別れ道でコインを投げましょう
ラーナは、震える指先でコインを弾く。
いつか父がやっていたように、綺麗には回ってくれないけれど、それでも何とかくるりと回転し、無事に地面へ着地してくれた。
コインが示したのは『オモテ』の女神像。
ドキドキしながらしゃがんで見ても、間違いなく『オモテ』だ。
ではこっちねと、ラーナは勇んで、最初の分かれ道を左へ進んでいった。
ラーナはある人から見れば可哀想で、ある人とは対岸の人から見れば、唾を掛けられるような子爵令嬢だった。
両親を早くに亡くし、十二歳という幼い身で領地経営に勤しむ気の毒な令嬢。
貧しさのあまり、色目を使って王太子に擦り寄った下劣な令嬢。
王太子を愛し尽くしてきたのに、身分差を理由にあっさり婚約破棄された不憫な令嬢。
国王が推していた王太子妃候補の侯爵令嬢に、散々嫌がらせをしてきた陰険な令嬢。
庇う者と石を投げる者との間で、ラーナは思っていた。自分はもっと、ずっと単純なのだと。
両親を早くに亡くしたことは悲しかったが、生きていくために領地を守るしかなかった。
デビュタントで初めて出逢った王太子とは、ただ惹かれ合い恋に落ちてしまった。
婚約破棄されたことは悲しかったが、愛しただけで、別に尽くしてきたとは思っていない。
王太子妃候補のご令嬢の存在は知っていたが、勉強と家のことで手一杯だったため、嫌がらせをする暇などなかった。
ラーナが今立たされている場所は、失恋による悲しい別れ道であり、人生において最も過酷な分岐点かもしれない。
しかし彼女は、そんな自分の状況を不運だとは思わなかった──
「運試しの旅に出たいの」
そんな突拍子もない願いをラーナが口にしたのは、婚約破棄されてから半年後のことだった。
成人したばかりのラーナの弟は大層驚いたが、心配しつつも姉を一人で送り出した。止めたところで絶対に止められない、頑固で逞しい性格であるとわかっていたからだ。
ラーナが手にしているのは、最低限の荷物が入った鞄と、僅かな現金。そして、父がよく運試しに使っていた、数百年前の古い記念コインだけ。
それでも彼女は、雨上がりの空みたいに清々しい顔で、生まれ育った屋敷に手を振った。
彼女がなぜ、そんな無謀な旅に出たか。
それは単純に、自分のことを運がいいと思っていたからだ。
両親を早くに亡くしても、可愛い弟や温かい使用人たちに支えられ、領地経営に勤しむことができた。
貧しくても、王太子のような高貴な人と接点を持ち、身分を超えて愛し合うことができた。
国王に疎まれ、愛を引き裂かれた悲しみは、永遠に燃え続け糧となる。
身分が高く後ろ楯のある妃が、いずれ玉座に就く王太子を支えてくれるならその方がいい。
そして何より……
あの大雨の日、「行かないで」と叫んだ幼い自分の言葉を聞いてくれていれば。そうすれば両親の乗った馬車は、洪水に飲まれなかったかもしれないと、ラーナは悔やんでいたからだ。
あの日、父はこのコインを投げたのだろうか。
もし投げていたら、コインは父を引き止めることができたのだろうか。
ラーナは最愛の両親に思いを馳せつつ、コインが示した左の道を歩き続けていた。
不意に、大きな蛙が、彼女の前を横切る。
雨はしばらく降っていないし、川も遠いのに、緑色のその身体は艶々と潤っていた。
もしも童話なら……この不思議な蛙とキスをすれば、王子様の姿に変わって幸せになれるかもしれない。
そう考えたラーナだが、残念なことに、蛙は幼い頃から大の苦手だ。
円らな瞳を睨みつけている間に、蛙はピョンピョン跳ねながら草むらへ消えてしまった。
あーあ、幸運を逃したかもしれないわと、ガッカリしながらその場にしゃがむと、蛙が消えた草むらの向こうに、一筋の煙が見えた。
ラーナはなんとなく、その煙を目指して歩いてみることにした。
煙を出していたのは、老夫婦が営む小さな宿だった。
貴族の令嬢が泊まるには相応しくない、最低限の設備に最低限のもてなしだったが、ラーナは充分幸運を感じていた。行き当たりばったりの旅の道中、しかも日が暮れる前に、自分の身を守る宿に辿り着いたからだ。
老夫婦は疲れきったラーナに、宿賃以上の温もりを提供してくれた。
翌朝、老夫婦に礼と別れを告げたラーナは、宿の前の道を少し進む。すぐに細い分かれ道にぶつかったため、コインを投げると、またもや『オモテ』が出た。
すごい! まただわ! とわくわくしながらしゃがんで見ても、間違いなく『オモテ』である。
ではこっちねと、ラーナは導かれるように、分かれ道を左へ進んでいった。
ラーナが領主だとは知らない宿の老夫婦は、左方面は寂しい農村、右方面は商店が立ち並ぶ賑やかな街に出ると、親切に教えてくれた。
もちろんそんなことは知っているし、旅をするならば断然右方面を選ぶべきだ。だが、ここでもラーナは、コインに行き先を尋ねてみたのだ。
やがて辿り着いたのは、緑色の豊かな麦穂が揺れる畑だった。いつか黄金色に輝くため、空に向かってぐんぐん背を伸ばすその畑は、どうだと誇らしげに胸を張っている。
ラーナは幼い日を思い出していた。亡き両親が、本来は麦の栽培に向かないこの領地を、土壌から改善しようと奔走していたことを。そして、あともう少しでという時に他界し、自分がその想いを受け継いだことを。
たった十二歳の令嬢が、領主としてここまでやってこられたのは、優秀な家令や使用人たちが傍で支えてくれたから。そして父の古い友人が、遺された幼い姉弟を気に掛け、資金援助を申し出てくれたからだ。
この素晴らしい麦には、たくさんの優しさが詰まっている。
感謝の気持ちとともに、やはり自分は運がいいのだと、ラーナは噛み締めていた。
しばらく眺め満足したラーナは、麦畑に沿って真っ直ぐ歩いていく。やがて朝よりももっと細い分かれ道にぶつかると、一旦岩の上に腰を下ろし、家から持ってきたビスケットと、宿でもらった林檎を食べた。
腹がいい具合に満たされたラーナは、またコインを投げる。くるりと回った後、地面へ着地したのは、やはり『オモテ』の女神像だった。
確か左は……と考えれば切なくなるが、せっかくコインが示してくれた道だ。
きっと幸運が待っているはず、よしっ! と、ラーナはスカートを払い、颯爽と歩き出した。
辿り着いたのは、小高い丘だった。
自分の領地だけでなく、王都の城まで見渡せるここは、昔からラーナのお気に入りの場所だ。
いつかここに、彼女は王太子を連れて来たことがある。限られた日の、限られた時間の逢瀬だった。
あの日彼は、遥か遠くにそびえ立つ城を、円い緑色の瞳に映し、切なげに言った。
『こうしていると、僕も王太子ではなく、ただの人間になったみたいだ。このまま風になって、君と二人、どこかへ自由に飛んでいきたい』と──
彼と同じ道に並んで、ともにコインを投げられたならば、どんなに幸せだっただろうとラーナは思う。どの道を選んでも、たとえそこが険しくても、二人で歩けば幸せでしかなかったはずだと。
だが、天は二人の道を分けた。どんなに歩いても混じり合えない、遠い遠い場所へ。
──いや。
元から混じり合えない場所にいたのに、たまたま繋がってしまっただけなのかもしれない。
一夜限りの、幻のような道で……
遠い城が涙でぼやけていく。
溢れる前に乱暴に目尻を拭うと、濡れた手を組み、彼の幸せを一心に祈った。
丘を下りたラーナは、コインを投げるのも忘れ、ただぼんやりと歩き続ける。日が沈み出した頃、目の前には木々が鬱蒼と茂る深い森が現れた。
この森からは隣の領地になる。時間も時間だし、引き返した方がいいと思いつつも、コインに尋ねてみることにした。
『オモテ』なら森へ。
『ウラ』なら引き返す──
夕陽が照らす地面で微笑んだのは、またしても女神像だった。ラーナはコインを拾い、掌に乗せると、覚悟を決めて森へ入っていった。
どんどん暗く、足元も悪くなっていく。木の根に何度もつまずきそうになりながらも、握り締めたコインを頼りに、道のない道を進んだ。
どれくらい歩いただろうか。月明かりを遮っていた暗い木々が開け、キラキラと輝く水面が視界に現れた。
ちょうど喉がカラカラだったラーナは、ホッとし湖の畔にしゃがむ。水を掬うため、握り締めていたコインをポケットにしまおうとした時……手汗で滑ったコインが、小さな放物線を描きながら、湖へ飛んでいってしまった。
あっ! と叫び、すぐに水面を覗き込むが、暗くて何も見えない。そんなに遠くまでは飛んでいないはずだと、水音がした辺りに腕を突っ込んでみるが、いくら探しても、それらしきものには触れられなかった。
やがて、ラーナは草の上に座り込んだ。
父の形見の大切なコインを、こんなところで失くしてしまうなんて……。自分はなんて運が悪いのだろうと、初めて思った。
──いや。
本当は初めてではない。
両親を失い領主にならざるを得なかった時も、生きていくために奔走するしかなかった日々も、失われた青春の中で唯一手にした恋すら、あんな酷い形で失ってしまった時も。
本当は、ずっと運が悪いと思っていた。
これは不運ではなく幸運なのだと言い聞かせ、壊れそうな自分を何とか保ってきただけだ。
ラーナの瞳から涙が溢れた。悲鳴のような声とともに、あとからあとから溢れては頬を濡らしていく。
こんなに泣いたのは、両親がまだ生きていた頃、転んで擦りむいた膝から血が出た時以来だ。慰めてくれる手も、胸も失った時から、ラーナは泣けなくなった。自分より幼い弟のために、早く大人にならなければいけなかったからだ。
『──わあっ! このお姫様、すごくキレイね』
『これは幸運を象徴する女神像だよ。もう何百年も前の、貴重な記念コインなんだ』
『こおうん?』
『良いことに会えるって意味さ。だからこうして投げて、オモテの女神像が出ると、何だか嬉しくなるんだ。そのまま進みなさいと、背中を押してもらえるみたいで』
『わああ、ラーナも投げてみたい! ラーナにもこおうんの女神様が出るといいなあ。ウラの絵は絶対にイヤだもん』
『ふふ、そうだね。じゃあ一緒にやってみよう。こうやって、指で弾いてくるりと回せば……ほら! またオモテが出た。オモテは左。お父様の左のポケットを探せば……おお、ラーナの大好きな、甘いキャンディがあったぞ』
『すごい! ラーナのこおうんね!』
父に教わり、投げ始めたあの日から、『オモテ』ばかりが出るコイン。
幸運の女神像に背中を押されてしまったら、どんなに危険な道であっても進むしかないではないか。
きっと今頃、湖の底から、コイン任せの愚かな自分を見てせせら笑っているに違いない。
──悔しい。泣くものかと鼻を啜り、ラーナはその辺に落ちている木の棒や石を手当たり次第に投げる。
パチャン……ポシャン……ゴポッ
ゴポゴポ…………
小さな波紋は次第に大きな波となり、泡立つその中心から、コインに描かれているのとそっくりな女神が現れた。
右手には銀の蛙、左手には金の蛙を持っている。
「あなたが落としたのは……」と訊かれる前に、ラーナは叫んだ。
「緑! 私が愛していたのは、金でも銀でもありません! 美しい緑色の蛙……ではなく、緑色の瞳の王子様です!」
女神はにこりと微笑み、ラーナの背後を指差す。振り向いたところで、ぐにゃりと視界が歪んだ。
──ハッと目を開けると、切れ長の美しい緑色の双眸がラーナを見下ろしていた。
「……あなたは蛙? それとも王子様?」
思わず出てしまったラーナの言葉に、緑色の双眸は一瞬瞠られる。そして、「さあ、どちらかな」と柔らかく細められた。
「君は湖の畔で倒れていたんだよ。夜だし、とりあえず家に連れて来てしまったが……あ、この家は、湖のすぐ側にあるから」
目線だけ動かし室内を見回せば、家と言うには粗末で、小屋と言うには立派な丸太の壁があった。
「おそらく軽い脱水症状だとは思うが、念のため医師に診てもらった方がいい。あと、服がずぶ濡れだったから、なるべく見ないように着替えさせてしまった。……すまない」
その言葉に徐々に覚醒したラーナは、自分の胸元を見下ろす。確かにさっきまで着ていたブラウスではなく、見覚えのない、男性物のシャツに包まれていた。
石鹸の香りがする温かな布地のせいだろうか。見知らぬ男性に素肌を見られたかもしれないのに、羞恥心よりも安堵感が込み上げる。
唇が湿っているのも、起きてすぐに言葉を発せそうなほど口内が潤っているのも、男が今手にしているスプーンで、少しずつ水分を補給してくれたからなのだろうと気付いた。
「……いえ。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
「いや、大したことないよ。今夜はここへ泊まって、明日医師の診断を受けてから出発するといい。森の外まで案内するから」
この男が安全だという保障はどこにもない。
だが、行き先を決めてくれるコインが手元にない以上、自分で道を選ばなければならない。
ラーナは、顔の半分以上を黒い髭で覆われた男を見つめると、自分の心に従い返事をした。
「ありがとうございます。一晩お世話になります」
緑色の瞳が、優しく微笑む。上半身を起こしたラーナへ、水の入ったコップを手渡すと、小さなコンロへ向かい、何かの鍋をかき混ぜ始めた。
ラーナが水を飲み干した頃、空のコップと引き替えに男から差し出されたのは、湯気の立ち昇るミルクだった。素直に礼を言い、カップに口を付ければ、身体の芯まで温まっていく。
ほうと息を吐くラーナを見て、男はよかったと笑う。別のカップを手に、男もベッドから少し離れた椅子に座り、口を開いた。
「もしかして、湖で水を飲もうとしていたのか?」
「はい。ですが大切なコインを湖に落としてしまって……見つからなくて、悔しくて。水を飲むどころではなくなってしまいました」
「ああ、それで袖がずぶ濡れだったのか。どの辺に落としたんだ?」
「岸辺の浅いところにあると思います。散々探したのですが見つからなくて」
男はカップの中身を一口飲むと、穏やかに言った。
「あとひと月ほどで、湖の水位が下がるんだ。そうしたら見つかるかもしれないな」
「ひと月……ですか」
「水位が下がったら、僕が毎日探しておくよ。もし見つかったら、必ず家に届けてあげるから」
親切な言葉に、ラーナの目がじわりと熱くなる。
「……ありがとうございます。でも、私は明日もコインを探します。見つからなかったら明後日も、明明後日も。水位が下がるまでなんて、とても待てません」
「そんなに大切な物なのか?」
「はい。私、あのコインと離れたくないんです。離れたら負けてしまう……自分は不運だと、簡単に認めてしまう気がして」
「……そうか。だが、どうするんだ? 見つかるまで野宿でもする気か?」
「はい。湖の畔で野宿してでも、意地でも見つけます。コインに笑われっぱなしの人生なんて嫌。見返してやりたいんですもの」
男はラーナの顔を見て、ふっと笑う。そして「意外と逞しいんだな」と呟いた。
『逞しい』はわかる気がするが、『意外と』とはどういう意味だろうと考えるラーナに、男はこほんと咳払いをし、話題を変える。
「ところで君は、こんな時間に森を歩いて、どこへ行こうとしていたんだ?」
「特に行き先は決まっていません。ただ自分の運を試そうと、コインを投げながら歩いていただけで」
「そうか……」
男はしばらく何かを考えると、あることを提案した。
「なら、コインが見つかるまでここで暮らすか? 僕は裏の小屋で寝泊まりするから、君はこの家を使うといい」
ラーナは驚く。自分のつまらない意地のために、家主を追い出してまで居座るなどとんでもないと、慌てて断った。しかし男は、そんなラーナに対し、楽しそうに言う。
「気にしなくていいよ。片時も離れたくない特別なコインなんて、僕もわくわくするし。あ、お礼は幸運のお裾分けで構わないよ」
男の悪戯っぽい瞳につられ、ラーナの顔に自然と笑みが浮かぶ。彼女はまた、自分の心に従い、素直に答えた。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、コインが見つかるまでこちらでお世話になってもよろしいでしょうか? 食事の支度や洗濯など、私ができることであれば何でもやらせていただきます」
身の回りのことは一通りできる貧乏令嬢でよかった。これも必然だったのかしらと、ラーナは思っていた。
それからラーナは、男の家に滞在することになった。
自分が小屋を使うと申し出たが、男は決して譲らず、温かく清潔なベッドと、食料を無償で提供した。見返りを求めることはなく、用がある時以外は、決して彼女に接触しようとしない。ラーナは快適な生活を送りつつも、男の人となりに触れるうち、その関係に次第に物足りなさを感じるようになっていった。
ある日、得意な菓子を焼いて小屋を訪れれば、男は喜び、お茶を淹れるから一緒に食べようと誘ってくれた。テーブルに向かい合うと、男はラーナが退屈しないように、いろいろな話をしてくれた。森の七不思議、動物たちとの関わり方や、変わった狩りの方法など。本を読むより楽しい話に、ラーナはわくわくしながら耳を傾けた。
いつしか、話の内容だけでなく、男の声そのものに心地好さを感じるようになっていった。最初は子守唄のように癒されていたラーナだったが、そのうち失恋の傷を負ったばかりの胸が疼き、楽しいはずの話が頭に入ってこなくなってしまった。
それでも男に会わずにはいられない、声を聴かずにはいられない。この苦しい気持ちが何なのか、ラーナは深く探ろうとはしなかった。もし探ってしまったら最後、ここには居られない気がしていたからだ。
そしてラーナはもう一つ、男に対してあることを感じ始めていた。ふとした仕草や女性へのさりげない気遣いなどから、彼が実は高貴な身分なのではないかと。無造作な髪や髭に覆われていても、粗末な服に包まれていても、そのオーラは隠しきれていなかった。
だが、男が彼女に何も身の上を尋ねないように、彼女もあえて男にそれを尋ねることはしなかった。普段は街で仕事をしているが、長期休暇中はこうして森で自由気ままに過ごしている。ラーナが男について知っていることはそれだけだったが、それで充分だった。
もちろん互いに名乗り合うこともない。二人きりのここでは、名前など必要ないのだから。
男の家で暮らし始めて、ひと月と数日。
ラーナは今日も掃除と洗濯を済ませると、いつも通り湖へ向かい、コインを探す。男が言っていた通り、水位は日に日に下がり、ここへ初めて来た時には見えなかった地面が現れていた。
目を凝らし、光る物がないかを確認すると、泥の中に手を入れ、硬くて丸い感触を探る。それらしき物に触れるたびに動悸が激しくなり、その正体が小石だとわかっては、安堵している自分がいた。
コインを失くしたばかりの頃とは違うこの感情に、ラーナは必死で蓋をする。
このままずっと見つからなければいいのにと、適当に泥を掬った時──それは出てきてしまった。
家に帰ると、扉の前に籠を持った男が立っていた。自分の家なのだから、堂々と中へ入ればいいのに。彼女に気を使い、律儀に外で待つ姿に、ラーナの胸はじんとする。
にこりと笑い掛ければ、男は心配そうな顔で近付いてきた。
「大丈夫か? ……何かあったのか?」
おかしいな、笑っていたのに……と思った途端、ラーナの瞳から涙が溢れた。男は籠を草の上に置くと、泥水が付いたままの彼女の腕を、手拭いで優しく拭う。
ラーナはすんと鼻水を啜ると、エプロンのポケットから例の物を取り出し、男へ見せた。
「見つかっちゃったの……これ」
小さな掌に乗っているのは、薄汚れた一枚のコインだった。泥を纏った女神像が、午後の日差しを浴びて、キラリと嗤っている。
「……へえ、これが運試しのコインか。繊細で綺麗だな。人生を託してみたくなるのもわかるよ」
女神像を見てしみじみと言う男に、ラーナは浮かない顔で首を振る。
「本当は、本当はね、コインが示す道が正しいのか、自分でもよくわからないの。不運なのに幸運だと思い込みたいだけかもしれないし、本当は幸運なのに不運だと思って逃しているかもしれない。だから……コインに人生を託すのは、もうこれきりにしようと思うんです」
「これきり?」
「はい。『オモテ』が出たら、私は今から家に帰ります。もしも『ウラ』が出たら……私はこの森に留まります」
ラーナは男の顔を見ることができなかった。わざわざコインなど投げなくても、その緑色の瞳には、自分がどうすべきかの答えが表れているだろうから。
だから、女神像の笑顔だけを見つめ、思いきり指で弾いた。
いつか父がやっていたように、それは初めて綺麗に回る。今までで一番高く空へ飛び上がり、くるくると鮮やかに地面へ着地してくれた。
コインが示したのは──やはり『オモテ』の女神像だった。しゃがんで、あらゆる角度から見ても、間違いなく『オモテ』だ。
『ウラ』が出てくれることを祈っていたラーナは、しゃがんだまま、どうすべきかを考える。コインに従うべきか、それとも──
やがて、ふっと力が抜けたように笑った。
「……女神様には逆らえません。今から家に帰ります」
いつだって『オモテ』ばかりが出るコイン。
だが、その『オモテ』に道を定め、人生を託しているのは、いつだって自分自身なのだ。
今だってそうだ。よく出る『オモテ』に、『家へ帰る』道を定めたのは、ここを離れなければいけないと、自分自身が一番よくわかっているからだ。
地面のコインを見つめ続けるラーナの前に、男もしゃがむ。ラーナと同じようにコインを見つめ、感情の窺えない声で、ぽつりと呟いた。
「……そうだな。もうそろそろ、家に帰ってくれないか?」
──ああ。やっぱり彼も、私が帰ることを望んでいたのだわ。
胸が締め付けられ、ラーナはコインから目を逸らす。次の言葉を怯えながら待っていると、大きな手をすっと差し出された。
「一緒に帰ろう」
思わぬ言葉に、え? と見上げれば、悪戯っぽい瞳がそこにあった。何も言えない、動けないでいるラーナを、男は軽い調子で促す。
「 “ 家 ” に帰るんだろう? ほら、これで美味しいパイを焼いてくれないか?」
男が持ち上げた籠の中には、真っ赤な木苺がぎっしりと詰まっていた。
木苺と男の顔を交互に見て──ラーナはようやく気が付いた。彼も自分と同じ気持ちであることに。
髭に埋もれた彼の頬は、この苺と同じように、赤く染まっている気がした。
ラーナはコインを拾うと、『ウラ』にして男の掌に置く。『オモテ』の女神像よりも、遥かに神々しい光を放つ蛙の絵に、二人は笑みを交わした。
今感じている幸福と、これから訪れるであろう幸運を信じて──
家に帰ると、さっそく二人は、木苺をたっぷり使ったパイを作りオーブンに入れる。
焼き上がりを待つ間、「小屋に用がある」と一旦出て行った男は、驚くべき姿でラーナの元へ戻って来た。
彼女の目の前に立つのは、息を呑むほど美しい青年だった。
伸ばしっぱなしの無造作な黒髪は、丁寧に梳かれ、後ろで一つに束ねられている。顔中を覆っていた髭もすっかり消え失せ、緑色の瞳はエメラルドのように輝きを増していた。立派な体躯を包む服は先程と変わらず粗末なものの、それでも今まで以上に溢れる高貴なオーラに、ラーナはやっとその正体に気付き始めていた。
「私はこの地を治めている、ジェロニー・シュマラクトと申します。こうしてラーナ・ロット嬢に正式にご挨拶させていただくのは、“ 王太子 ” の婚約破棄騒動があった、あの夜会以来ですね」
青年は微笑み、跪くと、ぽかんとするラーナの手に美しい唇を落とした。
身分の低い第四側妃が生んだ第七王子で、現在は公爵であるジェロニー。
王位継承権などとうに放棄している彼は、数年前に亡くなった王弟から、爵位とこの森を含む辺鄙な領地を受け継ぎ、ひっそりと治めている。
隣の領地のこと。王太子の異母兄である第七王子が襲爵し、領主となったことは知っていたラーナだが、まさか護衛も付き人もなしに、森で暮らしているなどとは思いもしなかったのである。
ラーナはふと、湖で見たあの夢を思い出す。まさか本当に王子様だったなんて……と、驚きつつも可笑しくなっていた。
政治にも社交界にも全く関心のないジェロニーだが、王命でしぶしぶ参加したあの夜会で、初めて王太子の婚約者であるラーナ子爵令嬢に出逢った。
おそらく王太子の本意ではなく、国王の命だろう。見せしめのように、大勢の王族や貴族が集まる場で婚約破棄を宣言されたというのに、令嬢は静かにそれを受け入れた。
同情だろうか……。その儚げな姿がずっと忘れられなかったところに、令嬢の方からやって来てくれたのだ。
再会してすぐ彼女に抱いたのは、儚げどころか、芯が強く生命力に溢れた女性という印象だった。そして、そんな彼女にたちまち心を奪われたのだと、ジェロニーは丁寧に語った。
「だから、君が失くしたコインは、間違いなく特別なものだと思ったよ。少なくとも、僕には幸運をもたらしてくれたから。それに、コイン探しのおかげで、君はここで暮らしてくれたしね」
ああと頷き笑うラーナに、ジェロニーは続ける。
「だけど……深い傷を負った君が、僕の気持ちを受け入れてくれるのか、全く自信がなかった。だから僕も、コインがずっと見つかりませんように、君がずっとここで暮らしてくれますようにと、毎日湖に向かって祈っていたんだよ」
ラーナの瞳には涙が溜まり、湖の水面のように揺らめく。
「本当に私でよろしいのですか? 助けていただいたあの夜、意外と逞しいと仰っていたのに」
するとジェロニーは、「覚えていたのか~」と額を押さえ、楽しげに答えた。
「この通り、私は一応王家の血を引きながらも、気が向けば森で暮らしたがるような変わり者でしてね。コインと一緒に冒険をするような……逞しくて面白い令嬢の方が、生涯のパートナーとして好ましいのです。あなたはいかがでしょうか?」
「……はい。実は私も、お髭だらけの顔で森暮らしを満喫するような、そんなちょっと面白い王子様が好きです」
笑った拍子に溢れ落ちたラーナの涙を、ジェロニーは手で優しく拭う。それでも拭いきれず、温かな胸に抱き寄せると、粗末なシャツの布地で全てを受け止めた。
──部屋に充満する香ばしすぎる香りに、二人はハッと顔を上げる。手を繋いでオーブンへ駆け寄ると、焦げたパイを慌てて取り出し、黒い表面を削げ落としながら笑い合った。
王位継承権のない第七王子と、しがない子爵令嬢。
誰に反対されることもなく結ばれた公爵夫妻は、分かれ道に迷う度にあのコインを投げては、ともに人生を歩んだ。
相変わらず『オモテ』ばかり出るが、時には悩んで『ウラ』を選ぶこともある。その結果、険しい道を歩くことになっても、二人は決して不運などとは思わなかった。
運など、あってないようなもの。
最期の別れ道で振り返り、歪な軌跡も愛しいと笑えるならば、それこそが最大の幸運なのだろう。
ありがとうございました。




