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ある朝、リリィはハッとして飛び上がった。
いつもは昼に近付いた頃、メイドに起こされてやっと目を覚ますリリィであるけれど、この朝ばかりは異様なほどに早くに起きた。
そしてやはり異様な様子でベッドの上、暫くの間、呆然としていたのである。
開く瞳孔。ワナワナと震える手が、やがて口元に添えられる。真っ青になった顔色で、リリィは思った。どうしよう、と。
「ど、どうしよう……」
いつも通りに寝て起きただけなのに、地球という星、日本という国。多分前世と思われる記憶を取り戻してしまった公爵夫人は絶望した。
「このままだと、旦那様に嫌われる……っ!!」
ある朝。公爵邸、麗らかな朝のことであった。
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リリィことリリアーナは、元はここ西王国の王女であった。
それはそれは我儘なお姫様であった。
父と母、そして五人の兄に囲まれた末っ子長女。
王位継承権とは殆ど関係のない女の子ということもあって、幼い頃からリリィはとにかく甘やかされて育ったのである。
山ほどのドレスに甘い甘いチョコレート。リリィが黒といえば白鳥も黒になる世界。
おやつの時間になればその日の気分でお供を選ぶ。授業中の兄の部屋に突撃したり、温室で花を愛でる母の手を引くなど可愛いものだった。日によっては父こと、仕事中の国王のところで「やだやだお父さまとおやつ食べるーーっ!!」と駄々を捏ねたものである。
本当であればそこでしっかりと叱られるべきだったのだろうが、何というか、王城は本当にリリィに甘かった。
リリィが幼い頃から、それこそ天使のようだとたとえられる可愛らしい子供であったことも理由であったのだろう。
リリィがひとたびその黄金の瞳に涙を溜めて、「リリィのことがきらいなの?」と悲しいふりをすれば、大人達はでれっとまなじりを下げて「まさかまさか」とリリィのお願いを聞いてくれたのだ。
会議中の父の膝に乗ってケーキを食べたことも、数えきれないほどにある。
今にして思えば、リリィは全く嫌な子供であった。何せ幼い頃からの特技が嘘泣き。
時にはパーティーさえ気が向かないと「いやっ!」と拒否して侍女とままごとをして遊ぶ。
───侍女は何よりもリリィのお願いを最優先するよう言い付けられているので、しっかりリリィの妹役になっていた。
お気に入りのクマちゃんのぬいぐるみの目を「一番綺麗なきらきらにするの!」と騒いでは、宝石探して宝物庫を上から下までひっくり返す。
───クマちゃんの目には無事に国宝のイヤリングが解体されて、でっかい青い宝石が収まった。
ちょっと大きくなってオシャレに興味が出ると、「東国の絹が欲しいあれじゃなきゃやなの!」とさめざめお父様の膝に泣き付いて、急遽敵国に対して使節団が派遣される流れになる。
───幸い使節団達が優秀だったので、絹どころか国家間の関係が回復し、敵国が同盟国になった。
リリィが「これが欲しい」と指さして、叶わなかったことはなかった。
リリィが「これが嫌」とほろほろ泣いて、叶わなかったことはなかった。
リリィが泣くと父も母も、普段は王位を争って微妙な関係にある兄達も集まって、おろおろと慌ててくれるのだ。
リリィはその度にきゅるりんっと黄金のお目目をぱちぱちして、「実はぁ……」とおねだりをすれば良い。それだけで過程も結果も勝手に周りが作ってくれる。
リリィにとって、世界は自分を中心に回っているものだったのである。
で、そんなリリィが16歳の頃、とうとうはじめての恋をした。
傭兵上がりの新興貴族。戦争で爵位を得た英雄。褐色の肌。肩に付くかという長さの金の髪、青の目を持つヴァン・ヴェルナー。
元々は平民どころかこの国の民でさえなかったというけれど、傭兵稼業をするうち流し流されこの国へ。そうして英雄になったのだ。
ほんの十人だけを率いて城を落とすという、前代未到の大偉業を成し遂げたことを皮切りに、数多くの戦果をあげて勝利に貢献した。
国も流石にそんな人材を放っておくわけにもいかない。爵位と領地と財産を与えることでこの国に繋ぎ止めようとするのは当然の流れで、英雄の凱旋式が行われるのも至極当たり前のこと。
リリィはそこで、ヴァンの姿を見たのだ。
当時リリィは16歳。ヴァンは25歳。温室育ちのリリィがはじめて見る類の男。正装に身を包んでもどこか荒々しくて、顔立ちだけを見ればひどく端正で舞台俳優のようでもあるのに、纏う空気に獣のようだと感じさせられた。
リリィの知っている男といえば、社交界に出現する王侯貴族。スマートで爽やかな貴公子達。
騎士の家系だってある。剣を持って戦う者ももちろん居た。けれどヴァンはその誰とも違っていた。鋭く磨かれた剣のような男。
リリィは一目で彼の虜になった。
要するに、一目惚れである。
要するに、超初恋である。
人生はじめての恋に落ちたリリィはすごかった。
美しく可憐で王族としての自覚と威厳に満ちている。そんな物は言いようの評判で数多の求婚をされ、そしてその度に「タイプじゃない……」と言って断ってきたリリィ。
社交界には「王女様は結婚に消極的らしい」と噂されるほどであった末っ子長女のお姫様は。
初恋に目覚め、何が何でもヴァン・ヴェルナーと結婚せんと決意を固めた乙女になったのだ。
我儘お姫様の本領発揮である。
いくら何でも元平民はちょっと、と渋る両親。当然である。
しかし王女は一歩も引かなかった。「やだやだやだヴァン様じゃないとやなのーーーーっ!!!!」とばかりに泣き喚き、駄々を捏ね、ついにはハンガーストライキを決行した。
突然始まった愛娘の断食。国王夫妻はサッと顔を青くして、リリィの部屋の前でお菓子の乗ったプレートを持っておろおろした。
しかしリリィの意思は堅かった。乳母が来ようが侍女が来ようが兄が来ようが一歩も譲らなかったのだ。実はこっそりお菓子を隠し持っていたこともあって余裕であった。
リリィは、あまりにもしたたかだった。
誰もリリィがこっそりお菓子を食べているなんて知らないので、お父様やお母様が説得に来るたび「あっ……」とおもむろに目眩を起こして見せたこともある。
お兄様に「頼むから、本当にこのままだと死んでしまうから」と膝を付いて説得されても揺るがなかった。
果たして、リリィの目論見は成功した。
最後のひと押し。リリィがとうとう倒れたふりをして、「お、お父様。結婚を、結婚を……っ」とよよよと縋り付いたのが父は余程効いたらしい。
「り、リリィ、リリィーーーっ!!だ、だめだリリィ、父を置いて死んではだめだ!!」
「………」
「わ、わかった。交際を許す!ヴァン・ヴェルナー子爵を城に呼び寄せてやる!!」
「っああ、おじいさまっ。リリィも今そちらに行きます……」
「あああああだめだリリィッ!!父上連れて行かないでください!!分かった、分かった結婚させる!ヴァン・ヴェルナーに伯爵の地位を与え、お前を褒章として花嫁に……っ」
「ああっ……。おばあさま、お会いしたかった……」
「わかった、公爵!!公爵の爵位と鉱山とありったけの金貨!!」
と、いう感じでリリィはヴァンとの縁談をもぎ取ったのだった。
なお、祖父母はこの時どちらも存命だったので、めちゃくちゃ不謹慎なやり取りである。
そうして泣く泣くリリィの縁談をまとめることになったお父様は、奥歯をギリギリと噛み締めながらヴァン・ヴェルナーに対してその旨を記した書簡を送った。
およおよと涙を流しながらペンを握る父に反して、その隣。チキンステーキを頬張る娘の顔は、あまりにもツヤツヤぴかぴかしていたという。




