たくさんの死の行方
僕の一日は、餌をたべることに始まり、餌を食べることに終わる。
僕は目の前をノコノコ歩いているバッタの赤ちゃんを見つけると、僕は、とっさに食べていた。
不思議な味がした、
美味しい味がした。
僕の食べたバッタの赤ちゃんは、口の中で砕けて、胃の中へ下っていった。
そのとき、バッタの超光速エネルギーが、バッタの赤ちゃんから離れていった。その速度は、あまりにものろく、行き場をうしない、地面に落ちた。そして、地面に沈んでいった。そして、暫くすると、息を吹き返して、超光速エネルギー体に少しずつもどり、超光速空間に戻っていく。
なにも無かったように。
そして、このバッタの個性や経験は全体のバッタの全体の超光速エネルギー体に吸収され、同化される。
命に、超光速エネルギー体が、合体も、なにも感知できないように、死も、超光速エネルギー体の分離も、なにも感知できない。
それは、地球上で、無数に起きている。
それは、当たり前の日常の出来事。
ただ、それを、人間が検知できないだけ。
しかし、それは、現代人が検知、感知できないだけで、昔の人には、当たり前に検知、感知されていたのだけれど。
なぜ、この当たり前の事実を、人類が見失ったのだろうか?
人類の歴史、過去世の記憶、オーパーツを手掛かりに探す旅をいつかしなければならないだろう。
しかし、身近な手がかりは、仏教にある。