トレーニングゼロ男
「だいじょうぶだいじょうぶ♪ だってせっちゃん、まだ『三全』も二つの形態も使ってないもん。これからせっちゃんの全力が見られるよ」
「そんなの相手だって同じよ! 見てよあのロバートの余裕の表情! あいつだって全然本気じゃないわ!」
「うーん、それはそうなんだけどね。天城流の全力と、天城流以外の全力は全然違うから」
「へ?」
リングへ視線を戻すと、ロバートが羅刹に語りかける。
「おい羅刹。お前は一日何時間トレーニングしてんだ?」
「俺か? 一日一〇時間だぞ」
「へぇ、そいつは随分と優雅じゃねぇなぁ」
「優雅?」
「おうよ」
ロバートは自身を右親指で指す。
「オレ様のトレーニング時間はな、生涯ゼロ秒だ!」
羅刹の目が大きく開いて、一部の客がどよめいた。
運動の世界は過酷だ。
スポーツも格闘技も、才能がものを言うが、厳密に言えば、才能がありかつ努力をしている選手が一流を極める。
この世の全ての選手が汗と涙を流し、死に物狂いになって己を鍛え込み、筋力と瞬発力、動体視力や技術を磨き、そしてプロ選手になり、プロの世界でトップに立てる。
決死の努力の果てに、プロになることすらできない人は少なくない。
だが。
例外は常にいる。
「ライオンがジムに通うかよ? オレはな。生まれ持ったポテンシャル。自然体の自然性能だけで戦うって決めているんだよ」
ロバートは嘲笑する。
「食事制限? トレーニングメニュー? ジョギングにストレッチ? てめぇらダイエットギャルやひらひらアイドルかよ? 玉の汗かいて、顔を歪めて苦痛に耐えて、疲れ果ててボロ雑巾のように寝転がって……優雅じゃねぇなぁ」
ロバートがファイティングポーズを取り、上腕二等筋が隆起する。
「真の強者っつうのは優雅に喰いたいモノを喰い、飲みたいモノを飲み、寝て、常に満足げな顔をしているもんだ。そして戦いの時はさくっと終わらせて優雅に帰宅。できる奴は最初からできないしできねぇ奴は最初からできねぇ。勝つ為の努力をわざわざしている時点で、てめぇは敗者だ!」
高速の右ストレートが放たれる。
ミニマム級ボクサーのスピードとヘビー級ボクサーの重さを兼ね備えた剛拳が羅刹を捉えた。
礼奈は本当的に悟った。
負ける。
こんな、とんでもない化物の拳を顔面に受ければ、それだけで羅刹はKO。
「羅刹!」
礼奈の悲鳴と同時に羅刹は右腕でガード。
自ら後ろに跳んでダメージを軽減させたが、礼奈の目にはパンチ力で吹っ飛んだように見えた。
礼奈は涙を流しながら、スカートの端を握りしめた。
「っっ」
礼奈は腕で涙を拭い、リングに近いVIP席から身を乗り出した。
「もういい! もういいから羅刹! ギブアップしていいから! あたしらに付き合ってあんたが死ぬことない! 羅刹は元々あたしらとは無関係なんだから! だから!」
「おいおい礼奈。勝手に人を殺すなよ」
羅刹が跳ね起きる。
「ていうか俺は旗大路フーズの代表者なんだから、無関係じゃねぇし。つうわけで行くぜロバート。俺が負けるとうちの雇い主が泣くんでね、ってよりもう泣いてるけど」
「奥の手でもあるのかい? ならその奥の手ごと潰してやるぜ!」
ロバートが猛然と迫る。
その迫力、勢いからは闘争心ではなく殺意に近いものを感じる。
「オルァア!」
ロバートの左フック。
よりも後に出した、羅刹の左ジャブがロバートの胸板を撃ち抜いた。
「がっ!?」
続く羅刹の右ストレート、回し蹴り、左ストレート。
全てがロバートの反応速度を超えたスピードで顔面を、脇腹を、胸板を叩きのめす。
背後へたたらを踏むロバートの腹筋を、羅刹の直蹴りが貫く。
背後へダウンするロバート。
羅刹は拳を突き上げて観客にアピールする。
「なな、何あれ……あれってこの前の無呼吸状態?」
「ふふ、違うよ」
好美は礼奈の為に解説をする。
「あれは天城流の三つの奥義、三全のうちの一つ『全駆』だよ」
「ぜん……く?」
「うん、例えば時速二〇〇キロで走る新幹線の中を時速三〇キロで走ったら、その人は地上を時速二三〇キロで移動することになるよね?」
「え、ええ」
「それと同じ。振りあげた手を肩だけを回して下ろしたら遅い。でも肘と手首も曲げて、肩、肘、手首を同時に動かせば敵に当たる手のスピードは三つの関節の合計になるでしょ?」
「でも、それくらい誰だってしているんじゃないかしら?」
口挟んで来たのは、華奈だった。
「はい、もちろんスポーツ選手も格闘家も、運動系の人はみんな少なからずこの技術を使っています。でもせっちゃんのはその精度が並はずれているんです。動きに必要、と言うよりも、その動きにプラスできる関節と筋肉全てを総動員して、それも各関節の速度が最大になる瞬間を全部相手に当たるインパクトの瞬間にそろえる。こんな事、せっちゃん以外にできるのは世界に何人もいないと思いますよ」
にぱぁっと笑う好美。
礼奈はただ圧倒されて、
華奈は口元を緩めた。
「そんな絶技が三つのうちの一つ……なるほどね。好美ちゃんが羅刹君を心配しない理由が解ったわ」




