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屍体写真  作者: 小岩井豊
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三話

 窓辺千佳はよく喋った。

 俺の作品についての感想を申し訳程度に述べたかと思えば、あとはずっと自分の身の周りのことについて、とにかく喋り続けた。

 あまりに長いので、なんのために重い腰をあげて会うことにしたんだろうと戸惑う。二十代後半も終わりを迎えようとしている俺には、女子高生の日常的な会話はすこし辛いものがあった。我慢して付き合ってあげているうちに、本来の目的も忘れかけてくる。

「そういえば、何度か声をかけられて読者モデルみたいなこともしてたんですけど」

 そうした矢先、千佳が見せてきたのは数冊の若年層向けファッション誌だった。自分が登場しているページを一冊ずつ開いて寄越してくる。なるほど学生に受けそうなジャンクな画だなと、俺は最近生やし始めたあご髭を触る。雑誌に写った千佳と、目の前の千佳とを比べる。実物の方が良く見えるというのはいかがなものか。

 千佳はお世辞なしに綺麗な少女だった。

 黒のセミロングに軽い弓状に揃えられた前髪。ファッションにも気を使っているらしく、目上の人間に嫌みを感じさせない程度のお洒落をしている。モデル界という物差しで測れば、容姿は中の中、あるいは中の上といったところだろう。

 しかし俺自身、あまり女性モデル相手の仕事が多くなかったためか、あまり正確な判断を下せそうになかった。それなりに見る目はあったのかもしれないが、所詮向こうは素人なのだと思い直す。

 大人びた雰囲気なので大学生くらいかと思ったが、まだ高校三年生なのだという。垢抜けてはいるものの、よくよく窺えば顔のつくりはあどけなさの方が強く、少女だという印象を持ったのにも納得がいく。

 千佳は困ったように眉をひそめる。

「やってみたはいいものの、なんだか肌に合わなくて。最初から梶原先生についていけばよかったんですけど、あのとき私、高一だったし、そういうのまだ恐かったから」

 しかも中々本当のことを言わないときている。顔といい服といい口調といい、なにもかもが計算され尽くされた感じがする。子供のわりには堂に入っているようだ。ならば、こちらももっと強気に対応していいだろう。

「それで、昨日電話でどうのって言ってたね。千佳ちゃんの犬だったかな。なにか、俺が君の犬をさらったみたいに聞こえたんだけど」

 千佳は口元だけで笑ってみせた。

「そんなこと、ひとことも言ってないですよ。あの頃と同時期にあの子が……レオっていうんですけど、とつぜん居なくなっちゃったもんだから。もしかしたら先生なら何か知ってるんじゃないかと」

「それなら千佳ちゃんも不思議な聞き方をするね。『どこへいった』じゃなくて『生きてるか』だなんて。愛犬の安否を心配するには選ぶ言葉がちょっと不謹慎だな。ねえ、君はあのとき、いったい何が言いたかったんだ?」

 千佳は笑みを保ったままで、俺の目を見据えて黙っていた。視線すら外そうとしない、ある意味不遜な態度だった。異常な光景とも言える。十歳近くも離れた、仮にも先生と呼ぶ相手の詰め寄るような問いに、微笑むだけで返事をしないのだ。

「それより先生、私の読モ写真、どうですか?」

 あまつさえ、平然と話を逸らそうとする。これほど肝の据わった子もそういないな、と逆に感心していた。

「安い写りだな。君の容姿にはもったいないくらい」

 そして俺は、諦めたように背中を背もたれに預けていた。

「俺ならもっと君を良く撮ってあげられる」

 嘯くのはもう慣れたし、必要であることも理解している。これくらい言わないと人は動かないということも。

 千佳は驚いたように目をしばたいた。「へえ」と、ゆっくりと唇が蠢く。

「なんか、告白されるよりうれしいかも」

 その言葉は空中に浮かんだ直後すぐに消えた。繕った台詞の裏に、まるで試すのは俺ではなく、私であると語りかけてきたように錯覚した。彼女の目的が何なのかは一向に知れない。だけどもうそんなことは関係ない。俺が千佳に強く惹かれてしまっていることは払拭できない事実のようだ。



 モデル風情が、などと内心で彼女らを軽視する写真家はいつか地に落ちるのだなと、俺は嫌でも実感させられていた。

 一時間ほどスタジオを借り、ファインダーを覗いて千佳に狙いを定めたとき、しばらく、シャッターに添えた指の震えを抑えられなかった。この子は売れる、と直感する。遅かれ早かれ、彼女はいつか大勢の視線を浴びることになるのだろうと。

 それから三日ほどかけ、二人で様々なスポットを歩き回った。千佳をモデルとして売り出すにしろ、個人の自主制作に使うにしろ、今この可能性を逃すのは馬鹿だ。事実、感動は止むどころか余計に膨らんでいく。

 千佳の前に出すと、どんな場所だって過剰な風景ボケを起こす気がした。いくらか撮り慣れてきたかと思いきや、彼女はまた新たな顔をしてみせる。人間に作れる表情の種類がどれだけあるかなんて俺には検討もつかないが、仮にそのパターンが百だとしても、ロケーションが変わればその百という数字はさらに枝分かれし色合いを濃厚にする。

 いくら撮っても撮りきれない。

 窓辺千佳とはそういう人間で、俺はカメラの楽しさを初めて理解した気がしていた。比喩でもなんでもなく、生まれて初めてだ。

 三日間の撮影を終え、千佳と別れたあと、俺は帰りの電車で居眠りをしてしまった。緊張が解け、今まで感じなかったはずの疲れが一気に襲ってきたらしい。ただ強く覚えているのは、撮影データの入った一眼レフを絶対誰にも盗まれまいと、強く胸に抱いて眠ったあの感触だった。



 あれから一年半をかけ、千佳は大きな躍進を果たした。スケジュールは絶えず埋まっていき、新しい大学生活との両立に頭を悩ませるほどだった。それが予定調和という風に動じない千佳だったが、流石に有名情報誌の表紙を飾ったときなどは電話越しに黄色い声をあげて喜んでいた。

 またモデルはもちろんのこと、俺の方も救われていた。写真に興味のない大方の一般人までもが一介の写真家の名前に聞き覚えがあると答えてくれるのは、言葉にできない達成感がある。

 隔月のカメラ雑誌で初の単独インタビューのコラムを設けてもらったとき、『一期一会にしたくないと思った被写体はあるか』という質問に、迷わず窓辺千佳の名を挙げていた。それだけ俺が千佳に寄せていた信頼は確かなものになっていた。

 その頃からか、俺ははっきりと認知するようになる。千佳にはある大きな欠点があったのだと。



 千佳がいくつもの営業先に身体を売っているらしいと、初めは噂程度にしか聞かなかった。モデルを叩く当てつけとしてはありふれているし、そのときはあまり気に止めなかった。

 やがてネット上で、企業の重役とホテルに入っていく彼女を見た、という話に火がつくと、ネタに困ったマイナーな週刊誌がスキャンダルまがいに食いつくようになる。言ってもまだまだ発展途上の身、千佳にとっては大きな失態だっただろう。

 俺は職場のデスクで、そのマイナーな週刊誌を広げていた。煙草を吸いながら、何度もその記事を読み返す。

 よほど思い詰めた顔をしていたらしい。半ば専属となったレタッチャーの女の子から「仕方ないですよ。芸能人としては下に見られがちな彼女たちです。必死になるのも当然だし、それこそよくある話でしょう」と言われてしまう。

 もちろん、俺だって常に千佳と仕事をするわけじゃない。それぞれ別の案件で忙しく、年々顔を合わせる機会すら減ってきた。もう千佳も二十歳で、一端の大人として扱っているつもりだ。今さら彼女が何をどうやらかそうが、もう関係ない。

 そのつもりだが、と煙草のフィルターでこめかみをつつく。

 何かを忘れている気がしてならない。

 俺が手掛けた広告、作品、写真たち。

 自分たちのやっていることが、今ある成功を良いことに間違った方向に進んでしまっているような。核心であるようにも、考え過ぎであるようにも。この不信感の正体が何なのか、今になって頭を悩ませる。

 ふいに脳裏をつくのは中学時代の思い出だった。

 衝動に駆られ無許可に墓を撮り、近所の住職に叱られた。どうしても諦められなくて三脚まで用意し、人知れず近所にある墓という墓を撮り続けた。その行為だって大分譲歩したものだ。他にも、駄目と言われるもなら何だって撮ってみたかった。

 千佳に初めてカメラを向けた瞬間、考えてみればあれは非常に近い感覚がした。両者のどこに共通点があるのかは定かではないが、強いて言えばおそらく。

 いくら撮っても撮りきれない。撮り続けなければ一瞬で干からびてしまうような圧倒的な渇き。俺自身が抱える絶対的な渇望。

 写真に撮るということは結局、被写体を所有し、この手に獲得したいという欲に他ならない。そんなものを十数年と内に秘めながら、どうやら俺は『権利』を手にするというたった一つの目標のためだけにそれらを手放そうとしている。

 さあどうだ。『権利』ならとっくに手にしているだろう。デスクチェアを立ち、仕事場の壁一面に貼られた写真たちに問う。俺はこの仕事で何を得た。その報酬は?

 そのとき、デスクの上で携帯が震えた。画面も見ずに電話に出る。

 予想通りというか、千佳からだった。

「梶原先生、週刊S読んだ?」

「ああ見たよ。下品な雑誌だ。でも、事実なんだろう」

 携帯を耳に、壁際の写真ひとつひとつに触れていく。

「今まで黙っててごめんなさい。もう言っちゃうけど、私、あれ一回だけじゃないからね。事務所の上司も、クライアントのお偉いさんも、広告会社の社長さんも、営業相手の下っ端さんだって、数えるのも面倒なくらい。でも誓って言うけど、別に私そういうのが好きなわけじゃないの。すべては、自分の目標のためだもの」

 子供の笑顔。おかしな顔をした子猫。明るいテラス。朝日を浴びる岳の森林限界。澄んだ湖畔の風景。商店街に未だ息づく活気。公園で体操をする老夫婦。

 写真に触れていくうちに、奥歯に込めた力が強くなっていく。

「でも、もしこのことで先生を傷つけたなら、謝りたいと思って。スキャンダルされて初めて分かった。本当の意味で私の才能を買ってくれたのって、梶原先生だけだったんだなって。なのに、あなたの写真まで汚してしまったような気がして」

「いや」俺は首を振る。「謝らなくていい」

 親指と人差し指で写真の端を摘み、ピンごと引き千切る。「そもそもが間違っていた」

 次々と手を掛け、一枚ずつ確認し、気に入らないものを破いて捨てる。あまりの量に吐き気がしてくる。「俺の撮るものはどれも偽物で」。どれだけ破ってもそいつは現れた。「偽善で」。笑顔。幸福。喜ぶ顔と、綺麗な景色と。「ただの一枚でも」。どれだけあるのだろう。「本物が撮れたか」。媚びへつらい、上辺だけの画を収め、望んでもいない評価に甘んじる。「どうしようもないくらい」どこを見たって。「はじめっから汚れている」。嘘吐きな俺だ。

「先生!」

 いつの間にか、レタッチャーの女の子に背中から抱きすくむようにして止められていた。肩で息をしながら俺は茫然と壁を見上げる。

「ねえ先生」

 携帯越しに千佳の声がした。

「もう一度あのときの言葉、言ってほしい」

 唾を飲み込む。ちっとも潤った気がしなくて、舌が上手く回らない。喉の奥が貼りついてしまったみたいだ。俺はもう殺人的に渇いている。

「俺なら君を、一番良く撮ってあげられる」



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