『My One And Only Love ~ジャズ研 恋物語~ 』
「新入生の君に声を掛けた、ビビりなあたしの精一杯の勇気を今は褒めてやりたい」by藤川桜子
今日は久しぶりに、欅並木ではなくキャンパス内を歩いて部室棟に向かう。1号館のすぐそばで咲き始めた桜の樹のほとりで立ち止まる。この樹の下で、全てが始まった。俺がはじめて桜子さんを見た場所。そうして当てもなく途方のない恋に落ちた場所。
季節は3月…今日は桜子さんたちの卒業式だ。
部室棟に着いた俺は部室のドアを開ける。中には数人の部員がいて、相変わらずテレビゲームに興じていた。またマリオカートだ。
「おらぁ、いつでも抜いてみやがれ!」赤甲羅を手にした部長の菊田が1位を走る。相手は斎藤くんだった。「菊田さん汚いっすよ」と罵りながら、2番手につける。とうとう最近斎藤くんまで毒されてきたのかと思って、俺は少し気が重かった。
「大人げないっす」「汚いっす」「これが部長のすることですか」とギャラリーに加わっていた部員たちが菊田に声を上げる。「うるせーやい、勝ちゃいいんだよ勝ちゃ!」と菊田も負けずに言い返す。低レベルな争いを遠巻きに眺めていると、先輩、と声を掛けられた。佐々木さんだった。
「確か今日でしたよね、藤川さんたち」と言う。卒業式のことだとすぐにわかった。
「来てくれますかねぇ?」と佐々木さんの言葉に、俺は続けた。
「大丈夫、部室とスタジオの鍵を返しにくるし、何より楽器を取りに来るさ」と。
誰かの卒業というものが、こんなに身近で痛切に感じるのは、今まで生きてきて桜子さんがはじめての事だった。楽器ラックに据わったトランペットのケースを見て、ふと感傷に耽った。
「結子、練習行こうぜ」とマリオカートのコントローラーを投げた斎藤が佐々木さんに声を掛ける。俺の姿を認めて「あ、ども」と小さく会釈する。俺は目が点になった。あら、あらあらそういうことなのね。何というか立場的に俺はホッとした。
「わかった、そうしよっか」と佐々木さん。アルトサックスのケースを手に、二人で部室を後にした。俺は斎藤が投げたコントローラーを拾うと、菊田の隣に座った。
「出たな篠崎! 手加減は無用だぜ」と菊田。俺は「瞬殺してやる」と鼻で笑った。
周知の事実過ぎて誰もが知っていて、誰も口にしないのだが、俺はこのゲームはたぶん部内で一番上手い。
「ひさびさに篠崎さんのプレイですね~!」と後輩たちが小さく沸く。いつでも全力、手を抜くわけにはいかなかった。俺は迷わず重量級のドンキーコングJrをセレクトした。
やがてゲームに飽きた俺達は、徐々にスタジオに向かい始めた。俺はふと桜子さんを想った。時計の針は既に卒業式の時間を大幅に超えている。どうしたのだろう、と思いながらもスタジオに足を踏み入れる。
まぁ、いつもと変わらない光景だ。各々、テーマを持って黙々と練習に打ち込むもの。ドラムとピアノの回りに集まり、ミニセッションをしているもの。思い思い、自由と自主独立のMJGの姿があった。
「ちょっと、最近練習サボり気味じゃないの?」と楽器の手を止めて、バリサクの玲奈が意地悪く声を掛けてくる。「うん、確かにそうかも知れぬ」と俺。「いかんなぁ篠崎クン。練習量じゃあ誰にも負けないんじゃなかったの?」と畳みかけてくる。俺は「確かに」と苦笑いした。
実際には、去年桜子さんも経験した就活に俺は直面していたのだ。そうして、自分の目の前に広がる茫洋とした未来に足をすくめた。何者にもなれるし、何者にもなれないかも知れない。そして、いざ自分の事となると、桜子さんにアドバイスした時のように頭が回らない。
それこそ、”プロ目指そうかな”と何度思ったことだろう。
「玲奈先輩、ちょっとセッションしませんか?」とD年の沢渡・荒川・沢木の女子リズム隊が彼女に声を掛ける。部内の女子が仲がいい、というのはそれだけで副部長という立場を楽にしてくれた。
そうして、しばらく個人練をしていた頃合いだろうか。スタジオのドアが開いた。
入ってきたのは、薄紅色の上着に、濃紺の袴。普段は下ろしている髪をアップに結わえた桜子さんだった。俺が一撃で見惚れてしまうことを、彼女は知っているだろうか。
「みんなおつかれー。遅くなってごめんね」やあやあとニコついて彼女がスタジオに入ってくる。絶対に気のせいだが、彼女の纏う空気は桜の香りがした。
「藤川さんお疲れさまアーンド、ご卒業おめでとうございます」と菊田が歩み寄る。
「おお部長、ありがとう! 世話になったぜ」桜子節は相変わらずだ。
俺は桜子さんに近づこうとしたが、女子―ズに先を越された。和装の彼女の回りにわっと集まりながら「素敵」「カワイイ」「鼻血出る」などと口々に賞賛の言葉を発する。
「やー照れる、照れるわ。ガハハ!」
…おっさん臭いのは、相変わらずだった。
程なくして、「すまん遅れた!」とスーツ姿の遠山さんがスタジオに飛び込んできた。
「おお遠山、おつかれちゃん。ゼミの集まりにでも捕まったか?」と桜子さん。「イエス」と少し息の上がった遠山さんが言う。「まぁ、あたしも似たようなもんで、さっき来たとこ」
桜子さんはしゃあねぇよな、とでも言わんばかりの表情でおどけた。
「ところで卒業生のお二方、この後のご予定はお決まりで?」菊田がさらりと聞く。
桜子さんと遠山さんは顔を見合わせたあと、ほぼ同時に「別に」「別に」と発した。
「だったら、少しだけセッションして、呑み行きませんか? どうかなみんな?」
スタジオにした部員たちから、「Yeah!」「異論なし」「いいと思います」と声が上がる。その一連の様子を見ながら、今になって本当に菊田が部長らしくなってきたなぁ、としみじみと思っていた。
ミニセッションも終盤に差し掛かった頃、俺はパイプ椅子にふんぞり返っていた菊田に、スタンダードブックを手にして声を掛けた。「これ、やってくれないか?」と頼む。「…お前のそういうクソ度胸、俺は嫌いじゃないぜ」と菊田。すぐに彼が佐竹と大谷に声を掛ける。
曲が終わり、俺は楽器を手に立ち上がった。しばらくセッションで大人しくしていたせいか、下級生からは「篠崎さんだ」と声が上がる。
「菊田はイントロ頼む。感覚としてはデュオ。佐竹と大谷はテーマのBから入ってくれ」
「OK」「分かりました」と感度のいい二人からの返事。サックスを構えた俺の目の前には、桜子さんが楽しそうな表情をして座っている。卒業する彼女に俺は花束ひとつ用意出来なかった。その代わりと言っては何だが、せめて音だけは届けたいと思った。
「次は何やるんですか?」という後輩に、「マイワンアンドオンリーラブ」とだけ俺は答えた。とたんに失笑ともつかない小さなざわめき。遠山さんは「いいね!」とグッドポーズ。隣の桜子さんはいきなり頬を紅く染めて、悪態も付けぬまま俯いた。これでいいのだ。部内公認の仲だもの、たまにはこういう時間があってもいいだろう。
菊田のピアノイントロが始まる。音数は少なめで静かだけど、どれもが優しい音選びだ。下手したら聴き入ってしまいそうなその腕前にさすが、と思わざるを得ない。彼のアイコンタクトで、俺はサックスを吹き始めた。俺のメロディーに寄り添うに菊田のピアノが響く。やっぱりこいつは上手いヤツだ。
The very thought of you makes my heart sing
あなたを考えるだけで私のハートは歌う
Like an April breeze on the wings of spring
And you appear in all your splendor
春の羽に乗ってる四月のそよ風のようにあなたは華麗な姿で現れる
My one and only love
私のたった一つの愛
The shadow’s fall and spreads their mystique charms
日が落ちて影の神秘的な魅力が広がる
In the hush of night while you’re in my arms
I feel your lips, so warm and tender
静かな夜にあなたを抱きしめて感じる唇は暖かくて柔らかい
My one and only love
私のたった一つの愛
The touch of your hand is like heaven
A heaven that I’ve never known
あなたに触れるのは今まで知らなかった天国のようだ
The blush on your cheek whenever I speak
私が話すたびに赤く染まるあなたの頬は
Tell me that you in are my own
あなたが私のものなのを証明する
You fill my eager heart with such desire
あなたのせいで私の真剣なハートは欲望でいっぱいになる
Every kiss you give sets my soul on fire
あなたのキスで私の魂は燃えつく
I give myself in sweet surrender
私はあなたにどうしようもない
My one and only love
私のたった一つの愛
俺のサックスは止めどなく、朗々と愛を歌う。桜子さんに出逢って、恋に落ちて、ジャズとサックスに出会って、それまでの俺の全てが変わった。今の俺は彼女なくしてはあり得ない存在だ。その事に俺は心から感謝していたし、桜子は今では俺の大切な彼女だ。今の俺に出来る精一杯を、ありったけの想いを、大輪の花束の代わりに歌に載せた。
夕暮れのいつもの欅並木を二人で並んで歩く。こうしてふたりでここを歩くことも、これがもう最後かも知れない。俺は、桜子の手をしっかりと握りながら言った。
「本当にありがとうございました」
俺の言葉に、「何よ急に」と彼女は訝しがる。
「桜子のおかげで、俺の学生生活は最後まで楽しいものになりそう」
「あたしも、あの時勇気を出して優斗に声を掛けて良かったよ」と桜子。
「え?…勇気を出すような要素ありました?」
「めっちゃ緊張してて、でも話が分かってくれそうな新入生がいてテンション上がった。それが優斗だよ」
1年半近い付き合いになるが、まだまだお互いに知らない事がたくさんある。俺は思わず笑いだした。何がおかしいんだよ、という桜子を宥めるように言う。
「昔の話も面白いですけど、これからは”これからのふたり”の話もたくさんしようね」
桜子はちょっと俯いて、「うん、それがいい。そうしよう」と顔を上げて笑った。
こうして俺のジャズ研恋物語はひとつの区切りを迎えた。これから俺たちにどんな障害が出てくるのかはわからない。だけど、お互いを想う気持ちがあれば大抵のことは乗り越えられる。そう信じた。奇跡的に繋いだこの手は、俺から離すことは決してないだろう。
めでたく就職した桜子と、F年になった俺の話は…また別の機会としようか。