六話
吉村くんと日野さんは山のさらに奥へと進んでいく。俺はとっさに追いかけ、彼らを止めるような言葉をかけようとした。が、それは冷静な判断によって押しとどめられる。今さらあそこが見つかったところで、何の不利益も生じない。
ただ一つ、俺にとっての損失があるとすれば。
横目に山野さんを窺う。彼女は憮然と、落葉樹林の奥に消えていく教え子たちの背中を見送っていた。
「大丈夫ですよ。この山は電話が通じるんです」
彼女は釈然しないとしない様子で歩き出した。
「そうね、あとで連絡を取ってみる。不思議な子たちだと思っていたけど、本当に何をし出すか分からないわね」
日は傾き、無数の葉の間から橙色の光が射した。空気が湿り気を帯びてくるのを肌で感じる。夕立がきそうだ。野鳥の撮影に満足していた山野さんに比べ、ろくな成果を得られなかった俺は「早く宿へ戻りましょう」とこぼした。
予想したとおり、霧雨の滴が地面を打つ音が外から聞こえた。
宿のロビーにパソコンを持ち込み、今日撮った写真を山野さんと眺め、軽く品評会のように意見を交換し合った。山野さんは学生時代から動きのある被写体を捉えるのがうまく、今でも健在だった。アドバイスを求められたが、細々とした技術の参考程度で、彼女は充分といえる写真をいくつも収穫している。写真に正解や合格という概念はないが、魅力という点でいえばその腕前は確かなものだろう。
「本職を目指してみてはどうですか」という本心からの言葉も、山野さんは笑って手を振るだけだった。
「私なんかになれるわけないでしょう。それより、早く梶原くんの写真も見たいわ」
俺は部屋に置いてきたカメラを思い返す。型落ちしたフィルム一眼レフ。以前雑誌のインタビューでも答えたことがあるが、ここ数年プライベートでの撮影では必ずといっていいほどそれを使っている。現像するには一度自宅か仕事場に戻る必要があり、今すぐ確認というわけにはいかない。それがまた都合がいいのだが。
一時間ほど写真を閲覧したあと食事を採り、温泉に入ることになる。互いの部屋で浴衣に着替え、浴場へ向かう。
浴場へと向かう廊下の途中、口喧嘩をぶつけ合う若い男女を見かけた。女の子が温泉タオルで男の子をはたくのが見える。近づき、俺は呆れたように声をかけた。
「どこにでも現れるんだな、君たちは」
吉村くんは振り返り、柔和な笑みを浮かべた。手をかざしてタオルの攻撃を防ぎながら、日野さんを宥める。
「これはまた奇遇ですね。まさか旅館まで一緒だなんて」
「まさか、俺たちを追いかけてきたんじゃないだろうね?」苦笑混じりに問う。
「下調べしてやって来ただけですよ。梶原先生、『月一トリップ』って雑誌でここを紹介されてましたよね。たしかあれは、昨年の二月号だったっけな」
末恐ろしい子だなと思う。
「職業柄、ストーカーするのは得意なんだけど、こうなると新鮮だね。ストーカーされる側の気持ちが少し分かってきたよ」
「いえいえストーカーだなんて。ただのファンですから」
隣で、日野さんが何か言いたげに眉根をひそめていた。
彼らは、これから温泉に入るというのに、何故かもう全身ずぶ濡れだった。髪から水滴がしたたっている。
話を聞くと、山奥を目指す途中で雨に降られ、やむなく引き返してきたのだという。日野さんが不満げに漏らす。
「まあ、すぐには帰れませんでしたけどね。めっちゃ雨降ってんのに吉村くん、関係なくがんがん進んでいくんだもん」
さっき彼女が怒っていた理由が分かった。よくよく見ると頬には泥水の跡がついている。一刻も早く温泉に入りたいようで、急かすように山野さんの浴衣の裾を引いた。
「山野先生、早く入ろう。愚痴もたっぷり聞いてもらわなきゃいけないし」
「じゃあ、僕はこっちの先生と」
吉村くんが男湯を指し、お先にどうぞ、と笑いかけた。
まだ早い時間だからか、男湯にはほとんど人はいない。吉村くんは髪や体をざっと洗い流すと、「せっかくだから露天風呂いきません?」と言う。俺は窓の外を見た。
「そうだな。まだ雨は降ってるけど、もう小雨だ。庇もあるし、内側に寄っていれば雨もしのげる」
引き戸を開けると、立ちこめた湯気が解放されるように辺りを包む。循環泉の石造り式露天風呂は、晴れの日こそ景観はいいが、今日はあいにくの曇り空。雨粒も、風に流れてときどき湯面に落ちていく。
そのせいか、そこは俺たち以外に人はいない。
肩まで湯に浸かる。四つ折りにした手ぬぐいを、彼と同じタイミングで頭に乗せた。
「無事に帰れてよかったね。雨、大丈夫だった?」
「ゲリラ豪雨でした。運が悪かったです。山野先生、やっぱり心配してました?」
「そりゃもう。ま、俺があとでフォローしておくから何とかなるさ」
吉村くんは面目なさそうな顔で「よろしくお願いします」と丁重に頭を下げる。俺は軽く彼へと向き直った。
「それで? 野暮なこと聞くかもしれないけど、吉村くんと日野さんって付き合ってるの?」
年寄りのお節介というやつか。まだ若いつもりだが、現役高校生から見ると俺もおじさんに見えるかもしれない。まあ、彼らが恋人関係にあるかどうかなど毛ほども興味はないが。
「どうなんでしょうね。ただ目的が一緒なだけのお友達、みたいなものでしょうか」
そのわりに日野さんはあまり乗り気そうに見えなかったが、彼女なりに複雑なんだろう。
「目的っていうと、さっきしてたハイキングのことかな。あまり登って楽しい山には思えないけどね」
吉村くんはゆるやかに首を振った。
「というより、僕らはある場所を探していたんですよ。それがあの山にあると踏んだんです」
「ある場所?」
「ええ。写真展の日に話したフィルムの話は覚えていますよね。実はあれ、あの山で発見したものでして」
忘れるわけがない。相づちを打ちながら、手ぬぐいで汗を拭う。空気は冷えているが、露天風呂特有の温度で身体が温まってくる。
すぐ左方に天然竹の遮蔽垣があり、そこから女湯からの話し声が聞こえてきた。昔ながらの乙な造りとはいえ、気恥ずかしいものがある。吉村は話を中断し、そちらに目を向けた。
「隣、山野先生と咲子さんみたいですよ」
そう言うと、彼は湯船から立ち上がった。
「咲子さーん。そっちも貸し切りー?」
「おー。貸し切りだよー」のんびりした返事がやってくる。
「気をつけな日野さん。吉村くん、さっきどうやって竹垣上ろうかって言ってたよ」
「ちょっと先生、流石の僕もそんな思春期の中学生みたいなことしませんよ」
周囲がささやかな笑いに包まれる。
ひとしきり笑うと、吉村は湯船に浸かりなおした。
「ところで梶原先生。およそ一年前、この温泉街である事件が起きたのは知ってますか?」
何のこと言っているのか、すぐに分かった。むしろ、その事件のことはある意味俺が一番詳しいかもしれない。が、少し思案する顔をして答える。
「たしか、つい最近話題がぶり返したやつだね。若い女の子が父親に殺されたやつだ。県警に差出人不明の証拠写真が送りつけられてくるだなんて、なんとも眉唾な話だったが」
吉村はうなずく。口を開きかけると、竹垣の向かいから山野さんの声が聞こえてきた。
「そういえばこの街だったわね。殺されたの、千佳ちゃんって子だったかしら。本当にひどい事件よ、親が子を殺すだなんて」
すっかり話題を盗まれてしまったようで、女性陣は勝手に事件の話で盛り上がり始める。吉村くんは彼女らに聞こえないよう浴槽の奥にずれ、ささやくように続ける。聞かれたくない話らしい。
「はっきり言いますよ。例のフィルムから現像した写真、あれ、とある女性の死体ばかりを写したものだったんです」
俺も女湯に聞こえないよう声量に注意する。
「本当か? すごいなそれは。きな臭いとは思っていたが、まさに決定的だね。つまり吉村くんは……なんだ。この街で起きた事件の被害者とその死体写真の女性は、同一人物だって言いたいのか?」
「ご明察です。僕もあれから何度も被害者の出演していたファッション誌を見て回りました。そっくりとか、似ているとか、そんなレベルじゃない。まず同一人物と見て間違いないでしょう」
死体写真の入っていたフィルムが落ちていた山道を、吉村くんたちはゲリラ豪雨にやられながら歩き続けた。それが意味するところ。
「写真は、どこかの山小屋の中で撮られているようでした。壁や天井には穴が空き、地面にはびっしり苔が生えていた。今にも風に吹かれて壊れてしまいそうな感じでした」
「見つかったのかい、その山小屋は」
吉村くんは首を横に振った。
「残念ながら。ただ、ここにあったんだろうなという、そこだけ木の生っていないような空地はありましたけど。送られた証拠写真がきっかけで警察も現場検証に入ったでしょうしね。もうとっくに取り壊されたんでしょう」
それから彼は日の暮れたほの暗い空を見上げる。
「僕はあの死体写真に、ささやかに感動しているんです。一帯には月明かりが差し込んでいて、一種の退廃美を引き出していた。そんな中、綺麗な女性が醜く切り裂かれ、そこへ静かに横たわっている。こんな風に表現すると不謹慎ですが、何か一つの完成された作品を見せられたような、そんな印象を受けました」
「この前もそんなことを言っていたね。それを撮ったものはプロ並みか、それ以上の技術を有しているのではないかと」
俺は前髪をオールバックにあげ、額の汗を払う。吉村くんは、熱さを感じないみたいに汗一つかいていない。
「それで僕たちは一つの仮説を立ててみたんです。死体の撮影者はあの山の行き来する道中でフィルムを落とした。継続的に死体のもとへ訪れていたとすればその可能性は高い。したがって、死体の放置されていた小屋も、あの山のどこかにあるに違いないだろうと」
「その仮説と捜索のさなか、吉村くんたちは偶然にも俺たちに出会った。さらに偶然なことに、山野さんはともかくこの俺は、少なくとも職業として写真を扱っている。これは困ったね」
俺はまっすぐに彼の目を見返す。
「謎の『撮影者』の被疑者、俺もまた有力候補ってわけだ」
「ええ、立派な第一候補です。お察しが良くて助かります」
彼の挑戦的な口調は、あの頃の千佳を想起させた。なんて懐かしい感覚だろう。追いつめられながら、俺の胸は好奇心に踊っていた。
「補足として、あなたは今日、フィルムの一眼レフを使っていましたね。『デジタル・フォト』でも読みましたよ。プライベートの撮影ではほぼ100パーセント、フィルム一眼を使用されるのだとか。プレイベート、つまり趣味ですね。あなたは自主的に撮りたいと思うものを撮るとき必ずあのフィルムのカメラを使うんでしょう」
「つくづく頭が下がるよ、君の引用力は」
吉村くんは「頑張りましたから」と笑う。
「及ばずながら、あなたと被害者の接点もリサーチ済みです。同誌デジタルフォトでの、モデル『千明』に関する記述。そして――」もったいぶるように一呼吸置く。「容疑者が経営していたペンション、『グリーンアイビー』が紹介された旅行案内本。この奥付のキャスト一覧にもあなたが登場する。当時廃業寸前だったペンションが、あるとき何の理由もなく急に持ち上げられ、作為的にも思える復活を果たした」
その本は、彼女が殺されて間もなく発売された。悲しいことに、それをきっかけに成功した窓辺伸和は、一年と経たず警察に補導されてしまうのだが。
「こんな偶然がどこにありますか。事件の関係者について、あなたについて、調べれば調べるほど面白いように全てが繋がっていく。そこで梶原先生、改めてお聞きします」
俺はもう、彼から視線を外していた。
「一年前の事件が明らかになったこのタイミングで、あなたはかつての仕事仲間であるモデル『千明』殺害現場のすぐそばで、フィルムの落ちていた道を通り、首からフィルム一眼を提げて、よりによって山野先生を連れ……あなたは、何をしようとしていたんですか?」
そのあと、辺りは静寂に包まれた。夜空に浮かんだ月が立ち上る湯気で見え隠れする。
山野さんの笑い声が耳に届いた。そうか、と俺は思う。彼らはもう全てを見抜いていた。俺のこと。千佳のこと。そして山野さんのことも。
「いつから、俺を疑っていた?」
独り言のように言う俺に、吉村くんはふっと微笑みかける。
「最初から、だったのかもしれません。失礼を承知で言います。写真展でのあなたの作品が、あまりに嘘を吐きすぎていたからです。招待状の犬の写真が不器用ながら真実を切り取っていたのに対して、不自然なほど嘘っぽくて、つまらなかった。そのとき思ったんです。この人は僕たちと同じなんだって」
俺は今、追いつめられているのではない。救われているのだ。こうして手を差し伸べてくれる者を、心のどこかでずっと待っていた。一生理解されないのだと勝手に思い込み、周りを遠ざけてきた。己をひた隠し、それでも認められたくて、称賛されたくて、愚かにも自分を殺してきた。
「咲子さんも自分じゃ気づいていないけど、僕と似たもの同志だってことです。そしてあなたとも。絶対的に何かが不足し、渇いている。この渇望は他の誰にだって当て嵌まる。だから、人は食べて寝るだけじゃ人生に満足しない。何か特別な付加がなくては生きていけない。それでも、僕たちに与えられた渇きの種類は大多数のそれとは少しずれている。たったそれだけのことじゃないですか。誰しもが渇いているのなら、僕たちだって一緒です。隠すことも、ましてや恥じることなんて、何もない」
俺は手のひらで吉村くんを制した。まさかこの歳になって誰かから説教を食らうとは思わなかった。しかも十歳近く年下の子に。だが、彼の言うことには何一つ反論できそうにない。
「分かった。もう嘘は吐かない。君たちの想像にはなんら間違いはないし、認めるよ」
俺は湯船に縁に腰かけ、頭を下げた。水面に映る自分の顔が、滑稽に歪んだ。
「こんな場じゃなんだから、このあと二人で俺の部屋に来てくれ。ちょっと長くなるかもしれないが、全てを話すよ」
こみ上げてくる笑いを堪えるので大変だった。生きていればこんな出会いもあるのかと、楽しくて仕方がない。両手で湯を掬い、長風呂で渇いた喉に少量流し込む。わずかだが舌が水気で潤う。夜空に向けて、息を吐いた。