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屍体写真  作者: 小岩井豊
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序章

 午前七時半。生徒の影はまばらだった。

 朝靄にかすんだ校舎をミラーレスカメラの液晶に映すと、日野咲子はしばらく画面を凝視し、音もなく息を吐いた。

 何が違うということもない。尺度の収縮以外は不満なところはなく、これがそれほど悪い画じゃないということは分かる。

 それは漠然とした不安だった。

 嘘ではないのに、喉の奥に引っかかるような不信感。良いものを素直に良いと認められない、それは往々にして心の在り方に問題があるということも、理解できる。



 ――もし、人間の瞼にシャッターがあって、頭の中にフィルムが内蔵されているような世界だったとしても――。



 これは、とあるカメラ雑誌に記載された一節だ。写真部の部室に届けられたその雑誌を、咲子はつい先日読んだばかりだった。

 あるいは不信感はそこから始まっていたのかもしれない、と咲子はカメラ片手に思い耽る。校門での立ち往生を解き、歩を進めた。

 真白ヶ丘商業高校に入学して、ちょうど一ヶ月。着慣れてきた学校指定の少し洒落たセーラー服と紺のハイソックス。携帯電話の電話帳に、コレクションのように追加されていくクラスメイトの連絡先。心機一転、髪型も変えた。サイドテール風に纏めて胸の前に流しているので、日常生活でも煩わしくない。新しく入った写真部の部室は文芸部と兼用で、中学時代の知り合いと同室することだけは不満だったが、それでも十分飲み込めるスタートだった。

 今更なにが気に入らないんだろう。

 当初はそれほど気にならなかった違和感が、背中のあたりまで這いあがってきていた。考えすぎだと首を振ることも出来たが、視界のもやは消えない。

 生徒玄関を抜け、ローファーを靴箱に収めていると、すこしだけ懐かしい人物を見かけた。

「おす、吉村くん」

 彼は廊下際で、校舎案内図を眺めていた。咲子の声に気づいて振り返ると、嘘くさいほどの朗らかな笑みをたたえた。

「やぁ、咲子さんか。この前チャット無視しただろ」

 細目の優しげな雰囲気と切り詰めた短髪。今はまだ大人しいものの、咲子はあまりこの人物とは関わり合いになりたくなかった。

 社交辞令的に笑みを返し、彼の後ろを通り過ぎていく。単なる朝の挨拶で終わらせるつもりだった。用さえなければ無視してくれる相手なのだ。

「そういえば」

 しかし、その用があればどこまでも面倒なのが吉村浩介だった。聞こえない振りをして足を早めるも、吉村はすでに咲子の隣を陣取っていた。

「なによ」

「写真部に入ったんだってね」

「それがなにか?」

 咲子は小中と武道部または武道関連のサークルに所属していた。高校からの急な心変わりを彼は指摘したいのだろうと予想したが、何故か吉村は「都合がいい」と笑いかけてくるのだった。

「ちょうど写真部の部室に用があったんだ。暗室を貸してもらいたい」

「なんでまた」

「ちょっと気になるものを拾ったんだよ」

 そう言って吉村はポケットからある物を取り出した。受け取ると、カメラのフィルムのようだった。どれも35mm用のもので、数は二つ。

 疑問符を表情にすると、吉村は咲子の手からフィルムを摘み、廊下の蛍光灯に照らした。まるで宝物かなにかのように。

「現像にはどれくらいかかる?」

「フツーにお店で現像してもらったらいいじゃん」咲子は気だるく突き放した。

「他の人間には見られちゃいけない内容かもしれないんだよ」

「かも、ね」

 拾ったものを勝手に現像しようなんてかなり怪しげな話だ。ちょうど部室に行くところだったが、適当な用事をつけて逃げ出してしまおうかと咲子は考えた。しばらく思案して無駄だと諦める。よほどのことじゃなければこの男は離してくれない。

「今から始めれば昼休みには持ち出せると思う。でも、いい? 現像したらあとは知らないからね。手伝いはするけど、あたし、無関係だからね」

 悪あがきに念を押してみる。吉村は「分かった分かった」とフィルムを眺めながらいい加減に頷くだけだった。あてにならない。



 部室に入ると、教室の半分ほどの広さの最奥で、堤信吾(つつみしんご)が長机で新聞紙を開いていた。

 中学時代の知り合いとは彼のことで、堤は文芸部に所属している。現在部員二名、らしい。もう一名は上級生であり幽霊部員だ。したがって咲子は一度もその幽霊部員の姿を見ていない。

 おはよう、と堤に挨拶を向けてみるも、新聞を見つめる眼鏡の奥の瞳に動きはなく、そして返事もなかった。とことん他人に感心を示さないやつだ。

 吉村と顔を見合わせ肩をすくめる。見られたくない写真というから、これはむしろ好都合だろう。堤の存在は特に気にする必要もない。

 冒頭通り文芸部と写真部は部室を共用しており、暗室は扉を開けてすぐ右手側に設置されている。といっても暗幕を引いただけの簡易的なものだ。

 入部まもないため、咲子はフィルムの現像について詳しいわけではない。臨時顧問の教師を頼ることもできたが、隣の細目男が許さない。

 本棚からマニュアルを取り出し、さっそく二人で暗幕に入った。

 照明を灯すと、周囲がほの暗い赤に染められる。

 手渡された物を改めて見ると、フィルムがテレンプで折り返されていた。たしかこれは使用済みを表しているのだと思い出す。

「どこで拾ったのか、訊かないんだね」

 吉村がささやくように言う。咲子はフィルムを引っ張り、端の方をハサミで切り取ってリールに巻き付けていく。

「だって、興味ないし」

 これは本心だろうか、と自問した。現像液の希釈を済ませ、フィルムの画を浮き出す。咲子はフィルムを透かし見てしまわないよう自制した。物干し器具にぶら下げ、さっさと暗幕から出ていく。

「あとは乾くの待って、引き延ばすだけだから。昼休みか放課後ね」

 部室の時計を見上げると、ここまでの作業で三〇分もかかってしまった。HRまでの猶予も残り少ない。

「じゃあ昼休み、またここに集合しよう。あとは、」言うと、吉村はおもむろに堤のもとへ歩み寄っていった。堤は顔を上げ、無機質に彼を見上げた。

「その朝刊、もう読み終わった?」

 このやりとりの間に退出してしまおうか。いや、あとで酷いことになりそうだ。咲子は大人しく二人の会話を待つ。

 二、三言交わし、吉村が新聞を片手に戻ってくる。

「これ、くれるってさ」

「よかったっすね」

「咲子さんにだよ。あとこれも」

 さらに吉村は鞄から一冊の週刊誌を出した。週刊S。以前吉村が携帯チャットで話題にしてきたものだ。新聞とまとめて咲子に押しつけてくる。肩をぽんと叩かれ「昼休みまでに読んでおくこと」と言いつけられてしまう。

 部室から去っていく吉村を呆然と見送っていると、堤が長机でふんぞり返りながら「都合のいい女だな」と冷笑した。飴でも投げつけやろうかと思ったが、咲子は黙って部室を後にした。



   ◆◆◆



 週刊誌を閉じ、チュッパチャプスの包装を破って口に含む。

 咲子はぼうっと、目の前でおしゃべりする友人二人の横顔を見つめた。高校では豊かな交友関係を築いていこうと思い、積極的に周りにとけ込もうと必死に交流につとめてきた。彼女ら二人は、その成果の一部だった。

 隣から気配を感じて顔を上げると、先日アドレスを交換したばかりの女子が咲子の手元を覗いていた。宮本という、ちょっと目つきのキツい女子だ。人のことは言えないが。

「週刊誌とか、おっさんくさいねぇ咲ちゃん。ね、私にも飴ちょうだい」

 咲子は照れ笑い浮かべ週刊誌を鞄に押し込み、ペコちゃんキャンディを彼女に差し出した。

「ありがと、代わりにこれあげるね」

 宮本から渡されたものは、もっさりとした何かだった。なんだこれ、とよく見ると、毛の長い猫を形取ったストラップだった。彼女はこのストラップを既にクラスの女子の過半数に配っているのだという。

「猫じゃらしみたいで可愛いでしょ? 結構みんなにウケてんだよねー」

 うわ、いらねえ、と咲子は心の中で毒づく。が、無理に笑顔を作って礼を返す。

 宮本がその場を去ると、友人の一人が「あの子、ちょっと面倒くさいよね」と耳打ちするように言った。もう一方の友人も「分かる。てか、押しつけがまし過ぎでしょ」と漏らした。

 咲子も適当に同調し、席を立った。

「ごめん。あたし写真部に用事あるんだよね」

 早くこの場から離脱したかったが、すぐに呼び止められてしまった。

「その前に咲子、明日からのゴールデンウィーク、どうする? たしか明日は部活の用事だって聞いたけど」

「うん。でも明後日からなら空いてるよ。ま、あとでメールしてよ」

 言い残し、今度こそ教室を後にした。



 今の咲子は、件の事件のことで頭がいっぱいだった。

 凄惨な殺害現場と、残忍な「裏の顔」を持つ犯人。華やかなファッションモデルだったはずの娘を殺した男。

 起こった現実より確かな証拠を重んじる冷淡な裁判官、キャリアのために奮闘する検察官や弁護士、血眼剥いて捜査する警察、事実にドラマを盛り込もうとする報道者。

 沸き上がってくる感情は嫌悪であり、言い換えれば、好奇心だった。

 咲子は今日一日、ずっと考えていた。今の自分は、本当の自分だろうか。入学式からこれまで、心に蓋をしてきたんじゃないか。

 正直に言って、クラスメイトを見ていて良い気分になったことは少ない。

 思い返せば一学期早々、誰が言い出したわけでもないのに、社交儀礼のようなものが始まった。休み時間、昼休み、放課後などに、みんな中学までは持ち込み禁止されていた携帯電話をあけっぴろげに取り出し、メールアドレスを交換しあったのだ。咲子もその流れに乗り、思考停止気味にあちこちへ赤外線通信を向けたが、今となっては寒気すら覚える。ずいぶんと溜まってきた受信メールBOXにも。

 そこまでして、みんなとつながりたい?

 しょせん皆、「友達になったつもり」でしかないんじゃないか。事実、クラスメイトの個人ブログやSNSページに飛べば、早くもほつれが生じているのが分かる。

『友達だった子に裏切られた。もう、本名晒してやろうかな』『アイツ、影うすくて冴えないの。誰が話しかけてもシカトするよね』『親友だと思ってたのに……』『二組の友情は不滅! E氏を除いて!』

 あの事件の犯人が持っていた「裏の顔」。それは自分たちの日常にも紛れ込む、当たり前の心身状態だった。何も考えるまいとしていたが、咲子はもう、目を瞑ることに疲れてしまった。しらけてしまった、と言ってもいい。



 部室に入って息を吐き、置物みたいにそこに居る堤信吾には目もくれず、携帯にさきほどの猫のストラップを取り付けた。思い返せば、宮本の手は緊張のためか、汗でじっとりと濡れていた。触れ合った手のひらを見つめながら、咲子は胸を痛める。自分だけじゃない。必死だったんだ、みんな。

 友達。

 親友。

 友情不滅。

 たった一ヶ月そこらで、まるでカメラを前にしたかのように、周りと笑顔を共有し、口角をひくつかせて。

「馬鹿みたい」

 暗幕に入り、吉村の到着を待たず写真の引き伸ばし作業を始めた。本心はもう隠さない。少なくとも、自分自身には。

 やがて、じわりと浮かび上がってくるそれを、咲子は静かに見下ろしていた。



 印画紙に写し出された真実は、とある女性の刺殺体だった。

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