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屍体写真  作者: 小岩井豊
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八話

 冷え切ったブラックコーヒーを見つめ、一息つく。

 吉村くんはソファで前屈みに座り、こちらの次の言葉を待っていた。日野さんは椅子で足を組み、カーテンを開いた向こうを見ていた。

 雨は止んでいた。

 雲は風によって流されている。月光が日野さんの顔を照らし、肌を青白くしていた。瞬きをすると、一瞬、彼女が千佳に見えた。ありえない妄想だと首を振る。だけど頭から離れない。日野さんとの初対面、握手会でその手を差し向けられたとき、俺が欲しがる光景が走馬燈みたいにいくつも巡った。彼女は千佳に近しいものを持ちながら、また異質なものを感じた。千佳が命を賭けてまで手にしたものを、日野さんは日常的なまでに『呼んで』しまう。俺が得た印象はそういうものだった。

 そんな日野さんを、彼は面白いように操る。吉村くんの、一秒足りとも逃すまいとする視線。

 俺は人指し指を立て、もう一つの手で強く握った。

「知ってるかい。人の体の中ってのは、なまあたたかいんだ」

 死後の千佳はまだ温かかった。開いた古傷からこぼれる臓器の色、温度を、ありありと思い出せる。

 撮りながら、ときおり触れながら、その温度を何度も確かめた。

「人は変わっていくっていうけれど、あれほど物理的に教えてくれるものもない。俺はね、今こうして生きていることが信じられないくらいだ。人が体温を持ちつづけていられているってことが、奇跡のように思える。何十万、何百万分の一という確率のもとで人間が生まれ、それでいて熱を持って活動しているということが奇跡で、不自然にすら思う。冷たくなっていく千佳に触れてからそう考えるようになった。これがこの世界に与えられた絶対的な法則だ。俺にとってのリアル、自然さとは、死体そのものだったり、生と死の繋がりを連想させる、その現場にある気がするんだ」

 吉村くんは少なくなったコーヒーを飲み干した。

「窓辺伸和とはあれから交流があったようですが。その話を聞いたあとだと、失礼ですけど、あなたの神経が理解できません」

 千佳が生前、俺に望んだことはペンションの復興だった。

 長い滞在で俺はすっかり街に馴染んでいた。伸和氏に近づき、旅行誌掲載の話を持ちかけるのも難しくなかった。彼はもちろん俺のことを覚えていない。あの精神状態から立ち直れているか不安だったが、むしろ何か憑き物でもとれたかのように彼は明るく快活で、こちらの方が不快感を覚えるほどだった。

 彼もまた歪んでいた。自分の宿の見所を語っていく伸和氏の顔を眺めながら思う。本当に、俺が言える立場じゃないが。人格を疑われるほど罪悪感が欠けているという点で、俺と伸和氏は同類だ。

「千佳さんが望んだ通りペンションは営業を再開でき、そして『猫と泊まれる宿』として人気を博した。オーナーや猫たちが、千佳さんの血で汚れていたなんて知りもせず。そうやって千佳さんの要求に、先生だって一度は応えたはずです」

 俺は頷く。吉村くんは両手を組み、さらに前屈みになって俺に近づいた。

「ならどうして先生は、事件から一年も経った今頃になって、証拠となる死体写真を警察に送ろうと思ったんですか? そんなことをすれば千佳さんの願いに背くことになるのに、どうして?」

 ペンションの存続を絶つような、あるいは、自分の罪すら明るみになるような危険な行為。昔の俺には明確な答えを出せなかっただろう。だけど彼らに話していくうちに、俺は、俺のことが少しだけ分かるようになってきた。

「認めさせたかった。いや、誰も認めてくれやしない。けど分かってほしかった。ルサンチマンのなれの果てとなった千佳を。そして、少しでもいい――知ってほしかった。『本当の俺はこうなんだ』って」

 顔を手で覆う。羞恥心に晒された人間の多くはこの行動を取る。俺だって恥ずかしいと思う。一糸たりとも纏わぬ自分を、他人に見せるということが。

 滲んでくる涙が、手のひらに触れた。

「評価とか、理解とか、もうそんな我が儘は言わない。傲慢だった。嘘にも疲れた。ただ見てくれるだけでいい。誰かに知ってほしかった。これが、本当の俺なんだ……」

 俺は、頭のおかしなことを言っているだろうか。人としての倫理を捨ててまでこんなことを言う俺は、おかしいのか?

 黒々とした淀んだ奔流が体内で渦を巻く。これだけ懺悔し吐露しても渇きは癒えない。それでも俺は、それを撮り続けなければ癒されない。

 吉村くんと日野さんが部屋を去ったあとも、俺は顔を覆っていた。



   ◇◇◇



「待ってください、山野先生」

 息を切らして俺たちを追いかけてきたのは、日野さんだった。

 駐車場に止めた車に乗り込もうとしているところで、俺たちはその呼びかけに手を止めた。

 昼の太陽が照りつけていた。ゴールデンウィークの中日。吉村くんは離れたバス停のベンチに座り、遠くからこちらを見ている。日野さんも大きなバックパックを背負っており、これから帰るところらしい。だけど別れの挨拶をするには、彼女の様子はこれから辛いことを告白するかのようだった。

「これ、お返しします。山野先生が送ってくれたものですよね」

 そう言って彼女が山野さんに差し出したものは、一通の便せんだった。その中にはSDカードが入っている。三枚の画像が記録されたもので、そんなものを山野さんが持っていたことを、俺はつい最近知らされた。

 押しつけられるように渡された便せんを、山野さんは驚いたように受け取る。

「どうして、私が送ったって分かったの……?」

 返す台詞を詰まらせながら、彼女は言う。日野さんは俺を一度見やり、躊躇いがちに口を開く。

「梶原先生の話に、いくつもヒントが隠されていました。それも、彼すら気づかなかったことです。保存されたうちの二枚の画像は、梶原先生と千佳さんがこの地を訪れ、一緒に写真を撮った歩いたもののようでした。そしてもう一枚は、写真展の招待状にも使われていた犬の最後です」

 そう、それがあの三枚だった。

 風船と青空と横顔。

 老婆とビールケースと、風船を指さす千佳。

 そして、左目に傷の入った犬の死骸写真。

「千佳さんは梶原先生にばれないよう、彼のパソコンから、お気に入りの写真を自分のSDに保存して盗み取っていたんです。梶原先生が自分の写真に納得せず、いずれ削除してしまうかもしれないと思ったから……」

 千佳の予測通り、俺は三枚の画像を消去してしまった。俺にはもはや無価値となってしまったからだ。だけど、千佳にとってはそうじゃなかったらしい。

「梶原先生がこのSDカード送ってきたんじゃないとすれば、あとはもう一人しかいない。山野先生しか、考えられないんです」

 山野さんは首を振った。

「だから、どうしてそれが私になるの?」

 日野さんは視線を山野さんの顔から、やや下方へと落とした。

「昨日、一緒に温泉に入ったとき見たんです。ほとんど消えかけているみたいだけど、先生のお腹には、千佳さんと同じ、刺し傷の跡のようなものがあった」

 山野さんは閉口し、自らのわき腹を撫でた。とっくに塞がった傷から予期せぬ痛みがぶり返したように、微かに頬を強ばらせて。

 まだあります、そう言って日野さんはバックパックを前に持ってくる。よく見るとそれは吉村くんのバックだった。中には、切り取られた新聞の切れ端や、いくつもの雑誌が乱雑に入ってる。

「例の事件を扱った記事をいくつも読みました。過去千佳さんをスキャンダルしたU社の『週刊S』だけが彼女の本名を明かしているけれど、それ以外、どの報道を見ても本名を隠しているか、もしくはモデル『千明』の名前で表記されている。有名人だから規制がかかったんでしょう。それでなくたって、普通彼女の名前を出すとき、彼女をよく知る人物でない限り『千明』と呼ぶはずです」

 日野さんは泣き出しそうな顔をして、苦しそうに続けた。

「なんでですか? なんで昨日事件の話になったとき、被害者の女の子ことを真っ先に『千佳』って呼んだんですか? まるでそれが『千明』よりずっと、山野先生にとって馴染んだ名前だったように」

 張りつめた空気が訪れた。温泉街の中心から太鼓を叩く音が聞こえる。御輿を肩に、地面を踏み鳴らす音も。

 日野さんはいつしゃくり上げてもおかしくない様子で、山野さんは、いつまでも自分の腹を撫でていた。同じ男につけられた、娘と同じ場所にある傷を、それが母子の絆であるかのように。

「私ね、もう子供、産めないみたいなの」

 そっと口ずさむ彼女の声が、妙に反響して鼓膜を揺らした。

「私だけじゃない。あの子に関わった、皆がそうなのよ。梶原くんも、あの人も。生きてても、死んでても、いつまでも私たちを惑わせる。普通じゃなくしていく」

 山野さんは薬指の指輪を見つめ、息を吐いた。

「どう足掻いたって千佳は私の子だし、どうしたって一生、逃げられないみたいなのよ」

 御輿を担ぐ男たちが街を巡る。それに合わせて浴衣姿の見物客が道沿いに集まってくる。賑やかな喧噪が徐々に辺りを支配していく。

「日野さんには本当に謝りたいんだけれど、写真部、もうすぐ廃部になっちゃうのよ。頑張って他の生徒に声を掛けたり、教頭先生に抗議もしたけど、臨時講師の話は聞き入れてもらえないのかな。私は駄目ね。何をやったってうまくいかない」

「駄目だなんて言わないでください」

 日野さんは山野さんの手を取る。指輪の嵌まった指ごと、懇願するように握る。

「まだまだこれからだって、山野先生そう思ったから、また教員に復帰したんでしょ。どんな過去があったか知らないけど、先生を必要としてる人がいるんです。今の旦那さんだって、私だって」

 祭囃子でかき消されそうな中、山野さんはぽつり呟く。ありがとう、と優しく日野さんの手を離した。

 助手席に乗り込む彼女を振り返り、日野さんに目を戻す。唇を噛んだ。まだ子供みたいな女の子の気持ちを裏切る行為に、俺なんかが手を貸していいのだろうか。

 謝罪の言葉を探しているうちに、どんな言葉をかけたって彼女を傷つけることになるだろうと考え、俺は諦めて運転席に乗った。

 キーを回し、車を発進させる。後方から日野さんが叫ぶように何か言う。だけどもう手遅れで、俺たちには届かなかった。

次回最終話です。

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