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屍体写真  作者: 小岩井豊
9/13

断章・二

 バスはH町の温泉街へ向かっていた。

 峠を越えると、源泉やぐらを模した街の案内看板が見えてくる。温泉卵の路上販売と、祭りの準備をする法被姿の役員たち、それから、路地の合間をすり抜けていく浴衣の男女。

 警察へ送られた証拠写真によって掘り返された凄惨な殺人事件の地は、マイペースにもGW客を迎える体勢を整えていた。

 あぜ道に揺られながら、咲子は隣の座席を流し見る。吉村は隔月カメラ雑誌『デジタル・フォト』と開いていた。このバスに乗ってからというもの、何度も同じページを読み返している。

 それはおよそ二年前に刊行されたものだった。わざわざ神保町の古本屋まで出向いて手に入れたらしい。そこには吉村が心から待ち望んでいた、梶原守と窓辺千佳を結びつける唯一の手がかりが記されていた。

 梶原守が売れ出したばかりの頃、初となる巻頭ページを飾った号だ。その初インタビューのある部分にヒントが隠されている。


 ――瞬間を切り取る写真の性質上、必然的に一期一会になるのも納得です。ですが、梶原さんにとって『何度も撮り続けていきたい』と感じた被写体はありますか?


 この質問に返した一節に、梶原は彼女の名を挙げていた。無論ここでは『千明』という芸名として記載されているものの、事件の被害者と同一人物であることは確認の必要もない事実だった。

 百の表情と百の背景による無限大の撮影体験。彼は窓辺千佳をそう評価した。その多様性と可能性の豊かさは丸一日をかけたって撮りきれるものではない。

 撮っても撮りきれない。そんな言葉が似合う希に見る女性モデル。それを読んだとき、やけに大仰な表現をする写真家だなと咲子は鼻白んだ。

「その窓辺千佳が最後に見せた顔が、まさかこんな形で晒されるだなんて。誰に想像が出来ただろうね」

 吉村の問いかけを無視し、車窓に目をやる。停留所がもう目の前にあった。

 整理券と料金表を見比べ、運賃箱に小銭を投入する。バスを降りると、遮るものの一切ないGW三日目の太陽光が上空から降りそそいだ。電柱をほとんど用いないH町温泉独特の大時代じみた風景。平屋の並びと、山の裾野の奥に広がる色素の薄い青空に、咲子は思わず息を吐いた。空って、こんなに広かったっけ。

 吉村は停留所のインフォメーションラックから観光地図を抜き取る。十秒ほど眺め、さっさと歩き出した。心なしかリズミカルに刻まれる歩調を追いながら、咲子はたびたびミラーレス一眼で街の様子を撮っていく。

 実はこの日、咲子は友達との約束を破ってここに来ていた。本来であれば今ごろ富士急ハイランドの絶叫マシーンで悲鳴を上げているはずだった。何が悲しくて、こんな事件大好き不謹慎男とツーショットで温泉旅行の探偵ごっこに興じているのか、思い返すだけでため息が出る。

 けれど事実として、咲子は自らの意志で差し出された天秤を吉村との旅に傾けていたのだった。多少の牽制はあったものの、選択肢は確かに提示されていた。決して強制ではない。吉村を異性として意識した覚えもない。むしろそんな安直な動機があればどんなに楽だったかと思う。

 咲子は頭を悩ませる。一体自分はここへ来て、何をどうするつもりなのかと。



   ◆◆◆



 強いて心変わりのきっかけをあげるとすれば、昨日の朝、自宅の郵便受けに届けられた一通の便せんのせいだろうか。

 便せんには消印も差出人の名も記されていなかった。まるで件の事件の『撮影者』だ。うんざりした心持で封を切る。一応、同居している兄に見つからないよう、自分の部屋で隠れるように開けた。

 出てきたのは、指先二本分ほどで隠れそうなSDカードが一つ。それ以外何も入っていないところが不審さを煽る。それは最もありふれた規格で、内容のほどは計り知れないが、なんとなく想像できてしまう自分がいた。

 パソコンを立ち上げ、SDカードを挿入する。嫌な予感は当たるもので、三枚の画像データがデスクトップに表示された。ファイルを開く。ミニアイコンとして表示された三枚に、マウスを持つ指が躊躇いで立ち止まる。

 なぜこれを自分に? 誰が、なんの目的で……。

 疑問や苛立ちや困惑は掃いて捨てるほど浮かぶ。しかしカーソルは、導かれるように一枚ずつ、アイコンに触れていた。


 一枚目。

 女の子が横顔だけを見せ、空中で浮遊する風船に手を伸ばしていた。風船は白地に赤の水玉柄で、ぷっくりとした浮遊力で女の子の手から逃れている。向こうにある眩しいほどの青空に、咲子は目を細める。


 二枚目。

 さきほどの女の子がビールケースの上で佇立し、風船を指さしている。顔は、空を見上げる老婆に向いていた。ねえお婆ちゃん、あの風船がほしいの、そんな光景が浮かぶ。女の子の顔に見入る。どう見ても窓辺千佳だった。あの死体写真のせいで嫌というほど見慣れてしまったのだから、見紛うはずがない。


 三枚目。

 写っていたのは、犬の死骸だった。水気を含んだ苔と土の上で、犬は泡を吹いて横たわっている。白目を剥き、舌をだらりと地へ垂らして。ややローアングルから撮られているため、後方の様子が窺えた。窓辺千佳の死体があったあの廃屋の山小屋だ、と容易に予測できた。

 カーソルを推移させ、その左目に刻まれた古傷をなぞる。いたわるように、指先で撫でるように、何度もなぞった。それから写真展の招待状を鞄から取り出し、画面上の画像の犬と、招待状の写真の犬とを何度も見比べた。


 ウインドウを全て閉じ、咲子は固く目を瞑る。小さく首を振る。爽やかだったはずの早朝に、この倦怠感は精神的に応えた。

 携帯に着信が来る。電話に出るとクラスの女友達で、明日の富士急の予定の再確認だった。そして今日は買い物にでも出かけようと誘われる。喋るのも面倒だったが、軽い調子をつくって咲子は口を開く。

「悪いんだけどさ、兄貴がさっき倒れちゃって。なんかそれどころじゃないっぽい。もしかしたら明日もあたし行けないかも」

「なにそれ。お兄さん大丈夫なの」

 咲子は扉を開ける。リビングの奥、ソファの上で兄が幸せそうにいびきをかいている。

「なんかアル中みたい。泡吹きながら白目でぶっ倒れてる。写メ送ろうか?」

 本当に送ってくれと言われたらどうしようと咲子は思う。一応犬の画像はあるけど。しかし、その心配はいらなかったらしい。彼女はしばらくの黙りのあと、冷ややかに笑うのだった。

「あー、いいよ。それより早く救急車呼んであげな。のんびりしてるとお兄ちゃんやばいでしょ。あ、じゃあ富士急のチケットはキャンセルでいい?」

「そーね」

 抜けるような返事をして電話を切る。切れたのは電話だけじゃない気がしたが、考えることすら馬鹿らしかった。

 一呼吸を置き、もう一度、三枚の画像を開く。窓を小さくして画面上に並べてみる。これを送りつけてきたやつの『目的』や『意志』だのを想像しながら、携帯を手に取り、吉村に電話を掛けた。



   ◆◆◆



 吉村に連れられ、重いバックパックを背負ってやってきたのは、観光ガイドにはない険しい山道だった。太い樹の根が足下まで伸び、セイタカアワダチ草やアカツメグサがそこら中に生えている。地面にうっすらと一本、土作りの標が通っているだけで、果たしてそこを道と呼んでいいのかすら怪しい。よく目を凝らさなければすぐさま木々の無法地帯に取り残されてしまいそうな、ほとんど自然の天然領域だ。

 そんな場所で、咲子と吉村は立ち往生していた。

 ここまでは、とあるペンションを経由してきた。言うも及ばず、容疑者窓辺伸和がかつて営業していたペンションである。今では野良猫のフリースペースとなっていた。

 吉村はつい最近、この地を訪れたばかりだった。例のフィルムを拾ったのがこの辺りなのだという。

 これで二度目の訪問。この山道を捜すのにも相当手間取ったが、道を見失わないよう進んでいくのはもっと大変だった。

 やがてある箇所で道は完全に途絶え、二人は足を止める他なかったのである。

「もうちょっと進んだら新しい道が見えてくるかもしれない」

 とんでもないことを言い出す吉村を、咲子は決死の思いで引き留めた。こんな訳の分からないところで遭難して飢え死でもしたら、あの世の父母に申し訳が立たない。

 この先に……いや、ここから先があるのかも分からないが、この道でフィルムを拾ったというのならそれはそれでいい。重要なのは、本当にこの奥にあの廃屋の山小屋があるのかということだった。道と呼ぶのすら怪しかった線がそこで途切れてしまった。ならば、小屋がこの山にあるという可能性も薄くなってきた。

「きっと写真の山小屋って別の場所にあるのよ。そもそも、フィルムが落ちてたからって頭っからこの山だけに執着するのって、ちょっと短絡的過ぎない? 吉村くんってたまに名探偵ぶったことするけど、ぶっちゃけアレよね。あたしから見ても結構甘いってか、抜けてると思う」

 必死でまくし立てると、吉村は非常に心外という様子で唇を尖らせた。

「分かったよ、とりあえず今日のところは諦めよう。日も暮れてきたことだしね。ていうか咲子さんこそ、たまにはその賢い頭脳様を生かしてみたらどうだい。頑張って考えて、情報集めて、どれだけ僕が苦労したか君に分かるか? 甘い蜜すすって美味しいとこだけ持っていこうったって、そうはいかないぜ」

 あたしどういうポジションだよ、と言い返したかったが、こんなところで喧嘩になるのは不本意なのでぐっとこらえた。帰る意志を見せてくれたのだからそれで良しとしよう。

 渋々、吉村は踵を返す。咲子は胸をなで下ろす。宿に戻ったらゆっくり温泉にでも浸かろう。

 そうして帰路へと視線を戻したとき、自分の顔がさっと青ざめるのが分かった。すぐ向こう側から草をかき分ける音がして、数歩進んだだけで足が止まってしまう。

 草木の奥から現れたのは、梶原守だった。すぐ後方には写真部臨時顧問、山野路香の姿もある。梶原は目を丸くし、山野はこちらを認めた瞬間「あら」と声を上げた。

「吉村くんに、日野さん? どうしたのよこんなところで」

「……それはこっちの台詞ですよ」

 そう言うと吉村はそっと咲子を振り返り、これみよがしにしたり顔を見せた。

 梶原が大学の同窓生である山野を連れ、ここH町温泉街に来ることは写真展の日には知らされていた。二人で写真を撮るために来たのだということも。だから吉村はそのタイミングを狙ったのだが、寄りにもよって、こんな場所で出会えるとは思わなかった。

 彼らはこの山へ野鳥を撮りに来たのだという。むろん梶原の案内によるものだ。二人の提げた一眼レフには丈の長いレンズが装着されている。

「それで、君たちはどうしてこんなところに?」

 梶原が純粋な疑問を浮かべる。

「見ての通りデート中ですよ。流行ってますからね、山デート」

 咲子は拳をつくって吉村の背中へ突き刺した。漫画みたいな悲鳴があがった。

「ふうん。人のことは言えないけれど、あまり安易にこういう獣道に入るべきではないと思うな」

 言うと、梶原はあご髭を触りながら山野に視線を送る。

「と、学校の先生の前だから大人ぶったことを言ってみたけど。まあいいんじゃないか? もう夕方になるし、俺たちもそろそろ帰るところだ。君たちもキリのいいとろこで引き上げた方がいい」

「ちょっと、梶原くん」

 山野は諫めるように梶原を見返した。

「いいでしょう山野さん。彼らも高校生だし、もう良い大人ですよ。道に迷って痛い目を見るのもいい経験でしょう」

 中々向こう見ずなことを言う人だなと咲子は思った。だがこれも暗に『早く下山しないと本当に遭難するぞ』と彼なりに諭しているのだろう。

 そういった意図を汲んで梶原たちに着いて帰ろうとする咲子の背中に、またしても「僕たちはもう少しこの自然を楽しんで帰ります」と、吉村のとんでもない言葉が飛び出した。

「ちょっと、勘弁してよ吉村くん。あんた何考えてんの?」

 耳打ちするように言う。吉村も彼らに聞こえないよう、声を潜めた。

「これだけの条件を突きつけられながら、まだ分かんないのかよ咲子さん。これで確信したよ僕は。この先にあの山小屋がある。そりゃもう七十五パーセントくらい確実に」

「確実の使い方間違ってるからそれ」

 吉村は強引に咲子の手を引く。後方から、山野の「本当に、気を付けなさいよ!」という半分怒ったような声が聞こえた。

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