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屍体写真  作者: 小岩井豊
13/13

終章

「堤くんおーす」

 部室を開いてすぐに挨拶を投げる。返ってきたのは堤信吾の奇異な視線だった。

 がらんどうの室内で、夕日を浴びつつ長机で厚い歴史書を広げる彼の姿は雰囲気があったが、その目は痛々しいものを見るかのようだ。

 咲子は堤の斜め前のパイプ椅子に座る。何事もないかのように、教科書を開いて古文の予習を始めた。堤も一度は視線を本に戻したが、それでもこの空気が落ち着かないらしく、重たくその口を開いた。

「なにか悩みがあれば聞くが……俺でよければ」

 耳を疑う。彼が誰かに気を使うこと自体、かなり珍しい事態なのに、まさかこの男からこんな台詞が飛び出すなんて。

 咲子は手の中でシャーペンを二、三度回し、思わず情けない笑みをこぼした。それから肩を落として教科書を閉じる。

「その、写真部さ、廃部になるんだよね」

「そうだな。部室を共用している俺が知らんはずがないだろう」

 堤は部室の隅に目をやる。張られた暗幕と、その奥にある写真部のささやかな機材たちは、もうすぐ教頭の手により倉庫行きとなる。

 それはそれでショックなことだったが、なにより、顧問の山野が既に退職していたらしいことをつい最近になって知った。朝礼やHRでは何も触れられていなかったし、生徒間の噂にすらあがってこなかった。廃部の報せと同時に知らされた咲子にとって事後報告もいいところだった。

 あの日の山野との別れ際、ほぼ確信に近い予感を受けていた。しかしこうまで煙のように居なくなってしまわれては、学校側にも不信感を抱かずにはいられない。

「放課後になってそのまま直帰したらさ、兄貴が心配するのよ。あいつアホだから、高校生が学校終わってすぐ帰ってくることがもう考えられないみたい」

「だったら別の部にでも入部するか、でなければ『お友達』と過ごせばいいだろう」

 また嫌な言い方を、と咲子は思う。咲子と堤は旧知の仲で、と言っても特に仲良くはないが、小学校時代からずっと同じ学舎を共にしていると、もはや咲子がどういう人間なのかを堤は熟知してしまっている。『お友達』という言い回しにも多分に嫌みが含まれていた。

「あたしは最初から友達になったつもりなんかないけどね」

 堤は大きくため息を吐く。

「入学当初から、らしくもなく周りにしがみついているなと思ったら、今度は負け惜しみか」

「交友関係に負けも勝ちもないでしょ」

「我を通せなかった時点で負けだろ。心機一転ってやつか。明るく楽しい高校生活が欲しかったんだよな。違うのか?」

 言い負かされた気分で口を噤む。

「つまりさ、ぶっちゃけあたし、もう友達いないのよね」

「吉村は違うのか」

「さあ。この前友達かどうか聞いてみたら、馬鹿笑いされただけで何も返してくれなかったよ」

 堤は、若干引いたような顔をしていた。懇願するように見つめると、さらに引かれてしまった。

「本当に止めてくれ。病んでるんだ日野は」

 ここまで拒絶されるものだろうか、とまたショックを受ける。

 これ以上の面倒は御免らしく、彼は無言で読書に戻る。咲子はスカートのポケットから携帯を取り出した。最近めっきり新着の来なくなったメールアプリを開き、過去のやりとりを追憶のように懐かしむ。タイムラインにアップされた、クラスメイトたちの画像が表示される。富士急ハイランドでの写真にざっと目を通し、記事を非表示設定にした。

 ああ、やっぱ行かなくてよかった。



   ■■■■■



 平成○年『デジタル・フォト』12月号

 P38より


 もし、人間の瞼にシャッターがあって、頭の中にフィルムが内蔵されているような世界だったとしても、僕の生活は変わらないと思います。

 それでもあえて一つだけ述べるとしたら、僕の嘘、皆が抱えている嘘を本物に変えてくれる夢のような道具です。



   ■■■■■



 スクールバッグからミラーレス一眼を取り出す。学校が終わると意味もなく真白ヶ丘の街を歩き回り、しばらくそんな風に放課後を過ごした。他に時間を潰す方法が思いつかなかった。

 忘れた頃に「カラオケ行こう」とか、「ファミレスで勉強しよう」とか、クラスメイトから声を掛けられることはあったが、ない用事をでっち上げて避け続けた。ひとりぼっちで夕方の散歩をしている方が気が楽で、性に合っていたし、またそれが本当の自分という感じがした。

 真白ヶ丘は、お世辞にも景観のいい街とはいえなかった。騒々しい繁華街、ぎらぎらとしたネオンの看板が夜空を切り取り、都内と横浜を繋ぐ自動車国道の周辺は空気が悪い。唯一の救いの森林公園も、日が暮れると剣呑とした野良猫の鳴き声とホームレスのいびきが聞こえてくる。

 公園を横切り、廃れた商店街を抜ける。細い坂道を上がると、小高い丘の上には小さな寺があり、やがて寺が所有している墓地にたどり着く。それまで無造作にシャッターを切っていた咲子も手を止めた。ミラーレスを片手に、左手を腰に添える。墓地のフェンスから顔を出す紫陽花が夕日を浴びて焼かれているみたいに見えた。

 振り返ると、西日が真白ヶ丘を茜色に照らしていた。ミラーレスのファインダーを覗く。

 綺麗なものが綺麗なまま撮られることに、疑問を感じないわけじゃない。街が本当に焼かれてしまったらと、想像しないこともない。ルールやマナーに守られ、見るべき真実までもが隠されてしまうことだってこの世にはある。

 それでも咲子は許せなかった。本能はともかく理性が否定した。目を背けたくなるような光景を、血眼剥いて捉えようとするその行為に嫌悪感を覚える。残酷だとさえ思う。

 だけどもしそれを第三者が望んだのだとしたら……たとえ残酷な事実だとしても、必要だったとしたら。

 シャッターボタンから指が離れる。西日が山に隠れ、街が暗闇に落ちた。丘を降り、橋を渡る。そこでふいに足を止める。

 咲子は一度深く深呼吸して川にカメラを放り投げた。



   ■■■■■



 6/3(日)22時頃


さっきぃ:起きてる?


吉村浩介:びびった

吉村浩介:咲子さんの方からメッセージがくるなんて

吉村浩介:どうしたの?


さっきぃ:あたしさ、文芸部入ることにしたわ


吉村浩介:あーそう

吉村浩介:堤くん、どうだった?


さっきぃ:いいんじゃないかって。ちょうど部員足りてなかったみたいだし

さっきぃ:なんかちょっと嫌そうな顔してたけど


吉村浩介:ふーん…

吉村浩介:それで、それがどうかしたの?


さっきぃ:いや、べつに


吉村浩介:なんなの

吉村浩介:寂しいの?


さっきぃ:うっさいわ

さっきぃ:あ

さっきぃ:ねえ、あの変態写真家から届いた?

さっきぃ:あれ


吉村浩介:変態写真家て笑 梶原さん、思いっきり格下げされたね

吉村浩介:届いたけど

吉村浩介:なんで?


さっきぃ:持ってきてよ

さっきぃ:明日


吉村浩介:《通話 12:17》



   ■■■■■



 ショートサイズのポテトとウーロン茶をトレイに乗せ、マクドナルド最上階の窓際のカウンターに落ち着く。そこは人も少なく、カウンター席の奥は背後が壁になっていた。

 ウーロン茶を飲みながら待っていると、吉村が紙袋片手にやってきた。手を振り彼を招き入れる。背の高いスツールに座ると、紙袋を咲子に手渡してきた。

「お土産だよ。大文字飴。この前兄さんに京都連れていってもらったんだ」

「相変わらず旅行好きだよね」

「あとこれ」

 マックシェイクのメロンを咲子のトレイに置く。小さく礼を言い、マックシェイクを啜る。大文字飴の袋から宇治抹茶味を選んで口に放った。甘ったるいどろどろのアイスに、古都の風流を象徴したような味が広がった。

「えらく気前がいいっすね」

「咲子さんが最近悩んでるみたいだって堤くんから聞いて、少しでも元気になってもらおうと思ってね」

「そりゃどうも」

 トレイにフライドポテトを半分ぶちまけ、「食べていいよ」とあごで示す。吉村は三本ほど指で摘んで口に入れ、「味付けしょっぱい」と言ってウーロン茶に口をつけた。そこまでいいとは言っていないが咲子は黙っていた。

「山野先生、引っ越すみたいだね。旦那さんの実家で暮らすみたい」

「そうなの?」

 思わず吉村の横顔を見る。その目は下方ではなく、遠くの街並みを眺めていた。

「なんで吉村くんがそんなこと知ってんの?」

「梶原さんが教えてくれたんだ。やっぱり教師は諦めて、専業主婦やるんだって」

 口の中で抹茶飴を転がす。山野のことを考えた。常勤講師と違って時間外が出ないにも関わらず、彼女は写真部の顧問を請け負っていた。教師としてやり遂げたいことが、本当はもっとあったんじゃないか。

「別にあたしは元気だよ。ていうか、ぼっちになった今の方が快適なくらい。便所飯はちょっとあれだけど、部室飯の気楽さは吉村くんにも味わってほしいね。無口眼鏡はいるけど、他に気を使う相手もいないし。なんていうか、あるべき所に収まったって感じ」

 咲子はうなだれるようにしてカウンターに両肘を置き、気だるく雑多な街道を見下ろした。

「ただ、山野先生のこと考えると落ち込むよね。何も辞めることないんじゃないかって。これじゃ何のために先生に戻ったんだか、分かんないよ」

「僕もそう思うんだけどね」

 吉村は膝にキャリングケースを置く。中には数冊の教科書やテキストがあり、その隙間には隠すようにA4サイズの茶封筒があった。

「一回死んじゃったんだよ。山野先生」

 茶封筒を引き抜き、咲子に渡す。両肘をついたまま、指を伸ばして受け取る。この席を選んでよかったと思う。後ろの壁と吉村が影になって他人の目には入らない。

 封筒には一枚の印画紙が入っていた。大きく引き伸ばされたもので、四隅まで広く写し出されている。舌の上で転がっていた抹茶飴が、奥歯の裏で動きを止めた。

 どこかの室内だった。黒い革張りの二人掛けソファの上で、山野は頭を垂れ、安らかに目を閉じていた。窓から入る月明かりが照明のようにソファを照らしている。右手に握るペティナイフに塗られた血痕が黒く光っていた。

 隣では、茶色の体毛の所々に鮮血を着けた猫がちょこんと首を傾げている。向けられたレンズに、それはなにか、と問いかけるような顔だった。後方には古びたレジカウンターと、壁には、蜘蛛の巣が張り付いた額縁入りの賞状が掛けられている。あのペンションか、と思い当たる。

 山野の身に着けたシャツのわき腹あたりには、血が滲んでいた。赤黒く描かれた楕円形が、あの日温泉で見た傷跡を思い起こさせる。深い傷ではないらしく、あくまで疑似的なはずなのに、生命力が感じられない。柔く閉じた瞼に前髪の影が落ち、顔は青白く、まるで生きていないみたいだった。何かから解放された安楽とした表情を見ていると、咲子にはとても彼女の決断を否定出来そうもない。

 指を離し、印画紙を封筒の中に落としこむ。

「すごく良い写真だと思うし、そう思う自分が気持ち悪い」

 ふと、街の雑踏に、山野の姿を見た気がした。キャリーバッグを引いて歩く彼女の姿だ。

 固く目を瞑り、瞼を開く。残映は人混みに消えていた。

 こんな幻覚を見て、一体どうしたいんだろう。大声で呼び止め、彼女を引き留められるだけの材料が、今の自分にはない。

「そんでもっと気持ち悪いのが、あたしも撮られてみたいなって、ちょっとだけ思っちゃったこと」

 吉村は苦笑いを浮かべながら、何か迷ったように頬を掻いた。

「これ、本当は本人に言わないでくれって、梶原さんから口止めされてることなんだけど」

 小さくなった飴を奥歯で擦る。溶けてなくなる頃、吉村が小声で言う。

「今一番撮ってみたいの、咲子さんなんだってさ」

 今度はつゆ味の飴を口に含む。なんのつゆかは知らないが、妙な味がした。長いこと唸り、茶封筒にがさりと頭を当てる。否定しておきながら、心の中では迎合しようとしている自分が嫌だった。

「今んとこ死ぬ予定ないですって、そう伝えといて」

 あたしってやっぱ変なのかも。そう思いながら咲子は、彼女の死体写真におでこを当てつづけた。

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