6.ひとりぼっちの新世界
どこにでもある、青い屋根のこじんまりとした一軒家。
小さな門と玄関の間にあるわずかなスペース。そこにふくよかな中年女性が一人、木製のイスにどっかと腰をおろしてタバコをふかしていた。
「ねぇおばさん、そんなとこにいないで降りてきてよ」
中年女性が見あげる空に声の主がいた。そこには少女が一人、プカリと浮いている。
桜色の長い髪、赤いハートのワンポイントがついた白のTシャツにデニムのショートパンツ。華奢で小柄な体型は、十代の少女そのものだ。
少女は何かにつかまっているわけでも、つるされているわけでもない。そして不思議なことに、逆さまになって空中で正座をしていた。
「なに言ってんだい、あんたが空に浮かんでるんだろ?」
「えっ!?」
「そっちが“上”だよ。なんでそんなとこで逆さになって正座してんだい、まったく」
――そう言われてみれば、景色がすべて上下逆さまに見える。
少女は気がついた。いつの間にか上下の感覚がおかしくなっていたことに。
――この身体になって、重力の影響をうけなくなったせいだ……。
少女は正座をしたまま、体勢を上下くるりと反転させた。そのままの姿勢で、中年女性の元にするすると降りていく。
「これは正座ではなく土下座だよ、おばさん!」
「さっきからおばさん、おばさんてなんだい! わたしには詩江っていう立派な名前があるんだよ、ふんっ」
詩江と名乗った女性は、両目をつむり腕を組んでそっぽをむいて見せる。
そして、片目だけをあけ眉をつりあげてピシャリと一言。
「土下座? そんなことしたって無駄だよ! あの子には、指一本ふれさせやしない」
詩江が指さすその先には、庭先に面した掃きだし窓があった。誰かがカーテンの隙間から、こちらの様子をチラチラとうかがっている。
少女がそちらへ視線をむけると、青白い顔に戦々恐々とした表情の青年と目があった。
次の瞬間、引き裂かんばかりの勢いでカーテンが閉じられる。
その冷たい反応に、うなだれる少女。
「ずっとずっと、一人だった……。誰もいない、物音すらしないこの街を、彷徨っていたの……」
ポツリポツリと少女は語りだす。
「そしてやっと出会えた、たったひとりの人なんだ。わたしはなんでか、あの人にすっごく会いたいんだよ……」
詩江は吸っていたタバコを地面でもみ消し、ゆっくりと立ちあがる。
「あの子の身体に取り憑こうってんだろ? そんなことさせるもんかね」
「ひどい、そんなことしないよ! なんだか分からないけど、いくら考えてもわからないけど、とにかく惹かれるんだよ」
少女は必死にうったえ続ける。
「生存本能……みたいなものかね? あんたはなくしちまったんだ本当の身体を。その代わりを無意識に探してるのさ」
「本当の……身体?」
「そうさね。それを見つけないと向こうへは還れない」
天を見あげてそう言う詩江。
「ねぇおば……詩江さん、なんでこの街には人も動物も全然いないの?」
「たくさんいるよ、数えきれないくらいにね。見えないのはあんたが目を閉じ、耳をふさいでいるからさ」
「えー、目も耳もバッチリあいてるよ。ねぇ、後生だから、あの人に……」
「あら、“後生”だなんて難しい言葉を知ってるじゃないか」
あはははは、笑いあう二人。
その一瞬の隙を縫って、詩江のわきを通りぬけようとする少女。どこから取りだしたのかフライパンで進路を妨害する詩江。
少女は進路をふさがれたと見るや、右足を軸にして身体を左回りに半回転。詩江の逆サイドをつく。
負けじと詩江も左足を伸ばして必死の抵抗を見せるが、少女は後ろ足を蹴りあげてジャンプ。
そのまま手足を縮めて前方に一回転し、詩江の背後に両手を高々と上げて着地した。
まるでサッカー選手と器械体操選手のハイブリッドのような身のこなしで、そのまま走り抜けようとする。
しかし、少女は後ろからなにかに引っ張られたかのように、上半身をのけぞらして急停止。
少女のTシャツにいつの間にか、S字フックが引っかけれられていた。複数のフックが連結し、詩江の手元まで鎖のようにピンと伸びている。
詩江が振りかえることもなく右腕を振りぬくと、少女の身体は放物線を描いて宙をとび、詩江の眼前へ引きもどされて転がりおちた。
空中でバラバラに分解したS字フックが、吸いこまれるように広げた詩江の手のひらへ落ちていく。
「あの子の守護霊の名にかけて、ここは通さないよ」
「ぜったいに、あなたを超えてみせる!」
その後も互いの隙をうかがいながら、一進一退の攻防がつづく。
やがて膠着状態となり、しばし肩で息を殺しながら睨みあう二人。
ややあって肩の力をぬき、構えを解いた詩江が感心したように言う。
「やるじゃないか。名を聞こうか」
「ユウ……だよ、たぶん」
「――ユウ?」
その名前に覚えがあるような反応だった。
「そうだよ。ユウのこと、なにか知っているの?」
「いや違う。ただの偶然の一致さ。私が知っているのは……」
独り言のように呟いて首をふり、詩江は質問をつづける。
「どうやってここへ来たんだい?」
「わからないの……なんにも。気がついたら空の上に……」
ユウはそのときのことを思いかえしていた。
夏の真昼。遠く地平線の上に、巨大な入道雲が浮いている。
ギラギラと輝く太陽に照りつけられた建物、そして街路樹が黒く塗りつぶしたような影を地面におとす。
どこか知らない街。
そして誰もいない街。
自分以外に人の姿はなく、鳥や動物たちすら存在しない。
からっぽの街の空にひとり漂っている。
背中を確認しても翼などない。それでも意のままに空を飛ぶことができ、大抵のものはすり抜けられる。
記憶にあるのは――『ユウ』。それは、おそらく自分の名前。
あとはなにも覚えていなかった。
「これって――幽霊ってやつだよね? ねぇ! ねぇってば!?」




