第三十四話 魔層化
皇女の屋敷を出ると、すでに夕方になっていた。
「はぁー、緊張したわぁーっ」
屋敷から十分離れたところで、アイネが思い切り伸びをした。そうすると豊かな胸が大きく弾む。
「お屋敷、凄かったね」
「なにせ皇女の屋敷ですからな」
「あのお茶セットだけで家が買えるって」
緊張感から解放され、明るい声でおしゃべりしながら歩く三人だが、話題が話題だ。少しずつ口も重くなる。
「しかしこの現代に魔物とは。まだまだ人智は超自然に及ばぬのかと」
「魔境都市とか、辺境には結構いっぱいいるけど」
「そうなの? やっぱヤバイわ辺境……。つーか……イルゼ様、大丈夫かな」
アイネが目を伏せて呟いた。
「あの騎士の人は結構強かったよ」
「さっきも言ってたねー。強いってユーリアくらい強いの?」
「あの人が十人いたら、倒すのにちょっと苦労する」
「基準がわかんねー!?」
アイネもブルダンも魔術師の卵ではあるが、戦いや冒険については素人以下だ。ユーリアの説明ではさっぱり理解できない。
「と、とりあえずそれは、イルゼ様を魔物からお護りできる程度の強さなんですかな?」
ブルダンが眼鏡を押さえながら聞くと、ユーリアは小首を傾げた。
「魔物の強さがわからないから、わからない」
「そりゃそうだわ!」
「でも、多分少しは大丈夫だと思う。あのセオドールっていう人と同じくらいだったら、ダメだった」
「あんた結構、根に持つ方なのね……」
父親を侮辱した人間をユーリアが簡単に許すことはない。それを実感して、ちょっと引いたアイネとブルダン。しかし、一応ユーリアの口から『大丈夫』という言葉が出たことにほっと息を吐いた。
「それなら少しは安心かなあ。まあ、言っても皇女様だもんね。皇帝陛下や帝国政府がちゃんと守ってくれるわ」
「……バオム殿は第二大隊所属と言っておりましたからな。聞くところによれば、セオドール殿の第一大隊は上級貴族の子弟が『泊付け』に所属するお飾りの部隊で。かのギレンセン殿が指揮する第二大隊こそが、真の魔装騎士団だ、とか」
「ほぉー?」
「ギレンセン……?」
ユーリアは反対側に小首を傾げた。何だか聞いたことのある名前だな、と思ったのだ。
「ギレンセンっていったら、あれでしょ、えーと、『軍神』! あたしでも聞いたことあるよ」
「ギレンセン殿は個人の武勇だけでなく、将軍として大戦で功績を挙げた方ですからな。ディラン殿ともお知り合いなのでは?」
「そういえば、お父さんが言ってた気がする」
「そう聞くと、何となく安心ではありますな。しかし……」
ブルダンは眼鏡をずりあげた。
「どったの」
「逆にセオドール殿の境遇を思うと哀れだなと。闘技場での失態といい、イルゼ様の護衛を第二大隊が担っていることといい……。魔装騎士団内での力関係が大分変わっていそうですな」
「ふうん」
眠そうな顔に似合わない政局分析を披露するブルダンに、義理で相槌をうつユーリア。『死ぬほどどうでも良い』、という顔だった。
「む」
ブルダンが急に足を止めた。
日は大分傾いている。三人の影が細長く、石畳に伸びている。
「どったよ、ブルダン」
「いや、何か。この通り、こんな雰囲気でしたかな?」
ブルダンはしきりに眼鏡を直しながら言った。アイネがきょろきょろと周囲を見回して「そういえばずいぶん静かだね」と呟く。
貴族向けの高級品を扱う商店が立ち並ぶ大通りだ。こんなに静か……人っ子一人いない、などということはあり得なかった。
「……ね、ねえユーリア。ちょーっとヘンな感じ、だね」
「……」
冷や汗を一筋浮かべたアイネが、隣のユーリアに囁く。ユーリアは、皇女の寝室で一瞬見せた、人形のような無表情。
「あまり周囲を見ないで。知らん顔で歩いて。できれば普通におしゃべりもした方が良いよ」
「え、それはどういう……」
「しょ、承知っ」
アイネは戸惑ったが、ブルダンは頷いた。アイネの手を握り、ぎくしゃくと歩き出す。
「ちょっブルダン! 手ぇべたべたっ!」
「は、ははは。女子と手を繋ぐなど十年ぶりですな」
「……」
周囲の異様な雰囲気に逆らうように、明るくはしゃぎながら歩き出すアイネとブルダン。並んで進みながらユーリアは視線を動かさぬまま、通りのあちこちを確認していた。
建物の隅や路地の奥を異形の影が横切る。
背後や四方から、ねっとりした視線が絡みつく。
今、店の看板に描かれた女神が邪悪な笑みを浮かべたのではないか?
ユーリアには、この現象に心当たりがあった。
《あー、これ魔層化だ。まさかこんなに『安定』した帝都で魔層化があるなんて》
魔層化とは、一言でいえば世界の変容である。
人間が生きる物質世界は、元素界や霊界、天界、魔界など多くの霊的世界と『重なり合って』存在している。物質世界が一時的に別の『界』へ『寄る』現象を魔層化と呼ぶ。
大掛かりな魔術や呪い、神器の能力など、魔層化が起こる原因は様々だ。
「普通にしてれば大丈夫」
ユーリアは友人二人に魔層化への対処方法を教えた。
物質世界を外からの力で変容させる魔層化だが、その変容を人間が認識すればするほど、魔層化は強固になってしまう。逆に言えば、世界の有り様とは人間の認識によって大きく変わるということだ。
『一番良いのは、何か馬鹿話をして笑いながら、皆でダンスでもして盛り上がることだ』と、以前ディランはユーリアに言っていた。
「が、合点承知」
「わ、わぁった! こらブルダン! もっとしっかり手ぇ握れ!」
異様な空間に紛れ込んでしまったことは直感できたのだろう。アイネとブルダンも全身に冷や汗を浮かべながら、必死にユーリアの指示に従う。
なるべく普通に、とこわばった笑みを浮かべながら、駆け足しそうになるのを押さえて歩く。
「……」
ユーリアは心を鎮めていた。探るでもなく、攻撃するでもなく、ただ自分の感覚だけを四方に広げていく。
その感覚の網に、小さな乱れが。
頭上。
「っ!」
ユーリアは前を向いたまま、小剣で頭上を薙いだ。
小剣には何か柔らかいモノを斬った感触。
「シャァッ!?」
猫なのか、人なのか、判別のつかない悲鳴。ぼとり、と何かが落下する音が背後に響いた。
「ユ、ユ、ユーリァァァ?」
「だ、大丈夫ですかなっ!?」
悲鳴は二人にも聞こえたのだろう。真っ青になっている。
「大丈夫」
ユーリアは短く言った。アイネの手を握る。汗塗れの白い手がしっかりと掴み返してきた。
「あと十歩で『ここ』から出られるよ。八、七、六……」
魔層化は対象になった人間の認識が最も重要だ。『あと十歩で出られる』と自ら規定することで、物質世界への認識を強化するという、魔層化破りの基礎である。
「し、信じてるよぉユーリア……」
「四……三……二……」
「一!」
最後の一歩と一声は、三人一緒だった。
その瞬間、通りに人々の姿やざわめきが戻ってきた。
「はぁぁぁ……」
「ふ、普通の様子に、も、戻っていますな……」
汗塗れでへたり込むアイネとブルダン。通りを行き交うのは貴族の使用人や職人たちだ。へんな目で見ていくが、気にする余裕もない。
「うーん……」
ユーリアは父の真似をして顎を撫でながら考えた。《これってどう考えても、イルゼさんのところに出たっていう魔物絡みだよね。魔層化がその魔物の仕業だとしたら……》
魔境都市やその周辺の危険なダンジョンでユーリアが経験した魔層化と比べれば、今回は『軽い』。《腕試し? 警告? よく分かんないな。直接言ってくれればいいのに》
「あのね、二人とも」
ユーリアは友人たちに手早く今起きたことを説明する。ユーリアの説明は感覚的過ぎて下手くそであったが、そこはブルダンが的確に理解してくれた。
念のため、ユーリアはアイネを自宅まで送っていった。アイネの父親は豪商であり、魔術師や魔術器使いも護衛に雇っている。今日程度の異変であれば、まあ何とか大丈夫か、とユーリアは思った。
ブルダンは魔術師学院の学生寮に一人暮らしをしていた。魔術師学院の関係施設は帝都でも警戒厳重な場所である。こちらも、まぁ何とか、というところだ。
「……やっぱりイルゼさん。危ないな」
一人自宅へ向かいながら、ユーリアは心配そうに呟いた。




