先輩、駅はそっちじゃありません。
一 頼れる先輩の現在地
「おかえり」
喫茶店のおばさんに言われた。
高峰先輩は足を止めず、小さく会釈した。
「どうも」
三分前にも、同じ挨拶をしている。
その前には「いってらっしゃい」と言われた。
僕たちは出発してから、一度も目的地に着いていない。
「高峰さん」
「うん」
「あのお店の前を通るの、三回目じゃないですか」
先輩の歩幅が、少しだけ狭くなった。
「……常連みたいになってきたね」
「一度も入ってませんけど」
高峰美月先輩は、僕の教育係だった。
二十六歳でイベント企画会社に転職した僕より、三つ年上。いつも紺色のジャケットをきちんと着て、髪を低い位置で束ねている。
入社して、まだ一週間。
その間に僕が見た先輩は、いつだって頼もしかった。
誰かが困っていると、その人が「困っています」と言う前に、必要な資料を机に置く。
会議が長引けば、誰も嫌な気持ちにならない順番で話をまとめる。
取引先から難しい注文をされても、すぐには断らない。
「その予算でしたら、装飾を増やす代わりに配布物を減らす方法があります。どちらを優先しましょうか」
僕なら「無理です」か「何とかします」の二択になりそうな場面で、ちゃんと三つ目の答えを出せる人だった。
入社初日には、こんなことも言ってくれた。
「分からないことは、早めに聞いてね。分からないまま進められる方が、あとで困っちゃうから」
その人が今、分からないまま商店街を三周している。
「……相川くん」
「はい」
先輩はようやく立ち止まった。
「ここ、どこだと思う?」
新人への質問としては、かなり難しかった。
僕はスマートフォンの地図を見た。
「目的地の北側ですね。さっきの角まで戻って、曲がれば着きます」
「北側」
「この向きです」
「それ、私たちが来た方じゃない?」
「そうです」
先輩は静かに目を閉じた。
仕事で重大な判断を下すときも、こんな顔をするのだろうと思った。
今決めるのは、来た道を戻るかどうかだけれど。
「一応、地図は見てるんだよ」
差し出された画面には、正しい目的地が設定されていた。
先輩は地図を回した。
次に、スマートフォンを回した。
最後に、自分が少し回った。
「ややこしくなったね」
「元に戻しましょう」
僕が元の向きに立つと、先輩も隣に並んだ。
「方向感覚が、あまりよくなくて」
「あまり」
「……だいぶ、よくなくて」
駅から徒歩五分の商店会館へ向かっている。
駅を出てから、もう十五分が経っていた。
僕が腕時計を見ると、先輩はすぐに言った。
「大丈夫。約束は十一時だから」
「まだ二十分以上ありますね」
「うん」
「迷う時間を含めて出発したんですか」
「何も起きなかったら、商店街の掲示物を確認する予定だったの」
危機管理は完璧だった。
管理している危機が、自分だった。
「会社の皆さんは、知ってるんですか」
「知ってる。現地集合のとき、私にだけ入口の写真が送られてくる」
僕は笑いそうになって、口を引き結んだ。
先輩はそれを見て、小さく息をついた。
「もうちょっと、頼れる教育係でいたかったな」
その声が、思っていたより本当に残念そうだったので、僕は慌てた。
「十分、頼ってます」
「喫茶店の前を三周したけど」
「それ以外のところで」
先輩は僕を見た。
それから、仕事の説明をするときとは違う顔で笑った。
「じゃあ、移動中だけお願いしようかな」
「はい」
僕は目的地の方を指した。
先輩は、反対側へ一歩踏み出した。
「そっちじゃないです」
「今のは、確認」
二 寄り道には理由がいる
一か月後、藤棚商店街で、まち歩きスタンプラリーを開催する。
それが、僕の最初の担当業務だった。
参加するのは、和菓子屋、書店、花屋、手芸店、そして喫茶こまどりの五軒。
どの店から回ってもよく、買い物をしなくてもスタンプを押してもらえる。五つそろった台紙を受付で見せると、商店会が用意した小さなお菓子の詰め合わせがもらえる。
目的は、普段は通り過ぎている店に、一度入ってもらうこと。
そう説明すると、書店のご主人は腕を組んだ。
「入るだけで、何も買わない人も来るんでしょう」
「はい」
「うち、そんなに広くないよ」
僕は用意していた資料をめくった。
参加者数の見込み。宣伝の方法。スタンプ台の設置場所。
どのページを出せば、相手の心配が小さくなるのか分からない。
先輩は資料を閉じたまま、カウンターの横を見た。
「ここで立ち止まられると、お会計のお客さんが通れなくなりますね」
「そうなんだよ」
「スタンプ台を入口側に寄せるのはどうでしょう。店内を見る方と、押して帰る方が分かれます」
「ああ。それなら、まあ」
ご主人の腕がほどけた。
先輩が話を進める隣で、僕は棚の端に置かれた文庫本を見ていた。
小さな紙に、手書きの紹介文が添えてある。
――眠れない夜に読むと、続きが気になってもっと眠れなくなります。
売り方として正しいのか分からない。
でも、ちょっと読みたくなった。
「あの」
二人がこちらを向く。
「間違っていたら、すみません」
「まだ何も言ってないのに、謝らなくて大丈夫」
先輩が言った。
僕は一度、口を閉じた。
それから言い直した。
「スタンプの横に、ご主人がおすすめする本を一冊置くのはどうでしょう。この紹介文も、一緒に」
「それで、売れるかな」
「そこまでは分かりません。でも、この文章を書いた人がいる本屋なら、また来たくなると思いました」
ご主人は少し黙った。
それから、問題の文庫本を持ち上げた。
「これはね、最後の三十ページがよくないんだよ」
「よくないんですか」
「やめられなくなる」
そこから本の話が十分続いた。
店を出たあと、先輩が僕の隣を歩きながら言った。
「さっきの提案、よかった」
「採用されるか、まだ分かりませんけど」
「うん。決めるのはお店の人だからね」
先輩は僕を見上げた。
「相川くんは、相手に断られる前に、自分で取り下げちゃうところがあるね」
「迷惑だったら、と思うので」
「断るかどうかも、相手に任せていいと思うよ」
僕は、手に持った資料の角を親指でなぞった。
前の会社では、営業の補助をしていた。
頼まれたものを、頼まれた形で、早く出す仕事だった。
自分から何かを持ち込むと、相手の仕事を増やす気がする。
その癖が、まだ抜けなかった。
「次は、先に謝らないようにします」
「そうして。何を言われるのか、ちょっと怖いから」
「すみません」
「あっ」
二人で笑った。
そのまま先輩が角を曲がろうとしたので、僕は声をかけた。
「先輩、次は花屋です」
「うん」
「その先は和菓子屋です」
「……昨日の続きに戻ろうとしてた」
仕事は一日ずつ進んでいたが、先輩の道順は、ときどき前日に戻った。
それからの僕たちは、よく二人で商店街を歩いた。
店の前の段差を測った。
受付に使う広場の電源の位置を確認した。
配布物を置ける場所を聞き、看板の見え方を撮影し、営業時間を何度も照合した。
僕が道を調べる間に、先輩は店の人との話をまとめる。
僕が質問の順番を見失うと、先輩が会話の途中に、自然に確認事項を差し込んでくれる。
打ち合わせが終わると、今度は僕の出番だった。
「駅まで、お願い」
「こちらです」
「知ってる道に見える」
「先週も歩いてます」
「じゃあ、知ってる道だ」
ある日の夕方、現地からそのまま帰っていいことになった。
日報を送り終え、駅へ向かおうとしたところで、先輩が喫茶こまどりの窓をのぞいた。
「プリン、まだある」
「そうですね」
「あと二個だって」
「ちょうどですね」
言ってから、何がちょうどなのかと自分で思った。
先輩が振り返る。
「相川くん、急いで帰る?」
「いえ」
「じゃあ、常連になっていこう」
初めて来た日に三度通り過ぎた店に、僕たちはようやく入った。
店主のおばさんは水を置くとき、先輩に尋ねた。
「今日はちゃんと着いたの?」
「入店を目的に来ました」
「それはよかった」
先輩は胸を張った。
僕はメニューで口元を隠した。
プリンは、銀色の脚付きの器に載って出てきた。
しっかり固まった生地の上で、クリームが少し傾いている。
先輩はそれをスプーンですくい、一口食べた。
「……おいしい」
昼間、見積もりを確認していた眉間のしわがなくなった。
僕は自分のプリンを食べるより先に、その顔を見てしまった。
「何?」
「いえ。ずいぶん印象が違うなと」
「仕事してるとき?」
「はい」
「仕事してるときは、プリンがないからね」
説明としては、完璧だった。
僕が熱いコーヒーに手を伸ばしかけると、先輩は自分の水を飲みながら言った。
「それ、まだ熱いと思う」
「どうして分かるんですか」
「この前も、最初の一口で無言になってたから」
覚えていたのか、と思った。
先輩はきっと、そういう人なのだ。
後輩が困っていないか、いつもよく見ている。
そう考えると、嬉しさの置き場所がきちんと決まる。
はみ出しそうになるたび、僕はそこへ戻した。
「高峰さんが教育係で、よかったです」
先輩はスプーンを止めた。
「……プリン食べてるときまで、面談しなくていいんだよ」
「そういうつもりじゃ」
「うん」
先輩は、器の底に残ったカラメルをすくった。
「私も、相川くんと歩くの、好きだよ」
手の中のカップが急に持ちにくくなった。
先輩は窓の外を見ていた。
道の向こうで、花屋の人が鉢植えを店内に運び込んでいる。
仕事がしやすい、という意味だろう。
道に迷わなくて済む、という意味かもしれない。
そのどちらでもなかった場合については、まだ考えないことにした。
帰り際、店主のおばさんがレシートを分けてくれた。
「領収書じゃなくていいの?」
「はい。今日は、仕事じゃないので」
先輩はそう言って、自分の財布を開いた。
僕はレシートを受け取りながら、さっきの言葉の置き場所を、もう一度探した。
三 分からないことは聞いてください
僕の作った案内地図は、なかなかよくできていた。
少なくとも、作った直後の僕はそう思っていた。
五軒の店を線で結び、曲がり角には目印を添え、最も短く回れる経路も示す。
余計な情報を削り、一枚に収めた。
上の方には、少し大きめの文字でこう書いた。
――最短ルート、徒歩十八分。
高峰先輩は机に地図を広げ、しばらく眺めていた。
「明日の下見、私一人で歩いてみてもいい?」
「一人で、ですか」
「その確認、ちょっと傷つく」
「すみません」
「うん。でも、必要な確認だったね」
先輩は苦笑した。
「今までは、相川くんがずっと案内してくれたでしょ。これを読んで着けるかは、一度も試してないから」
「僕が少し後ろを歩きましょうか」
「それだと、分からなくなったら振り返っちゃう」
先輩は地図を折った。
「まずは一人でやってみる。迷ったら、その場所と理由を記録するね」
正しい提案だった。
印刷に出す前には、現地で確認が必要だ。
その間に、僕も別の資料を進められる。
何一つ、困ることはない。
それなのに翌朝、先輩が一人で会社を出ていったあと、僕は何度も時計を見た。
昨日までは、この時間になると「そろそろ行こうか」と呼ばれていた。
その声がないだけで、机の周りが妙に広かった。
昼前、電話が鳴った。
高峰先輩からだった。
「相川くん。今、話せる?」
「はい」
一拍、間が空いた。
「私、また迷ってる」
いつもの、仕事の声ではなかった。
「……道、教えてくれる?」
僕は地図のデータを開いた。
「今、どの辺りですか」
「書店を目指してた」
「周りに何が見えます?」
「猫」
「できれば、移動しないもので」
「座った」
「そういうことではなくて」
電話の向こうで、先輩が小さく笑った。
それで、少し安心した。
送ってもらった写真を見ると、先輩は書店の一本裏の通りにいた。
地図に「緑のひさし」と書いた角には、向かい合うように緑色のひさしが二つあった。
僕は曲がる場所を知っているから、目的の方しか目に入っていなかった。
先輩は、進行方向の手前に見えた方を目印にしてしまったのだ。
電話で道順を伝えると、ほどなく書店の看板が見えたらしい。
「あった」
「よかったです」
「うん。……ありがとう」
少しだけ、声が軽くなった。
そのあと先輩は残りの店も回り、午後、僕たちは予定していた設営場所の確認で合流した。
商店会館の前で待っていた先輩は、地図を両手で持っていた。
折り目が増えていた。余白には、細かい文字で時刻や迷った場所が書き込まれている。
「書店のところ、何分くらい迷ったんですか」
「電話するまで、十二分」
「すぐにかけてくれても、よかったのに」
「うん」
先輩は地図を見たまま答えた。
「一人で試すって、自分で言ったから。できないと、申し訳ない気がして」
「できるかどうかを確かめるための下見ですよね」
「そうなんだよね」
先輩が笑った。
さっきの電話の笑い方より、少し弱かった。
僕たちは会館の外のベンチに座った。
地図を広げると、先輩の膝の上で、角が風にめくれた。
僕は自分の資料で端を押さえた。
「私、今日のこれだけじゃなくて」
先輩がぽつりと言った。
「今までも、ちょっと申し訳なく思ってた。駅までとか。もう道は分かるだろうってところまで、いつもお願いしてたから」
僕は、風に浮いた地図の端を指で押さえ直した。
駅まで送ることを、面倒だと思ったことはなかった。
むしろ、駅がもう少し遠ければいいと思う日が増えていた。
でも、その説明は難しかった。
「頼まれて、嫌だったことはないです」
「そう?」
「はい。先輩に教えてもらうばかりなので。僕にもできることがあって、嬉しかったです」
先輩はこちらを向いた。
「……そっか」
指先が、折り目をゆっくりなぞった。
「ありがとうって言えばよかったんだね。勝手に迷惑だと思う前に」
その言葉に、僕も少し身に覚えがあった。
先輩は背もたれに軽く寄りかかった。
「分からないことは聞いてって、私が言ったくせにね」
「そうですね」
「そこは、遠慮しないんだ」
「先に謝らない練習中です」
先輩が笑った。
今度は、いつもの顔に近かった。
僕は地図の「緑のひさし」に赤い線を引いた。
「ここは、お店の名前に変えます。写真もあった方がよさそうですね」
「うん。ただ、私一人が迷っただけで、どこまで直すか決めるのも早いから。他の人にも歩いてもらおう」
僕がうなずくと、先輩は地図の上部を指した。
「それと、これ」
「徒歩十八分ですか」
「うん。時間の目安は必要なんだけど、大きく書くのは、別のことでもいいかなって」
「別のこと?」
「書店で何を見てほしいか、とか。こまどりで何を食べてほしいか、とか」
通りの向こうで、手芸店の店主が、軒先に布の見本を並べていた。
一枚ずつ広げて、少し離れて眺め、また並べ直す。
「歩くだけなら、十八分で回れる。でも、本の話をしてたら、それだけで十分かかったでしょ」
「はい」
「プリンを食べたら、もっとかかる」
先輩は地図の端を指先で押さえた。
「せっかく来てもらうんだから。十八分で帰すのは、もったいないなと思って」
僕は「最短ルート」の文字を見た。
分かりやすく、無駄なく、相手の時間を取らないように。
いつも、それが親切だと思っていた。
僕は赤いペンで、その文字を囲んだ。
「『最短』は、やめます。歩く時間は目安として残して、お店に立ち寄る時間は別だって分かるように」
「うん」
「空いたところに、おすすめを入れましょう。書店なら、本の紹介文。こまどりなら、プリン」
「プリンは売り切れるから、そこは確認しようね」
先輩はすぐ、仕事の顔になった。
こういうところが、好きだと思った。
そのときはもう、別の言葉に置き換えられなかった。
四 道を聞けるまち
翌日、商店街に来たことのない同僚三人に、地図を持って歩いてもらった。
一人は、問題なく回れた。
一人は、書店を通り過ぎた。
もう一人は喫茶店の裏口に着き、入っていいのか迷って引き返した。
「私だけじゃなかった」
結果を聞いた先輩は、少しほっとしたあとで、すぐに座り直した。
「安心してる場合じゃないね」
「はい。二人、お店に入れていないので」
僕たちは地図を直した。
目印には、曖昧な色ではなく看板の名前を入れる。
初めて来る人が実際に見る向きから、入口の写真を撮る。
道順を一つに決めすぎず、どの店から回ってもいいと大きく書く。
地図は表に、店の入口の写真や紹介は裏にまとめた。
歩く時間の目安には、買い物や休憩の時間を含まないことも添えた。
先輩は、説明の下に短い文章を加えた。
――分からなくなったら、参加店でこの紙を見せてください。
「声をかけてもらうだけなら、元の案内にも書いてましたよね」
「うん。でも、『何が分からないか説明しなきゃ』って思うと、ちょっと聞きにくいから」
先輩は、自分が試し歩きに使った地図を取り出した。
折り目の真ん中が、少し毛羽立っている。
「紙を見せるだけで、道に困ってるって伝わったら、楽だったなと思って」
僕はうなずいた。
参加する五軒にも相談し、店の前には共通の小さな旗を出してもらうことにした。
店同士で案内するときに使えるよう、入口の写真を並べた一覧も渡した。
書店のご主人が、その紙を見ながら言った。
「実は私、手芸屋さん、表から入ったことないんだよ」
「お隣の通りですよね」
「裏から行く方が近いから」
先輩が、深くうなずいた。
「表からだと、初対面みたいになりますよね」
ご主人は少し考えてから、
「いや、店は分かるよ」
と言った。
そこは先輩だけだった。
印刷に出す前に、僕たちはもう一度、全部の道を歩いた。
喫茶こまどりの前では、おばさんが印刷見本を見て、余白を指した。
「ここ、もうちょっとお店の説明を入れなくていいの?」
「まず、地図を見つけやすくしたくて。お店の紹介は、裏にまとめました」
僕が答えると、おばさんは紙を裏返した。
「ああ。これなら字も大きくできるね」
僕は内心で息をついた。
隣で先輩が、何も言わず、小さく親指を立てていた。
帰り際、会館の前で先輩がスマートフォンを構えた。
「何を撮ってるんですか」
「駅までの道。自分用に」
先輩は、進行方向の写真を撮った。
角を曲がるところで、もう一枚。
「毎回、違うお店から帰ると混ざっちゃうから。まず、会館から駅までだけ覚えようと思って」
僕は隣で、先輩が写真に短いメモをつけるのを待った。
赤いポストまで進む。
小さな広場の前で曲がる。
その先の階段が駅。
「帰り道の説明書ですね」
「うん。私にも分かるやつ」
先輩は満足そうに保存した。
そのあとも何度か通るたび、先輩が前を歩き、僕が答え合わせをした。
初めは写真を一枚ずつ開いていたけれど、最後の下見の日には、途中で画面を見なくなっていた。
イベント当日は、よく晴れた。
受付のテントを広げ、台紙を並べ、スタンプのインクを確かめる。
先輩は進行表を片手に、店舗からの連絡と、スタッフの確認事項を順番にさばいていた。
「予備の台紙は、受付の箱にあります」
「景品は、スタンプ五つを確認して、台紙に引換済みの印を押してからお願いします」
「その看板、もう少し店側に寄せましょう。通る方の幅を空けたいので」
僕の名札が裏返っているのにも気づいた。
「相川くん、名前が留守」
「あ、ありがとうございます」
直す間に、先輩は別のスタッフへ返事をしている。
本当に、頼れる人だった。
十時になると、少しずつ人が集まってきた。
親子連れが、地図を二人で持って歩いていく。
年配の夫婦が、最初の一軒を相談している。
散歩の途中らしい人が、旗を見つけて受付に寄ってくれる。
僕は広場と各店の間を歩き、台紙の残りや、人の流れを確認していた。
昼前、書店の角で立ち止まる人が増えた。
近くの建物に荷物を運ぶ車が停まり、案内板が見えにくくなっていたのだ。
車はほどなく動く予定だったが、しばらく別の位置から案内する必要があった。
道順を説明しながら、僕は看板を移す場所を探した。
「あの、本屋さんはこちら?」
「はい。この角を――」
「お兄さん、和菓子屋さんは反対?」
「和菓子屋さんは、ひとつ手前の――」
電話が振動した。
手芸店から、予備の台紙についての問い合わせだった。
僕は端末を見て、それから目の前の人たちを見た。
これくらい、自分でできるはずだ。
先輩は受付で忙しい。
そう考えて、一度、指を止めた。
手芸店にはすぐ折り返すと伝え、別の連絡先を開いた。
「高峰さん、書店の角に応援をお願いできますか。案内板を移す間、道案内をしてほしいです」
『了解。受付は交代できるから、私が行く』
「ありがとうございます。書店の北側の――」
『相川くん』
「はい」
『私にも分かる説明で、お願いします』
僕は目の前を見回した。
「赤いポストの隣です。向かいに、お茶の大きな看板があります」
『分かった。それなら行ける』
先輩は、ちゃんと来た。
そのことに少し感動していると、僕の顔を見た先輩が言った。
「今、来られたことを褒めようとした?」
「いえ」
「よろしい。看板、お願い」
先輩は、入口の写真を並べた案内表を取り出した。
そして、地図を持った女性の隣に並ぶ。
「書店ですね。一緒に確認しましょう」
正面から紙をのぞき込むのではなく、同じ向きに立って指をさす。
女性が、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさいね。こういうの、苦手で」
「私もです」
「あら、そうなの?」
「初めてここに来たとき、同じ喫茶店の前を三周しました」
「三周も」
「なので、この地図はけっこう念入りに直しました」
女性が声を上げて笑った。
先輩も笑った。
僕が初めて知ったときのように、恥ずかしそうにはしなかった。
看板を移し終えると、先輩は新しい位置の写真を撮り、他のスタッフへ送った。
僕には手芸店へ折り返すよう促し、自分はその場に残った。
全部を一人でやろうとした数分前より、物事がずっと早く進んだ。
午後、様子を見に入った書店で、ご主人に呼び止められた。
「さっき、変わった人がいたよ」
「何かありましたか」
「スタンプ忘れて、本だけ買っていった」
僕が返事に迷っていると、ご主人はレジの脇を指した。
あの文庫本が置かれていた場所に、別の本が立てかけられている。
「売れたんですか」
「うん。二冊」
「よかったですね」
「まあ、ラリーとしては失敗かもしれないけど」
そう言う顔は、少しも困っていなかった。
僕は外に出て、先輩へ報告のメッセージを送った。
すぐに返事が来た。
――それ、今日いちばん嬉しい。
続けて、もう一通。
――こまどり、プリン完売だそうです。
少し間が空いて、さらに一通。
――嬉しいことです。
僕は笑って、電話をしまった。
五 駅までの道
イベントが終わり、旗を回収し、テントを片づけた。
残った台紙を数え、備品を箱に戻し、商店会の人たちと忘れ物を確認する。
すべてが終わったころには、広場の影がずいぶん長くなっていた。
「お疲れさま」
先輩が、缶のお茶を差し出した。
「熱くない方にしておいた」
「助かります」
僕たちは会館の外のベンチに腰を下ろした。
開けた缶から、かすかにお茶の匂いがした。
足の裏が少し痛い。肩も重い。
それでも、もう一度くらい商店街を歩けそうな気がした。
「今日、応援を呼んでくれて嬉しかった」
先輩が言った。
「忙しいところを、すみませんでした」
「あ」
「……ありがとうございました」
「うん。どういたしまして」
先輩は笑い、お茶を一口飲んだ。
「頼ってもらえると、動きやすいんだよ。何に困ってるか、分かるから」
「僕も、先輩から道を聞かれたとき、そうでした」
「北側って言われたときは、動けなかったけど」
「そこは次回、改善します」
僕たちは、通りを眺めた。
イベントの旗がなくなった商店街は、先週までと同じ景色に戻っていた。
でも、書店の入口には、手書きの紹介文がひとつ増えている。
花屋の前を、スタンプの台紙を持った子が走りかけて、親に呼び止められた。
その子は立ち止まり、今度は手をつないで歩き出した。
「楽しかったね」
先輩が言った。
「はい」
僕は缶の縁を指でなぞった。
明日からは、この商店街を毎日歩く理由がなくなる。
報告書は会社で作れる。
精算も、反省会も、駅へ向かわなくたってできる。
先輩が教育係であることは変わらない。
隣の席にも、変わらずいる。
でも、プリンを食べたときの顔を見るには、何か別の理由が必要になるのだと思った。
先輩が立ち上がった。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
僕も立ち、空き缶を片づけた。
会館を出たところで、先輩が道の先を指した。
「今日は、一人で駅まで行けるよ。まず、あのポスト」
「正解です」
「その先の広場で曲がる」
「はい」
「ほらね」
先輩は、少し得意そうだった。
「別の場所から出発したら、またお願いすると思うけど」
「こちらも、いつでもどうぞ」
笑ったあと、短い沈黙が落ちた。
先輩がもう一度、駅の方を見る。
ちゃんと、正しい方だった。
僕は、この人が一人で駅へ行けるようになってよかったと思った。
それとは別に、まだ帰りたくなかった。
道に迷ってほしいわけじゃない。
困っていなくても、隣にいたかった。
「高峰さん」
「うん」
先輩が振り返る。
迷惑だったら。
予定があったら。
仕事の相手としてしか見ていなかったら。
頭の中に、相手が断るための言葉がいくつも浮かんだ。
それを僕が先に言う必要はないのだと、ようやく思えた。
「このあと、お茶しませんか」
先輩が僕を見た。
「今日の反省会?」
「いえ」
僕は一度、息を吸った。
「仕事じゃなくて。高峰さんと、デートしたいです」
先輩の目が、少しだけ丸くなった。
さっきまで何十件もの確認に答えていた人が、返事をしなかった。
僕は、通り過ぎる自転車の音を聞いた。
隣の店でシャッターを下ろし始めた音も聞こえた。
自分の心臓だけは、できれば聞こえないでほしかった。
「……プリン、ないよ」
先輩が言った。
「知ってます」
「私、駅まで一人で行けるよ」
「はい」
「じゃあ、本当に、仕事でも道案内でもないんだ」
僕はうなずいた。
「高峰さんが好きなので」
先輩は口元に手を当てた。
少しだけ下を向いて、それから困ったように笑った。
「そういう大事なことは、もう少し早く聞きたかったな」
「すみま――」
言いかけたところで、先輩が人差し指を立てた。
僕は口を閉じた。
先輩は、その指をゆっくり下ろした。
「私も、相川くんが好き」
今度は、僕の方が返事を忘れた。
先輩は視線を少し泳がせてから、駅とは反対側を見た。
「書店で本の話を聞いた日、帰り道もずっと楽しそうに話してたでしょう」
「はい」
「あれ、もっと聞きたかった。その本の話が終わっても、別の話をしてほしかった」
先輩がジャケットの袖口を整えた。
整える必要は、たぶんなかった。
「道を聞くのは、少しずつ平気になったんだけどね。ただ一緒にいたいって言うのは、なかなか」
僕は先輩の横顔を見た。
「相手の返事まで、こっちで決めなくていいって言ったの、私なのにね」
僕は笑った。
「先輩にも、研修が必要ですね」
「うん。実地でお願いできる?」
僕はうなずいた。
先輩が、ほっとしたように肩を下げる。
「じゃあ、こまどりに行こう。プリンはないけど、ホットケーキはある」
「確認済みなんですか」
「昼に。今日は七時までやってるって聞いたから。終わったあと、寄れたらいいなと思って」
「二人で?」
「……そういう確認は、今日は一回までにして」
先輩は少し赤い顔で、歩き始めた。
駅とは、反対の方だった。
「先輩」
「何?」
「駅はそっちじゃありません」
先輩は足を止めた。
そして今度は、少しも困らずに笑った。
「知ってる」
僕が追いつくと、先輩は歩き出さず、僕の手の近くに自分の手を下ろした。
ほんの少し、指が触れた。
僕はその手を見てから、先輩を見た。
「つないでも、いいですか」
「うん」
仕事中は書類をめくり、電話を取り、誰かに道を示していた手が、僕の手の中に収まった。
歩き始めると、先輩の歩幅は、思っていたより小さかった。
僕は少しだけ、ゆっくり歩いた。
喫茶こまどりの前では、店主のおばさんが看板を拭いていた。
僕たちを見て、初めて来た日と同じように笑う。
「おかえり」
今度は二人で、店のドアを開けた。
その帰り道、僕たちは一度も道を間違えなかった。
駅に着くのが、ずいぶん遅くなっただけだ。
「分からないことは聞いてください」と言うのは簡単ですが、自分が聞く側になると、なぜか急に難しくなることがあります。
さっき教えてもらったばかりだし。
忙しそうだし。
これくらい、一人でできるはずだし。
そんなふうに同じ場所を何度も回ってしまうのは、道に迷うときだけではないのかもしれません。
この二人には、得意なことを交換しながら、苦手なことも少しずつ見せ合ってもらいました。
ただ、好きな人にずっと困っていてほしいわけではありません。
道を覚えても、仕事が終わっても、一緒にいたい。
その気持ちを伝えるための案内図だけは、自分たちで作ってもらうことになりました。
なお、喫茶こまどりのプリンは売り切れましたが、二人は無事に入店できました。
今度こそ、ちゃんと常連になれそうです。
お読みいただき、ありがとうございました。




