これはありふれた婚約破棄宣言(※当事者比)
「アルメド先輩って、婚約者なのにリュイ先輩にすごく冷たいですよね。彼のことを好きじゃないなら、もう解放してあげてくださいっ。リュイ先輩がかわいそうです!」
数日前、可愛らしいストロベリーブロンドの後輩がわざわざ放課後にこんなセリフを吐きに来た時から、予感はしていた。
久々に、一波乱ありそうだ、と。
「ティナ!」
バンッと勢いよく扉を開けて、授業が終わったばかりの教室に乗り込んできたのは、一つ年下の婚約者だった。
サラサラのプラチナブロンドの髪に、空を写したような青い目がハッと目を引く、儚げな美貌の青年。
今はその美しい面を歪めて、こちらに強い眼差しを向けている。
「貴女が…」
言い淀んで、一旦足もとに視線を落とす。静かに彼の次の言葉を待っていると、やがて決意したかのように顔を上げ、再び強い眼差しをこちらに向ける。
「貴女が、そこの男に惹かれていることは、知っている」
「えッ⁉︎俺⁇」
急に指さされた隣の席の男が驚いているが、私も大変不思議だ。一体どこから、そのような妄想を生み出すに至ったのだろうか。
まだ授業が終わったばかりゆえ、クラスのほとんどの者が帰宅せずに教室にいるのだが、みなこの茶番の行く末が大いに気になるようで、固唾を飲んで私の目の前の婚約者殿に注目している。
「ほう?」
とりあえず首を傾げながら相槌を打つと、婚約者殿はその青の双眸に、うっすらと涙を浮かべた。
「あ、貴女の心がもう僕にないのなら、婚約を続けることなど、できない。そんなの辛いだけだ。もう、婚約は…破棄させてもらうっ!」
そう言い終わった瞬間、その瞳からは堪えきれなかった涙が一粒、ポロリと溢れ、それを隠すかのように彼はパッと身を翻すと、悲しみの気配を色濃く残しながら教室から走り去ってしまった。
「ま、待って、、待ってくださいっ!誤解だからっ」
勝手に私の相手役にされてしまった男が慌てて彼を追おうとするが、その前にクラスメイトに腕を掴んで止められる。
「落ち着いて。君は特待生として最近入ったから知らないだろうが、あれは気にしなくていい」
「名物みたいなものよ。でも久しぶりに見たわ。懐かしいわね」
「ほ、本当ですか?お貴族様の婚約破棄に絡んだなんてことになると、俺、俺の家が…」
可哀想に、平民から特待生として入学した男は突然の出来事に動揺しているようだ。巻き込むなら慣れたものを巻き込めば良いものを。はぁ、と息をはいて動揺している男に声をかける。
「私の婚約者がすまなかったな。他の者が言ったように、気にすることはない。君の家に何の影響もないことは私が保証する」
「ア、アルメド侯爵令嬢がそうおっしゃって下さるのなら…」
「アルメドさん、だ。学院にいる間はそう呼びなさいと言っただろう」
「は、はい…」
動揺している男は哀れであるが、彼の対処はクラスメイトに任せよう。私は逃げ去った婚約者殿の相手をする必要がある。
「皆、騒がせたな。先ほどの事は気にしないでくれ。そこの彼のことは任せた」
「いや、久しぶりに面白いものを見せてもらったよ」
「お気になさらず。いってらっしゃいませ」
笑顔で見送るクラスメイト達に一礼して、婚約者殿が逃げ込んだであろう場所に足を向けたのだった。
「リュイ」
とある資料室。彼の親戚筋が教員として管理しているそこに、リュイはいた。
彼の休憩用にと片隅に置かれたテーブルに突っ伏して、こちらを見ようともしない。
「リュイ」
もう一度呼ぶと、やっとその顔をあげる。こちらを見るその顔にはハラハラと涙が伝い、なぜ男のくせにこんなに美しく涙を流せるのだろうかと、どうでもよい疑問が心に浮かんでくる。
「なんで、追いかけてきたんだ」
「なんでも何も、追いかけて欲しかったのだろう?」
不思議な事を言う婚約者にそう返し、近くにある椅子を引いてきて彼の側に座る。
「それで?今回は何を吹き込まれたんだ?犯人はあのピンク頭の男爵令嬢か?それとも別か?」
「っ!ティナがっ!」
ブワッとまた涙が盛り上がってきて、よくそんなに泣けるものだと感心しながら、ハンカチを取り出してそれを拭ってやる。
「私が?」
「ぼ、僕にはあまり笑いかけてくれないのに、あの男には笑っていたから!」
「…」
はて。そんなことがあっただろうか。
「申し訳ないが、記憶にないな。リュイの見間違いではないか?」
「僕がティナの笑顔を見間違うわけがない!」
「そうか…?」
そうは言われても、記憶に…。
「あ」
そういえば。
「うむ、隣の彼がリュイのことを、美しくて穏やかないい婚約者さんですね、と褒めてくれたことがあったんだ。そういえば、しばらく君は暴走していなかったし、君の本性を知らぬ者からするとそんな評価になるのかと、可笑しく思ったな」
「…」
「それで笑ったかもしれない」
「…」
「君が穏やかだなんて、とても面白いと思わないか?」
「ティナはひどい!」
今度は怒り始めた婚約者殿に、すまないと謝りながら、本当にこの男は中身が変わらないなぁと感心していた。
喜怒哀楽が薄く感情が読めないと言われる私には、こんなにころころ泣いたり怒ったりできることが少し羨ましくも思える。
「それで?ここしばらく穏やかでいい婚約者さんでいられた君が今回暴走したのは、本当にそれだけが理由か?」
だが、成長してからこの男だって我慢というものを覚えたのだ。
「私は知っての通り、人の感情を察する事が苦手だ」
その我慢の中で、私の方が大事なことを見落としたとも限らない。
「だから言ってくれ。君は本当に、私との婚約を白紙にしたいのか?」
そう真っ直ぐに青の目を見て問うと、一旦止まっていた涙が、またその目に薄い膜を張る。
「ティナは…」
痛みを堪えるかのように、その胸に手を当てて、リュイは掠れるような声でこちらに問いかけてきた。
「ティナは、僕のことを、男として、好き?」
今までになく切実で祈るようなその様子に、思わず目を見開いて目の前のリュイを見つめる。
「最近まとわりついてくる子が言うんだ。僕のことを好きだから、四六時中僕のことを考えて、嬉しくて、いつでも会いたいんだと」
ポツリと一粒、また涙がこぼれ落ちる。
「その子の好意を断る時は、胸が痛んだ。僕もその感情は、よくわかるから。でもその時思ったんだ。ティナはどうなんだろうって。
ティナは、少しでも僕に会いたいと、好きだと、思ってくれている?婚約者の義務ではなく、その心を、僕に傾けてくれている?」
痛いほどに真剣な眼差しが、真っ直ぐに私の心を貫く。はらはらと涙をこぼす様も、その純真な想いも、この男は本当に美しい。
「なんで、こんな時に笑うの…っ」
キッとリュイに睨まれて、初めて自分が笑みを浮かべていたことに気がついた。
ああ。でも、これを喜ばずにいられようか。
「すまない、つい」
「ティナは、本当にひどい!」
泣きながら怒り始めた婚約者に、笑みが深まる。
「君は本当に私のことが好きだな」
「好きだよっ!責任とってよ!」
「ああ、喜んで」
そう言って、椅子から立ち上がってリュイのすぐ側に立つ。
「ぐっ、う、またそんな余裕そうにっ!僕ばっかりティナのこと好きで、こんなに想ってるのに、ティナは…
っ⁉︎⁉︎!????」
一生懸命言い募るリュイの顔を捕まえて、まだうるさく囀る口を封じる。
一瞬の静寂。
そっと重ねた唇をほどく時、目の前にある青の双眸は、こぼれんばかりに見開かれていた。
「リュイ。口付けの際は目を閉じるものらしいぞ」
「くち、、は、、、、?」
しばし呆然としていたリュイは、やがて自分の身に起こったことを理解したのか、その顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「く、、は、初めてだったのにっ!」
「当たり前だ。私も初めてなのだから」
「も、もっと、ムードとか!場所とかっ」
「なら、君からの初めてのキスに期待しよう。どんなに素敵な思い出にしてくれるのか、楽しみだな」
「ハードルあげないでよ!」
ティナのばか!と言ってまた机に突っ伏してしまったリュイを見て、滅多にないほど感情が揺らめいている。
「リュイ。先程の問いだが、いつも君が私に会いにくるから、願う以前に、私は君が会いにきてくれるものだと思っているよ。男として見ていることは、先程の口付けで証明した。
それに、君が6歳の時に絶対に私と結婚するんだと盛大に泣き叫んでだだを捏ねた時から、私の隣には将来君が添うものだと疑ったことはない」
「…」
「私は君との婚約を見直す気はない。君からは何度も婚約破棄を言い渡されているけどね」
「そ、それは!」
がばっと伏せていた顔を上げたリュイが何か言おうとしたのを、片手をあげて制する。
「わかっている。私の落ち度だろう。私は君の愛情を疑ったことはないが、君は不安に感じると言うのなら、それは私の努力が足りないのだ。すまない」
「…っ」
そう言うと、おさまっていた涙がまたポロポロと青の双眸からこぼれ落ちてくる。
「僕も、ごめん。すぐ不安になって、いつもティナを困らせてる」
「正直、君の試し行動は可愛いと思っているから問題ない」
「なんなのその余裕…」
泣きながら笑うリュイを見ながら、そっとそのサラサラの髪を撫でる。
「まぁ、もう少し私に好かれている自信を持て。なにせ、私のファーストキスとやらを奪ったのだからな」
「奪われたの僕の方だと思う」
「ああ、そうだった。ムードも場所も最高のところで仕切り直すのだったな」
「だからハードル上げないでってば!」
やっと元気になってきたリュイを見ながら、思う。
この胸に満ちるもの。これはきっと、紛れもなく。愛おしいという感情なのだと。
「この間はすまなかった。完全に僕の早とちりだった。迷惑をかけて申し訳なく思う」
「い、いえ、誤解が解けたのなら大丈夫です」
「そう言ってもらえると救われる」
穏やかな婚約者に扮したリュイが、迷惑をかけた隣の席の男に謝っている。確かにこうしてみると、その美しい容貌も相まって、穏やかで知的な男に見えなくもない。
まぁ、その外面に騙される者はもう、この教室内にはいなくなってしまったが。
「さ、帰ろうかティナ」
そう言ってリュイがこちらに差し出した手を取って、教室を出る。
そして外に出たところで、その手を一旦離した。
「?」
不思議そうなリュイを観察しながら、その手を指を絡めた恋人繋ぎとやらに繋ぎ直してみる。
「….なっ!」
一瞬で真っ赤になってしまうリュイを見て、思う。
これは面白い。
「ね、ねぇティナ。いまロクでもないこと思わなかった?」
「いや?なんだ、この繋ぎ方は気に食わないのか?」
「そ、そうじゃないけど」
真っ赤な顔のまま、解かれてなるものかときゅっと手に力を込めるリュイ。可愛いやつめ。
ああ、もっと早く気がつけばよかった。これならリュイを不安にしないし、私は楽しい。いいことずくめだ。
私だって少しは成長するのだと、内心得意になりながら、真っ赤な婚約者の手を引いてゆっくりと歩き始めたのだった。