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風信

作者: 反吐
掲載日:2025/10/23

初投稿です。よろしくお願いします。

文月。


暑さが本格的に日本を襲い、ジメジメとした空気感に包まれる頃。


私は、青々とした木々が茂る山の山頂。大きな巨木が一本せり立つそのほとりで、きれいに晴れた空を見上げていた。


はっきりとした雲の輪郭をなぞった。


それに君はニコニコと微笑みながら、何かを囁いた。

アブラゼミの声が大きく響く。頭痛のするようなそれと、暑さ、そして君の眩しさのせいで、私は君が何を囁いたのかわからなかった。


——8月。葉月。


私は君と会うため、毎日約束している昼二時。あの山の一本の巨木へと向かった。

ジリジリと差してくる日差しが痛い。

だけれども、その痛みも、日差しに焼かれ赤黒く染まった肌にも、そのときは全く嫌悪感や違和感を感じなかった。それほどに。君と会いたかったから。


山の麓に入った所で、蝉時雨の喧騒に脳を侵された。


でも嫌な気はせず、すっかり汚れた皐月に買ったシューズを見下げた。時折吹く木々の間風がぬるく、でも心地良い。


大股で急な地面を踏みしめて行くと、いつものあの巨木が風に揺らされていた。

急いでいつものほとりへと足を進めていく。

足首をなぞる草に、そのときは何も思わなかった。


(あれ。いない)


巨木の幹に腰掛け、程よい影が出来上がった地面に体重を預ける。


いつもよりつくのが大分早かったのかもしれない。だって、彼女はいつも私より前に来ているから。



__数時間経っただろうか。


青かった空からどんどん青みが消え、今は黄色っぽい夏の夕暮れが空を覆っていた。

私は汗でびっしょり濡れた鬱陶しい髪を振り払って、もう冷たさの残っていない水筒のお茶を、立ち上がって仁王立ちで飲む。


喉を潤す感覚が乏しく、苛立ちが芽生えた。


結局、今日彼女は来なかったのである。


私は夏の光に焦がされた自分の手足を見る。 前までは全く持って気にしていなかったのに、その時だけ。一瞬だけ嫌悪感を感じた。


それから、数日後。


何度も何度も私は毎日あの場所へ訪れたものの、彼女が来ることは一度もなかった。

人間というものは飽き性なもので、私も同じようにあんなに心酔していたというのに。5 日ほどで巨木に向かわなくなっていった。


心の中まで夏の熱気にやられていたのかもしれない。ジメジメとした空気に苛立つ。 誤魔化すように私は風鈴の音に神経を集中させ、もう見慣れた天井を凝視した。


次の日。

私はたまたま友達との用事で、住宅街の付近の商店街へと赴いていた。人で賑わうそこは、家の中よりも数倍暑苦しく感じる。


蝉の鳴き声さえもかき消されるような喧騒に、心臓が不快な暑さに苛まれる。

それにまた、 眉間のシワが深くなるような不快感を感じた。


「家、商店街のすぐ出た所って言ってたはず...」

暫く歩いた所で、ふと山の中の君が話していたことを思い出す。それはあまり自分自身を語らない彼女が、私に一つだけ話したことだった。


私は思わず立ち止まり汗に濡れた額を拭いながら、独り言を呟いた。


会いたい。そう心から思った。あんなにも苛立っていたのが嘘のようで、自分で自分を理解できない。


でも、それでも。今すぐ君の顔を見たかった。


商店街の一本道。人を避け、走り出した。あんなに不快だった商店街特有の喧騒も何も今は感じない。それくらい、何故か必死になった。


数分、走り続けた先。白い家が建っていた。

たしかこの家だったはず。私の家よりも大きく、ちいさなガーデンが花で埋め尽くされているその家は、ここらへんでは見かけないほどに立派な家だった。

玄関へ、息切れを正そうと胸を押さえながら足を進める。カーポートでジリジリと先程まで肌を焼いていた太陽が遮られ、心做しか涼しい空気を感じた。

緊張感を抱きながら、インターホンを鳴らす。

風の音も、セミの音も、その瞬間はゆっくり聞こえた。インターホンの音に心がざわついた。


「はーい」


年配の女性の声が家の中から聞こえる。

動悸が全身に響き渡り、手足の感覚が無くなっていく。

ゆっくりとした足音が目の前のドアの先で聞こえ、次第にその綺麗なドアが開かれた。


「どなた?」


ドアの先から体をのぞかせたのは、知らない白髪の女性だった。

温厚そうな微笑みを此方に向けてくる。頬に手を当て、私にそう問いかけてきた。

「... えっと... 沙織ちゃんの家って此方でしょうか」

しどろもどろになりながら私は問いかけに問いを重ねた。謎の緊張感と胸の異様なざわつきに、眼の前にいる女性と目が合わせられない。

私は鼻の先についている汗を払いながら、彼女の返答を待った。


少しの間があったあと、年配の女性は浮かべていた微笑みのニュアンスを変え、苦笑いを浮かべた。そして「……あら」と感嘆のような声を漏らす。

そしてすぐ、言葉をつなげられた。


「貴方が美穂ちゃん?」

突然名前を呼ばれる。私はそれに驚きながらも、小さく「はい………」 と返事をする。

先程まで凝視できなかったのに、思わず彼女の顔をまじまじと見た。

「沙織から... 貴方が来たら渡してねって、そうそうこの手紙。これを預かっていたの。」

女性は悲しげな表情を浮かべながら、玄関横にあった花瓶の裏から白い便箋を取り出す。それを彼女は優しく私に手渡した。

きれいな字で、便箋の外側に『沙織』と書かれている。私は無意識にその文字をなぞった。

「家に帰って、ゆっくり読んでちょうだい。それを見たら、わかるはずだから。」

そう哀愁をまといながら呟く女性を前に、自分がどんな表情を浮かべていたのか、わからない。


その後、「暑かったでしょう。暫く涼んで行ってちょうだい」とご厚意を頂き、立派なリビングのソファでクーラーを浴びた。


また暑い外気に脳をやられながら、私は帰宅路をゆっくりと歩いた。

軽いはずの白い便箋が異様に重く感じる。自身が抱く感情の整理で、頭がいっぱいいっぱいになった。


自宅へ到着すると、いつもとは違い大急ぎで階段を駆け上がった。ドタドタとなる階段が煩い。

小さく自室の窓から聞こえてくる風鈴が今は鬱陶しく、顔を強張らせた。

自室のドアを開くと、網戸から届く風が心地よかった。けれども暑さは晴れない。心の奥まで染み込んだそれは、自分自身でも戻せそうになかった。


そして、自身が持っていた白い便箋に目を向けた。

随分と新しいのかツルツルとした手触りが気持ち良い。けれども、自分が感じ取っているその重さは、胸に沈むように重い。

ねっとりとした何かに絡みつかれている気がして、階段を駆け上がったせいかバクバクと体中に響く心拍がうざったい。

白い便箋を、両手でそっと持ち上げた。光に少しだけ透かされた文字が、胸に棘を刺す。

白い家で見た綺麗な『沙織」の文字に、目頭が熱くなった。たまらなくなり、シールで止められた便箋の蓋を震える指で乱雑にこじ開けた。


そこには、B5サイズの一切れの手紙が入っていた。

几帳面な彼女らしく、折り方も丁寧できれいだ。私は貪るように瞬きを忘れたまま、手紙をゆっくりと震えが収まらない手先で開いた。


女性らしい、丸みを帯びたお手本のようにきれいな筆跡をなぞる。


私はすぐ近くにあった座椅子に、手紙から目を離さないまま雑に腰掛ける。そのまま、指を滑らせる。手紙の最後までなぞり終わると、手紙を冒頭から読み始める。


『拝啓 盛夏の光が白く滲むころ、

蝉の声が遠くで揺れ、窓辺の風鈴がひとすじの風に震えています。

その音を聴いていると、不思議と胸の奥が温かくなるのです。

きっと、美穂さんと過ごした夏の午後の記憶が、静かに蘇るからでしょう。


陽射しに溶ける笑い声、並んで飲んだ冷たい麦茶の味、指先に触れた風の感触、一本の大樹の下で見上げた青い空。


あの一瞬一瞬が、いまでも私を生かしています。


長い間、黙っていてごめんなさい。

突然姿を消すようにしてしまったこと、どんなに心配をかけてしまったのかと思うと、胸が締めつけられます。

時には、約束を果たせなかった私に、苛立ちや嫌悪感を感じたこともあったでしょう。


私は、ずっと病と共に生きてきました。

貴女と会うずっと前から、静かに、確かに、身体の奥で進んでいたものがあったのです。

どうしても言えませんでした。あなたにだけは笑っていてほしかったから。

私の苦しみで、あの優しい瞳を曇らせるわけにはいかなかったのです。


けれど今は、もう隠せません。

ここで過ごす日々は、夏の流れのようにゆるやかで、そして確実に終わりへと近づいています。

治る見込みはほとんどなく、医師の声もどこか遠くに響くだけです。


それでも、不思議と怖くはありません。なぜなら、あなたに出会えたからです。

夜、病室の灯を落とすと、カーテンの隙間から月の光がこぼれます。

その白い光の中で目を閉じると、あなたの声が聴こえる気がするのです。

「また明日、あの樹の下で。」と笑う声が。

たとえこの手がもうあなたに届かなくても、その笑顔を思い出すたび、私はまだ生きていられる。


だから、どうか泣かないでください。この手紙が届く頃、私はもう少し遠い場所にいるかもしれません。

けれど、あなたと過ごした時間のすべてが、私の命の光でした。

あなたに出会えたこと、それが私の人生の奇跡です。


最後にどうしても伝えたかった言葉を、ここに残します。


大好きだよ。


敬具


沙織』


_気がつけば、肌をじんわりと温める一筋の涙が頬を伝っていた。


耐えられなかった。


頭で思考するのも難しくて、胸が締め付けられた。

風鈴の冷たい音が突然の強風に煽られ、自分の心情を表すかのように不協和音を響かせる。


網戸から覗き込んだ強風が、私の頬の雫を振り払うように私の体を撫でた。


私は潤んで視界が悪いまま、すっかり使っていなかった勉強机に荒く一枚の紙を置く。


それは机の横の小さな棚にずっと眠っていた、沙織と買った少女漫画雑誌の付録のレターセット。

その少し曲がった色褪せた紙に、乱雑に、けれども丁寧に。溢れ出す涙をこらえながら短い手紙を書いていく。

今、沙織はもう、遠くにいってしまっているのかもしれない。

いつもは近くで煩い鳴き声を発しているアブラゼミが、遠くから鳴いていた。

そして、短い手紙の最後。強く、そして大きく、あるフレーズを書き残す。


それは、沙織からの手紙と同じ、『大好きだよ』

軽く、でも私達にとって意味の多い言葉。


私の書く手紙は、沙織のようにきれいで、丁寧な字でも語愛もない。子供っぽい手紙だと我ながら思う。

風鈴が再び綺麗な音色を奏でると、私は汗や涙でぐっしょり濡れた顔を服の裾で拭った。


空はまだ青い。


だけれど日はいつもよりも穏やかで、ぼんやりとした影を落としている。


私は、その子供っぽい手紙を持ち、また全速力で階段を駆け下りる。玄関のドアを強く開いた。一筋の優しい風が、私の髪を持ち上げた。


あの時、あの巨木の下で、きっと『君」が吸いた言葉は「大好き」だったのだろう。そう思いながら、私は静かに目を閉じた。

作品を読んでくださり、本当にありがとうございます!ぜひ良ければ感想や評価なども頂けましたら光栄です。

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