サツマイモを盗んだのは誰だ
台所ではまな板が弾むような音を立てて、油でも注がれたのか、ジュワッと水が一気に蒸発音がする。僕は夕飯ができるのを待ちながら南ノ小学校便りの十月号を何気なく読んでいた。小学三年生の僕にも読めるように振り仮名が沢山振ってある。
「お母さん、犬飼っちゃダメ?」
「誰が世話すると思ってるの」
「僕」
せっせと夕飯を作るお母さんの手が止まった。
「放課後の野球は欠かせないんでしょう? いつ犬の散歩をするのよ」
「夕飯を食べたらするんだよ」
「宿題は」
「散歩の前」
「昼間は誰が世話するの? お母さんだって、平日はお仕事なんだから、無理よ」
結論を出すや否や、お母さんはまた忙しく手を動かし始めた。野菜を炒めながらスープの味見をして、お皿を並べる合間に野菜炒めに塩コショウを振る。手際が良いっていうのはこういうことなんだろう。
「どうして犬が飼いたくなったの?」
一通りの支度が終わったと見えて、お母さんはエプロンの裾で手を拭きながら僕の側へ来た。
「子犬が三匹産まれましたって。飼い主を探していますって書いてあるから」
南ノ小学校便りの『お知らせ』にそう書いてあるのを指でさした。お母さんは確認するように覗き込んで、でも無理ね、と言った。
「野球は人が集まらないとできないし、野球がないときは大体家に帰るから、僕が一人で留守番するときは犬がいたほうが寂しくなくていいと思ったんだ。お姉ちゃんだって最近は帰ってくるのが遅いし」
「あなたが野球をしているときはわんちゃんに寂しい留守番を任せるのよ」
「番犬っていうくらいだから、犬は僕と違って留守番も慣れっこだと思うよ」
「ハジメの影響かも知れないけど、正太郎には理屈っぽい人にはなってほしくないわ」
「僕はおじさんが好きだけど」
お母さんがハジメと呼んだのは、お母さんの弟の須藤一。おじさんは少し変わった人で、昔から変わらずに小ぶりのカイゼル髭を生やしていて、どんなときでも縞模様のシャツを着ている。だから僕はおじさんのことを“しまおじさん”って呼んだりもするよ。
おじさんには小さい頃からよく遊んでもらっていたけれど、僕のお父さんが一年前に単身赴任になってから、散歩のついでと言ってかなりの頻度で家に遊びに来るようになった。お母さんはおじさんが来るたびに「ムショクだから暇なのよ」と言うけれど、おじさんは自分のことを立派な探偵だと言い張っている。
僕は楽しい話をたくさんしてくれるおじさんが大好きなんだ。
「ハジメの言うことをあんまり信じちゃだめよ」
「どうして」
「どうしてって、なんだか胡散臭いじゃない」
お母さんとおじさんは別に仲が悪いわけじゃないけれど、お母さんは謎に包まれたおじさんを気味悪がっている節がある。僕がおじさんから楽しい話を聞かせてもらったと自慢すると、きっと作り話よ、と言って真剣に聞いてはくれないし、絶対におじさんを褒めない。お姉ちゃんもそうだ。どういうわけか、あんまり好いていない。
僕は犬の件が諦めきれなかったので、お姉ちゃんに相談することにした。が、玉砕した。「犬の毛が洋服つくから嫌」の一点張りだった。残念だけど、僕は野球に熱中するほかないみたいだ。
数日経って、担任のマリモ先生が犬の飼い主が見つかったことを教えてくれた。ほっとした反面、やっぱり悔しかった。僕がきちんと面倒を見られるようになったら、もう一度お母さんにお願いしてみよう。お姉ちゃんが反対しても、なにか理由を見つけて言いくるめてやるつもりだ。例えば、犬と一緒に散歩をしたら痩せるよ、とか。――これは怒りそうだからやっぱりやめよう。
僕のなかで犬の件が消化されつつあった頃、また犬の話題が持ち上がった。
朝食を食べながらテレビを見ていたら、近所にある南ノ商店街が映っていて、僕も行ったことがあるペットショップが取り上げられていた。よくよく見てみると、紹介されているのではなく、報道されているようだった。
「お母さん見て! 南ノ商店街のペットショップが映ってるよ」
「あら、本当じゃない」
お母さんはリモコンでテレビの音量をあげて、食い入るようにテレビを見た。
どうやらペットショップの犬が数匹盗まれたらしい。どれも小型犬で、被害総額はなんと約二百万円。事件の内容よりも犬の値段に驚いた。無料で子犬を譲ってもらえるチャンスを逃したことが余計に悔しくなった。
「どうやって盗み出したのかしらね」
お母さんは事件に対して怒りを覚えるというよりも、犯人の手口が気になっているようだったが、それは僕も同じだった。ペットショップの二階にはオーナーが暮らしている。なにか異常事態が起きれば小型犬でも残された中型犬でも吠えそうなものだけれど、オーナーは一切気が付かなかったと言う。オーナーの眠りが深かったのか、犯人の手口が巧妙だったのか、どちらなのかは分からないけれど、謎が多い事件だ。僕はしまおじさんに会いたくなった。
学校にいる間、僕は僕なりに推理をしていた。犯人はオーナーに睡眠薬を飲ませてぐっすり眠らせてから犯行に及んだに違いない。それから、ひとりで数匹の犬を盗み出すのは大変だろうから犯人は複数だろう。給食後の中休みもドッジボールに参加せずに、教室でずっと考えていたけれど、僕にはこれ以上思いつかなかった。
野球をする気にはとてもならなかったので、僕は誘いを断って家に帰った。期待に反しておじさんは待機していてくれなかった。
ピンポンピンポーン。午後四時、呼び鈴が鳴った。僕は玄関まで駆けて行った。
訪ねてきたのが誰かなんて顔を見なくても、声を聞かなくても分かる。なぜかって? 答えは簡単。僕の家の呼び鈴は一回押すと「ピンポーン」としか鳴らないのに、さっきは「ピンポンピンポーン」って二回鳴ったから。訪問者はせっかちな人か、この音の響きが好きなあの人かどちらかなんだ。
お母さんにこの説を話したら、確かめもせずにドアを開けちゃいけないって注意されたから、念のためチェーンロックをかけたままドアをそっと開けた。
「やあ」
「やっぱりしまおじさんだった!」
いったんドアを閉めて、チェーンロックを外して、今度は思いきりドアを開けた。
おじさんは今日も縞模様のシャツを着ている。急遽留守番を頼むことがあるかもしれないから合鍵を渡しているのに、必ず、こうしてチャイムを鳴らしたがる。お母さんはおじさんを信用しているのか、信用していないのか、ますますわからない。
「放課後の野球はお休みだったのかね?」
「野球って気分じゃなかったから、断った」
「うむ。そんな日もあっていいだろう。しかし妙だね」
「なにが妙なのさ」
「帰る時間も忘れるほど野球に熱中していた君が誘いを断るなんて妙な話だ。体調が悪いようにも見えないからね。とすると、どうしても家にいなければならない理由があるか、君と野球仲間との間に雲がかかったか、どちらかだろう」
「朝からずっとモヤモヤしてるんだ」
「はて」
おじさんは革靴を脱いで家に上がった。
「朝からというと、寝坊をして美智子に怒られたか、通学路で動物の死体を見かけたか、どちらかだろう」
こうして二択を投げかけてくるのがおじさんの癖で、お姉ちゃんはこの二択が鬱陶しいといつも怒っている。僕はおじさんが好きだから鬱陶しいなんて思わないけれど、立派な探偵の割にはあまり当たらないんだ。
「南ノ商店街で犬が盗まれた事件だよ」
「感心だな。正太郎くんもニュースを見るのかい」
「お父さんがいつもニュースを見てたから、僕もそうしてるんだ」
おじさんは席について、それはいいことだ、と言った。
「どうやって犬を盗み出したんだろうね」
「私にはオーナーが犯人とグルだったとしか思えないのだがね」
「仲間だったってこと? なんのために?」
「昼間に現場を見てきたんだが、セキュリティは万全にも関わらず、事件当時、防犯カメラの電源は見事に切られていて、セキュリティはどういうわけか作動しなかった。近隣住民も犬が吠える声なんてひとつも聞かなかったと言っている。セキュリティロックを解除できるボタンも、防犯カメラの電源を入り切りするボタンも、オーナーの指紋しか検出されなかったんだ」
おじさんの話を聞く限りオーナーも犯人のグルである可能性が高いけれど、わざわざ犬を盗ませた理由が分からない。
「どうも嫌な予感がするな」
「嫌な予感?」
「うむ」
おじさんは髭を撫でながら、しばらく黙り込んだ。
「この事件は恐らく迷宮入りだろう」
「迷宮入り?」
「私の嫌な予感が的中しない限り迷宮入りだ。世の中には迷宮入りしたほうがいいことだってあるから、この事件に関しては迷宮入りがいい」
おじさんの言葉は妙に説得力がある。この事件が迷宮入りすることも、とは言え、なにかの拍子で解決に結びつくかもしれないことも、解決が幸福をもたらすとは限らないことも、納得できた。
「それなら僕も迷宮入りがいい」
おじさんは席を立って、忙しくなりそうだ、と言った。
「もう帰っちゃうの?」
「用を思い出してね。また近いうちに遊びに来てもいいかな」
「もちろん」
おじさんは少し慌てていたと見えて、お茶を一口も飲まずに帰って行った。
おじさんの嫌な予感が的中したかのごとく、ペットショップの犬が盗まれた事件の数日後、僕が通う南ノ小学校で小さな事件が起きた。事件と言うのは大袈裟かもしれないけれど、僕たち三年生が育てているサツマイモが何者かに荒らされた挙句、せっかく育てたサツマイモが数本盗まれたのだ。
「ひどいよ。せっかく育てたのに」
「それはイノシシの仕業か、酔っ払いが侵入したのかどちらかだろう」
おじさんに事件の概要を話すと、こんな具合であしらわれた。だけど僕にとっては大事件だから、この事件を未解決のまま終わらせるわけにはいかない。
「山がないこの町にイノシシなんているもんか。それに畑の周りには高い柵もあるから、簡単には入れないはずなんだ」
「正太郎くんは内部の犯行だと疑っているんだね」
おじさんは急に探偵らしくなった。
「だって、大人の人が学校に入るときは正面玄関で受付をしなくちゃいけないから、怪しい人がいたらすぐ見つかると思うんだ。受付をしないで入ることもできないことはないけど……」
「確かに、サツマイモ数本のために大人がわざわざ盗みを働いたとはとても思えない。サツマイモなんて、安いときは一本五十円くらいで買えるから」
「そんなに安いの?」
「正太郎くんもたまには美智子の買い物についていったらいい。スーパーは意外と面白いところだから」
おじさんはサツマイモの相場まで知っているらしい。
「しかしこれだけでは子どもの犯行とも決めつけられないね。例えば、大人に指示されて子どもが盗み出したかもしれないし、子どもの振りをした大人が子どもに紛れて犯行に及んだとも考えられる」
「もしかしたら二組の早川くんかもしれない。彼はいつもボロボロの服を着ているし、貧乏だって噂だから。きっとお腹が空いて」
「正太郎くん」
僕の推理はおじさんの声に遮られた。
「仮にその早川くんが貧乏だとしても、だからって貧乏な人はみんな物を盗むのか」
「あくまでも僕の推理だから……」
「いいかね。たとえ推測であっても、誰かの名前を出すときはいつもより慎重にならなくっちゃいけないよ。君の不確かな情報を信じる人だっているだろう。それが独り歩きをして、知らぬ間に誰かを傷つけてしまうことだってある。君の推理が当たればいいが、外れたらどうなる。犯人かもしれないと疑われた早川くんの気持ちを考えてごらん」
僕は黙って頷いた。
「誰かの名前を口にするときは、そのひとの人生に自分が関わっているといことを心に留めておきなさい。君が探偵を目指すならなおさらだ」
「はい」
犯人を挙げることと、犯人扱いすることは全く違う。おじさんに気付かせてもらわなかったら、僕はこのまま、意図せず早川くんを傷付けていたに違いない。
「それでは再開しよう」
玄関で鍵を回す音がしたので、僕は時計を見て時間を確認した。午後五時十分だ。お母さんはいつも午後六時頃帰るから、きっとお姉ちゃんだろう。
「ただいまー。うわ、おじさん来てんの?」
お姉ちゃんの声はリビングまでしっかりと届いていた。おじさんはリビングのドアを振り返っただけで何も言わない。お姉ちゃんは洗面所へ寄ってから、リビングのドアを開けて顔を覗かせた。
「おじさんまた来たの? 正太郎に変なこと吹き込まないでよね」
「まるで私が厄介者のような口振りだね」
「少なくとも私にとっては厄介者よ」
「おやおや、今日は随分と攻撃的だな。さては、学校で嫌なことがあったか、攻撃せざるを得ないほど私を嫌っているかどちらかだろう」
「後者よ!」
バタン、とドアを閉めてお姉ちゃんは二階へあがって行った。
「おじさんごめんね」
「正太郎くんが謝ることじゃない。それに私は悲しんでなどいないさ。むしろ嬉しいよ」
「嫌われて嬉しいなんて、変な趣味だね」
「勘違いしないでくれたまえ。私が嬉しいのは、ああ罵倒されたことじゃなくて、挨拶さえしてくれなかったけれど、顔だけでも見せてくれたことが嬉しいのさ」
「そうなの?」
「そうとも。さやかちゃんももう高校二年生だろう。年頃の女性なら、私のような中年男性を毛嫌いする人も多いから、口を利いてくれただけ立派なものさ」
僕にはおじさんの言うことがよく分からなかった。
「僕がおじさんだったら、あんな風にお姉ちゃんに言われたら悲しいな」
「さっきの言葉を撤回しよう。私にも悲しい気持ちは確かにある。しかしね、許せるか許せないかと言えば、許せることだから、別段気にすることでもないということだね」
「おじさんはなんでも許せるの?」
「私にだってもちろん許せないことだってある」
「たとえばどんなこと?」
おじさんは腕組みをしたまま目を瞑って、ふっと、目を開いた。
「心で解決できないことはすべて許せないことになる」
「僕がサツマイモを盗まれて許せないのは、僕の心で解決できなかったから?」
「そうとも。しかし人の心はいくらでも変化する。今の正太郎くんの心では解決できなくても、明日の正太郎くんの心では解決できることだってある」
「僕は犯人を許さないよ」
「もちろん誰にでも譲れない気持ちはあるから、無理に許すこともないだろう」
おじさんが僕の立場だったら、犯人を許せるのだろうか。サツマイモを盗んだ犯人を許せる理由なんてないけれど、おじさんの話はまるで、僕がそのうちに犯人を許すだろうと言っているように聞こえた。
「犯人は大人じゃないかな」
「どうしてそう思うのかね」
「サツマイモはそのまま食べられないから、料理ができる人かなって」
「学校でもらったと言って家の人に調理してもらうこともできるだろう。それに、サツマイモなら泥を落として水に濡らしてサランラップを巻いて、レンジでチンするだけでも美味しく食べられる。これなら正太郎くんでもできるね?」
途端に僕は閃いた。
「おじさんの言うとおりサツマイモは僕だって簡単に食べられる。でも全部は食べられないんだ!」
「どういうことかね」
「皮と端っこは捨てるから、ああ、皮は食べるけど、犯人の家にはサツマイモのゴミがあるはずだよ。明日先生に頼んで、今月配られる南ノ小学校便りに書いてもらうんだ。家にサツマイモを持ち帰って来た子どもがいないか、買った覚えのないサツマイモのゴミがゴミ箱に捨てられていないか」
「ゴミのなかからサツマイモの端を見つけ出すのは至難の業だろう」
「でも、やってみなくちゃわからないでしょ?」
「正太郎くんは犯人を見つけてどうしたいのかな」
「どうって、僕は犯人に謝ってほしいから……」
「謝ってくれさえすれば、この事件が君の心で解決されるのかね?」
「多分」
「正太郎くんが美智子に怒られたとき、心では深く反省していても、言葉にして謝ることができないこともあるだろう。君が提案したように学校をあげて犯人探しをして、犯人が見つかったとして、それが本当に悪い奴だったなら話はそれで済むかもしれないが」
おじさんは最初から犯人を庇っている。庇っているつもりがないなら、許すきっかけをずっと探している。僕にはそれが不思議でならなかった。
「犯人がすでに反省していて謝ろうと思っているなら、わざわざ犯人を見つけ出して晒し上げる必要もないだろう。犯人にサツマイモを盗まなくてはいけない正当な理由があったとして、それを知ったうえで、君の心で解決できるかどうか考えるのが筋だろう」
「ものを盗んでいい理由なんてあるもんか」
「うむ。正太郎くんの言う通り、盗んだ行為は決して許されるものじゃない」
「おじさんは犯人が誰なのかもう分かったの? おじさんの話は犯人が悪い奴じゃないって決めつけてるように聞こえるよ」
「ああ、目星は大体ついている」
僕は驚いた。どこに証拠があったっていうんだ。
「明日は何時ごろ帰宅できそうかね?」
「三時半には帰れると思うけど」
「明日は捜索にあたろうと思う。きっと大きな手掛かりを掴めるはずだから」
約束をして、おじさんは帰って行った。
僕はまた野球の誘いを断って、急いで家へ帰った。お母さんは月曜日から金曜日の間、毎日夕方まで仕事をしているから、家には今日も誰もいない。
「ただいま」
誰もいなくても、誰かいる風に挨拶をするようにお母さんから言われているので、僕はいつもの通り声を出して挨拶をした。
「おかえり。早かったね」
ついに合鍵を使ったらしく、しまおじさんがリビングから出てきて迎えてくれた。今日も縞模様のシャツを着ている。
「僕はもう出発できるよ」
僕は玄関の隅にランドセルを置いて、脱ぎかけた靴を履き直した。
「正太郎くんは捜索を余程楽しみにしていたか、せっかちなのかどちらかだろう」
「早く! 行こう!」
おじさんが困った顔をしたようにも見えたけれど、僕は構わず玄関を飛び出した。
おじさんが事件現場を見たいと言うので、僕はサツマイモ畑へ案内した。
「てっきり人の家のゴミを漁るのかと思ってたけど、畑に行くの?」
「私は、サツマイモのゴミは、ゴミ箱にはないと踏んでいるのだよ」
「みかんとかなら分かるけどさ、サツマイモは生じゃ食べられないから、畑にも通学路にもゴミは落ちてないと思うよ」
正面玄関へ寄って、おじさんは記帳用紙に名前を書いて、受け取った許可証を首からぶら下げた。おじさんは興味深く記帳用紙を眺めていた。
「夕方の来訪者はクラブ活動の関係者ばかりか」
「関係者に紛れてサツマイモを盗みに来たのかな」
畑は校舎から少し離れたところにあるので、歩いていくにつれて、子どもの気配も次第に消えていった。放課後はみんな学童の教室か、校庭か、体育館で遊んでいる。冒険ごっこでもしない限り、畑には滅多に来ないだろう。
おじさんはサツマイモ畑を見渡して、「あそこだね?」と指をさした。
サツマイモの葉が敷き詰められたように、畑一面に広がるなか、一部だけ穴が開いたように葉が千切られて、掘り起こされている。
おじさんは荒らされた場所へしゃがみこんでしばらく眺めていた。たまに土をすくいあげたり、土の塊を指の先で潰したりして、なにかを確かめていた。千切られた蔓や葉、中途半端に折られたサツマイモの残骸もじっくり観察していた。
「イノシシの足跡もタヌキの足跡もどこにもないから、やっぱり人間がやったんだよ」
「これは計画的な犯行ではなかったようだね」
「とっぱつてきってこと?」
「犯人はサツマイモを掘った経験のない人か、なんでも力任せにことを成す人かどちらかだろう」
「サツマイモなんて引っこ抜くだけじゃないか」
「正太郎くん、試しにそこのサツマイモを引っこ抜いてみなさい」
「いくらおじさんのお願いでもそれはできないよ。サツマイモは来月、みんなと一緒に収穫するんだ」
「これは失敬。なら、言葉で説明しよう」
僕が頷くなり、おじさんは推理をはじめた。サツマイモを収穫するときは葉や蔓をある程度刈ってから、シャベルで周りの土をほぐして、手で掘り起こして、蔓を引き上げる。けれど犯人はシャベルや蔓を刈る道具やハサミを持っていなかったから、葉を千切り、蔓も千切ろうとしてうまくいかずに割いてしまい、イモを掘り当てたものの、蔓からイモを切り離せないから折らざるを得なかったのだろう。犯人は道具をなにも持ち合わせていなかったことから、サツマイモが急遽必要になったか、嫌がらせのために思い付きで畑を荒らしたかどちらかだろう。そうだとしても、嫌がらせにしては大分範囲が狭いし、手を汚さない方法で畑を荒らすこともできたはずである。
「ちょっと待って。サツマイモが急に必要になるなんて、そんなことある?」
「大学イモでも作ろうと思って、つい買い忘れてしまったのかもしれないね」
「忘れたなら、明日の献立にすればいいのに」
ここからが本題だが、と言っておじさんは話を続けた。荒らした範囲が狭いのはカムフラージュともとれるが、見て分かる通り、かえって目立っている。なにかを訴えるにはあまりにも迫力に欠ける。恐らく、犯人はそこまで考える余裕もなかったのだろう。
おじさんは立ち上がった。
「正太郎くんの言うとおり動物の足跡はないが、大人の足跡もない」
「え?」
「ついている足跡はどれも小さいだろう。君と同じくらいか」
「じゃあ、やっぱり」
「子どもだろう」
いったい誰が。なんのために。悪戯じゃないとすれば余計に分からない。
サツマイモを育ててパーティーをするのは三年生の恒例の行事だから、四年生以上はサツマイモの掘り方を知っている。シャベルを持ってこないヘマなんてするはずがない。となると、僕たち三年生か一二年生ということになる。
「それじゃあ行こうか」
「もう終わり?」
「学校の周りを捜索しよう」
学校を出た僕たちは学校の近くにある山鳩公園を目指した。
「正太郎くんは秘密基地を作ったことがあるかね」
「あるよ」
「秘密基地はどんなところに作るのかね」
「見つかりにくくって、材料がいっぱいあるところ。木がいっぱい生えてるとロープでつなげるし、段ボールの壁を作りやすいから、森とか!」
「山鳩公園は広いうえに、密になって木が生えているところもあるから、秘密基地を作るのには最適だろうね」
「うん。僕も何度か俊樹くんたちと作ったよ」
山鳩公園には小さな森がある。夏休みはカブトムシやクワガタに出会える。セミなんて虫かごに収まらないほど捕れる。僕の住んでいる町は都会的だけれど、この公園は唯一自然を感じさせてくれる、僕たち子どもにとっては最高の遊び場なんだ。
毎週月曜日と木曜日には公園を綺麗に保つために、安全を守るために、地域の人が清掃も兼ねて秘密基地を壊してしまうけれど、三四日間はその秘密基地を拠点にして作戦会議をしたり、秘密の話をしたりして過ごせるから、みんなカッコイイ秘密基地を作るために知恵を絞り合って、試行錯誤しながら一生懸命作るんだ。
「もしかして、サツマイモを秘密基地に隠してるってこと?」
「これはあくまでも推測だけれど、犯人は自分のためにサツマイモを盗ったのではなく、誰かのために盗ったんだろう」
小さな森を歩き進めながら、おじさんは推理を始めた。
サツマイモは生では食べられないから、子どもが小腹を満たすために畑からサツマイモを盗んだとは考えにくい。興味本位で誰かが掘ってみた可能性はあるが、葉を千切って、蔓を割いて、イモを折っているところから当人が相当必死だったことがうかがえる。ちょっと掘ってみようと思ったときに、それほど慌てる必要があるだろうか。
「やはりね、急にサツマイモが必要になったというのが一番正解に近い気がするのだよ」
おじさんは口に人差し指をあてて、僕を見た。おじさんの目の先には背の低い木が柵のように生えていて、そのなかに段ボール箱がひとつ置いてあるのを見つけた。僕は「秘密基地には小さすぎる」と言いたかったけれど、おじさんが足元に注意を払いながら、音をたてないように気を付けているのが分かったから、黙って後ろをついていった。
くうん、と鳴き声が聞こえた。寂しさを訴えるような、か細い鳴き声が段ボール箱から聞こえてくる。段ボール箱を覗き込むと、子犬が一匹入っていた。
「あ!」と僕は思わず声を漏らした。箱のなかには折れたサツマイモが入っている。
「この犬が畑から? まさか」
「よく見てごらん。箱の底に敷いてある新聞紙に糞も尿もないだろう」
「誰かが世話をしてて、エサの代わりにサツマイモをあげたってこと?」
僕は敷かれている新聞紙を見て、はっとした。
「おじさん。僕、分かったよ」
「ん?」
「犯人は僕のクラスにいる」
箱の底に敷かれている新聞紙を抜き取って広げた。墨汁で「月光」という字がたくさん練習してある。
「月光は三年生の今月の課題なんだ」
「三年生は2クラスなかったかな?」
「ああそうか。2組はもう違う字を書いていたから、てっきり僕のクラスかと思ったよ」
「正太郎くんの習字の授業は一番最近でいつあっただろう」
おじさんは僕から新聞紙を取り上げて、細かい字に顔を近づけた。
「今日だよ」
「それならやはり君の推理が正しいようだ」
おじさんは新聞紙の上部を指差した。新聞は今朝の朝刊だった。
「明後日は公園の清掃があるから、子犬の飼い主は明日の放課後、なにか動きを見せるはずだ。そのままこの子犬を放って置くとは思えないからね」
「先回りして現行犯逮捕だね!」
「正太郎くん。私は警察じゃないから逮捕はできないよ。君はあの事件が君の心で解決できる問題かどうか、飼い主とよく話し合うと良い」
おじさんはいつの間にか、犯人と呼ぶのをやめていた。
あくる日の放課後、僕は俊樹くんに呼び止められた。
「正太郎、今日も帰るのか?」
「僕は難事件を解決しなくちゃいけないから」
「もう俺たちとは遊ばないのか?」
「僕も野球が好きだし、みんなと遊びたいよ。でも、僕は探偵だから」
「探偵? 探偵ごっこの間違いだろ」
「ごっこじゃない。僕は必ずサツマイモを盗んだ犯人を見つけ出すんだ」
「お前がいないと楽しくないから、早く解決して戻ってこいよ」
俊樹くんはそのまま走って行ってしまった。
僕は山鳩公園でおじさんと待ち合わせていたので、家には帰らずにそのまま公園へ寄った。
「おじさん!」
ベンチの前でしゃがんでいたおじさんはカラスの羽根を拾い上げて立ち上がった。
「落ちてる鳥の羽根は綺麗じゃないから触っちゃダメってお母さんが言ってたよ」
「美智子の言う通りだ。しかしね、これは抜け落ちた鳥の羽根じゃない。フェイクだ」
「ふぇいく?」
「ニセモノだよ」
羽根をよく見てみると、中央の固い部分はプラスチックでできているらしかった。
「それじゃあ行こうか」
おじさんは羽根を胸ポケットに入れて歩き出した。僕にはおじさんがいつもとは違って大きな不安に包まれているように見えた。
「正太郎くん。君は飼い主と話し合って心で解決できる問題かどうかよく考えるんだよ」
「うん」
僕たちは小さな森へ向かった。
段ボール箱の前に赤いランドセルを背負った女の子がしゃがみこんでいる。
「あかねちゃん?」
驚いた顔をして振り返ったのは僕のクラスの本郷朱音ちゃんだった。朱音ちゃんはお城みたいな家に住んでいて、ピアノが上手なとっても優しい女の子。そんな朱音ちゃんがまさか犯人だったなんて。
「今井くん、どうしてここにいるの」
「朱音ちゃんこそ、どうしてここにいるの」
僕はなにから質問をすればいいのか分からなかった。
「あ……、朱音ちゃん、犬好きなの?」
「うん。すごく好き。どうしても飼いたくて、家の人にもお願いしたんだけど、お母さんがどうしても許してくれないからここでこっそり飼ってるの」
「もしかして、その犬、南ノ小学校便りの『お知らせ』に書いてあった犬?」
「それはお母さんに却下されちゃった」
「え? じゃあ」
「黒い服を着た、背の高い男の人がくれたの。世話をするならこの子犬を譲ってあげましょうって。公園の清掃のときは預かっておくから、安心してくださいって」
「知らない人からものを貰っちゃだめだよ」
「でも、どうしても犬が飼いたかったの」
朱音ちゃんは立ち上がって僕に頭を下げた。
「ごめんなさい」
顔を上げた朱音ちゃんは涙目だった。
「サツマイモを盗んだのは、私です。今井くんが犯人を捜しているって、俊樹くんたちが話しているのをたまたま聞いちゃったの」
朱音ちゃんの爪は確かに汚れていた。畑の土は数日ではなかなか落ちないらしい。
「その男の人が、サツマイモなら犬でもそのまま食べられるって教えてくれて、この子もお腹を好かせていたから、そうするしかなくて」
僕は朱音ちゃんを責めようとはこれっぽっちも思わなかった。
「相談してくれればよかったのに。僕の家にあるソーセージとか、チーズとか、犬が食べても平気なら分けてあげられたのに」
朱音ちゃんは涙を流して「ありがとう」と言った。
「黒い服を着た男は羽根が付いた帽子を被っていなかったかね?」
「黒い帽子は被っていたけど、羽根は、どうだったかな……」
おじさんは背の高い木を見上げて、ポケットから取り出したペンをいきなり、思いきり高い位置にある木の枝に向かって投げた。
「高みの見物なんてしていないで、降りてきたらどうだね、リカルド」
投げたペンはどこかへ引っかかっているのか、落ちて来ない。
バサッと音がして、カラスの羽根が降ってきた。見上げると、木の枝に蝙蝠のように人が逆さにぶら下がっている。どんなトリックでそこにぶら下がっているのかは分からないけれど、足の裏が木の枝にくっついている。まるで重力がかかっていないかのように洋服の裾も翻らなければ、帽子も落っこちない。本当に蝙蝠のようだ。
「これはこれは、名探偵の須藤一さんではないですか。お会いできて光栄です」
「なにを今更」
僕はおじさんが言った言葉を思い出して、もう一度、蝙蝠男を見た。
「リカルドって、怪盗リカルド?」
怪盗リカルドは探偵を志す者ならだれでも知っている探偵の敵だ。探偵を志していなくても、怪盗リカルドは有名宝石店から数十億円もするダイヤモンドを盗んだり、美術館から高価な作品を盗み出したりして、ニュースで何度も取り上げられているから、誰でも名前くらいは知っている。
「この子犬は商店街から君が盗み出したんじゃないのか」
「今回ばかりはきちんとお金を支払いましたよ。事件沙汰にしたのは仕様ですが、ご愛嬌ということでお許しください」
「なんのつもりかね」
「ボランティアですよ。たまには無償でイイコトをしてみようと思いまして」
「子どもにあれこれ吹き込んで盗みを働かせることのなにがボランティアだ」
「嫌ですねえ。私はサツマイモが犬の食糧になると親切に教えたまでで、なにも畑から盗んだサツマイモをあげなさいとは一言も言っていませんよ。その子が自分の判断で盗みを働いたのです」
「正直に話したまえ。君が私の前に姿を現すのは、私を困らせるトリックを思いついたか、降参したかのどちらかだろう」
リカルドは不気味な笑顔を浮かべた。
「欲しいものはほとんど揃いましたが、コレクションを眺めるだけの毎日はさすがに飽きました。そこで面白いゲームを思いついたのです」
「ゲーム?」
「あなたには是非、私の遊び相手になっていただきたい」
「私は確かに暇だが、君の相手をするのは御免だ」
「そういうと思いましたよ。ですがね、須藤探偵。ゲームはすでに始まっているのです」
僕を目掛けてペンが飛んでくる。分かっているのに体が動かない。目に刺さる! と思って目を瞑ったけれど、ペンはかすりもしなかった。どうやらおじさんが投げた石に弾かれて経路を変えたらしい。
再び見上げた木の枝にリカルドの姿はなかった。
「二人ともすまない。私のせいで」
おじさんは眉毛を下げて僕たちを見た。
「おじさん、警察に言おうよ。犬を盗まれたのも大事件だけど、もっと大変なことになるかも知れないよ」
おじさんは相変わらず表情を曇らせている。
「私はね、彼を捕まえて更正させようという考えだったなら、最初から刑事を目指したと思う」
「どういうこと?」
「彼は私の友人だった男だ。確かに罪人だが、警察に引き渡す前に、どうしても彼の謎を暴きたいのだよ」
「リカルドの謎?」
「彼はあんな奴じゃなかった。財布を拾ったら一銭もとらずにそのまま交番へ届けるような青年だった。野に咲く花を摘む行為さえ嫌う青年だった。それが、どういうわけか変わってしまった」
僕は複雑な思いでいた。リカルドの顔が分かった今、警察に情報だけでも教えることができれば、更なる犯罪を防ぐことができるかもしれない。けれど、リカルドが警察に捕まってしまったら、おじさんの願いはきっと叶わない。
「私も責任を感じているんだ。もしかすると、私のせいかもしれないから」
しまおじさんと怪盗リカルドの関係性はよく分からない。何年前に友人だったのかも分からない。おじさんの言う責任とはなんだろう。謎は深まるばかりだ。
僕は胸騒ぎがした。投げつけられたペンは僕への挑戦状だったような気もする。これから僕は大きな事件に巻き込まれる予感がした。
「私はね、真実を解き明かすために探偵を志したんだ」
おじさんの言葉は力強かった。