五話
カーテンを数センチ開き、窓際で三脚を立て直す。望遠レンズのズームリングを回転し固定する。
ファインダーの向こう側に『グリーンアイビー』と記された手作りらしき看板が見えた。ゆっくり視点を移動させると、煉瓦づくりのペンションの壁と、無数の猫に餌をやる初老の男性が現れる。
山中の廃屋での出来事から翌々日のこと。
千佳の言う通り、俺は彼女の父、窓辺伸和のペンションを観察していた。ただしホテルからは距離があるため、400から800mmの望遠レンズを望遠鏡代わりに使っていた。700mm相当の画角ともなれば顔の表情まで読みとれる。この旅で使う予定はかったが、職業上の習性だ。
はじめの四日間はホテルに閉じこもり、コーヒーや煙草やルームサービスを糧に観察し続けていた。ペンションは一応営業しているらしかったが、その四日で宿泊客らしき者が居たことはない。他の従業員がいるわけでもないようだ。
当の窓辺伸和本人も髭を伸ばしっぱなしにしており、覇気というものが感じられない。たまに庭に現れては猫に餌をやる程度で、ガーデニングの手入れどころか、鬱蒼と生える雑草すら処理しようとしない。千佳の年齢を考えると彼は四、五十代といったところだが白髪混じりのやつれた顔は老人のそれに近い無気力さがある。娘の秘めた活力と若々しさと反比例し、血の繋がりを疑ってしまう。十数匹はいるかという猫たちも、飼われている、というよりちょうどいい住処を所有している、という風に見える。
観察から五日目、千佳がペンションに現れる。
彼女は一度東京に戻っていた。事務所へしばらくの活動停止を宣言しにいくためだ。ごく小規模の報道とはいえ週刊誌にスキャンダルされた身である。しばらく大学の勉強に集中するという建前も、自粛の意として許可も難なく降りる。客観的にも自然な流れだろう。
俺の方も、極力仕事の依頼には断りを入れるつもりだった。外せない案件の場合はやむなく戻ることもあるだろうが、済ませたらすぐにホテルに戻るつもりでいる。別に千佳から具体的なことを告げられたわけでもない。こんなことをして何の意味があるのか俺にも分からない。信用を失うのも痛いが今はそれどころじゃないような気がした。これから何かが起こるのだという確信と、千佳へ向けた信頼と興味。
断った仕事分以上の報酬をと願いながら、父と対面する千佳の背中を注視する。
そのとき、伸和は猫の毛を手入れしていた。千佳は久しぶりというように手を振る。彼は顔を上げ、一瞬驚いた顔をした。
千佳の家庭環境については何も知らない。だが、娘を見てこんな反応をする親に違和感を持つ。まるで死んだ者が蘇ったかのような、今後一切見るはずのなかった人間にでも向けたような反応だった。
やがて伸和が返したのは、無関心だった。限界まで視界をズームさせる。口髭の下の唇に動きはない。再会の言葉も、ここまでの長旅を労る言葉も、挨拶の一言すらも、何一つなかった。そのまま視線を落とし、癖の強い猫の毛をひたすらブラシで梳く。
振っていた手が地に下がり、幾ばくの沈黙が流れる。その空気はここまで伝わってくる。父の発散する無言の拒絶。やがて千佳が動き出す。彼の横を通り過ぎ、勝手にペンションの中へと入っていく。一分ほどで戻ってきた彼女の手の中で、銀色の何かが太陽光を浴びて光る。鍵か、と俺は察する。千佳が何か言う。伸和は相変わらず猫の世話をしており反応を示さない。娘が離れの客間に入っていくのにも、一瞥もくれようとしなかった。
「お父さんね、離婚したんだ」
ある晩、千佳から電話が掛かってきた。ペンションの離れに居候するようになってから一週間ほどが経ったころ。ベッドに転がりながら俺はそれを聞いていた。
「別居中で、お母さんのこと刺しちゃったの。ちゃちな感じの果物ナイフで、刺した瞬間折れちゃったし、そんなに大した傷でもなかったけどね。でもふつう考えちゃうでしょ。その後の結婚生活。まあ、お母さんに良い人が見つかったのもあったしね」
俺はベッドから身体を起こし、煙草に火を点けてカメラを覗いた。ペンションの離れからは明かりが漏れている。千佳は窓を明け、携帯に耳を当てながらこちらを見ていた。部屋の明かりが逆光になり判然としないが、確かにこっちを見ている。まるでこちらの方位を完全に把握しているみたいに。俺たちはおよそ数百メートルの距離から視線を合致させていた。
「梶原先生。夫婦って、他人だと思う?」
ビール缶に灰を落とした。
「他人だろうな」
「じゃあ親子は?」
覗き窓を見ながらだと吸い辛く、煙草の火をもみ消す。
「親子だって他人になることはあるよ。戸籍はともかく、心の方はね。こういうのって、あり得ないことじゃないんだよ」
ペンションの庭は、日を追うごとに雑草が少なくなっていく。千佳が毎日のように草むしりをやっているからだ。大きな麦わら帽子を被り、申し訳程度に日焼け止めをつけ、細い両手を泥にまみれさせながら。父はそれを見なかったことにするかのように無視し、日なが一日猫と戯れている。その光景は異様だった。
千佳の目的は一向に見えてこない。一見するとペンションに宿泊客を呼び込むため尽力しているようだが、芯の方で何を考えているか掴めない。父との仲直り? 親子の絆を取り戻すため? だとしたら、なぜ彼女はこうして俺に監視を頼むのか。
ずっと部屋に引きこもっているだけでは怪しまれるから、ホテルのオーナーに名刺を渡した。この街が気に入ったのでしばらく居させてもらうと告げる。最初は見慣れない名前に躊躇していたオーナーだったが、数日も経つと得意客のような扱いを施してきた。素性の知れない怪しい男から、関係を持っておいて損はない職業写真家へとランクが上がったようだった。
撮影に出かける振りをして街中を歩き回る。街の住人たちも同様だった。しばらくはカメラを片手にずっと街を徘徊する男に鬱陶しそうな目を向けていた。それがオーナーの入れ知恵か、ある日を境に手のひらを返したように馴れ馴れしくしく声をかけてくるようになった。自分の経営している宿や店をスポンサーにしてもらえないかと内心思っているのかもしれない。
服や雑貨品を揃えたいからと、一度千佳と街を下りたことがある。横浜まで買い物に出かけ、一日を掛けて彼女の買い物に付き合った。
購入した衣服はファッション性を意識したものではなかった。作業用のサロペットやエプロン、農園用フードやアームカバーだったりした。ホームセンターに行き、ペンキや工具などを買い集め、俺の車に積んだ。
「私、こう見えてもお父さんが好きなんだよ」
喫茶店でフルーツパフェのクリームを口にしながら千佳がふと言う。
「お父さんも、私のことが嫌いなわけじゃないんだと思う。お父さんが本当に嫌いなのはお母さんで、だからお父さんにとっての私は、嫌いなお母さんの娘でしかないの。言ってる意味わかる? 嫌いじゃないけど、別に好きでもないってこと。それだけのことなのよ」
そうして意味もなく微笑を浮かべる。
「お父さんね、最近、朝の挨拶だけしてくれるようになったの。おはようって。他はなんにもお話ししてくれないんだけど、おはようだけは言ってくれる。ぼそぼそした小さい声で、おはようって」
この頃から俺は、千佳の意図を理解し始めていた。同時に、この女はつくづく狡猾だとも思う。父に気に入られるためにしてきた努力は、外見は良くもその実、自らの目標の踏み台に過ぎないということ。
彼女と父親がどんな関わりで生きていたのか、その多くは知らされていない。が、そもそも知る必要がないのだ。
背景の詳細を知ったとき、それはときに作品にとっての引き算にしかならない場合がある。求められるのは足し算あるいは掛け算であり、その結果で生み出された余白の余韻だ。要は想像の余地で、これがないと非常に窮屈な印象になってしまう。作品に組み込まれたパーツが明確にされてしまうと、余白が埋めて殺されてしまうことだってある。今の時代、写真を芸術と呼ぶ者はめっきり減ってしまったが、本業までがその意識を失うことはない。
最後に余った桃の欠片を頬張る。
「知らないんだよお父さん。私がモデルをやってたことも、スキャンダルされたことも、何を考えているかも。本当に私に無関心にしてきたから。だから都合がいいのね」
もうすぐそのときが来るのだと思うと、指の震えが止まらない。
もう二か月が経過していた。
携帯に着信が絶えない。制作会社からの催促だ。やんわりとした、かつ有無を言わせぬ文章で断りの文章でメールで返信する。このところ、大事な案件どころか俺はほとんど全ての仕事を避けていた。
三脚とカメラはこの二か月、同じ位置に佇んでいた。カーテンを開き、覗き窓に目をつけると、馴染みとなってしまった風景が映り込む。
千佳が計画したペンションのリフォームは、九割を終えていた。余計な雑草は姿を消し、花壇にはカラフルな花が咲き誇る。煉瓦造りの壁は万人に受け入れられるよう、淡いベージュのペンキに塗り尽くされていた。
千佳が刷毛にペンキを含ませる。伸和は腰をあげ、新しい看板を立て掛けた。それから、額に浮かんだ汗を首にかけたタオルで拭う。その顔には溌剌とした笑みがあり、この二か月で彼が劇的に変貌したことを物語っている。
千佳の顔にペンキがかかると、二人は腹を抱えるようにして笑う。無意識に、俺の口元も笑っていた。何がそんなに可笑しいのか、自分でもよく分からない。きっと、この嘘みたいな風景が面白くて仕方がないのだろう。
看板の色塗りが終わると、伸和は一旦ペンションの中へ入っていった。千佳は腰に手を当て、しばらく看板の具合を眺めていた。それからふと振り返り、軽く斜め上を見上げる。鼻についたオレンジ色のペンキ汚れが、光を反射して眩しく映る。
そのまま視線を固定していた。千佳は、こちらを見ている気がした。彼女はおもむろに携帯電話を取り出す。
次には、俺の携帯が着信音をあげて鳴動していた。びっくりして電話に出る。
「見てる? 先生」
「いいのか、今電話しても」
「大丈夫。お父さん今紅茶を煎れてるから、まだ戻ってこないよ」
薫風が吹き、汗で萎んだ千佳の前髪を揺らしていた。大きな黒い虫が舞っている。それは彼女の肩に着地する。カブトムシだった。千佳は気づかない。田舎の少女のようで微笑ましい。
「先生にお願いがあるの」
「その前に千佳、肩」
言われて彼女は小さな歓声を上げた。カブトムシの角を摘まんでみせ、「すごい」と笑った。屈んで地面に降ろし、ふざけて自分の指と格闘させる。
「このペンション、先生の力で宣伝してほしいんだ。出来るだけ有名な旅行雑誌とか、カタログとか、そういうの。せっかくここまでしたんだもん。いっぱいのお客さんに利用してもらいたいよね」
予想もしていないお願いだった。俺はじっと、人差し指と角がぶつかる様を眺めていた。
「言ったでしょ。私、お父さんのこと結構好きなの。もっと充実した暮らしをしてほしいし、お母さんとのことで損した分、これからは笑って過ごしてほしい。そのためには、『邪魔』なものには消えてもらわなきゃならないでしょ? 今のままじゃただの見せかけだから、このままだとお父さんはまた不幸になると思う」
地面に落ちていたガーデニング用の剪定ばさみを手に取る。カブトムシの身体を持ち上げると、その首に開いた刃を当てがった。六本の細い足がうねうねと、空中を彷徨う。
「私はね、嫌いなお母さんの偶像みたいなの。憎むべき対象の残り香を身体に纏っていて、だからこんな風になっちゃったの。しかも、お父さんは知らないけど、私はお母さん以上に愚かかもしれないんだから」
シャキン、という切断音が受話口から聞こえる。カブトムシの胴体が地面に転がった。
「一石何鳥だろうね。お父さんが幸せになって、嫌いなお母さんの偶像が消えて、それで、二人の作品が完成する」
土の上でひっくり返った胴体は、未だせわしなく足を動かしている。千佳は頭の部分を地面に置いた。切断面を平行にすると、カブトムシはまるで身体だけ地面に埋まっているように見えた。ぴく、ぴく、と角が痙攣する。
「あの週刊誌、まだ持ってる?」
「ああ」
「明日の朝、ポストに入れておいてよ。それで先生の仕事が終わるから」
電話が切れる。千佳は膝を伸ばし、紅茶の乗ったトレイを手にベランダで待つ父のもとへ向かった。