断章・一
ギャラリーの一角、咲子は記録用のデジカメを掲げた。
本来は撮影禁止だが、顧問の山野による手回しで特別に許可されている。今年の文化祭には写真部と文芸部共同の文集を発表するつもりだ。堤と打ち合わせしながら次々と写真を記録していく。
今頃、吉村は山野とともに梶原のインタビューをしているだろう。自分も行きたかったがジャンケンで負けてしまった。だが吉村も教師の前では大人しい優等生でいるはず。そんなことより、取ったメモの字がせめて解読可能であればと思う。彼はおそろしく字が汚い。
ふいにデジカメを下げる。複写したのは檻の中で不敵に笑むマウンテンゴリラ。
その表情は人間に近いものがあり、じっと見つめているとまるで睨み合いでもしている気分になる。
「梶原守の作品だな」
隣から堤が言う。眼鏡のブリッジを指で直し、評論家みたいに腕組みをする。
「動物は表情での意志疎通をしないと言うが、これを見るととてもそうは思えない。しかもあえて鉄柵の影を残すことでメッセージ性を強めているな。捕らえながらもなお挑発的に笑ってみせる。まるで、俺は人類に屈服したつもりはない、と暗に訴えているようだ」
咲子は低くうなる。
「あたしにはこのゴリラ、無理に笑わされてるように見えるけどね」
そう正面から切り落とすと、過剰なほど冷たい目で「感性が死んでいるんだ日野は」とカウンターを飛ばされる。堤はそのまま壁沿いに進んでいった。その背中を見送り、マウンテンゴリラに目を戻す。デジカメを持つ手を腰に当て、咲子はその淀んだ黒い瞳に見入った。
◆◆◆
その日、咲子は早朝から呼び出され、吉村のマンションを訪れていた。
ゴミ袋の放置された相変わらずな玄関を通り、リビングへ入る。吉村はソファの上に浅く腰掛け、ローテーブルに並べられた何枚もの写真を眺めていた。
『偶然』拾ったという二本の35mmフィルム。部室で現像したものだ。
対面するソファに座る。写真はテーブルの真ん中で左右に分けられている。右手側に三十六枚、左手側に二十枚程度。それぞれフィルムごとに分けたのだろう。どちらも三十六枚撮りだから、一方は中途半端に使い捨てられたらしいと分かる。
「何か気付かないかい、咲子さん」
そう問われ、ひとつずつ検分するように視線を巡らせる。
場所はどこかの廃れた山小屋のようで、写真はいずれも若い女性のものだった。もっと言えば、当時名を広めつつあった例のファッションモデルの刺殺体。
三十六枚の方は、初めの数枚はアングルこそ違えど床に横たえられたものばかりだった。おそらくそれが殺されて間もない状態だろう。
やがて死体には様々な『作り』が施されていく。撮影者が彼女を死者としてではなく、一個のモデルとして見ている節がうかがえる。死体にあるべき自然さがない。壁に背を預けていたり、椅子に座らされていたり、服を着替えさせられていたり、あるいは裸であったり――そこで咲子は眉を顰める。
裸の状態だとなおさらだ。上唇から頬にかけて縦走するように開いた傷口。そこから覗く、死後とは思えないほど綺麗な奥歯と歯茎。胸や腹に刻まれた無数の切傷、刺し傷。わき腹からは腸ががこぼれ、当然というように太く新鮮な管を膝頭に伸ばしている。
殺害者の動機に怨恨が混じっていたのは疑いようもない。執念すら覚えるような執拗な殺し方だ。
「こっちの三十六枚は、殺され方こそ酷いけど、まだまともな状態といえる」
吉村はわりと異常な台詞を平然と口ずさむ。
だがその気持ちは分からなくもなかった。対する二十枚は、裸のままではあったが、どれを見ても撮影者が一周回ってリアルな死を捉えようとした結果が見られる。
さきほどと比べ随分腐敗が進んでいるらしく、血管に沿う形で濃い紫色に皮膚が変色している。臓器や開いた瞳に瑞々しさはない。右手の指二本は皮から腐り落ち、本体から離脱している。なにより、抜け落ちた奥歯から這い出る幾匹もの虫に、すでに蚕食が始まっているのが嫌でも知らされる。
ある一枚では、歯茎と呼べるものすらなく、全身の皮膚が骨に貼りついてしまっていた。虫も餌場を後にしていくように数を減らしている。ほとんど白骨化しようというところ。
と、ここで吉村の言う不信感に思い当たる。
「分かるか咲子さん。これは歴史だ。二つ目のフィルムでは分かりやすいほどに腐敗の経緯が表現されている。意図的であるにしろ、そうでないにしろ」
咲子は口元に手を当て、口ごもるように呟く。
「つまりこれを撮ったやつは、継続的に、ある程度長期的に死体のもとに訪れ、写真を撮り続けていた……」
吉村は深くうなずく。無造作に写真を拾い集めながら、唇を歪ませる。
「昔から不思議だったんだ。なぜ人は、写ったもの以上の意味を写真に求めるのか。ありのままの風景や物や人に感動しながら、それらの価値を見い出しながら、それだけじゃ飽き足らず、無意識に撮影者の意志まで読み取ろうとする」
集めた写真の束をめくりながら、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「考えてみれば当然のことだった。何の意志も介在しない写真なんて存在しない。目的があって、目標があって、撮りたいと思うからそれらは生まれる。そこに感情があるほど、僕らは写真を通して撮影者の目と同化することができるんだ」
吉村はカーテンを開く。朝日が斜めから入り込み、薄暗いリビングをほのかに照らす。
咲子は鞄から二つ折りのカードを取り出した。午後から行く予定の、写真展の招待状だった。写真部の顧問宛と、代表部員の咲子に一枚ずつ送られてきた。
開くと、デザインロゴで飾られたイベント名と、簡潔な案内文。それから、隅にプリントされた犬の画。
それは左目に深い傷の入った犬だった。神楽坂を思わせる情緒ある狭小な坂道をバックに、そいつは何の警戒もなくこちらを振り返っている。やや不鮮明で光の具合も飛んでおり、お世辞にも上手い写真とは言えない。
一般的に見れば、何故これを招待状に使ったのだろうと思われてしまいそうだが、顔見知りだけに送る特定の個人用だからだろう。しかし咲子は、何の根拠も理由もなく、その技術不足の犬の写真に惹かれていたのだった。
陽を浴びながら吉村は背伸びをする。
「そういえば山野先生、明日から梶原さんと写真を撮りに出かけるらしいよ」
咲子は招待状から顔を上げる。
「まじ? 山野先生って新婚じゃなかったっけ。大丈夫かな?」
彼女の薬指にはまっていた指輪を思い出す。熟年婚というやつで、たしか去年入籍したばかりだ。
そんなやましいもんじゃないと思うよ、と吉村は手を振る。きっと大学時代の青春に浸りたいだけだろうと。
そんなもんかね、とまだ高校生の咲子にその感覚は掴めない。
「でも、どこに出かけるんだろうね。あたしも連れてってくんないかなあ」
「N市の、H温泉街ってとこみたいだね」
「ふうん」
招待状に目を落とす。しばらく犬を見つめ、はっと視線を戻す。窓際からの陽光で陰を作るその横顔は、彼特有の悦びに満ちていた。
「不信の種は、積極的にぶっこ抜いていかなきゃね」
◆◆◆
このあと三十分ほど時間をもらえた、と耳打ちしてくる吉村の顔は満面の笑みそのものだった。
美術館の入り口前。山野と堤との別れ際、吉村は「じゃ、僕らこれからちょっとお茶して帰るんで」と関係を疑われること請け合いな台詞を吐き、咲子の肩を押して歩き出した。
後ろで堤が鼻で笑ったような気がするが、聞こえないふりをする。どうせまた都合のいい女がどうのと言いたいんだろう。
電車で二駅移動し、歩いて十分もしないうちにとある喫茶店に到着する。オープンテラス付きの一軒家カフェで、看板に『ソレイユ』と記されている。
梶原守は、そのテラス席でアイスティーをすすっていた。こちらに気付くと、早くも見知った風に目配せをくれる。
当たり前かもしれないが、人見知りとは無縁な人なのだろう。咲子は有名人を前にかしこまり、ぎこちない会釈をして椅子に収まる。対して吉村は慣れた口調で「さっきのインタビューに続き、またしてもお時間取らせてすみません」と爽やかに挨拶を済ませる。どうしてこの男は誰の前でも胡散臭く見えてしまうんだろう。
梶原は店内を手のひらで指した。
「吉村くんに、日野さんだったね。いいお店だろう。辺りも閑散としているし、なにより食い物がうまい。なにか食べたいものはあるかな」
吉村はメニューを開く。
「僕は貝柱のパスタと豆乳コーヒーで」おそるべき瞬発力で注文を決めてくる。「咲子さんは? 日替わりパンケーキと苺のスムージー?」
何であたしそんな女の子女の子してんのよ、と突っ込みたかったが緊張して上手く言葉が出てこない。俯いて「じゃあそれで……」と言うのが精一杯だった。
店員を呼びオーダーを済ませると、咲子は盗み見るように梶原を観察した。
整えられたあご髭に、ヨーロピアン風のパーマをかけた長髪を後ろで束ねている。見たところ三十代序盤といったところだが、外交的な者によくある、快活で優しげな顔立ちをしている。くたびれた会社員にはないエネルギーがにじみ出ているのだ。こういうタイプの人間は、いくら歳を取っても若々しいという印象を持たれるだろう。
ふと、梶原もこちらを見ているような気がして、あわてて目を逸らした。
口火を切ったのは吉村だった。
「このお店、ソレイユでしたっけ。たしか鉄道の沿線雑誌の特集に載っていました。特集名はたしか『中原区民推薦、近所の秘密基地』。この企画担当の一人に梶原先生が紹介されていましたね」
梶原は一瞬きょとんとし、声をあげて笑った。
「お見通しだね吉村くん。びっくりするほど調べられているらしい」
「いえいえ、ファンですから」
嘘こけ、と咲子は心の中で毒づく。吉村の部屋には梶原守に関係する雑誌や記事が山と積まれていた。
梶原はテーブル上で両手を組む。
「それで、何か話があるそうだけど」
「ええ、実はこれについてなんですが」
吉村は学生鞄から例のフィルムを二つ出し、テーブルに乗せる。梶原は感嘆したようにそれらを指で摘んだ。
「こりゃまた珍しい品物を持ってきたね。富士フィルムのネオパン、しかもモノクロだ」
そのリアクションと仕草は自然そのものだった。演出している風には見えない。
咲子は肩透かしを食らった気分だが、吉村は表情を変えない。
「しかもこのフィルム、空っぽだね。吉村くんも銀塩一眼やるの?」
「とんでもない。写真なんてスマホでしか撮ったことないですよ」
それでも写真家のファンか、という言葉は無情にも喉もとで引っ込む。
「それ、とある場所で拾ったものなんです。山の尾根を散歩していたら偶然。自分探しの一人旅ってやつで、なんか運命感じちゃって。持ち主の方には悪いとは思ったんですが、思わず持ち帰って現像しちゃったんですよ」
そしたらびっくり、と両手を開いてみせる。恐ろしく下手くそな演技だった。それも計算のうちだろうが、ちょっとやり過ぎに見える。
「とんでもないものが写ってたんです。僕らのような一般人が一生出会うことのないような代物です」
それから吉村は、撮られた写真の法則と連続性について説明する。死体だの人里離れた山小屋だのという言葉は一切使わず、ギリギリで犯罪に絡む内容だと匂わせる程度に。
梶原はこの不親切とも言えるような説明を、意外なことに真剣な顔で聞いていた。吉村が語り終えたあと、彼は起きた事象をかみ砕くように要約した。
「つまり君たちは、この二つのフィルムの間にもう一つ、あるいは複数のフィルムが存在すると考えたんだね。持ち主が足繁く現場に通っていたと仮定するなら、二つのフィルムの間には空いた時間が大き過ぎる。さらに、そのフィルムの持ち主が何らかの心変わりで警察へ写真を送り、ある事件を解決に導いたのではないかと、そう推理しているわけだ」
「その通りです」
梶原は背面に深く身を預け、あご髭を撫でて思案する。
「一度、そのきな臭い写真とやらを見せてほしいね。俺も専門家のはしくれだ。もしかすると確信に値するヒントを見つけ出せるかもしれない。警察に写真を提出するのはそれからでも遅くないだろう」
「僕も今そう思ったところなのですが、残念ながら今は持ち合わせていなくて。先生に相談してみようと思いついたのも今日お会いしてみてからだったものですから」
「そうか、悔しいね。不謹慎かもしれないけど、ちょっとミステリーっぽくてわくわくしていたのに」
料理とドリンクが運ばれてくる。「いただきます」と頭を下げると、梶原は小さく手で促す。もはや事件の虜のようだ。咲子は黙々とパンケーキを頬張る。
吉村は弄ぶようにフォークにパスタを巻いた。
「そこから、もう一つ推理を頭の中で進めているんですけど、これが中々うまくまとまらなくて。聞いてもらえますか?」
「へえ、どんなのかな。是非聞かせてくれ」
梶原は前のめりになる。好奇心旺盛な性分らしい。少年のように目を輝かせている。
「事件から一年以上が経った今、この撮影者が警察に写真を送った理由が分からないんです。というのも、彼にとってのメリットがない気がするんです」
「ちょっと待って。彼、というのは、撮影者が男性だという根拠でもあるのかな」
思ったより興味を持ってくれていることに吉村自身驚いているようだ。失礼にならない程度に苦笑う。
「明らかに重さのある被写体が、幾度となく動かされて撮影されていたから、でしょうか。対象は……そうですね、例えば成人女性。女性とはいえ仮にも大人の身体、これを抱き上げて椅子に座らせたり、ベッドに寝かせたり、部屋中移動させてみたり。こんなことが出来るのは大の男くらいだと考えるのが自然でしょう。これはあくまで、単独で撮影していたという前提のもとでですが」
なるほど、と梶原は斜め上を見上げて納得する。
「話は戻って撮影者のメリットについて。最も考えられるのは撮影者と主犯の共犯説です。初めのうち二人は結託して犯行の証拠を隠し、無論撮影者の方も写真を――これもなんの理由で撮ったかは定かじゃないですが――隠し続けた。だがあるとき二人の間に亀裂が走り、腹いせで撮影者は証拠写真を無記名で送りつけ、主犯を刑務所に叩き込んでやった」
「ふうん、たしかに順当な推論だろうね」
しかし、と吉村はいささか語調を強める。
「それこそ撮影者にはデメリットしかないんですよ。罪が発覚した途端、ネズミ講式に共犯者の存在まで暴露してしまうのが犯罪者の常というものです。いくら差出人を隠したっていずれバレてしまうかもしれない。直接犯罪に参加していなくたって問える罪状はいくらだってある。写真なんか撮って放置していたなら尚更です」
「撮影者がほかに悪いことをしていてもいなくても、少なくとも、通報の義務には反しているね」
気まずさを隠すように咲子はパンケーキの最後の一口を口にする。
自分を置いて推理合戦がどんどんヒートアップしていくのがいたたまれなかった。のけ者感がぴりぴりと肌を触り、パンケーキを味わうどころじゃない。横を見ると、吉村はとっくにパスタをたいらげていた。いつの間に、とちょっと驚愕。
「あと、これは想像の中の妄想に過ぎないのですが」
吉村は咳払いを一つする。
「この写真を撮った者には、一定以上の美的感覚があると思うんです」
「美的感覚」
「そうです。芸術的センスといってもいい」
梶原の瞳は揺るぎないほど語り手を捉えている。さっき、優しげな顔つきだと表現したが、クリエイターの真剣な目とはこうも鋭いものかと、咲子は軽い身震いを覚える。
「彼はたぶん、恰好の被写体を得られたと、胸を躍らせていたはずです。だから危険を犯してまで、犯罪現場という誰もが忌避するような場に何度も足を運んだ。夢中でなりふり構わず、しかも最高の作品を撮っているという確信と愉悦のもとに、身の危険すら忘れてしまうほど。僕には撮影者の正体や思考なんて一切読めませんが、これだけは言える。彼は、心のそこから撮ることを楽しんでいた」
半ば詰め寄るような物言いに、空気が変わっていた。
「ねえ梶原先生、どうして僕がこんな妄想を自信を持って並べ立てられるのか、分かりますか」
梶原は無言で吉村を見つめ返す。その口元は、組んだ手によって隠されている。
「上手く撮れ過ぎているからですよ。構図だの露出だの、そんな細かい技術なんて僕みたいな素人には分かりっこない。ですが、彼が写真を撮ったときの気持ちなら読みとれる。嫌でも伝わってくるんだ。素人にそこまで感情移入させてしまえるのは、それこそプロか、それに限りなく近い技術を持つ人物の手によるからでしょう」
僕にはそうとしか思えません。言い切り、吉村はカップを傾けた。
春のおだやかな風が一帯を扇ぐ。風音がうるさいくらい、痛いほどの沈黙が流れていた。咲子は結局まともに発言出来ず、絶えず二人の顔を見比べるばかりである。
やがて聞こえてきたのは、梶原の押し殺したような笑いだった。
「聡明な君にそこまで言わせるその人物に、ちょっと会ってみたくなったよ」
組んだ指先をほどくと、そこには元の柔和な笑みがあった。
「『嘘吐き』な俺の作品じゃ、到底及ばないんだろうね」
それから彼は椅子を立ち、伝票を取る。今度は写真持ってきてくれよ。言い残し、梶原はレジへと向かっていった。
咲子は隣を見やる。吉村は額に手を当て、気が抜けたように顔をほころばせていた。
「もっといきたかったけど、うまく逃げられちゃったね。こいつは強敵だぜ咲子さん」
「みたいね」
久しぶりに発した声は、裏返っていた。