた頃の絵と見比べると、自分の腕が上達したのは一目瞭然だった。
そのうちに、鮎川くんから罪の意識は消えてしまった。
鮎川くんはまだ泣いていた。
「ごめんなさい。もうしません」
僕はなんて声を掛ければいいか分からなかった。
急に廊下が冷たくなって、風が吹き抜けた。僕の視界に黒い革靴の爪先がある。僕は怖くなって顔をあげられなかった。
「もうネタばらしをしてしまったんですか? 少年ひとりに気付かれたくらいで勿体ない」
その声に聞き覚えがあった。僕は確かにこの声を山鳩公園で聞いたんだ。
「すべての計画が実行できなくて残念です。給食室前の全身鏡、家庭科室のリボン、花壇の花、教室の紙テープ……。私が欲しいものはなにひとつ揃いませんでしたね」
怪盗リカルドは身を屈めて鮎川くんの肩に手を置いた。
「私はあなたに協力したのですから、あなたも私に協力してくれますよね?」
下を向いた鮎川くんの代わりに、僕はついに顔をあげて怪盗リカルドを見た。
「盗まなくたってリボンくらい買えるじゃないか! どうしてわざわざ僕たちを巻き込むんだ!」
「誰かと思えば、須藤探偵の一番弟子じゃないですか」
リカルドは薄笑いを浮かべている。
「言ったでしょう? 面白いゲームを思いついたって」
「僕たちを困らせて、僕たちに悪いことをさせて、なにが面白いっていうんだ」
「私、欲しいものがあるんです。それが手に入るまで、ゲームは終わりませんよ」
リカルドがマントを翻すと、再び風が吹き抜けて漆黒色のカラスの羽根が舞った。どんな仕掛けを使ったのかは分からないけれど、またしてもリカルドは瞬きをした一瞬の間に姿を消してしまった。
「鮎川くん大丈夫……?」
鮎川くんは未だに下を向いている。
「漫画家になる夢、諦めないでね」
「え?」
「僕のおじさんが言ってたんだ。誰にも負けない強い思いが夢に近づけてくれるって。だから、どんな夢も思い続けていれば必ず叶うと思うんだ」
鮎川くんは目をぱちくりさせた。瞬きの回数を重ねるうちに鮎川くんの瞳がだんだんと輝き出した。
「うん。ありがとう」
丁度、チャイムが鳴った。
「音楽だから急いで行かなくっちゃ!」
「あ、正太郎くん」
「なに?」
「正太郎くんのお友達に『かいけつゾロリ』が返ってきたって伝えておいて」
「うん。わかった」
僕は速足で廊下を歩きながら、リカルドが目論んでいる面白いゲームについて考えていた。リカルドの目的はなんだ? 朱音ちゃんと鮎川くんは純粋な思いに付け込まれて盗みを働いてしまったけれど、朱音ちゃんは子犬のためにサツマイモを盗んで、鮎川くんは自分のために本を盗んだ。どちらもリカルドのためになにかを盗んだわけじゃない。けれどこれもリカルドの言う面白いゲームの要素なのだとしたら、リカルドが欲しいものはなんだ。さっき言っていた全身鏡やリボンや花壇の花だって言うのなら、僕たちを巻き込む必要なんてない。僕たちを巻き込んで、僕たちを困らせて、純粋な思いに付け込んで罪を犯させることで得られるものがあるっていうのか。
僕はますます恐ろしくなった。これはアイテムを集めて冒険するようなゲームじゃない。僕たちの心を掻き乱して、揺さぶって、リカルドが僕たちの心から「大切な何か」を盗むゲームなんだ。
***
自宅へ帰ったリカルドは脱いだ帽子をコートハンガーへ掛けた。上着のボタンを外しながらリビングへ上がり、マントのついたジャケットを脱いで椅子の背もたれへ掛けた。白いシャツと黒いパンツに身を包んだだけのリカルドはもう怪盗の顔ではなくなっている。
リカルドは階段を下りて地下室の戸を叩いた。
戸を開けた部屋は壁を埋め尽くすように絵画が飾られていて、棚には骨董品や彫刻が並んでいる。どれも怪盗リカルドが美術館や展示会から盗み出した品々だ。
部屋の中央には窃盗品に囲まれるようにして幅の広いキングベッドがひとつある。
片目が隠れるように包帯を巻いている女性は、ベッドに仰向けになったまま「おかえりなさい」と挨拶した。
「只今戻りました。すみません。今日もお土産なしです」
「お土産は要りません。もう置き場所がないじゃないですか」
女性は顔だけをリカルドに向けた。
「あなたがくれたものがどんなに高価なものかは分かりませんけど、大切なのは気持ちです。この前も言いましたよね?」
不純な動機で買ったお土産になんの価値があるって言うんです?
「相変わらず冷たいですね。遥さん」
リカルドはベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろした。
「あなたが喜ぶと思ってこれだけのお土産を買ってきたのは本当ですよ」
「私をこうして十年以上も軟禁している時点で、あなたの言葉はどれも信憑性に欠けますわ」
「ひどいですねえ。まるで犯罪者じゃないですか」
「なら私を家族の元へ帰してください」
「遥さん、何度言わせるんですか。あなたに家族はいません。あなたには恋人の私しか拠り所がないのです」
遥は目に涙を浮かべて顔を背けた。
「帰してください……」
「事故の影響で記憶が一部欠損しているようですが、私は事実を言っているんですよ。本当に、あなたには帰る場所なんてないんですから」
「そんなことを言って思い出させてくれないじゃないですか」
「例えば、なにを思い出したいですか?」
「あなたの言っていることが本当なら、私とあなたは恋人同士でしょう? 私は一体、あなたのどこに惚れていたんでしょう」
「それは伝えてもらったことがありませんから、私には分かりませんね。ちなみに私はあなたの透き通った心とあどけない笑顔が大好きでした」
「それは前にも聞きました」
「もちろん今も大好きですよ。あなたの笑顔は私の記憶のなかで大分薄れてしまいましたけれど」
「私自身、笑った記憶がありません。過去も現在も」
リカルドが立ち上がると、コトンと椅子が音を立てた。
「遥さん。なにか欲しいものはありますか?」
「ここを出る権利をください」
「質問を変えましょう。どうすれば、昔のように笑ってくれますか?」
「私が教えてほしいくらいです」
遥は上体を起こしてリカルドを見上げた。
「歩き方も思い出せないくらいですから、私の脳は当分、笑い方も思い出せそうにないですね」
リカルドは出入り口に身体を向けた。
「もう行ってしまうんですか」
「夕飯を作ってきますね」
「もう少しだけ居てくれませんか」
振り返ったリカルドは会釈をして、遥の要望には応えずに地下室をあとにした。