低速世界と超光速世界の接点として生命
僕は、赤ちゃんカマキリとして、数日を過ごしている。
超光速エネルギー体は、僕の体を通じて、この低速世界(光速を上限とする世界)に、結合している。この結合は、僕の死が訪れるまで、続く。
昨年の秋、卵の産卵から数えて、半年が経過しているが、超光速エネルギー体は、低速世界モードにすっかり切り替わって、かつての勢いはない。
映画「マスク」や孫悟空のように、時間や空間を越えて、自由に生きることは、すっかり、忘れ去られている。カマキリは、その生存のすべてをかけて、カマキリとして生きる必要がある。
目を動かし、足を動かし、鎌を動かし、エサを求めて、周りに注意していきなければならない。なにせ、生存率は、100分の1、500分の1という過酷な設定なのだ。
のんびり生きていくわけには、いかない。ましては、生きるために他の昆虫の命を奪い取っていくしかないのだ。なんという、過酷な運命をたどることになったのか。
それでも、時間も空間もなく、意志そのものが、行動になってしまう超光速世界により、超光速世界の何億分の1になろうとも、目を動かし、足を動かせる、鎌を振り上げる、他の昆虫を食べてもよいという、この低速世界に、1年間生きることができるのは、とてつもなく、楽しい時間だ。それも、滅多に順番が回ってこない。待ち遠しい時間だった。
あたかも、難しいテレビゲームが1台しかないのに、そのゲームをやりたい子供が、1000人居て、順番にゲーム機で遊ぶようなものだ。そして、ゲームのルールは、主人公がやられたら、次の子に替わらなければならない。少しでも、持ちこたえれば、それだけ、長く遊ぶことができる。
超光速エネルギー体にとって、腕試しをするチャンス、わずかなチャンスなのだ。前回は、ここまでクリヤーしたから、次は、あそこまで行きたい、前回の失敗は、あれが原因だったから、あれを避けてみたら、どうなるのだろう、どんどん夢は膨らんで、いよいよ、僕の番になったのだ。
ここで、数日で、命を失う訳にはいかない。
どんなことがあっても、秋まで、生き延びる。絶対に、絶対に、僕は秋まで、生き延びる。
超光速世界で、時間も空間も行動も一瞬で、すべて終わってしまう世界より、低速世界で、1年の時を、まるで、スローモーションのように、生きる時間を得ることのなんと、かぐわしい、不思議な体験である。
まるで、神のようになった気分だ。
僕が、カマキリを1年間、動かす、生きる権利を得たのだ。絶対に、絶対に、僕は手放さい。生存率100分の1、500分の1であろうとも。