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屍体写真  作者: 小岩井豊
7/13

四話

 ものの見事に晴れ渡った青空の下。カメラバックを背負って車から降りると、俺たちはぬるい息を吐いた。

 そこは小さな温泉街だった。近隣に箱根湯本があり、その影に隠れてあまり知名度は高くない。切り立った山奥に位置し、冬には一部通行止めになることもあり、それでなくとも交通の便は悪い。

 低く古風な木造建築が立ち並んでいる。驚くほど電柱が少ない。ここでの撮影を提案した千佳によれば、地中にいくつもパイプが通っており、そこから生活電気や電話線を通してあるかららしい。空がやけに開けているのも得心する。

「暑いね、先生」

 十月上旬。町は蒸した夏の空気を未だ残していた。

 千佳は隣を歩く。薄手のカーディガンを脱ぎ、キャリーバッグに入れる。あとはアイボリーのマキシワンピース一枚で、ノースリーブの細い肩が太陽光に晒された。

 ファインダーを覗く。土産屋の軒先になぜか風船が括りつけられていた。白地に赤いドット柄の、珍しい色合いの風船。

「千佳。あの風船、取ってみてくれ」

 彼女は言われた通り、頭上へと手を上げた。低い軒先だったが、風船の紐に触れさえしない。

「届かないよ」

 俺は戸口越しに土産屋の婆さんに声をかけた。「台かなにか、ありませんか」。婆さんは人懐っこそうな笑みをして奥からビールケースを抱えてくる。千佳はビールケースを踏み台に、もう一度風船に手を伸ばす。それでも取れない。届きそうで届かない、風船はそういう位置にあった。

 俺はシャッターを切る。間抜けっぽく口を開ける千佳の横顔と、白い手の甲と、おかしな色の風船と、雲一つない青空と。

「やっぱり届かないよ、先生」

 それでいい、と俺は思う。婆さんが曲がった腰を上げて天を仰ぐ。

「ああ、なんだろうねえ、あの風船」

「お婆さんがつけたんじゃないの?」ビールケースに乗ったまま千佳は婆さんを見下ろす。

「あたしは知らないよ。誰がつけてったんだろうね」

 俺は数歩下がって二人の様子を撮影した。



 宿は二部屋取ってある。荷物を置くと、互いに軽装でロビーに集合した。温泉街にはあまりないホテルのような宿泊施設だった。千佳は同じ部屋でも構わないと言ったが、俺はかたくなに首を横に振った。

 詳しい予定は立てていない。どうせ二人きりだからと、無計画にやってきた。それが自然さを生むと考えたし、それに、仕事以外でモデルを連れて撮影をする機会があまりなかったから他の方法が思いつけなかった。

 さきほどの土産屋を横切り、長い坂を上ってとある神社を目指す。無意味に広い砂利敷の敷地と、辺り一帯に林立する圧倒的な高さの樹木。その樹齢を想像するだけで途方もない気分になる。日の光が隠されているためかそこは薄暗かった。平日の昼間だけあって観光客も少ない。

 散歩して回りながら、たびたび千佳にピントを合わせてみるが、その都度思い直してカメラを降ろす、ということを繰り返していた。

 千佳は俺の言うことにはなんでも従った。木に寄りかかって自由にポーズを取らせ、寺の高床に土足で立たせ、お神籤をくわえさせ、手水舎の水溜めに両手を突っ込ませる。もちろん人がいないのを見計らった。もともと参拝客もほとんどおらず、タイミングはいくらでもある。が、俺はいつまで経っても納得いく構図を引き出せない。千佳は都合の良いカラクリ人形みたいに協力的だったが、その分こっちが情けなくなってくる。

「うまくいかない?」

 彼女の言葉に俺は何も言えない。場所を変えよう、と低い声で返すだけだった。



 温泉街の見所といえる地は一日で回り切ってしまった。

 その夜、宿に戻ってすぐカメラとパソコンを接続する。千佳には温泉でも楽しんできてくれと伝えてある。一応作業の時間だけは確保しておきたかった。しかし案の定というか、まともに保存したいと思える写真は数えるほどしかない。要らないデータを次々と削除していく。残ったのはあの土産屋の婆さんや風船と写ったものだけ。

 背中から倒れるようにベッドへ横になる。カメラを持ち上げ、目的もなく設定をいじる。思えばプライベートの写真は少年時代以来、ほとんど撮っていない。ある程度状況の縛られた仕事での撮影と比べると、なんて成果のない一日だろうと思った。

 千佳なら、という当初の考えも虚しく、ひどい気怠さの中でうなだれていた。この数年で己がしてきたものの全てが、欠片の意味もなかったようにすら思えてくる。

 原因は、仕事部屋で自分の写真を破り捨てたときにはっきりしている。この通り俺が俺らしくなれなかったのは、今ある状況とか、受けてきた評価とか、与えられる要求とか、凝り固まった環境とか、そんな対外的なものじゃない。

 最後はいつだって自分、自分、自分……、俺はいま、なにをどうしたい? この飢えた舌をどう満たせばいい。この目はなにを求めている? 自分の為に出来る最善とは。

 俺は写真のことなら何だって分かる。一番良い構図も、光の捉え方も、レンズの選定も、現場ごとに最適な機材も、クライアントとの円滑な交渉も、営業先での喜ばれ方も、何もかもを理解し、それを有効に活用してきた。

 可笑しくなる。

 なんだって分かっているつもりでいて、俺は俺が分からない。他人が求めるものは分かるのに、俺は俺の求めるものが分からない。

 カメラを枕へと放り投げ、手で顔を覆って目を閉じる。心地の悪い疲労感。なのに瞼は降りていく。柔い泥の中で、薄汚れた景色が巡った。



 三十分ほど眠っていた。そばに人の気配がして、はっと上半身を上げる。

 前方の椅子に千佳がいた。温泉上がりらしく浴衣姿で、紺の羽織を着ている。長い髪を頭頂あたりで嘴クリップで纏めており、ほのかにヘアエッセンスが香る。目はパソコンに向いている。消そうとして忘れていた一枚。街中の古ぼけたアーチ橋梁で、黄昏れるように川面を眺める千佳を体よく画角に収めている。なんて在り来たりで、つまらない写真。

 ベッドから跳ね起き、やや乱暴にマウスを奪い取り画像を消去した。千佳がぼうっと俺を見上げる。

「良い写真だと思ったけど」

「素人だって撮れるさ」

 俺は吐き捨てるように言う。煙草をくわえ、窓を開けて夜空に煙を吐く。

「明日も撮りに出かけるんでしょ?」

 二口目の煙を吸い込む。時間をかけて吐き出す。もちろんだ、と即答できない自分が腹立たしい。

「うまくいかないなら、一日くらい休もうよ。私、先生と普通に温泉街を楽しみたい。先生とお泊まりするの、何気に楽しみにしてたんだけど」

 そして、こんなことを言い出す千佳にも苛々する。酷い言葉がいくつも浮かんだが、それは八つ当たり以外の何でもないと一度取り消し、それでも抑えられないようで、俺は重く口を開く。

「何が言いたいんだよ。まさか、俺に惚れてるわけじゃないだろ」

 それで精一杯だ。「それが千佳が今まで上にあがってこれたやり方なのか」、という言葉は奥に引っ込む。だけど、これで千佳が何か言い返してきて、些少でも怒りを露わにするのならば、そのときはもうこの旅も終わりだ。そういう覚悟の上での台詞だった。

「そういう言葉、あまり好きじゃない」

 声質はあまりに無機質で、感情が読めない。振り返る。千佳は椅子を立ち、じっと俺を見据えている。

 怒っているように見えた。しかもそれは予想していた種類の怒りじゃない。ぞっとするほど静かで、説得するような、懇願するような、奥深く底が見えないような。

「そういう言葉で、私と先生のこと、説明してほしくない」

 千佳は枕に放られたカメラを手に取る。三脚やレンズ、ストロボ、部屋に散乱した機材を次々と取り上げ、カメラバッグに仕舞っていく。

「私のことも、自分のことも、なんにも、何ひとつ分かってないくせに、偉そうに語らないで」

 千佳は押しつけるようにバッグを押しつけると、俺の腕を引いて扉へ向かった。



 街の片隅に建てられたペンションを千佳は指さす。それが彼女の父が住む家なのだという。

 目を凝らしても建物の輪郭がうっすらと掴める程度だった。周囲でたむろする無数の猫たちの目が闇に光る。きっと昼間なら和めるところだが、夜に遭遇すると不気味でしかない。

「私だけが知ってる秘密基地があるの」

 ペンションの脇から、獣道じみた山道が伸びている。懐中電灯で照らしても、案内がなければ道だと認識できないほど草が伸びきっている。千佳の先導を頼りに、俺たちは山道に入っていく。

 道とは思えない道をひた進む。浴衣姿にスニーカーなのに、慣れているのか、千佳はすいすいと進んでいく。

 歩きながら、彼女は喋り続けた。誰に抱かれて仕事を貰い、どう抱かれて満足させて、どんな風に遊ばれ気に入られ、どんなに穢れた手段で自分を守ってきたのかを。俺は一切口を挟まなかったし、そのことについて何の感情も沸いてこない。

「先生は思ったことない? 美しいもの、綺麗なものを、めちゃくちゃにしてやりたいって。私はそういう存在でありたい。そんな風に『壊してやりたい』って思われるような存在を目指してる。私を抱いた人は漏れなくサディストだったけど、それが当たり前で、当然なことだと思う。だってそれを目指して努力してきたんだから。先生は、違うの? 先生もそういう風に見えたよ。あの名刺の犬を見返して、この人も何かを壊したかったんだろうなって思ったから、あなたに近づいた。なのに、これってどういうこと?」

 声色が変わったのはその辺りからだった。

「先生だけが、唯一思い通りにならない。誰よりも才能のある人が振り向いてくれない。本当の意味で認めてくれない。私がどれだけ悔しい思いをしたか、分からないでしょ」

 泣いているような、自嘲しているような、どうにでも訊こえる。

「綺麗なものが綺麗に扱われるなんて、そんなの嘘。偽物。先生だけじゃない。私がこの程度で終わるのは、皆が嘘を吐いているか、それとも、私がそれだけの人間だったってこと」

 ルサンチマンの抑圧、という言葉を聞いたことがある。つい最近、写真集『fast』を制作するとき、打ち合わせをしていたコピーライターから教えてもらった。

 道徳的に「良い」とされるものは、不思議と人の「生」あるいは「快」の部分を抑圧してしまうそうだ。「良い」ものは誰もが望むもので、それを望む者が殺到すると必然、「順番待ち」という現象が起こる。

 各々が我慢して順番を待ち、諦めざるを得ない者が順番を譲る。生まれるのはフラストレーションであり、それが「不快」を引き起こす。果ては心理の底で「生」すら阻害された気分になり、不和は争いを呼ぶ。競い、奪い合う。元凶は奇しくも「良い」とされるものだった。悪感情はやがて「良い」ものへと向かう。独占的な破壊衝動が生まれてしまうのもあり得ないことではない。

「崖に立っているのは先生じゃない。いつまで経っても先生に認めてもらえない、私なの」

 千佳が立ち止まる。

 到着したのは倒壊寸前の廃屋だった。木々の迷路に隠されるようにそれは静謐と佇んでいる。大昔に使われていたような山小屋で、もはや人が足を踏み入れた形跡は見られない。童話的で、建物自体が非現実的な雰囲気を放っていた。

 足を踏み入れる。扉はなく、三和土のあったであろう箇所は苔に覆われてわずかに窪んでいる。狭い一室には、朽ちた木枠だけのベッド、雨風に晒され変色したテーブルと、底面から綿の飛び出た椅子が一脚あるだけ。

 千佳は椅子に腰掛ける。天井に空いた穴から月明かりが差し込み、スポットライトのようにそこを照らしていた。

 おもむろに腰に手をかけ、千佳は帯を解いた。衣擦れの音がこちらまで届く。帯が床へ落ち、留めていたものがなくなる。順を追うように靴を退け、羽織と浴衣を脱いでいく。下着はもとから着けていない。ひどく鈍い動作だったが、俺には声を掛ける暇すら与えられない。月光が白い体躯に反射し、まるで薄く発光でもしているように見えた。

「お願い。こっちにきて、梶原先生」

 止めていた息を、少しずつ吐き出す。苔を踏みしめ、柔らかい木板の床に足を乗せる。三歩も歩くと、千佳がもう目の前だった。

「撮っても、抱いても、なんなら殴ってみたっていい。先生がしたいと思うようにしてほしい。なにもしたくないって言うのなら、それでもかまわない」

 ストラップをたすき掛けのようにしてカメラを脇にやる。腰を屈めると眼前に、あまり大きいとは言えない胸と、青白いくびれの稜線があった。右手を伸ばす。一つ一つ点検するようにその身体に触れた。

 聞こえるのは――木々のさざめき、踏みしめる床の軋み、それから、肌と指先が接触するわずかな擦過音。軽く擦った部分が熱を帯び、脳髄が焼けるような錯覚を誘発する。


 これに、何人の男の手が触れた?


 なんの美意識も持ち合わせないあいつらに。

 至高とされる工芸品の器にファミリーレストランのドリンクを何種も混ぜて遊ぶような、冒涜、暴挙だった。

 ふと、その身体にある傷を見つけた。右わき腹の下、骨盤のすぐ上付近。刃物か何かで刺されたような跡。針で縫ったばかりのようだ。まだ完全に塞がっていない。どうして気付かなかったのかというほど、はっきりとした傷だ。

 そのとき、腹の底に黒く重たい異物が落ちていった。ゆっくりと胃に沈み、消化できない塊として駐在する。脳髄に着いた火が立ち上り、頭の芯がかっとなる。

 傷跡に沿って、強く爪を立てた。千佳が小さく呻く。力を込め、人差し指が震えるほど押しつける。

 やがて、ジュッ、という音とともに、爪先と人差し指が二センチほど体内に埋没した。そっと引き抜くと、開いた傷から、赤い血が小規模な泉のように溢れ出る。

 俺は視線を這うように上げる。荒く息をする千佳と目が合った。

「君は――」かさついた唇から出た声はひどく枯れていた。「殺されたいのか?」

 彼女は口角を吊り上げアルカイックに笑う。ほら、やっぱり分かってないじゃん、と言われているようだった。

「俺なら君を、って先生言ってくれたでしょ。その言葉、そっくりそのままお返ししたい。『私なら先生の』最高の作品になってあげられる」

 千佳の頬を伝った汗が、薄く開いた俺の咥内に入り込み、わずかに舌を潤す。

「作ろうよ、二人の最高傑作」

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