第20話 春の村で、私は私の未来を選ぶ
アルトハイム村に、二度目の春が来た。
工房の壁に、二枚の紙が並んで貼ってある。赴任辞令と、王認薬房の認可状。辞令のほうは角が折れている。一年前、鞄に入れた時についた折り目だ。
棚には薬が並んでいる。カミツレの傷薬。ヤナギランの解熱膏。イブキジャコウソウの煎じ液。コケモモの消炎膏。アルニカの冷湿布。竹筒は全て陶器の瓶に替わった。ゲオルクが軍の備品を融通してくれたのだ。
弟子が三人いる。近隣の村から来た若い女の子たちで、薬草の見分け方から教えている。エミルも時々混じるが、すぐ飽きて蟻を観察し始める。
四人目が来たのは、四月の半ばだった。
工房の前に、女の子が立っていた。
栗色の髪を簡素にまとめて、旅装のまま。顔色が悪い。痩せている。腕に包帯が巻かれている。——まだ治りきっていない。
「フィーネ、さん」
声が小さかった。
マルグリット・セレーナ。聖女の紋章は外している。ただの旅人の格好だった。
「私を——弟子にしてもらえませんか」
震える声だった。手紙の字と同じ震え方。
半年前の手紙を思い出した。「助けて」。たったそれだけの手紙に「辺境に来てください」と返した。マルグリットは来た。ライアスの称号が剥奪された後、神殿を辞め、一人で辺境まで歩いてきたのだという。
来たのだ。
自分の足で。
「一つだけ、約束してもらいます」
マルグリットが顔を上げた。
「ここでは、自分で考えて、自分で動くこと。誰かの言いなりにはさせません。——私も、させてもらいません」
マルグリットの目が潤んだ。頷いた。声が出なかったのだろう。
エプロンを渡した。工房の予備のやつ。少し大きいが、紐で調節できる。
「まず、手を洗って。カミツレの仕分けから始めましょう」
午後。
ヴォルフの従者が工房に来た。
「辺境伯がお呼びです。丘のほうに来てほしいと」
丘。村の裏手にある、見晴らしのいい高台。井戸の水源を探した時に登ったことがある。わざわざ丘に呼ぶとは何だろう。
薬草を弟子に任せて、丘を登った。四月の風が温かい。足元にはタンポポが咲いている。去年はなかった。井戸が直って水が行き渡り、地面が潤ったせいだろう。
丘の上にヴォルフが立っていた。
コートを着ていない。白い麻のシャツに、黒い上着。風で髪が乱れている。
眼下にアルトハイム村が広がっていた。
煙突から煙が上がっている。数えた。去年は片手で足りた。今は十二本。人が増えたのだ。畑には緑の芽が出ている。井戸の前でエミルが走り回っているのが小さく見える。春祭りの準備だろう、広場に旗が立てられている。
「いい村になった」
ヴォルフが言った。村を見下ろしたまま。
「あなたのおかげでもあります」
「違う。お前が変えた」
間があった。
ヴォルフが村から目を離して、私を見た。
「最初にここに来た時、俺はお前を利用するつもりだった」
知っている。計画書を見た。証人候補。第一。
「告発の駒として。お前の過去を使って、勇者を追い詰める。そのために近づいた」
声が硬い。いつもの簡潔な言い方ではなく、一語ずつ絞り出すように話している。
「だが——計画が狂った」
査問会議の帰りの馬車でも、同じことを言った。あの時は窓の外を見ていた。今は私を見ている。
「お前が村を変えた。井戸を直して、薬を作って、子どもたちに笑顔を返した。精霊に好かれて、疫病を止めて、敵だった人間に手を差し伸べた。——俺の書斎に、魔法薬学の本が五冊増えた」
「本?」
「お前の話を理解したかったんだ。薬の話をされても、俺には何も分からなかった。だから——本を買った」
五冊。
あの夜——泣いて、振り返らなくて、本棚を見なかった。あの時からずっとあったのか。
「カミツレの医療応用とか、そういう……?」
「ああ。精霊と薬効の関係性が一番面白かった。——いや、今はそういう話じゃない」
ヴォルフが一度口を閉じた。それから、吐くように言った。
「年齢を理由に距離を置こうとした。十五歳の少女に対して、この感情は不適切だと」
秋祭りの焚き火の夜。あの時、ヴォルフの影が灰に何かを描いていた。あれは——。
「だが——惹かれたのは年齢ではない。自分の人生を自分で選び取る、お前のその——」
言葉が詰まった。
ヴォルフは言葉にするのが苦手だ。剣を振るほうが得意で、法典を引用するほうが得意で、精霊に嘘をつくほうがまだ上手い。
「……強さだ」
ようやく出た。
間があった。春の風が吹いた。丘の下から子どもたちの声が聞こえる。
「俺の傍にいてくれ。これは契約でも命令でもない。ただの——」
目を逸らした。
この人が目を逸らすのを、初めて見た。
井戸の時も、焚き火の時も、毛布の夜も、計画書を見つけた時も、査問会議の時も、この人は正面を向いていた。逸らさなかった。
今、初めて。
「——願いだ」
目を逸らしたまま、言った。声がかすれていた。
風が吹いた。
タンポポの綿毛が舞い上がった。
前の人生では、「お前が必要だ」と言われて動いていた。必要とされることが存在理由だった。でもそれは、私の意志ではなかった。鎖だった。
今、この人は「必要だ」とは言わなかった。
願いだ、と言った。
契約でも命令でもない。受けても断っても、この人は私を追わないだろう。工房の前で毎朝足を止めて、私がまだここにいることを確認して、それだけで歩いていくだろう。
だから。
だから、自分で決める。
手を伸ばした。
ヴォルフの手に触れた。大きくて、硬くて、少しだけインクの匂いがする手。
「一度目の人生では、誰かに『お前が必要だ』と言われて動いていました」
ヴォルフが私を見た。逸らした目が戻ってきた。
「でも、それは私の意志じゃなかった」
手を握った。
「今度は、私が自分で選びます」
息を吸った。春の空気が肺を満たした。花の匂い。草の匂い。遠くの焚き火の匂い。
「——はい。ヴォルフの傍にいます」
呼び慣れない名前が、口から転がり出た。「様」をつけ忘れたのではない。外したのだ。
ヴォルフの手が、握り返してきた。
強く。でも痛くない。毛布をかけてくれた時の手。荷物を持ち上げた時の手。樽を運んだ時の手。精霊を撫でた時の手。拳を握りしめていた手。
全部、同じ手だった。
ポフが飛んできた。どこに隠れていたのか、丘の草の中から三匹が同時に跳ね上がって、私たちの周りをくるくる回り始めた。モフとフワも一緒だ。淡い光を放ちながら、春の風に乗って踊っている。
丘の下から、祭りの音楽が聞こえ始めた。誰かがヴァイオリンを弾いている。下手だが、楽しそうだ。
ヴォルフが口を開きかけて、閉じた。また開いた。
「……あの夜。毛布を——」
「知ってます」
「起こしたくなかった」
「知ってます」
「ペンは——あれは」
「あ、やっぱりあのペン、あなたが折ったんですね」
ヴォルフが黙った。コートの襟に顔を埋めようとしたが、今日はコートを着ていなかった。行き場を失った顎が宙に浮いて、仕方なく正面を向いた。
耳が赤い。
この人は、耳から赤くなるのだ。知らなかった。
笑った。
声を出して笑ったのは、この村に来て何回目だろう。
王都の、安い酒場。
夕方の光が汚れた窓から差し込んで、テーブルの傷を照らしていた。
男が一人、杯を傾けている。
金色の髪は乱れたままだ。服は仕立てが良いが、手入れがされていない。袖口が擦り切れている。
隣の席は空いている。向かいも空いている。
誰も声をかけない。半年前なら、この酒場に勇者が来ればざわめきが起きただろう。今は誰も気づかないか、気づいても避けている。
男が杯を置いた。
「真実の愛」
呟いた。
誰も振り向かなかった。
窓の外を、春の風が通り過ぎた。花びらが一枚、汚れた窓ガラスに張りついて、すぐに落ちた。
酒場の喧噪の中で、男は一人だった。
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