七話・独白
やれやれ、ここまで話すのも大分長くなってしまったね。一旦休憩にしよう。
吉村くん、日野さん、なにか飲むかい……と言ってもコーヒーと日本酒しかないけど。
コーヒーでいい? そりゃよかった。
今までどんな写真を撮ってきた、か。
分かってる。仕事じゃない方の写真だろう。
はっきり言って、人に自慢できるようなものはあまり撮れていないんだが。でも例えば、そうだな。
三年ほど前、ある廃墟ビルで中学生の女の子が飛び降りて亡くなったことがある。
それを境にあのビルは自殺の名所なり、少年少女たちが女の子を真似して屋上から落ちて死んでしまう事件が流行った。その時期は、俺もスケジュールの合間を縫って出来る限りそこへ通ったよ。もちろん近くをうろついていれば怪しまれるから、近所のビジネスホテルを借りて、望遠鏡を買って観察した。また、深夜などの人気のない隙を見計らって、たまに直接現地を眺めに行ったりもした。
実際の飛び降りは、たった一度しか撮れなかったな。小学生くらいの男の子だった。まだ人生これからだってときに、不憫なことだ。
ひとつ、不審な点を見つけた。その建物にはいつも変な模様が描かれていたことだ。屋上の縁は赤いラインが真っ直ぐに引かれていて、そばには赤いリングが描かれている。ちょうどラインを分けた向こう側、はるか下の地面にも、同じような赤いリングがあった。
どうやらこの赤いリングとライン、これに何らかの原因があるんじゃないかと俺は思っていたんだが、いつの間にかビルそのものが取り壊されてしまっていた。それ以降、その町で飛び降り自殺が頻発することもなくなったし、一体どういった理由であのリングとラインに少年少女が惑わされていたのか、謎も闇の中ってわけだ。
――この話、知ってるの? 二人とも。メディアにはほとんど出ていない事件なんだけどな。
へえ、それは興味深いな。何があったのかは知らないけど、今度詳しく聞かせてくれよ。
さて、本題は千佳のことについてだったね。どこまで話したかな。
そう。ペンションの郵便受けに、千佳をスキャンダルした週刊誌を入れておいてくれと頼まれたところまでだったね。
千佳は、自分が予告したとおり殺された。いや、予告というより、予報か。そう、気象予報に近い。あれは外れる可能性が大いにあるけど、知識のない者にとっては同じことだからね。気象予報にどれだけ確実性がなくたって、それ以外寄りどころがないのだから、信じるしかない。占いにも似ているが、それともまた違う。予報は外れることはあるけど、当たる可能性だって充分にあるのだから。
それが、今回は後者だった。窓辺親子についてなんの知識もない俺にとってはそういう感覚だったんだ。
まだ辺りが薄暗い早朝、言われた通りペンションに週刊Sを届け、ホテルに戻っていつものように様子を見ることにした。その日ペンションの様子に変化はなく、数日待っても同じだった。変化が起きたのは五日ほどが経ってから。
ペンションに住み着いていた猫が一匹、死んでしまったんだ。それは伸和氏が特別気に入っていたらしい中の一匹だった。猫は白目を剥き、泡を吹いて、庭先でぱったりと事切れていた。
俺は想像した。千佳が猫の餌に農薬を混ぜる光景を。それをわざわざ、伸和氏に告白する場面を。それをきっかけにして、週刊誌のことについて娘に詰め寄る父親を。
二人は庭先に猫の死骸を埋めると、揃ってペンションに入っていった。
俺は急いでホテルを出て車に乗った。市街地へ戻り、必要な道具を買い集めるためだった。
ペンションの駐車場に車を止める。各種道具の入ったリュックサックを背に庭先に降り立つ。辺り一帯が不気味な静寂に満ちていた。人の気配というのがなく、建物の明かりは消えていた。聞こえてくるのは木霊すような無数の猫の鳴き声だけ。
扉を開けると、すえた血の臭いが鼻腔をついた。室内に明らかな異常が起こっているのを察知する。
千佳は、リビングルームのソファに全裸で横たわっていた。
まず一番に、わき腹にペティナイフが突き立っているのが目に飛び込む。刺しただけじゃなく、古傷に合わせて引くみたいに十センチほど裂かれているようだった。そこから赤い中身がちらつている。切り傷は身体中いくつもある。唇の端から左の耳たぶあたりまでがそっくり別れていて、白い奥歯には血液や肉片が付着している。右の瞼は腫れ上がり、右目が半分隠れていた。無理な力で引っ張られたのか、髪の毛があちこちに散らばっている。革張りのソファの座面の窪みは、彼女から溢れ出たもので水たまりが出来ている。不思議なことに、両腕にはほとんど傷がない。それは千佳が、ここまでされながら全く抵抗をしなかったことを意味していた。
彼女は血と汗、それから、何者かが排出した白い液体にまみれていた。何があったのか、考えるだけでもおぞましいと思う。
俺は彼女の横に屈み、その様子を窺った。驚くことに、彼女はまだ生きていた。
せんせい、とたしかに彼女はそう言った。瞳を俺の方へ動かし、人って意外としぶといものね、そんなことを呟く。千佳も、まだ自分に意識があることが信じられないようだった。
ここで少し待ってて、そう言い残し、俺は彼女を置いてキッチンへ入った。
そこには伸和氏がいた。
彼もまた全裸で、返り血に塗れて床にへたりこんでいた。勝手口を解放し、そこから夜の空を見上げている。彼の周りには数匹の猫が寄りついていた。猫たちにも汚れがまとわりついていたが、何事もなかったかのように伸和氏の周囲を周回し、餌をくれとでも言うように鳴いていた。それは何かの儀式に見えた。伸和氏のそばへ寄り、隣に立ってみたが、彼は俺という侵入者の存在に気づかないようで、ひたすら譫言を呟いていた。しばらくその声に耳を澄ましたが、意味のある言葉は何一つ吐いていなかったように思う。
リビングルームに戻ると、千佳の姿はなかった。その代わり床には血の足跡があり、それは玄関口の扉の方へと続いていた。
俺は早急に部屋の掃除を始めた。千佳がどこへ行ったのかは予測していたので、あとで追いかけようと思った。
リュックからタオルを何枚も取り出す。体液や血液を拭き取り、床にもモップを掛けた。それでも汚れの落ちそうにない箇所もある。アクリルたわしを用意していたので、削れるほど擦り、漂白剤を使い、上からワックスを引いた。ソファに着いた血や髪の毛も処理した。不自然に色落ちしないよう慎重に歯ブラシと洗剤を駆使する。さすがに伸和氏の返り血はどうしようもなかったが、猫は一匹ずつ捕まえ、風呂で丁寧に洗ってやった。猫たちは過剰なほど人慣れしており、俺の手や浴びせられるお湯を嫌がったりはしない。
一度、部屋中を点検し、綺麗な状態に戻ったかを確認した。それでも不安で、炭酸水をリュックから出し、さらに全体をじっくりと拭いていく。わずかな黒ずみさえ残さないほど。ここでどれだけ頑張っても警察の血液反応検査が入れば、完全にくぐり抜けられはしないだろう。だけど、見た目だけでも戻せたら充分だ。なにより、肝心の遺体がすぐに見つからなければ調べられもしないだろう。
伸和氏は未だに譫言を続けている。薄ら寒いものを覚えながら、キッチンを後にした。使用したタオルやモップやたわしなどの清掃道具、どうしても血の落ちないラグはゴミ袋にまとめ、背中に背負って持って行くことにした。
ペンションを出ると、懐中電灯を照らしながらあの山道の入り口を探した。山口を見つけ、早足で奥へと進んでいく。
三十分も歩くと千佳に追いついた。俺が掃除するのにどれだけ時間を使ったかは知れないが、それでもこんなにすぐ追いつくとは思わなかった。
彼女の足取りは限りなく鈍重だった。横に並び、その顔を見る。瞳にはほとんど光がなかった。切り開かれた左頬から涎と血が垂れ、胸元まで伝っていた。呼吸をする度に、喉の奥がごぽりと嫌な音を立てる。ひどい暴行のせいで気管までやられているのだろう。出血量は決定的なもので、わき腹を抑えた手は青白くなっている。生きていることが不思議だった。それでいて自力で歩いているのは、もはや奇跡としか言いようがない。
俺は彼女の名を何度か呼んだが、反応はなかった。返事をする力も残っておらず、動力は全て足下に集中されているみたいだ。
そのときから俺は徐々に、正常な思考を失いつつあった。この状況でも、少しでもいいから彼女に元気を与えてやりたかった。
みっともないから、そのはらわたをしまってくれ。
こんなときに、冗談混じりに言う自分が信じられない。
ところが千佳は、そこでふっと笑った。裂けた唇で笑っているなんて分かるのかと思うけど、吐血を交えながら、彼女は本当に吹き出していたんだ。右手を動かし、手のひらを押しつけるようにしてはみ出したものを体内に仕舞い込んだ。
あの廃屋が闇の中から現れた。その頃になると千佳は生命の末期を迎えていた。一歩進むごとに立ち止り、次の一歩に数十秒を費やす。自分が歩いているのか、倒れているのか、死んでいるのか、生きているのか、ときどき忘れてしまったように。やがて廃屋の青苔を踏み、室内に上がり込む。そして彼女は膝から地面へと崩れ落ちた。
かろうじて仰向けになると、その唇がぴくぴくと動いているのに気づいた。寸前まで顔を近づけてみる。その声は、もう声にすらなっていない。は、という細い吐息が絶えず吐き出されるだけだった。俺は彼女の胸に耳を当てる。鼓動の絶える最後の瞬間まで、心臓の動きを聴いた。どくり、というはっきりした音ではない。ト、ト、と微かに小刻みつけるような音だった。リズムは一定ではなく、たまに止まったり、鳴り出したりを繰り返している。そのせいでいつ心臓が止まったのか分からなった。
それでも、そのときは必ず訪れる。彼女が息を引き取ったことを俺は悟った。
――日野さん、そこの煙草を取ってくれるかな。うん、そう。それ。
こんな話、無理して聞かなくてもいいんだよ。ぜんぜん理解できないだろう。俺のこと。千佳のこと。伸和氏のことも。当たり前さ。俺にだって理解できないんだから。
俺はどちらかと言えば、感受性が強い方だと思う。こう見えても結構泣くんだよ。いい歳して。むしろ、歳を取るごとに涙もろくなっていく気がするな。『泣ける』と評判の映画館には行かないようにしている。周りに迷惑かけてしまうからね。フランダースの犬なんか、もう見れないよ。
あと、父親が肺の病気を患ったときは大変だった。一時期容体が酷くなって、もうダメかなというときがあって。父の手を握りながら号泣しちゃって。泣きすぎて喉痛めてトイレで吐いちゃったんだ。まあ、結局彼、まだ生きてるけど。
これ、笑うところじゃないよ吉村くん。
千佳が亡くなったとき、俺は思わず泣き出してしまったんだが、あれは今まで流したどんな種類の涙とも違った。悲しんでいたわけでも、憐れんでいたわけでも、悔しさとも、後悔とも、どれにも当て嵌まらない。あの涙がどんな感情のもとに溢れていたのか、俺には説明できない。強いて言うなら、感謝。恐らくそれに近いものだった。もしくは愛情によるものか。
俺が千佳にこんな気持ちを抱くのは初めてだった。こんな風になって初めて、千佳に対して愛や感謝という感情を覚えた。間違いなく彼女は、身を持って俺に尽くしてくれたんだ。全身に刻まれた傷や痣に触れながら、胸の内から千佳に対する愛しさが沸き上がってくる。その激しさは計り知れず、上下の歯がかち合い、頭の中がうるさかった。
俺は震える手でカメラを取り、夢中で死んだ千佳を撮った。最初は、抱きしめたり、口づけしたりしようとも考えた。だけど今自分が彼女にしてあげたいことはどれでもなかった。俺にとっての愛情表現がそうだった。抱きしめたり、口づけしたり、そういうことをする代わりに俺は撮る。
千佳は撮られながら、どんな表情もしなかった。無表情ですらない。演出もしない。カメラという視線を意識しない。出来ようはずもない。故に何もしてくれない。どんな風にも映ってくれない。自分が死んでいることに精一杯で、俺への施しは一切ない。それがよけい欲望を掻き立てた。そんな彼女がもどかしくて、いじらしくて、やがて快感に変わった。快感は写真に収めたいという活力に変わる。活力は写真にしてこの手に保存しておきたいという原動力につながる。原動力は身体とリンクし、強制的に指を動かし、シャッターを切らせる。それがフィルムに焼き付けられる。
そういう、順序だった根拠による行動だった。
いつか、小学校の教師が言う――お前が撮ると皆いい笑顔で写るな。
そんなもの欲しくなかった。
寺の住職が言う――写真とは本来、一番いい状態、一番いい笑顔で写るものじゃないか。
誰がそんなこと決めた?
山野さんが言う――昔から元気なワンちゃんを撮るのが好きよね、梶原くん。
違う。
ファンが言う――先生の正直でまっすぐな作品が好きで。
違う。
誰かが言う――これこそが先生の。
どれも違う。
何も知らない。何も分かってくれない。
確かに仕事をしているときの俺も俺だろう。良い笑顔をする子供を撮ったのも。一点の曇りのない空も、走り回る犬も、じゃれ合う猫も、瑞々しく咲く花も、なにを撮ってきた俺だって、確実に自分なんだ。今さら否定なんてしない。
だけど全くそうじゃない、真逆の俺が居たっていい。無許可の被写体、墓石、人の不幸、事故現場、戦地、そこに横たわる惨めな屍体……それらを撮ってはいけない理由が理解できない。俺に言わせてみれば、それらを如何わしいと思う心こそが如何わしいはずなのに。
だって現に千佳は、こうして死ぬことによって息を吹き返している。満足げに死に顔を晒す千佳が、今まで撮ってきたどんな彼女よりもずっと、活き活きと写ってくれている。撮られ、所有され、一生束縛してほしいと願った結果がそれだ。そしてこちらもその願いに従っただけなんだ。
俺は嘘つきだけど、この気持ちには何ら偽りはない。脚色や嘘は何一つない。全てが事実だ。その上で分かってほしい。
こんな俺たちを、どうか異常だと思わないでほしい。