二話
俺は自分を騙しながら『権利』を手にしようとしていた。そのせいなのか、始めは何もかもが上手くいかなかった。
二十四の歳。最も伸び悩んでいた時期だ。大学を卒業しビジュアルコンテンツ系の制作会社に就職しながら、俺はプロを目指し個人的な写真撮影を続けていた。その会社は踏み台程度にしか考えていなかったし、フォトグラフに関する知識や技術さえ盗めればあとは用済みのはずだった。
実際その通りに、地道ではありながら技量を重ねいったのだが、肝心なところ、感性の方が一向に追いついてこない。そもそもどういう作品が世間に受け入れられるのか、考えれば考えるほど分からない。かといって、完全に自分を捨て去ることが出来ないのもまた事実だった。
作家らしい圧倒的な個性を持ちながら、かつ要望には柔軟に応えること。
それが一貫したモットーであり、この『バランス感覚』については未だにつまづく問題でもある。
そのとき俺には金がなかった。悩みの種はそこにもある。今になれば栓ない悩みだったと笑い飛ばせるが、会社の良質な機材に触れていくにつれて、いつの間にか『良い作品=撮影機材×技術』という錯覚に陥っていた。
自信さえなくしつつあったが、無理を押して自作のフォトブックと手作りの名刺だけは常に持ち歩くようにしていた。
ところが、名刺の方は営業などで渡す以前に、会社の先輩から酷評を受けてしまった。それは自分のお気に入りの写真を随所にプリントした二つ折りタイプの名刺で、自腹を切って印刷会社に発注をかけたものだ。
会社の人間に見せる義理はなかったが、何かの拍子に見られてしまったのである。
「趣味の悪い写真を使うなよ。気味悪がられるだけだ」
愛想笑いをこぼしながら、内心その言葉にひどく憤慨したものである。
上手いでも、下手でもなく、趣味が悪い?
これほど他人の個性を潰す言葉があっただろうか。俺は意地になって、彼に反抗するようにその名刺を使おうと心に決めた。すでに大量に刷ってもらっていたし、そもそも作り直す金がなかったのもあるが、核の部分に、売れない者なりのプライドがあったからだと思う。つまり、意地になっていたのだ。
しかし結局、その名刺を有用することはほとんどなかった。
とあるコンペティションで賞を受賞したことをきっかけに少しずつではあるが仕事が舞い込んでくるようになったのだ。それとともに制作会社も辞めてしまったが、むしろ収入は増えていく一方だった。
人生とは奇妙なもので、落ちたときの反動分、本人の意思や心持ちに反して、上がるときはどこまでも上がっていく。依頼された仕事の難易度に対して己の未熟さ、ひいては例の『バランス感覚』を克服すべく、そこから数年ほど挫折と成功を行き来するのだが、その一連の出来事はさしたる問題ではない。
それなりに名が売れてきたと実感してきた頃、とつぜん、ある一本の電話がかかってきた。
「先生、覚えてますか」
その声は少女のようにも、成人した女性のようにも聞こえた。聞き覚えがなく、ついにイタズラ電話がかかってくるほど有名になったのかなと早計な勘違いを起こす。
「名刺の犬、まだ生きてるんでしょうか」
あっ、と声が漏れた。その一言で、会社員時代に作った名刺だと一発で分かった。恥ずかしさで耳が真っ赤になる。
名刺にプリントしたのは、左目を怪我した犬だった。偶然街角で見かけた野良犬で、切り傷が入ったような左瞼を閉じる顔つきが妙に哀愁を誘い、思わずカメラを構えた。犬もそれに気づき、一瞬だけこちらをじっと見つめ返してきたのを思い出す。
それだけならまだ良かったが、全体的に淡く白飛びした写りで、それでもまだその犬を捨てきれなかったのか自らへたくそなレタッチを加えモノクロ調に無理矢理体裁を整えたものだから、何か不気味な印象になっていたのも頷ける。
先輩から虚仮にされたときは心中反発さえしていたが、思い返せば素人同然の青い作品だった。気味が悪いというのは撮影技術その他諸々を含めて言っていたのだと改めて理解し、それが頭を巡って頬を赤くさせた。
「悪いけど、きみは誰だ?」
俺は率直に尋ねた。詰問するような口調だったかもしれない。確かに、街角で適当に声をかけ名刺を配った覚えもある。少数ではあったが、消し去りたい過去だ。
「ひどい。素質があるってあのとき言ってくれたの、先生だよ?」
そんなことまで言っていたのかと、恥で顔を覆いたい気分だった。素質うんぬんなんて、今でさえぱっと見ただけじゃ見抜けやしない。
彼女は窓辺千佳と名乗った。きっとすぐに忘れる名前だと、俺は適当に言い訳をつけて電話を切ろうとした。ところが受話器から耳を離そうとした瞬間、彼女がぽつりと何かを言う。そのまま受話器を置いてしまうところだったが、俺はそのまま動けなくなってしまった。
「なんだって?」
「あれ、実は私の犬なの」
彼女は同じ台詞を繰り返した。
「もう一度訊くね先生。あの犬、まだ生きてるのかな?」
◆◆◆
「このワンちゃん、元気そうね」
はっと我に返る。慌ててサインペンを取り、「すみません」と顔を上げる。
すると、そこには見知った顔があった。
「昔から動物を撮るのが得意だったわよね、梶原先生」
大学時代の先輩で、山野路香という女性だ。当時俺は一年で、彼女は最上級生だったから一年しか被っていないが、写真部ではずいぶんお世話になった。彼女は先月出版したばかりの写真集『素顔』を顔の横に持ち上げ、にっこりとほほ笑む。こちらも意図せず頬が緩む。
「先生だなんて、やめてください山野さん。そちらこそ今は高校の先生をしていらっしゃるんでしょう」
そう、この写真展の招待状を彼女に送ったのは他でもない俺なのだ。せっかくサイン会で出席するならと、一人でも多くのお客さんと交流を持っておきたかった。しかも山野さんは高校写真部の顧問をしているらしく、部の生徒も見学で連れてくるとまで言ってくれた。
「しょせんは臨時講師だけどね」山野さんは照れた風に言うと、列の後ろを指した。「うちの部の生徒もね、今日を楽しみに来てくれたのよ」
首を伸ばして彼女の後ろを見ると、三人の高校生が小さく頭を下げた。
「僕なんかのでよければ」と山野さんの本にサインを書く。次に、眼鏡を掛けた男子生徒が「堤慎吾です」と名乗り握手を求めてくる。
「サインはいいのかい?」
「大事なのは作品ですから。いつも先生の作品には感銘を受けております。畑は違えど自分も文系作家を目指す身。先生の瑞々しい感性、せめて足元に及ぶよう尽力いたします」
なんだか年齢不相応な殊勝な子だな、と俺は思う。「頑張ってください。一度きみの文章を読んでみたいな」と声を掛けると、「機会があれば是非」と、堤くんはやや満足そうに列から外れていった。
次に握手を求めてくるのは、爽やかな笑みが印象的な好青年風の生徒だった。笑うと目が細くなるところが何か小動物的で愛らしさすらある。モテるんだろうな、と思わずいらぬ邪推をする。
「吉村浩介です。以後お見知りおきください」
「きみもサインはいいのかな?」握手を交わしながら負けじと微笑み返す。
「右に同じという感じで、堤くんと同意見です。先生の作品にじかに触れさえすれば、僕も満足ですよ」
俺は鷹揚に頷いて返す。その言葉じりに嘘臭さはなかった。だけど、その細められた瞼の奥の瞳に、何か観察する色が見て取れて、すぐに握手を解いてしまった。なんだろうこの子は、と違和感を感じる。
確かに彼、吉村くんは俺の作品に興味を持っていそうだったが……と逆説詞の拭えないひっかかりを覚える。考える間もなく、三人目の生徒がやってくる。
女子生徒だった。サイドテールの髪を胸の前に流しており、ちょっと目つきが悪いけど美人であることは間違いない。慌てた様子で、胸に抱えた俺の写真集を三、四冊、ドンとテーブルに置いた。
「あの、日野咲子です。ファンなんでその、これ全部……えと」
「はいはい、サインだよね。大丈夫だよ」
やっと普通の子が来たと安心する。離れたところから「慌てんな咲子さん」「みっともないぞ日野」と野次が飛んでくる。
「うっさい! 逆になんであんたら緊張しないの」
笑って受け流し、四冊ともサインをする。本を返すと、もじもじと煮え切らない様子の彼女を見て、あぁ、とこちらから右手を差し出す。
「やった、ありがとうございます」
――と、日野さんが右手を向けてきた瞬間、ゾッとした。平静を装いながら手が触れ合い、さらに全身の産毛が逆立つ。自然と、手汗がじわりと浮かんでくるのが分かった。
彼女が立ち去ったあと俺は二、三秒ほど固まったままで、次のお客さんにまた「すみません」と謝ることになってしまう。
「それじゃ梶原くん、あとでインタビューよろしくね」
山野さんの言葉に軽く頷く。あらかじめお願いされていたことだ。
「うわ、あたし緊張しまくってめっちゃ手汗かいてたよ。恥ずかしー」
左方へと遠のいていく四人を横目にしながら、右手の汗をズボンで拭う。日野咲子、と俺は頭の中で反芻する。
◆◆◆
「街中で名刺配ってた頃と比べて、ずいぶん有名になっちゃいましたね、梶原先生」
待ち合わせ場所の喫茶店の前につくと、窓辺千佳は開口一番そう言い、そっと右手を差し出してきた。握手の意だと察し手を握り返す。写真で食っていくようになって、初めて一般人から求められた握手だった。
「もっと有名な写真家さんになるかもしれないし、今のうちにお会いできて嬉しいです」
枯葉の舞う十一月の下旬。それが、俺と千佳のはじまりだった。