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8話 とびきり上等で、特別な



好きだ、と自覚したそのあとから私と旭さんの関係は、少しだけ微妙なものになってしまった。――訂正。私だけが意識して、空回りを続けている。

一緒に出掛けてから2日目、普段通りを心がけようと思っても、私は旭さんが直視できず彼から少し遠ざかった距離にいる。それがわかるたび、旭さんが少しだけ寂しそうに笑う姿に胸が締め付けられる。

今日も今日とて帰宅して、宿題があるからと部屋に引きこもっていた。

最近までリビングでくつろいでいたあの時間が恋しい。ただ、私の気の持ちようなだけなのだろうが、それが難しい。

そもそもこれがどうやら私にとって初恋のようなものにあたるみたいなのだ。考えることといえば、旭さんの事と旭さんのご飯の事と、旭さんとのこれからの事、そればかりだ。

なのに、私の行動は裏目に出てしまう。泣きたくなってベッドにごろんと転がってふう、とため息を吐き出した。

こうしていていいわけがない、というのはわかる。私がもやもやとしているだけならばいいだろうけど、こうして余所余所しい態度をとってしまっている。優しいあの人の事だから、きっと気にしてしまっているだろうことが分かって辛かった。

――ただ、どうしたらいいのかが分からなくて。困っている。

もう一度、ため息を吐き出そうとして、枕元に置きっぱなしのスマートフォンがちかちかと点滅していることに気付いた。

気の置けない友人――理沙からの着信だった。

そのまま電話を再度かければ、友人は10分後に近所の公園に来るようにと用件のみ告げてそのまま電話を切った。私の返事は聞かずに、だ。


「………」


数分眺めてはみたものの、そのあとスマートフォンには何の通知も来なかった。

渋々ベッドから降りて、スマートフォンと小銭入れだけ持って部屋を出た。時計は5時を過ぎたころだ。いつもの夕ご飯は、6時だから30分くらいならなんとかなるだろう。

キッチンで夕飯の支度をしている旭さんに、声をかける。


「コンビニまで行ってきます。…30分くらいで帰りますから」


返事は聞かず、歩き出した。

パタン、と占めたドアの音がやけに大きく聞こえて振り返る。このまま、開かなかったらどうしよう。そんな不安を振り払うように歩き出す。

暗くなりかけの道は、いつも通っているくせに、やけに心細く感じる。



そうして、たどり着いた公園は、家から徒歩5分の場所にある市営の公園である。私が高校へ登校しているときに通る場所でもあり、昼間はお母さんと幼児たちが、夕方は小学生たちが遊んでいる場所だ。遊具が充実している、という点が人気が高いわけかもしれない。

ブランコに腰かけて友人に電話をかけた。コール音が数回なった後に、声が聞こえる。


「きたよ、公園」

『で、何があったのよ?』

「ええ、このまま話すの?!」

『家の中で電話してて聞かれてたらどうするのよ』

「は、え、え?私誰かと住んでるって言ったっけ?」

『叔父さんは海外転勤、マンションから一軒家に引っ越し。一人で暮らすにしては豪華なお昼ご飯にデザート。栞が一人でできるとは思えないわね』

「…おみそれしました」


ばっさりと切って捨てられたそれにうなだれる。

なんだかんだ、彼女にはいつだって見透かされてばかりだ。

それからぽつぽつと話す、今までの事と考えていること。彼女は最初こそ、旭さんの存在に二の句が継げない様子だったけれど、私が受け入れていることを感じ取ったのか何も言わず、ただ話を聞いていてくれた。


『…栞は、どうしたい?』

「わたし?」

『そう。どうしたいの?自覚して、いつまでも避けて通れるとは思ってないんでしょう?』


私は、どうしたいのか。

その問いかけが私の胸をぐるぐるとまわる。携帯越しに聞こえる彼女の声が、私を落ち着かせる。


『ずっと上の空だったから、きっと引きこもってるんじゃないかと思って。少し頭を冷やしたらいいかと思ったの。大丈夫、一人にはしてないから』

「ありがと、でも一人じゃないって?理沙近くにいるの?」

『答えは出た?出ても出てなくても、その人とちゃんと話しなさいね』


それだけ言うと、電話は切られた。ぶつ、とした音が耳元でしてそのあと一切の音が消える。

毎回思うのだけれど、いきなり電話を切るのはやめてもらいたいところである。それ、ちょっと傷付くから。

――けれど、そのおかげで頭は冷えたみたいだ。

どうしたいのか、それは、きっとずっと私が持っていた。


「…栞様!」

「あ、さひさん?!」


ブランコから立ち上がろうとして走り寄ってきた人物が私の名前を呼んだ。走ってきたのか、息を切らせた、我が家の執事。

息切れをしてなお美しいその顔は、私を見据えて離さない。


「お友達から、連絡がありましたので、」

「お友達って、理沙…?」


息を整えた旭さんが、私の手を掴む。ぐい、と引き寄せられてそして歩き出した。

私はそれにふらつきながらついていく。


「あの、旭さん…」

「家に戻ってからお聞きします。いくら初夏だといえ暗くなり始めでお一人で外に出るなど許せません」

「…ごめんなさい」


固い声が私の耳を打った。

この人は、きっとあんな風に傷付けた私のこともまだ心配していてくれる。その思いがうれしくて、切なかった。

無言のまま手を引かれて歩く。足早に過ぎていく景色はいつもと変わらないはずなのに、この間出かけた時に見たそれよりも褪せて見える。

家について、リビングに通じる扉をくぐる。旭さんは何も言わなかった。私も、何も言わない。ただ手だけが繋がっている。


電気もつけない部屋は暗くて、きっと旭さんが一緒に住んでくれなかったら、私が帰宅したらこんな風に暗い部屋で一人過ごしていたのだろうと思わせる。

暖かなご飯も、私が作る味気ないものに変わる。もちろん、デザートなんてなくて、一人でテレビを見ながら簡単な食事を済ませ、お昼ご飯は残り物を詰めて。家に帰りたくなくて放課後ふらふらして。寂しくて寂しくて仕方なかっただろう。

インターホンを鳴らしても誰もあけてくれないドアを、私は毎日くぐっていただろう。

顔が濡れているのを感じて、手で頬をこすった。

旭さんが居なかったところを想像して泣いてしまうくらいには、私は今の生活に慣れきってしまった。


「…旭さん、旭さん」

「――はい、何でしょう?」


どこまでも優しい声が私の傍で聞こえた。旭さんに近づいて手を、握る。

旭さんの手は大きくて暖かい。そっと握った手を、指と指を絡ませるようにして離れないようにする。


「傷付けて、ごめんなさい。…心配かけてごめんなさい」

「栞様、泣かないでください。貴女が泣くと、私も痛い」

「どうしたらいいか、わからなくて。でも、決めました。――執事としてでもなくお兄さんとしてでもなく、旭千景さんの傍にいたい。貴方の特別になりたいです」


真直ぐ目を見て告げた言葉に、旭さんの目が見開かれる。

涙でぐしゃぐしゃの顔は、それでも背けない。答えがほしかった。勢いだけのかっこよくもなんともない告白も、今の私にとっての精一杯。

何かを言おうとして震えた唇が、声にならずに閉じられる。

私が一方的に掴んでいた手が離されて、そして刹那、力いっぱい抱きしめられた。


「栞様、…っ、栞、」

「旭さん…?」

「その言葉がどれだけ嬉しいか、わかりますか?君は、ずっと昔から私の特別なんです」


抱き込まれて、声が近くで響く。

耳を揺らす声と旭さんの匂いに沸騰しそうな自分をこらえて、私はそっと背中に手をまわした。このまま、身をゆだねてしまってもいいだろうか。


「執事としてでも、兄としてでも、何でもよかった。ただ君の傍にいたくて、叔父さんに頼み込んでこの役割を手に入れたのに。…一緒に過ごす君が、愛おしくて仕方なかった」

「…もう、執事じゃなくて、男の人として私のことを見てくれますか?」

「執事なんて、口実です。役割があれば自分を抑えられると思った。でも、無理でした」


そっと体を離した旭さんが、私を上から覗き込んだ。

旭さんの目も心なしかうるんでいるように思えて、可愛くて胸が温かくなる。


「名前を呼んでください、ね?」

「……千景、さん」

「愛していますよ、栞さん」

「――私も、貴方が好きです」


丁寧な口調はそのまま、でも様をつけることなく呼ばれた名前に胸が高鳴る。

お互いに見つめ合いながら伝える言葉は、どこまでも私を甘く優しくとろけさせた。

執事として役割に徹していた旭さんは、私を栞様としか呼ばなかったし、貴方と呼んでいた。それが、今は様が外されて、君と呼ばれる。そんなちょっとの違いがうれしい。


「まだご褒美をあげていませんでしたね」

「あ、え…?でももう、これがご褒美みたいなもので…」

「言ったでしょう?とびきり上等で、貴方を逃がさないようなものをご用意します、と」


そうえば、そんなことも言っていたような気がする。

あれは何となく有耶無耶になったままだったし私も本気にしてはいなかったのだが、千景さんはしっかり覚えていたようで、柔らかく微笑んだ彼はズボンのポケットから何かを取り出した。


「私はいつだって栞さんに対しては、本気ですと言っているでしょう」

「…う、」


甘い声が耳元で響く。額に、目元に触れた唇の熱さに肩がはねた。

そのままそっと左手を取られて、口づけられる。


「仮予約です。ちゃんとしたものを、買いに行きましょう」

「え、えええ?」


そっとはめられたのは、シンプルなデザインのリング。指にぴったりのそれは、薬指で輝いている。

目を白黒させながら見上げれば、少し照れたような表情で、言い訳するかのように口が開かれた。


「とびきり上等、ではありませんが。次はもっと良いものを用意しますから」

「…ううん、これがいい。うれしいです、貰ってしまっていいんですか?」

「私の傍にいると、約束してくださるなら。もらってください、私の思いごと」

「ください、全部」


首に腕をまわして抱き着いた。

ここまでお姫様の様に扱われてしまったらもう、だめだ。この人の甘さに酔って、まるで麻薬の様に中毒症状が出てしまうだろう。

ぴったり抱きしめられて、その腕の中にいる安心感にほっとした。

この人の傍は、いつだって私を落ち着かなくさせる一方でこうして穏やかな気持ちにさせてくれる。


「大好き、千景さん」


その言葉を言った途端、性急に唇を奪われた。

最初は重ねるだけだったのに、酸素を求めて開いた唇により深く貪られて、どろどろに溶かされる。

息継ぎの合間にささやかれる名前と言葉に翻弄されて、しがみついたまま、蕩けてしまいそうになって、わけが分からないままに千景さんの名前を呼んだ。

――初心者相手に、やりすぎだと思う。

そのあと余りの刺激にキスだけで意識を飛ばした私をご機嫌で抱きしめながら、ソファに座って私を眺めていた千景さんに気付くのは、気絶した30分後の事である。


「がっつきすぎ!」

「しょうがないでしょう、10年越しの思いが報われたんです。我慢した分はいただきます」「ううう!」


千景さんは小悪魔で天然で、そして一途だった。

きっとこの人には一生敵わない気がする。そんなことを想う、夜。

私は大切な人を手に入れた。






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