第二話
「え……凍っていた? 何がですか……?」
私が発した言葉の意味が凡そ理解できぬかのように、藍場刑事は静かに頓狂な声を上げた。
「だから煆焼したご遺体がだよ。それ以外何があると言うのだね」
剰りにも斜め上を行った私の報告に、藍場刑事は酷く間の抜けた顔に為っていた。
一体目の前に坐す監察医は何を言っているのだろうか、とでも言いたげな視線を如実に寄越してくる。私とてこんな非現実的な報告を敢えて為たくはなかった。できれば一生を賭して隠しておきたい事実でもあったのだが、恐らく悪戯に命を奪われたであろう犠牲者のことを深く思うと、そう口に為ざるを得なかった。
「こ、凍っていたって、そんな馬鹿なことありますか? 雹堂先生、解剖した二名のご遺体はどちらも焼死体、元い焼損死体だって先生は仰っていたじゃないですか。そんな舌の根が乾かないうちに今度は死体が凍っていただなんて、何かの冗談としか聞こえません。幾ら何でも質が悪過ぎですよ。そんなこと有り得ない」
まるで自らの胸の裡に突如として湧いた酷く胡乱なものを吐き出すかのように、藍場刑事はひとりそう結論付けた。
そう思いたいのは、私とて山々なのだ。しかし事実を事実として報告する義務が私の職務にある以上、私は一向に口を閉ざすことができなかった。
「悪いがこれは質の悪い冗談でも何でもないよ。これは歴とした事実だ、藍場刑事。焼損したご遺体は二名とも確かに凍っていたんだ」
「凍っていたって、火災で焼けた遺体がですよ。凍てついた冬場の空気に一晩中曝されたのならまだしも今は八月の夏真っ盛りだ。そんなこと幾ら天地がひっくり返ったって有り得ないことですよ。百歩譲ってこの件によもや歴とした犯人がいたとしても、自分が燃やした遺体を態々凍らせるなんて意味が分かりません。何でそんな状態に為っているのやら、僕には噸と理解できません」
忙しなく思考をそこまで巡らせた挙げ句、藍場刑事はひとりそう口走った。自らが発した愚にもつかない憶測を最後に瞭然とした疑問符をその顔に貼り付けている。
私はこの件に関して幾ら頭を働かせたところで答えは出ないだろうと思っていた。一般的な常識や良識では決して太刀打ちできない事柄はこの世に儘ある。この一件は、そうした未開の領域にある暗部のほんの一例に過ぎない。だから私は、自らの目で見たものを有りの儘に語ることしかできなかった。
「藍場君、君は現場に臨場した鑑識班の報告書を一通り読んでいるね」
「勿論です」
殊更に正面切って私がそう問い掛けると、藍場刑事は何を今更と言った風に安易と頷いた。
「ならば遺体発見時の状況についても仔細解っているはずだ。鑑識が上げた報告書に拠れば消防が炎で燃え盛る現場を鎮火させた後、暫くして踏み込むと、そこには霜の付いた焼損死体が二つ在ったのだと、こう書かれている。この不可解な一文を目にして君は少しも不思議と思わなかったのか?」
如何にも態とらしく私は警察から送られてきた事件に関する情報が記載された書類を藍場刑事の眼前へと突きつけた。別段何が為たかったわけではないが、目の前に坐す若者の職務に対する覚悟が、今いち足りていないような気がしていた。それも何となくだ。しかしその予感は、残念ながら少し当たっていたようで、藍場刑事は緩慢りと私から視線を外したかと思うと、
「誤謬かと思っていました……」
などと実に戯けたことを口にした。
「はぁ、そんなわけ無いだろう。君は命の危険が伴う現場に臨場しあらゆる証拠、あらゆる事件的記録を採取して回った仲間が興した報告書に誤りがあったとでも思っていたのか。火災の鎮火から五分後に発見された二名のご遺体は、確かに凍っていた。物の見事に。まるで瞬間冷凍でもされたかのようにな」
私がそう言い終えると、藍場刑事の顔は更なる困惑の色へと染まっていった。
「ちなみに、これが追加の検死報告書だ」
テーブルの上に広げた各種事件資料を覆い隠すかのように、私はまた一枚の紙片を悄然とその上に置いた。ふと見れば指先で抓んだ紙の端が、些かキラキラと光っているように見えた。凍っているのだ。そう分かった瞬間でも、私は然して慌てることも無く、
「焼け残ったご遺体の炭化した内部を調べてみたのだが、僅かに残った細胞とタンパク質は確かに凍りづけと為っていたよ。更に言えば奇跡的に両名の心臓内に残留していた血液も検査してみたのだが、これもまた短期的ではあるが少なからず、いや暫くの間凍っていたことを示唆していた」
そこで私は新たに置いた検死報告書へと視線を落とした。そうして、
「人体が耐えうる以上の寒冷下に曝された心臓の内部、特に左心室と右心室に溜まった血液には著明な色調差が見られるものだ。左心房から動脈血を受け体循環へと送る左心室の色は、鮮紅色あるいは朱色、右心房から静脈血を受けて肺へと送る右心室の色は見るからに暗赤色を呈していた。この色調差は遺体を温めることによって消失するのだが、果たしてそうは為っていなかった。またご遺体の凍結に伴い大血管内の血液は、血漿部分が先に凍結する。次いで血球部分が凍結し、所謂『ざらめ砂糖』のようになってもいた。共に採取した髄液それと尿もまたこれと同じ検査結果が出た。つまり――」
火災現場から見つかった二名の身元不明遺体は、紛うこと無く凍っていた。
「そう結論付けることができる」
私がそう言葉を結んだ途端、それまで食い入るように報告書を覗き込んでいた藍場刑事は俄然と肩を震わせた。そんな馬鹿な、と言った間の抜けた顔は相変わらず変わっていない。
「嘘でしょ。火災現場で見つかった遺体が凍っていただなんて未だに信じられない。そうだ、矢っ張りこの件にはちゃんとした犯人がいるんですよ。若しかしたらその犯人がどこか別の場所で凍らせた害者たちを現場まで運んで来て火を点けた。だから遺体は凍っていたんです。それなら何の不思議も――」
「先ほども口にしたと思うが、現場に突入した消防官が遺体を発見したときには、煆焼した両ご遺体の体表面には、薄らと霜が降りていた。所謂『着氷現象』と言うやつだ。これの発生条件は、空気と接触している物体の表面の温度が霜点――つまり零度以下になることで顕れる。言い換えるなら氷点下だな。これによって空気中の水蒸気が昇華し、物体の表面に微細な結晶構造を持つ氷が形成されるわけだが、そうなるには少なからず時間が掛かる。推定するに小一時間ほどな」
「はぁ? 小一時間ほどって……そのときには既に火災は起きていたんですよ。近所の住人から火災発生の通報を受けて完全に鎮火するまで優に二時間は掛かったんです。そんな中害者たちの遺体は火に焼べられながらも凍ってたって言うんですか? そんなこと益々有り得ない。幾ら何でも突拍子がなさ過ぎですよ雹堂先生」
常識と言う名の堅牢な檻に未だ囚われ続けている藍場刑事は、私が為した説明に対して尚もまだ疑っているようだった。とは言え事実を事実として受け入れて貰わねば話が先に進まぬのもまた事実で、私は少々厳めしいほどの恐い貌をして、
「突拍子が有ろうが無かろうが、私は確と事実を口にしている。私が為した仕事に安易とケチを付けるのなら、それを補うだけの根拠をちゃんと示したらどうなんだ。喩え話し聞いた事実が現実に有り得ないとしても、現に起こった事象なのだから受け入れるほか無いだろう。有り得ないことを有り得ないと一蹴することこそ真に有り得ない行為だよ。君も一端の刑事を名乗るのであれば、己の裡にある度量という名の物差しをもう少しだけ広げたらどうなんだ。今のままでは常識的な先入観が勝ち過ぎていて、多くの機微・真相を取り溢してしまうだろう。そう為らないためには、もっと柔軟に思考すべきだ。どうかね?」
またもや説教染みたことを言ってしまった。齢三十と八を数えて一回りも年の離れた若者にする苦言では無かったのではないかと、少々自責の念に駆られたが吐いた唾は決して呑み込むものではないと思い留まり、神妙な顔つきと為っている藍場刑事の瞳の中を凝然と覗き込んだ。
そうして互いの視線が五秒と交わぬうちに、
「解りました。解っていますとも、えぇ」
と言って藍場刑事は、どこか諦観にも似た面持ちと為って私の言葉に浅く頷くのだった。
「先生にご指摘戴かなくとも、自分自身の至らなさには僕だって辟易しているんです。だけどこれが僕の性分なんですから仕方がないじゃないですか。僕は人の話を馬鹿正直に鵜呑みにするのが苦手なんです。それが幾ら真実を語っていようと、文字だけ言葉だけを頼りにするのは何だか心許ないじゃないですか。そんなもの幾らでも偽装できますからね。だから僕は、自分自身が見たモノしか信じないようにしているんです。然うすれば何も問題は起きませんから。しかし今回に限っては、雹堂先生の仰る通り柔軟な思考が欠けていました。炎に焼かれたご遺体が同時に凍っていただなんて常識的に有り得ない事象ですが、有り得たからこそ先生はその検査結果を出された。ならば僕がここで為べきことは、先生が出されたその結果を心の底から支持することです。先生の言うことには概ね間違いがないですからね」
そう言って藍場刑事は、なぜか柔和りと破顔した。
ひとりでに心地よく相好を崩した若者のそんな姿を目にして、私は心無しか少しばかり拍子抜けしてしまった。なので、
「細々と口煩くして於いて何だが、どうも自棄に素直じゃないか。柄にも無く年甲斐を利かせて小言を言ったつもりに為っていたが、どうもその必要はなかったらしい。一体全体君の胸の裡にどう言う風が吹いてそんな心境に為ったのやら。少し鬼魅が悪いくらいだ」
明らかな怪訝と、それを勝る珍妙さを籠めた言葉を暁然と微笑む若者へと送った。すると彼は、
「他人のことを良く鑑て説教できる人は、僕にとって大変貴重な存在なんです。今の世の中自分のことで精一杯な人ばかりなのに、他人の為を思って苦言を呈せる人間はそう多くない。持論ですが、極端な話それができる人は、得てして器が大きいものと僕は考えています。大仰な物言いを為れば尊敬すらしている。だから曲がり形だったとしても、僕の為を思って口煩くしてくれた先生のこと、その意見には素直に耳を貸したいと思っています。喩えそれが剰りにも現実味に欠ける事実だったとしても」
と偉く真面目切った顔でそう言い放った。
「そうか、甚く礼儀知らずな男だと思っていたが、そんな君にも他人のことを敬う気持ちが確乎りとあったのだな。それならそれでもう何も言わんさ。年齢に任せて痛言を振るうのも嫌に疲れるんだ。これからはもっと私のことを敬い……否、労って仕事の話をして欲しい。細やかながらそれが私の願いだよ」
どこか人の気持ちに疎くこれを良しとし剰え蔑ろにしているように見えて、藍場刑事には彼なりの哲学が確乎りとあることが分かった。ならばもう何も言うことは無いだろう。そう思い立った私は最後に大いなる皮肉を籠めた言葉をして、事の次第を締め括ろうとした……のだが、
「雹堂先生は、まるでおじぃちゃんですね。僕みたいな好青年を捕まえて頭ごなしに説教を垂れるんですから。実に口煩くて偏屈な、それでいて面倒見の良い優しいおじぃちゃんです」
と、何ともこそばゆくなるような台詞を宣ってきた。それを聞いて何だか背中が眷々と痒く為ってきたので私は、
「煩いよ」
と軽く一蹴し仕事の本題へと戻るための咳払いを一つした。
「話を元に戻すぞ、藍場刑事。今回火災現場で見つかった二名のご遺体、その状態は君が目の色を変えて困惑するのも無理からぬ有り様だった。何せ一見してただの焼損遺体だと思っていたものが、蓋を開けてみれば強固に凍っていたと言うのだから、これほどに奇妙な現象はない。だが監察医務院の責任者である私をはじめ、幾人かの職員とで厳重に検査を重ねた結果、これは紛れもない事実であることが分かった。二名の身元不明遺体は、燃え盛る炎に死後焼かれ、と同時に氷づけと為っていたと仮定するのが、当院の、そして私の見解だ」
「……三度、四度と聞いても剰り現実味が無い話ですね。何だか頭が痛く為ってきました。これって一体どう言うこと何でしょう……然う言えば、害者たちの直接的な死因って解ってたりするのでしょうか。せめてそれが分かれば事件か事故どちらかくらいの判別がつくのですが」
取り分け悩ましげな様子でその眉間に深い皺を刻みつつ、藍場刑事はひとりそうごちた。
そんな息を吐くような呟きに、私は数瞬と間を置かず、
「すまんが、それはまだ判明していない」
とだけ言って静かに首を横に振った。
「一介の監察医にも拘わらず無念にもその生涯を終えてしまったご遺体の最期の声が聞けずにいるのは、とても歯痒いことだが、こればかりは無理難題に尽きるかもしれん。身元不明遺体両名の身体は、殆ど炭化した状態だった。凡そ想像も出来ぬほどの高火力で焼かれた体細胞組織はグズグスに破壊され、黒焦げと為った体表面からは外的要因を示唆する痕跡は、一切発見することが出来なかった。唯一解ったことはと言えば、どんな方法で焼かれたのか皆目見当もつかないが、両名とも摂氏千二百度以上の火力で一気に焼かれたということ。と同時に、氷点下を越える極低温下に短時間と曝されていたということだけだ。まるで大量の液体窒素を緩慢りと吹き掛けられたようにな」
私がそう言葉を締め置くと、相も変わらず藍場刑事はとても難しそうな顔をして、その広くもない額に手を遣った。
「ご遺体が焼かれていたうえに凍っていただなんて、上層部にどう報告したらいいんですか。おまけに死因も解らないときたら、事件と事故どちらに主眼を置いて捜査をすればいいのか分かりません。……だけどご遺体が焼けたときには、既に害者は事切れていたんですよね?その写真に写っている切断された害者の腕は、確か生活反応が無かったってさっき先生はそう仰っていました。ならば現場の出火前には既に亡くなっていたことになる。とするならばこれはもう第三者による殺人、しかも放火の線が濃厚なんじゃないですか。違いますかね?」
瞬間的にそう思い当たった藍場刑事は、剰りにも喰い気味な勢いに任せて私にそう不確かな同意を求めてきた。私はそんな若き刑事の根拠の無い当て推量に緩慢りと首を振って、
「すまないが、今の私に言えることは、被害者のご遺体が燃える前には、既に両名とも確かに息を引き取っていたということだけだ。それ以上は何も言うことができない」
と静かに口を噤んだ。
「解っていますよ、憶測で物を言うことは先生の職業柄できませんからね。委託しているとはいえ、外部の人間の意見を聞いて捜査方針を決めるなんてあってはなりませんから。さて然うなると、これはこの上なく厄介な事案です。果たしてどこからどう手を付けていいのやら」
そう言って藍場刑事は再三に渡って困ったように頭を掻いた。そうして再びガラステーブルの上に置かれた身元不明遺体の切断された右腕だけが写った写真に視線を送ったかと思うと、
「改めて見てもこれが火災現場の、それも真っ黒焦げに為っていた害者が落とした腕だなんて今でも信じられません。焼けた遺体が凍っていたことも不思議ですが、こんなにも状態良く残っていたのも不思議です。一体現場で何が起こっていたのでしょう? 一体何があって害者の二人は、こんな有り様と為って人生の最期を遂げる羽目に為ってしまったのか、僕には一向にと想像ができませんよ」
彼にしては珍しく物寂りとした物言いだった。
「既に起こってしまった出来事を今ここに居る私たちが止めることなど決してできない。ならあの現場で真実何が起こっていたのか、それを突き止めることこそ、犠牲と為った彼、或いは彼女にしてやれるせめてもの手向けと為るのではないかな。私もこの場限りで自らの職責を確乎り果たしたとは露ほども思っていないさ。せめて両名のご遺体がどのように亡くなったのかぐらいは瞭然りさせてみせる。然うでなければ、私が監察医務院に居る意味がない」
いち監察医の端くれとして、私は一応の態度を以てひとり目を伏せている藍場刑事に明瞭りとそう告げた。喩えこの件の裏に唯一思い当たる節が少なからずあったにせよ、そう発言するのが最善だと思ったから。
そうして私の言葉を聞いた藍場刑事は、
「そうですね、過ぎてしまったことを変えることなんて僕たちには到底できません。先生が仰るように現場で何が起きたのか、その真実を明らかにすることこそ僕たちに残された唯一の手段なんです。それさえ解れば、第二第三と為る同様の事案を未然に防ぐことができる。そう胸を張って信じるしかないんですよね。気が重いですけど」
と一人前に使命感に燃えたことを言ったかと思えば、事此処に来て余計な減らず口をまたもや叩いた。
「藍場君、そうした後ろ向きな意見は思っても口にしないことだ。場が白けてしまう」
真面目なのか不真面目なのか克く解らない藍場刑事の性格に私は殆疲れ果ててしまった。そうして本日何度目かの縷言を私が口にしたとき、
「気が重いと言えば、三年前から柾桜署の管内で起きている例の事件、未だ解決の糸口すら見つかっていないから捜査一課の連中も含め署内の空気がどうも重苦しいんですよね。あれどうにかならないかなぁ」
何気ない感じで藍場刑事はひとりそうぼやいた。
それを耳にして私は、心底神妙な顔つきと為って、
「例の事件というのは、柾桜市内に在る病院から入院患者が突如として居なくなるというやつかな? 確か暫く前にも聞いた」
と言った。
「えぇ、そうですそれ。現在の医療技術を以てしても治すことのできない難病指定を受けている患者ばかりが次々と行方不明に為っている事件です。確か先月の頭辺りにも東にある染井町の病院で一人入院していた患者が居なくなっている。病名は何だったかな、えーと確かキューティー……」
「――QT延長症候群」
「あ、えぇそれです。QT延長症候群。確か和名だと『家族性突然死症候群』でしたっけ?」
明らかにうろ覚えながらも藍場刑事は確乎りとその病名を口にした。
「家族性突然死症候群とは、何とも抽象的な病名ですね。確か遺伝性の疾患が原因で起きる病気だと捜査一課にいる同期から聞いた覚えがありますけど、詳しい病状などは話してくれなかったんですよね。いや話せなかったのかな? 教えてくれた同期は剰り頭が良い方じゃないから上手く説明できなかったのかも。ねぇ雹堂先生?」
そこで藍場刑事は露骨な振り方をして私に話を投げてきた。彼の意図したいことは安易に分かったのだが、私は直ぐに答える気には為れず、
「あぁ、そうだな」
と曖昧な返事をしてこの場を遣り過ごそうとした。
「あ、先生も教えてくれない感じですか? 監察医務院のいち監察医とはいえ曲がり形にもお医者様なんですから、この病気のことについて少しくらい教えてくれてもいいじゃないですか。まさか病名は知っていても、症状までは解らないとか?」
この刑事は懲りもせずまた余計な口を利いてきた。誰だって答えたくないことの一つや二つあるというのに、それを察する能力が極めて欠如していると言うか、何と言うか。なぜだが著しく小馬鹿にされているような気がして、
「QT延長症候群は、不整脈を主な症状として引き起こす疾患だ」
と、これ以上ないほど喩えようもない渋い顔を作ってそう言った。すると藍場刑事は、
「不整脈? 不整脈が難しい病気なんですか?」
と意外そうな声を上げた。
「あぁ、と言ってもQT延長症候群は、ただの不整脈を引き起こすものじゃない。君も君の同期に聞いた通り遺伝性の疾患であることは解っているのだが、これがなぜ引き起こされるのか詳しい原因は未だ解明されていない。唯一解っているのは、ある特定の遺伝子が患者の心筋細胞に干渉して、慢性的な不整脈状態を頻発させていると言うことだけだ」
私はそこで一旦億劫そうに聞こえるよう言葉を切った。しかし、
「そうなんですか、僕の父親も時偶不整脈染みたものを起こしますが、そんな大それた病気と同一のものだなんて思えませんけれどね。精々動悸が少し乱れて目眩がするってくらいの印象しか持ってないです」
そんな私の解り易そうな苦い計らいも余所に、藍場刑事は実に釈然とした調子で身内の病歴を綽々と明かした。それを聞いた私は、人知れずそんな言葉を口にする藍場刑事の態度に少々腹を立てて、
「不整脈を甘くみない方がいいぞ、藍場刑事。君のお父さんの場合は単なる老化によるものだと思うが、時と場合によっては死に至る事例もあるんだ。QT延長症候群を患っている人たちの中には、日に何度も不整脈を引き起こして失神し、真面な日常生活が送れずにいる。時と場合を選ばずな。それを知ってこの病気を低く見ることは、父親の生死すら低く見ていると言うことだ。そんな心持ちでは、君は孰れ父親のことを見殺しにしてしまうぞ」
と少しきつめの言葉を掛けた。
それを聞いて藍場刑事は少しばかり気色ばんで、
「見殺しにするって、そんな大袈裟なことなんですか……いえ言葉が過ぎたかもしれません。身内の不幸を得意気にひけらかすのも聞いていて気持ちが良いものじゃないですからね。僕だってまだまだ親孝行がしたいんです。だから父にはまだ死んで欲しくありません。軽率な発言でした」
と素直に頭を下げた。
「しかしQT延長症候群、不整脈を慢性的に引き起こす病気とは、ちょっと意外でした。難病指定されているからには、もっとこう顕著に身体機能を損なう病気とばかり思っていましたから。でもいつ発症するか解らない不整脈を日常的に抱えているのは、確かに難しい病気なんでしょうね。それに遺伝性ってことは、これ患者の子どもにも発症ってことですよね」
「だから家族性突然死症候群なんだ。QT延長症候群には、学童期や幼少期に発症する先天性と、ある程度年齢がいってから発症する後天性とがある。親族から獲得した遺伝子の変異具合にもよるが、遅かれ早かれ少なからず発症するのがこの疾患の最たる特徴だ」
そう口にした瞬間、私は些か鬱屈とした心持ちと為った。この話題は今の私にとってこの上ない毒と為っていたからだ。そろそろこの会話も終わりに為たい。だと言うのに藍場刑事は、その矢鱈と尖った錐のような顎先に隠然と指を遣りつつまた難しい顔をしていた。
そうして、
「雹堂先生、難病患者の行方不明事件にも犯人がいるんでしょうか」
藍場刑事がそう呟いた途端、私は人知らずひとり驚怖とした。
「……なぜそんなことを私に聞くんだ?」
室内に充満した冷気に遣られ、酷く渇々と為った唇を震わせて私はそれだけを聞いた。
「いえ、単に変だと思いましてね。行方不明に為っているのは、皆同じ病気を持っている人たちですし、入院中に自らの意思で居なくなるなんて少し考え辛いんですよ。難病指定の患者だけを狙った何者かが誘拐しているって話ならとても解り易いんですが、捜査一課の調べでも第三者が関わっていた痕跡が一切なかったんです。ほんの数分前まで病室にいたのに看護師や見舞客が目を離した隙に居なくなっていた。患者が使用していた病室には監視カメラなどの類いは当然無いにしても、病院の至るところに設置されたカメラにも消えた患者の姿は微塵も映ってなかったって言うんです。幾ら難病指定を受けていたとはいえ、歩くことに支障があるような患者は極僅か。なのに一人でに歩いている姿すら、その影すら映っていない。こう言っては少々危篤に聞こえるかもしれませんが、謂わば神隠しみたいなものです。だけどこれって事前に監視カメラの位置を把握していた何者かに連れ出されたと言うのなら話は別です。そう喩えば、白衣を着て医者に成りすまし、持ってきた車椅子に患者を乗せてカメラを避けながら連れ去った。だとすれば有力な目撃情報も満足に得られないはず」
そこまで一気に喋りきると、藍場刑事はひとり得心したように頷いた。私は、
「ならば署の捜査本部にそう進言したらどうだ。飽くまでいち刑事の意見として取り入れてくれるやもしれんぞ。しかしその前に、君は自分が受け持っている案件を無事解決するのが先だと思うぞ。こちらも中々に手強い案件だからな」
そうして話の矛先を容易に変えてやると、藍場刑事は見るからに「しまった」という顔つきに為った。
「それもそうでした。余所の案件に首を突っ込んでいる余裕なんて僕には毛ほども無いんでした。こっちもこっちで奇妙奇天烈奇々怪々。戻って手の出しどころを確乎り考えないと」
そう言って藍場刑事は、私が貸していたブランケットを肩から外して立ち上がった。
「それでは雹堂先生、二名の身元不明遺体について何か他に解りましたら随時ご連絡ください。こちらもこちらで色々と調べてみます。あと今度来たときには、何か美味しい茶菓子など振る舞ってください。先生が淹れてくれるコーヒーも少しはマシになると思うので」
最後にそんな如何でもいい言葉を残して、若き刑事は颯爽と私の所長室から出て行った。
「煩いよ」
そうして煩わしいくらいにひとり毒づく私の息は、見るからに白々と凍っていた。