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後編


四日目


 今日は、休暇日である。

 軍にいた時にも非番はあったのだが、こうして決められた日に休みがあるというのは、王立図書館に出向となってから経験した、新鮮な出来事の一つだった。

 予定や、これといった趣味もない。加えて、ロウは朝が弱い。

 なので、ベッドを出る積極的な理由もなく、彼はごそごそと寝具を被り直す。

 いや、被り直そうとしたが、できなかった。頭が固定されて、動かないのだ。

 危機感からか一瞬で覚醒し、自身の首と巻きつく腕の僅かな隙間に、指を挿し込んだ。

「兄さん、朝ですよ。起きてください」

 なお絞めつけを強くしてくる腕を、ロウは軽く数回叩くことで解放を要求する。

 すると、あっさりと拘束は解かれ、今日はむせるのを免れた。

 何故、こんな事に安心をしなくてはならないのか。理不尽といえば、理不尽だった。

「ユニ。お前の頭蓋骨固めは、痛い。もう一度言うが、もう少し胸を立派にしてから、出直してこい」

 自室に侵入したユニと、ベッドの上で互いに向かい合って座る。

「そういう言葉で恥ずかしがる私を見て、兄さんは愉しもうというのですね・・・」

「お前が本気でそう思っているとしたら俺はもう、今日死ぬ」

 同居する妹にそんな目で見られていたとしたら、色々とキツ過ぎて、もう生きていけない。すぐさま、ベッド脇の窓から飛び降りるだろう。平屋だけど。

 ユニが羞恥心に頬を染め、潤んだ瞳でこちらを窺ってくる。絶対、嘘だった。

「私の感触を思うさま堪能しておいて、酷い。・・・地獄に堕ちろ」

「だから、その感触がないと言っている」

 完全に、目が覚めた。この全てがユニの思惑通りだとしたら、大したものだろう。


「ユニ。今日は休みだよ」

 リビングで、簡単な朝食を摂る。ユニにとって食事は質より量であり、ロウはそもそも簡単なものが好きだった。

 寝癖のついた頭のまま、ロウが何故早起きさせたのかを言外に込めつつ、会話を振る。

「今日は、リードの家に顔を出しに行きましょう」

 その微かな抗議もどこ吹く風のユニが、唐突にそんな提案をする。

 見れば、ユニは既に外出着だった。彼女は小柄なので、出来合いの服ではどんなものでも大きい。素足に履いた革のサンダルを見て、足を痛めないか、少し心配になった。

「珍しい。どうしたんだ」

 五年前にリード家に迎え入れられたユニだが、二年前に軍に志願してからこっち、実家にはほとんど顔を見せに行っていないはずだ。

 両親はユニを溺愛しているし、彼女もそれこそ本当の親のように慕っていたが、しかしどこか、彼女は負い目のようなものを感じている節があった。

「たまにはいいじゃないですか。今から行けば、夕方には帰って来られるはずです」

 ロウとしては、特に断る理由もなかった。実家は、城下町を抜けた農村地帯にあり、それなりに遠い。

 竜車の手配をしなければな、とロウは思った。


 夕刻になる。

 二人は借りた竜車を業者に返却し、暮れなずむ町人街のなか、家路に就いた。

 しばらく振りの、実家だった。

 亜人の集落群から大河を挟んだ、戦争以前からのバステア王国領内は概ね治安が良いので、気兼ねなく竜車を走らせることができた。

 見渡す限りの田園風景に、まだ強い初秋の陽射しを受けて、その形をくっきりと大地に落とす雲の影が、ゆっくりと流れていく。そろそろ、冬小麦の種まきの時期だった。 

 連絡もなしの帰郷に両親は面食らっていたが、変わらず迎え入れて貰えた。

 特にユニは両親に、もみくちゃに可愛がられていて、ロウの存在など、忘れ去られたかのようだった。

 それほど長居はできなかったが、いい気晴らしにはなった。ユニには、感謝しなければならないだろう。

 帰宅し、実家からの帰り際に両親が持たせてくれた食料品などを、リビングのテーブルの上に置く。かなりの量だったので、固くなった肩をぐるりと回した。

 そのまま椅子に身体を預けてしばらく休んでいると、瞬く間に室内が薄暗くなってくる。

 窓を見て外を窺うと、近所の家でも、輪郭くらいしかわからない。もう、夜なのだ。

 ユニが水差しを手に、家中の照明鉱石に水を掛けて廻る。次第に室内が明るくなり、窓からの景色は、さらに曖昧なものになった。


「楽しかったですね、兄さん」

 ロウの向かいの椅子に腰掛けたユニは、テーブルに両手で頬杖をついて、小さく微笑んだ。

 照明鉱石のぼんやりとした明かりに照らされた、彼女の淡い翠色の髪が、透明感をもって揺らめく。

 その言葉に反して、長い睫毛は物憂げに伏せられていた。

「たまにはこういうのも、悪くない。ユニのおかげで、いい気分転換になったよ。ありがとうな」

 いえ、とユニは頬杖をついたまま、ゆっくりと首を左右に振る。

 日中と比べての、今の様子の違いに、ロウは首を傾げた。

「疲れたのか?だったら、今日は早めに寝るんだぞ」

 ありがとうございます。彼女が、そんな生返事を寄こしてくる。心ここにあらず、といった様子だった。

「どうした、なにか嫌なことでも、あったのか」

 本当は、その理由に思うところはあった。

 自分はわかっていて、そこから目を背けているだけだ。なのにこんな訊き方をしてしまう自らを、卑怯だと思った。

「昨日カスパーさんに聞いたことを、思いだしていました」

 ユニは頬杖を解いて、今度はテーブルの端に指先をひっかけるようにした。

 無意識に手先を動かすのは、考えごとをしている時の彼女の癖だった。

「スラムの子供たちは、五年前の私と同じです」

 顔を俯けるとその長い前髪に目許が隠されて、彼女の表情が窺えなくなる。

 ユニは、独白するように話しだした。


「今の恵まれた私と、牢屋に入れられたあの子たち。この二つを分かつものとは、何だったのだろう。そんなことを、考えていました」

 微かに明滅する、照明鉱石の頼りない明かりに照らしだされた彼女は、まるで懺悔をしているかのように見えた。

「・・・それは、お前が努力をしたからだ」

 自分自身の言葉なのに、これ以上ない空々しさを感じる。しかし、そう言う以外に、どんな言葉を吐けというのか。

「兄さん、それは違います。生きる為に同じだけの努力を、あの子たちはしていたはずです。明暗を分けたのは、バステア王国民の姓を持っているか、それだけです」

 バステア領内にもそれなりの数の亜人が流入しているが、数々の制限を受ける二等国民の姓しか与えられなかった。

 親のいない、みなし子だったユニも、リード家の養子となってその姓を名乗るようになるまでは、彼らと似たような境遇だったのだ。いや、それ以下だったのかもしれない。


 五年前、彼女と初めて出会った日。光の宿らない、絶望と諦観に濁ったあの瞳を、ロウは忘れることができない。


 だからといって、どうしろというのか。

 のべつ幕無しに、救いの手を差し伸べることなど、できるはずもない。

 自分は政治家でもなければ、王族でもない。ただの、一兵士だ。

 分不相応な思いに囚われて、小賢しく立ち回ってみたものの、その相手たちに全てを見透かされた道化だ。

 その目論見は失敗こそしたものの、どうやら命まで取られることはなさそうだった。ならば、大それたことなど考えず、愛する身内を守って、生きる。それだってとても難しいことだし、尊いことだ。

 自分がそうと思い込んだように、正しいことなど、それこそ人の数と同じだけある。

 人それぞれ、というやつだ。その価値観のぶつかり合いは、どうやったところで避けようがない。

 そこから零れ落ちるものは、どうしたって、でてくるのだから。


「全ては一つだ、と。いつか、バープーが言いました」

 ユニの口から唐突に出てきたその名に、ロウの心が微かにざわめいた。

「ならば、人間と亜人の立場を分かつものとは、いったい何なのでしょうか」

 かりかり、かりかり、と。ユニの爪がテーブルの木目を掻いている。

 彼女は本来、かなり繊細な質だ。出会ってまだ間もない時分には、よくこのように指先を忙しなく動かしていたのを思い出す。

「彼らは罪を犯した。罰を与えられることに、人間も亜人も違いはない」

「でもそれは、奪った側の理屈です」

 その言葉に、ロウの身体が微かに震える。

 わかっていた、つもりだった。

 いや、わかっていながら、見ないふりをしたのだ。

 ユニが俯けていた顔を上げる。ロウの予想に反して、その瞳には強い光が宿っている。

 そこに込められた感情はおそらく、怒りだった。

「自分たちにとって都合がいいから、亜人からあらゆる権利を奪った。罪を犯すしかないところまで彼らを追い込んだのは、他ならない人間です」

 それでは、永久に罪は無くなることがないだろう。牢獄の老人は確かにそう、ロウに語って聞かせた。

 聞いていた、つもりだった。

 だが、その言葉を真摯に学ぼうという姿勢が、自分にはあっただろうか。

 自分だけの常識の殻に閉じこもって、考えることを放棄した。

 奪われた側の立場から物事を見るなんて、考えたこともなかったのではないか。


「私はそんなの、間違ってると思います。許せないと、感じます」

 テーブルを爪で掻くのをやめて、ユニはその上に上半身を乗りだしてきた。

 小さいテーブルなので必然、息がかかる程の距離で彼女と睨み合うことになる。

 ロウもその目を逸らさない。はぐらかすなど、ありえない。

 この期に及んでの誤魔化しは、彼女を貶める事と同義だ。

「自分に苦難をもたらすものを許すべきか、それとも打ちのめすべきか。昨日、バープーは問いました」

 揺るぎない意志のこもった、淡い緋色の瞳を間近に見る。

 美しい、そう思った。

「外なる敵との戦いにやっきになっている限りは、内なる敵のことを忘れている。彼の言葉を、私はそう解釈しました」

「内なる敵・・・」

 ロウがオウム返しにそう呟く。

 すると、ユニは両手を伸ばし、その手のひらで彼の頬を挟み込んだ。

「そう、内なる敵。つまり、兄さん自身です」


 あなたの足を止める苦悩は、あなた自身が創りだした足枷によるもの。

 それに気付かないふりをして、他の誰かのせいにして、あなたはいつまで足踏みをしているのか。

 苦悩を背負って、障害を踏みしめ血を流しながら、それでも前進しろと。

 お前は、そう言うのか。


「でも馬鹿な俺は、きっとまた間違う」

 ロウの声は、みっともなく掠れていた。

 現実を見ろ、甘いことを言うなと、たった一人の価値観だけで全ての物事を計って、それが賢いと思い込んでいた愚か者、それが自分だ。

 ユニは正しくバープーの真意を捉え、評価していた。自分など、何度道を踏み外すか、わかったものではない。

「だったら兄さんは、そんな自分を超えていってください」

 ユニのあんまりな言い分に、ロウは唖然とする。

 しばらくして、ふつふつと彼女に対する反感がわきあがってきた。

「だから、どうして俺なんだ。二度と来ないような機会を、たった一日でふいにするような男なんだぞ」

 まるで、子供の言いぐさだった。言ったそばからその気持ちはすぐに冷めて、あまりのバツの悪さにこの場から逃げ出したくなる。

 なにをしても半端者だと、いよいよ本気で情けなくなってきた。

「一度はなにもかも失った私に、兄さんは新しい希望をくれました」

 逃がさないとばかりに、頬を挟むユニの手のひらの力が強まる。

 その暴力的ともいえる圧力に反して、彼女の声音は、ひどく優しい。

「もし助けてもらえるのなら、私は兄さんがいい」

 頬を挟まれているせいで下唇がとびだしているロウの顔を、少し顔を離して眺めると、ユニは小さく微笑んだ。

「私の希望を裏切るような真似をすれば、私は兄さんを許さない」

 そう言ってユニは、撫でるように頬から手のひらを離した。


 どのくらい、話をしていたのだろう。

 なにやら酷く消耗した気がするが、どうやら大して時は過ぎていないようだった。

 それからまたしばらく、お互い見つめ合う時が流れた。

 室内の照明鉱石の明かりが、無言の二人の横顔を淡く照らしている。

「兄さん、なにか、言ってください・・・」

 先に音を上げたのは、ユニだった。

 彼女は決まりが悪そうになにやら、もじもじしている。

 今になって、好き放題に喋り過ぎたと、後悔しているのだろう。

 ロウは少し仕返ししてやる気持ちで、あえて仏頂面を崩さない。まるきり、子供の意地悪だった。

 彼がしばらくユニの困惑した様子を楽しんでいると、程なくして彼女はテーブルにある紙袋を漁りだした。中身は、実家の両親が持たせてくれた食料品である。

 空腹に耐えかねたのだろうユニは、申し訳なさそうにロウを窺いながら、ぼそぼそとパンをかじりだした。

 堪らず、ロウは吹きだしてしまう。彼女のさっきまでの強気は、一体どこへいってしまったのだろう。それとも本当に、ただ空腹だっただけなのか。

 意地の悪いのは、ここまでだ。ユニに緊張感で味の感じられない食事など、させる訳にはいかない。

 意外そうに、きょとんと目を丸くするユニを横目に、ロウも紙袋からパンを一つ取り出して、かじった。

「お前、今日はどうして急に、実家に顔をだそうなんて言いだしたんだ」

 ロウは口を動かしながら、先程までの話から逸れた話題を振った。

 はぐらかしではない。妙な照れくささがあった為だ。

「今朝目覚めると、なにやら突然、おじさまとおばさまに会いたくなったのです。里心でもつきましたかね」

「話の流れからいって普通、俺を励ます為とか言うところだろ・・・」

 しかし、これも彼女なりの照れ隠しなのだろう。

 そう思うのは自意識が過剰だろうか、とパンの最後の一欠片を口にしながら、ロウは結論づける。

「いえ、兄さんの都合がつかなければ、一人で帰りましたよ」

「一緒に連れて行ってくださいお願いします」

 完全に、自分だけの為だった。お兄ちゃん置いてけぼりだった。

 ロウは椅子に深く腰掛けて、ため息を吐く。

 こいつは、本当に思い通りに動いてくれない。気に食わないのに、なぜだか口許が緩んでしまう。

 ちらりとユニを窺うと、とりあえず満足したのか、手についた小麦の粉を叩いて払っていた。

 食事を摂って人心地がついたところで、そろそろ本題に入るべきだった。


「ユニ。皇女殿下の件な、もう一度、やってみようと思う」

 呟いた言葉は、自信がなさそうに聞こえただろうか。

 構わなかった。実際に自信など、どこにもないのだ。

 できなかった、ではなく、どうしたいか。

 今は、そんな話がしたい。

「はい。むしろ私としては、昨日の今日で、本気で兄さんが諦めかけているのにびっくりしたくらいですから」

 ユニの言葉には、全く容赦がない。

 当然のことだった。彼女だって当事者なのに、ロウは一人で勝手にやる気をなくしていたのである。

 つまりロウは、本当の意味でユニを信頼していなかったことになる。彼女の不満は、当たり前だった。

「小賢しいことなんて考えずに、素直に自分の気持ちに従っていれば良かったんだな。こう言うと、まるきり馬鹿のようだが」

 半端に賢く立ち回ろうとした結果が、これだった。

 馬鹿でも何でも、格好をつけずに自分を衝き動かす動機に向き合えてさえいれば、道を踏み外すこともなかった。

「そうですよ。兄さんには、自分に素直になってもらわないと困ります。私が支えたいのは、そういう兄さんなのですから」

 ロウはユニの理想であることを、やめることができない。いや、許されない。今になってようやく、それを自覚した。

「やはり俺には、種族差別を許す事ができそうにない。この気持ちを、諦めることなどできない」

 何を根拠に、と問われたとして、ロウには明確な答えを返すことなどできない。

 あるのはただ、この胸の奥を焦がすように熱い、衝動。

 あえて言葉にするのならばそれは、理不尽に対する怒りだった。

「わかっています。そんな兄さんだからこそ私も、全てをもって尽くす甲斐があるというものです」

 ロウの決意を聞いて、満足そうにユニが頷く。彼女は事の始めから一度たりとも、想いがぶれてなどいない。

 自分から好んで目隠しをしたようなものだったロウとしては、そんな彼女と比べての、己の不甲斐なさに呆れるばかりだった。

「せいぜい足掻いてやるさ。俺はお前の、希望だからな」


 ごとり、と鈍い音がした。

 見れば、ユニがテーブルに頭から突っ伏している。結構な音がしたので、ロウは心配になった。

「兄さん。その希望の話のくだり、忘れてくれませんか」

 そのままの姿勢でユニが、ごにょごにょと喋っている。テーブルに無造作に拡がった彼女の髪が、何か変な生物のように見えた。

「何故だ。俺にとってみれば、やる気を出すきっかけになった重要な話だったのに」

 あれは、目の覚めるような言葉だった。

 何やら違った意味でも怖かったような気がするが、それはどうでもいいことだ。

「言い過ぎたなんて、気に病むことはない。むしろ、お前にそう言わしてしまったことが、年長者として俺は恥ずかしいよ」

 ロウの言葉に反応するように、勢いよくユニが顔を上げる。赤くなった額が、痛そうだった。

 だが、それが気にならなくなるくらいに、その顔は耳まで紅潮していた。

「・・・ああ、そういうふうに受け取ったのですね。つくづく、つまらない解釈をする頭です。開いて少し、見てみましょうか」

 一切の感情をその顔から排除したユニが、ゆっくりと椅子から腰を浮かした。

 そのただ事でない雰囲気に、ロウは困惑する。

「なにを怒っているんだ。・・・俺は、お前には本当に感謝しているんだ」

「そうですか、良かったですね。でも兄さんの旅は、ここで終わりです。兄さんを殺して、私も死にます」

「ええ・・・?」

 怖かった。

 まだ何も始まっていないのに、もう終わりそうだった。

 理由のわからないまま、ロウは必死に、むずかるユニをたしなめる。

 またも脱線した話が本筋に戻るのに、しばらくの時を要した。


「問題は、皇女殿下がもう一度、俺たちに会ってくれるかだな」

 話を仕切り直したロウが話題に持ち上げたのは、皇女アルルリーゼのことだった。

 彼女を通して、国王に上申をしてもらう方針に変わりはない。自分たちに発言力の無いことは、事実なのだ。

 ロウは、皇女を利用することばかりを考えていた。決裂の原因はまさに、そこを見透かされた事にあると言っていい。

 自分は、志を同じくする者として、皇女に接するべきだった。誠実さが、決定的に欠けていたのだ。

「その点については、あまり心配しなくていいと思いますよ」

 気を取り直したユニが上着の袖を弄くりながら、あっさりとした口調でそう言った。

 小柄ゆえに大概の服が身体に合わない彼女は、よく袖の辺りなどを気にしている。

「そうなのか?俺には、かなり厳しいように思えるが」

 会談時の皇女の剣幕が、ロウの頭をよぎる。命こそ取られはしなかったが、関係の修復はかなり難しいのではないだろうか。

「兄さん。昨日の別れ際、皇女殿下の顔を見ましたか?」

 昨日は、逃げるようにバラ庭園から去った。気にしたといえば、フォールの襲撃の可能性を警戒した事くらいだ。

 正直に言えば、バツが悪すぎて、顔など見ていられなかったのだ。

「見捨てられたような瞳で、私たちを見ておられました。あの方には、城内に味方がいないのかもしれません」

 あの傲岸不遜さからは想像できないが、皇女が王城内で孤立している可能性は十分に考えられる。

 カールリッツ皇太子が次期国王である事を疑う者など、王城にはいないだろう。バステアの政事を担う人間にとっては、皇女にお飾り以上の価値はないのだ。

 彼女が常にフォールしか伴っていないのは、信用できる者が、他にいないからかも知れない。

 たかだか一尋問官に協力を求めるのは不自然だと思ってはいたが、ユニの言う通りならば、一応の辻褄は合う。

 そう考えると、胸が痛んだ。

 先に手を振り払ったのは、一体どちらだったのか。

「・・・俺は本当に、馬鹿者だな」

「そうですね。だから、今度はきちんと皇女殿下と向き合ってあげてください」

 辛辣ながら、柔らかい声音のユニに、ロウは感謝の意を込めて、頷いた。


 もう随分と、夜も更けただろうか。

 二人の間を、秋の夜長が優しく流れていく。

「最後に一つ、気になる事がある」

 リードの家から持ち帰った食料品を、調理場の床下にある、小さな貯蔵庫に収めている時だった。

 床に取り付けられた蓋を片手で支えながらロウは、隣で日持ちのする食材を庫内に整理しているユニに話しかける。

「フォールの事だ。彼がもう一度、皇女殿下に俺たちを会わせてくれるとは、ちょっと思えない」

 一度目も二度目も、皇女と会談する際には、フォールが仲介役を担っていた。

 こちらがどんなに勢い込んだところで、彼に皇女を呼び出してもらわない事には、会話すらできないのだ。

 そして、昨日の彼の様子を見るに、仲立ちを頼むのは難しいと言わざるを得なかった。

「どうでしょうか。私はそういった印象は受けませんでしたが」

 布袋の中から芋を手に取り、ユニはロウに目を向ける。

「確かに昨日は険悪なかたちで終わりましたが、フォールさんはきっとまた、私たちの話を聞いてくれると思います」

 そうだろうか、とロウは首を捻る。

 あの時、皇女の制止の声が無ければ、フォールは間違いなく自分たちに襲いかかってきたはずである。

 ロウは兵士としての経験から、彼のあの行いが、決してはったりではなかった事を確信していた。

「フォールさんは、私たちが皇女殿下の思惑を口外すると思ったから、そうしたのです。あの人の想いは徹頭徹尾、皇女殿下を守る為だけに捧げられています」

 それにはロウも同意する。刃物を手にした彼からは、微かな迷いも感じられた。

 本当はしたくもない殺しでも、皇女殿下の為なら、やらなければ。

 あの迷いは、そういう事なのか。

「だとしたら、俺たちが皇女殿下の益になると、フォールに思わせる事ができれば、まだ可能性はあるか」

「そう思います。まだ会って日も浅いですが、皇女殿下を見守るフォールさんの眼差しに、嘘があるとは思えませんから」

 そう言って作業を再開するユニに、ロウは頷いた。

 ユニは、本当に人をよく観察している。ロウは、彼女に微かな嫉妬のような感情を抱いている事を自覚して、それを恥じた。

 鈍感さも、こうなってくるといっそ、おぞましいですね。

 ふと、昨日のフォールの言葉を思いだす。

 今にして思えば、よくよく自分の本質を捉えたものだと、自嘲に似た思いがこみ上げてきた。

 ロウは軽く頭を振って、そんな思考を切り替える。

 もう、くよくよと思い悩む時は終わったはずだ。

 ぼちぼち、前に向かって歩き出さなければならない。

 ロウは、うずくまる様な姿勢で食材と格闘しているユニの頭に、蓋を持たない空いている方の手のひらで、そっと触れた。

「ユニ、お前は本当に、凄いやつだよ」

 心から、そう思う。だから自分も、彼女に恥じない働きをしないと、格好が悪いではないか。

「はい。兄さんの、妹です」

 嫌そうにむずがりながら、芋を両手にユニが応えた。


 間違って、諦めて、尻を蹴られないと真っ直ぐ歩く事もできはしないけれど。

 足掻いてみせれば、こんな自分でも誰かの為になる事は、きっとできる。

 この胸の怒りを公正に扱う事を、決して忘れないように。

 今日の俺を、明日の俺は超えていく。


 室内の照明鉱石の明度が、時間の経過に伴って一段、落ちる。

 自分もユニも、そろそろ身体を休めなければならない。

 明日は、戦いなのだから。



五日目


「兄さん。今さらですが、大変なことに気が付きました」

 ユニは、ふと思い至った考えに気を取られ、手にした書物を床に取り落としてしまう。

 行政区の王立図書館二階、資料室での出来事である。

 ロウが数日間、自宅まで持ち出していた資料を返却する為、二人は城壁の警備隊営舎に出頭する前に、ここに寄ったのだった。

「もしかしてバープー、もう帰ってしまっているのではないでしょうか」

 昨日は休みで、牢獄に顔を出していない。ロウは一昨日、その旨を老人に伝えていただろうか。

 聴取の内容を思い返すと、かのストレンジャーとの関係は、決して良好ではない。ユニの心配も、当然といえた。

「そうかもしれない。俺としては、彼一人にそこまで拘る理由はないと思っているが」

 そう、拘る理由などない。しかし、もし許されるのならば、ロウはあの老人と会って、もう一度話を聞いてみたかった。

 ロウは、落ちた書物を床板から拾い上げ、その表紙を軽く払う。

 細かい埃が陽の光に照らされて、きらきらと舞っている。朝日の差し込む資料室の窓からは、向かいにそびえ立つ、王国議会の議事堂が見えた。

「何にせよ、行ってみない事にはわからないさ。もしいなくなってたら、報告の為にまたここにとんぼ返りだが」

 そう言って、ロウは手にした書物を棚に挿し込む。

 本当は願いにも似た期待を、胸中に抱いている自分のことが何やら可笑しくて、思わず彼はユニから顔を背けてしまった。


 警備隊営舎での出頭の報告を終えたロウとユニが、城壁内部と王城の外庭を繋ぐ石段を下っていたところ、衛兵交代の為の点呼を終えたらしい、警備隊隊長のクシュナと出会った。

「おう、お前ら。今日もこれから地下か、精が出るな」

 俺にはとても真似できねえ、とクシュナは豪快に笑う。

 朝の挨拶を返しながらロウの心中は、彼に対しての複雑な思いに囚われていた。

 一年前の命令違反で除隊させられるところだった二人を、今の道に導いてくれたのはクシュナである。

 自分たちのやろうとしている事は、拾ってくれた彼を裏切る行為ではないか。その罪悪感は、常にロウの心の片隅にあった。

「どうしたよ、ロウ。朝から、景気の悪そうな顔をしやがって」

 不思議そうに自分を眺めるクシュナのその言葉に、ロウは我に返ったかのような面もちで、顔を上げた。

 言わなければならない。そんな思いが、ロウの心の内を占める。

 自分がまたも、背任を繰り返している事を、クシュナにだけは伝えておかなければ、申し訳がたたない。

 たとえ、それが自らに不利な結果を招くとしても、ロウには、この不義理を黙っている事など、できそうになかった。

 大義を果たす為に、今の沈黙を選べない自分を、ロウは半端者と罵る。

「隊長。お話したい事があります」

「聞きたくねえ」

 間髪入れずにそう答えたクシュナに、ロウは困惑して、思わず彼の顔に見入ってしまう。

 クシュナは、その隻眼に理知的な光をたたえつつ、言葉を続ける。

「今のお前は、一年前と同じ面をしていやがる。次は何をやろうとしているのかは知らねえが、志あっての事なら、いちいち人に伺いなんぞ立てるな」

 ロウは一瞬、呼吸を忘れる。またも、見透かされた。自分は、そんなにわかりやすい人間なのだろうか。

「あの時だって、別にお前は間違った事をした訳じゃない。少なくとも、俺はそう思った。ただ、軍規があるから、懲罰を受けてもらわにゃならんかっただけだ」

 独断で捕虜を解放すれば、懲罰は当然だった。むしろ、自分たちを庇った事で、クシュナの立場も少なからず悪くなったはずなのだ。

「男だ。やらにゃならん事も、ある。だから今は、何も言うな」

 そう言われて、身体が震えた。瞳の奥が熱をもったような、そんな感覚がする。

「今度下手こいた時は、そうさな、牧の竜舎の、地竜の糞の清掃係でもやってもらおうか。一年くらい」

 クシュナはもう一度、豪快に笑う。

 ロウは半ば呆れるように、巨躯を揺らす隻眼の男を眺めた。

 自己満足の為に、秘密を漏らそうとした自分の小ささが、恥ずかしくなった。男としての器が、違いすぎるのだ。

「頑張ってこい、ロウ。ユニ、こいつがやらかしたら、後で教えろよ」

 ロウの背中を勢いよく叩き、城壁内部に向かってクシュナが石段を上っていく。

 それを見上げながら、お任せを、とユニは微笑んだ。


「ロウ=リード二級尋問官及び、ユニ=リード二級書記官。一〇三号房への、入室の許可を願います」

「一〇三号房への入室及び、ストレンジャーとの面会を許可します」

 王城東館に到着し、受付の係官から面会の許可証を受け取る。

 ロウの鼓動が、微かに高鳴る。ひょっとしたらもう、一〇三号房はもぬけの殻かも知れないのだ。

「お聞きしますがユニさん、リード尋問官の体調は良好ですか?一昨日も、何やら上の空だったように記憶しておりますが」

 そんな係官の声がして、ロウは顔を上げる。またも考えごとをしながら、ぼんやりと突っ立ってしまっていたようだった。

「お気遣い、ありがとうございます。実はこの人、ちょっと頭が残念なことになっていまして」

 そう言って頭を下げるユニを眺めて、そうですか、と係官は目許の片眼鏡を指先で押し上げた。

「ユニさん。もしリード尋問官が長期休養なさった際には、私と共に受付をなさればよろしいでしょう。上の方には、私から話を通させていただきますので」

「はい。そうなった時には、是非」

 もう一度、受付の係官に丁寧に頭を下げたユニに伴われるかたちで、ロウもその場を後にする。

 そのまま通路を奥まで進み、突き当たりに立つ衛兵に許可証を見せて、地下牢へと続く階段部屋に入った。

 二人きりになった途端、振り返ったユニがジト目でロウを見上げてくる。

「尋問官。フォローする私の身にもなってください」

「あれ、フォローだったの?」

 ただ、けなされただけだったような。

 あの話でわかった事といえば、これから先も、ユニに食いっぱぐれの心配はないということくらいだろう。彼女は何故か、年長者の女性に好かれる質である。

 先程の、未だかつて表情の一つも崩したところを見たことがない係官を思いだす。王城で勤めている人間には、ああいった変わり者が多いのだろうか。

 後で、隊の誰かに訊いてみよう、と思った。

 ふと、ロウは自分の気持ちが少し軽くなっている事に気付く。そういう意味で、やはりあれはフォローだったのだろう。そう納得する事にした。

「・・・行こうか、ユニ」

 頷く彼女を伴って、ロウは地下へと下りだした。


 結果からいえば、バープーはまだ地下牢に留まっていた。

 牢屋のベッドに彼の姿を認めたとき、ロウはたまらなくなった。

 一昨日、彼に対して抱いた反発など、一瞬で霧散する。

 待っていてくれた。

 ストレンジャーは、再び来るとも知れない自分の為に、砂時計を逆さにして、待っていてくれたのだ。

 それに対しての感謝の気持ちが、頑なだったロウの心を、優しく融かした。

 その後、自身が何を口走ったか、実はよく思いだせない。

 我に返った時には、愚かだった自分を、バープーは許してくれていた。

「俺はこの国を、変えたい」

 もう間違わない。

 公正なる怒りを胸に、彼は一歩を歩み出した。


 バープーは、ベッド脇の机の下から椅子を引き出して、それに腰掛ける。ロウたちも、面会の準備を整え、鉄格子で隔たれた老人に向き合った。

「それでは、聴取を始めます」

 ロウが対話の開始を告げる。

 思っていたよりも、自らの心持ちが静かなことが、不思議だった。

「さて、前回はどこまで話したかな」

 その目蓋を半ばほど閉じて、老人は丸い眼鏡を指先で持ち上げる。

「自身に苦難をもたらす者を、許すか、打ちのめすか。そういった話でした」

 前回の話の内容を頭の中で整理し直しながら、ロウは応じた。

「うむ。ではまず、君の今の考えを、聞かせてもらおう」

 老人の言葉に、ロウは頷く。

 以前にバープーが用いた盗賊という言葉は、ほぼ間違いなく亜人の隠喩だろう。

 それを打ちのめそうとしか考えていなかった自分は、致命的な自己矛盾に陥ることになったのだ。

「今なら、苦難をもたらす者を許そうと思えます。しかし、それでは俺がそう思っているだけです」

 というと、と老人は話の先を促す。

「一年前まで、俺は兵士でした。戦争中も、その後も、亜人を手に掛けたのは、一度や二度じゃない。・・・彼らが俺を許すとは、俺には思えません」

 戦争だった。

 やらなければ、こちらがやられていた。

 だから仕方がない。

 当たり前だと思っていたその考えに、今はどうしても不自然さを感じてしまう。

「ロウ。それは相手にとっても、同じことだ」

 思えば、バープーに名前を呼ばれたのは、これが初めてではないだろうか。黙って次の言葉を待つロウに、老人は語りかける。

「どちらが勝ったか、どちらがより上か下かなどは、問題の本質ではない。真に必要なのは、君たちが互いに相手の心を捉える事だ」

 老人の言葉の合間に、ユニが紙面にペンを走らせる音が聞こえる。

「虐げてきた人たちに親しく交わり、その不満や無知を起因とする障害を克服する。それによる現実的、政治的結果は、あくまでも二義的なものだ。そんな結果は無視して、亜人を友としなさい。・・・それは単なる政策の問題ではなく、人間の生の本質そのものと深く関わる(何か)なのだから」

 老人の話の内容を、一言一句聞き逃すまいと集中する。

 情報を独占する為、皇女以外にはバープーの知識が外部に漏れないように、ユニは今、虚偽の聴取記録を書いている。

 そのため、ロウはその会話内容の全てを憶えておかなければならないのだ。

「できるでしょうか。俺に、それが」

 一年前の記憶が、ロウの頭をよぎる。

 哨戒中のロウ達を襲撃した亜人の集団は、略奪が目的ではなかった。あれは、自分たち亜人を虐げる、バステア王国そのものに対する、報復行為だったのだ。

 人間と亜人の関係の溝は、それをさせる程に、深い。

「そうではない、ロウ。できるのか、ではなく、やる、と自らに誓うのだ」

 そう口にした老人が、射抜くような眼光を、ロウの瞳に浴びせてくる。

「正しい目的の為ならば嘘をついても良いとする合理主義と、私の言う不退転の誓いは、対極のものだ」

 ロウもまた、強い眼差しで老人の瞳を見つめ返す。

 これまでの自分には、決定的に足りなかったもの。その答えを、自覚した。

「(できるだけのことは)などというのは、ただの逃げ口上だ。(できるだけ)真理に従うなどと、そんな約束手形、誰が信じるものか」

 考えが甘かったのは、自分の方だった。

 老人の示すその道は、不断の苦痛と、果てしない忍耐を伴うものだろう。

 ロウの瞳に宿る光を見て取ったバープーは、満足したように頷く。


「誓いを捨てるくらいなら、命を捨てろ」


 そう言って老人は、ゆっくりとした仕草で席を立つ。

 元の位置に椅子を戻すとそれに座り直し、それきりロウに興味を失ったかのように、机に向かって封筒作りを始めた。

 老人にとっては、もう言うべき事は全て口にしたのだろう。

 ロウも、これ以上に言葉が必要だとは、思わなかった。

「聴取を終わります」

 長い時間をかけて、話し合っていた訳ではない。しかしこれほど真摯に、ストレンジャーの話に耳を傾けた事など、果たして自分にはあっただろうか。

 老人の言葉は、全て心に留めている。ロウの胸を打つ、熱い鼓動がその証だった。

「バープー。勉強させていただきました」

 ロウも席を立つ。老人の背中に向かって、深々と頭を下げた。


「待った。出来上がった封筒を、持って帰りなさい」

 書類の作成を終えたユニの荷物の片付けをロウが手伝っていると、いつの間にかバープーが鉄格子の前で封筒を手にして立っていた。

 つい先程まで、こちらが気圧されるほどに鋭い気配を放っていた老人の感情の切り替えの早さに、ロウは呆気にとられる。

 そんな彼を横目に、老人の前まで歩み寄ったユニが、鉄格子の小窓から、手渡しで封筒を受け取った。

「前から思ってましたが、バープーはユーモアのセンスがお有りなのですね」

「私からユーモアを取れば、この腰布くらいしか残らんよ」

 そう言って、二人は笑い合う。傍から見れば、祖父とその孫のようだった。

 ロウがそんな二人を眺めていると、ユニの頭越しにバープーが目を向けてきた。

「明日もう一度、ここに顔を出せるかね」

 老人の言葉に、頷きを返す。ロウにとって、それは願ってもない誘いだった。

「来ます。実は俺も、貴方にそうお願いするつもりでした」

 基本的に、ストレンジャー達はこの世界に自らが存在したという、何かしらの痕跡を遺そうとする。

 それは、言うなれば彼ら全てに共通する、本能のようなものだ。

 その傾向に従うのならば、ロウに自らの思想を伝えた時点で、老人がこの世界に留まる理由は、もう無い。

 しかしロウは、自らを導いてくれた老人に事の顛末を報告する為に、せめてあと一日だけでも、彼にこの世界に留まって欲しかった。

 彼自身がこの世界に与えた成果を胸にして、バープーには自らの世界に戻ってもらいたいと思ったのだ。

 ロウの自己満足と言われればそれまでだが、これは彼なりの、老人に対するせめてもの感謝の気持ちの表れだった。

 明日の再訪を老人に約束し、二人は牢獄を後にする。

「尋問官。バープーに恥ずかしい報告はできませんね」

 地上に至る薄暗い階段を上がりながら話しかけてきたユニに、ロウは頷きを返した。


 フォールは、豪華な装飾が施された王城の窓を、中庭側から梯子を使って清掃しているところだった。

 王城内で勤めている使用人にフォールの所在を尋ねてみたところ、数人目かで、彼がここで作業をしている事を聞きだせたのだ。

 王立図書館職員と王城勤めのメイドは基本的に接点が無いので、だいぶ訝しがられたのだが、そこはユニが上手くフォローをしてくれた。何故か年長者の女性に好かれるという彼女の質に、今回は助けられた事になる。

「フォール。作業中にすまないが、君に頼みたい事があるんだ。下りてきて、聞いてくれないだろうか」

 壁に立てかけた梯子の上で、雑巾を使って二階の窓を拭いているフォールを見上げながら、ロウは彼に届くように、少し大きめに声をかけた。

 そんなロウの呼びかけを全く無視して、フォールは作業を続けている。昨日の事を思うと、当然といえば当然の反応だった。

 これは手強いな、と思い、ロウはぼりぼりと髪を掻く。

「フォールさん。可愛らしいデザインですね。参考にさせてもらいます」

 困り顔のロウの脇から、同じくフォールを見上げていたユニがそのように声をかけると、彼の身体がびくりと震えた。

 ユニは体勢をやや低くし、ふん、とか、ほう、とか唸りながら、なおも色々な角度からフォールを見上げている。

 それでもしばらくの間、フォールは無視して作業を続けていたが、遂に観念したのか、彼は梯子を飛び下りてきた。

 フォールは二人の前に音も無く着地し、立ち上がってメイド服のスカートを大げさに手で払う。

 平然と二階の高さから飛び下りてみせる身の軽さは、彼の種族の特性なのか、それとも訓練によるものなのか、ロウには判断がつかなかった。


「・・・今さら、何用でしょうか。だいたい想像はつきますけれど」

 決まりが悪そうに目を逸らしながら、フォールが呟く。ユニのお陰と言っていいものなのかはわからないが、とにかく、話をする機会を得たようだった。

「おそらくは、君が思っている通りだ。もう一度、皇女殿下との取次ぎを願いたい」

 その言葉に、フォールはこちらに昏い眼差しを向けることで返答してきた。

 ロウは目を逸らさない。その反応が当然であるくらいには、都合の良い要求をしているのだ。

「君の言いたい事も、わかる。だから今回は皇女殿下にとっても、益となる話を用意してきたつもりだ」

 開き直るつもりもない。これは、交渉なのだ。

「いいえ、わかっていませんね。そもそも僕は、そういった話からルル様を遠ざけたいと考えていますから」

 その整った相貌を悲痛に歪めて、フォールが話しだす。

「貴方の目的はどうあれ、その内容はルル様を王位に就かせる為のものなのでしょう。でも僕は、ルル様に王なんか目指して欲しくないと、思っています」

 フォールの独白に、ロウは口を挟まず、黙って耳を傾ける。これはきっと、彼にとって大切な話だ。

「一昨日だって、その前だって、貴方たちをルル様にお会いさせるのなんて、本当は嫌だった。この前の会談が物別れに終わった時、僕は内心で悦んでいたんです」

 フォールは今、皇女への忠誠心と、彼女への想いとの間で、板挟みになっている。なおもロウは口を挟まない。

「僕はルル様の身さえ安全なら、それでいい。王位なんて、どうだっていいじゃないですか。そんなものを求めたら、今度はあの御方が、殺されてしまうかも知れないのに」

 フォールの身体が自身の感情を持て余して、ぶるぶると震えだす。

「・・・そんなことになったら、どうしよう。ルル様がいなくなったら、どうしようっ・・・」

 最悪の未来を想像して、フォールは両手で顔を覆う。彼の出自ならば、暗殺者の悪辣さなど、嫌というほど知っているはずだ。

 ただひたすらに、皇女の身だけを案じている彼は、己の弱さを知る故に、きっと誰よりも心優しい。

 顔を隠す指の隙間から、彼のか細い嗚咽が漏れだしていた。


「フォール。それはあまりに、皇女殿下の意志を蔑ろにしてはいないか」

 感情を爆発させたフォールを見て、ロウは話を聞く態勢を解いた。

 彼の頭の猫耳がぴくり、と話しだしたロウの方へ向く。

「違うな、言い直そう。君は皇女殿下を補佐する立場にありながら、その理想の足を引っ張っている」

「・・・ロウ様。それはどういった意味でしょうか」

 顔を両手で隠したまま、フォールが呟く。底冷えするような響きが、そこには含まれていた。

 いつしか嗚咽は収まり、その声音からは一切の心情が窺えない。

「皇女殿下は、種族差別を撤廃すべきと言った。自分が悲しくない国が欲しいとも言った。たとえそれが夢物語のようなものであったとしても、自らの意志で彼女はそれを望んだはずだ」

 君はその邪魔をするのか、とロウはフォールを見据える。まるで独立した生き物のように、彼の猫耳が揺らめいていた。

「君だけに心の内を明かした皇女殿下の信頼を、その彼女の命惜しさで踏みにじるつもりか。君との出会いが、共に過ごした日々が、皇女殿下に理想を抱かせた」

 種族差別を無くす事と自らが王位に就く事とは、一見すると関連がないように思えるが、皇女の心の内で、きっとその二つは矛盾していない。

 家族を喪い、人知れず泣くつもりだったあの日に出会った一人の少年が、彼女にそんな夢を見せたのか。

 にわかに強い風が吹き、その場に立つ三人の衣服を激しくはためかせる。

 風が収まるのを待ち、ロウは最後にと、少し間を空けて言葉を発した。

「フォール。君が皇女殿下の、夢の証だ。ならば君はそれにどう応えるべきか、考えてみて欲しい」

 フォールが顔を覆う両手を、だらりと力無く垂らす。俯いたままのその表情は、窺うことができない。

 フォールの想いを知りながら、彼にとっては辛いことを口にしてしまった。

 そんな自らを責めたところで、結局は自己満足に過ぎないのだろうと、ロウは奥歯をきつく噛みしめる。

「・・・ロウ様。貴方の協力は、ルル様が夢を叶える為の力になりますか」

 顔を上げたフォールが、ロウの瞳を真っ直ぐに見つめてくる。泣いて赤くなったその目許が、どんな嘘も許さないと、訴えてくる。

 ここで理屈を並べ立てるような真似はしない。彼がそんなことを聞きたがっているとも思えない。

 ロウが皇女を裏切らないか。フォールは、それだけを案じているのだ。

「なる。そこは、信じてもらうしかないが」

 ロウは簡潔に答える。そうとしか、言いようがなかった。

「知ったふうな口を。・・・僕は、貴方の事が嫌いです」

 そのぶっきらぼうな物言いに、まだ涙目のフォールが睨んでくる。

「俺の鈍さについては、改善の努力はしてみる」

 またやってしまったか、と唸るロウから、ふい、と不機嫌そうにフォールが顔を背ける。

 ロウはフォールのその態度で、彼が自分の頼みを了承してくれたと受け取る事にした。


 フォールの仲介によって、間もなく皇女との会談の席が設けられる運びとなった。

 場所は、変わらずバラ庭園のドームである。今日はロウ達が先に来て、皇女を待つかたちとなった。

 雨が降っていたら、どうなっていたのだろう。

 きらめく湖のように揺れる木漏れ日を、青々と照り返す芝を眺めながら、ロウはぼんやりとそんな事を思った。

 程なくして、フォールに伴われた皇女が、バラのアーチをくぐって現れた。

 皇女は、アーチの脇で片膝をつくロウとユニを横目に、テーブルに歩み寄って優雅な仕草で椅子に腰掛ける。

 皇女の許しを得て、向かいの椅子に腰掛ける際、彼女の背後に控えるフォールに対して、ロウは頷くことで感謝の意を伝える。彼は、その表情に嫌悪感を浮かべながら、目を逸らした。

「さて、どういった意図があるのかは知らんが」

 足を組んだ姿勢で椅子の肘掛けに寄りかかり、皇女は目を細める。

「またつまらん戯れ言を吐くつもりなら、その時はどうなるのか、わかった上で私を呼びつけたのだろうな、ロウ=リード」

 その口許には穏やかな笑みを浮かべているが、鮮烈な深翠色の瞳の奥には、苛烈な光が宿っていた。

 その激しい輝きを前にしても、ロウは動じない。最早この程度で右往左往するほど、彼の決意は安いものではなくなっている。

 これは、戦いなのだ。その相手を前にして恐れて逃げ出すなど、兵士にとってはあるまじき行為だ。それを、忘れていた。

「自分の言いたい事は、前回と変わりありません。国王陛下に、種族差別制度の見直しを上申していただきたい。それだけです」

 ロウは単刀直入に、そう告げる。他に言い方があるのだろうが、理屈を弄しすぎると、真実から遠ざかってしまう気がした。

 全くもって、口が下手だった。きっと自分には尋問官など向いていないのだろうな、と内心で呆れる。

「・・・貴様。この期に及んでまだ、この私を利用する腹づもりか」

 皇女の美しい顔立ちが、失望感からか微かに歪む。なんとか感情を抑えていられるのは、元から期待などしていなかった為だろう。

「自分にも目的がありますから、利用はします。しかし、制度の見直しは皇女殿下が王となる為に、避けては通れない道であるとも考えています」

 皇女の瞳が、不審そうに細められる。それに構わず、ロウは話を先に進める。

「王を目指すにあたって、皇女殿下は王城内において、力をつける必要があります。しかし既存の権力がほぼ皇太子殿下に集中している今、貴女はまだ手つかずの勢力を味方につけるしかない」

「それが、亜人だというのか。だがそれも、最早バステアの管理下にあるではないか」

 流石に、皇女は聡い。口下手なロウにとって、それは有り難いくらいだった。

「その為の、上申です。貴女がその旗手となって亜人からの求心力を高めれば、それは無視できない勢力になる」

「妄想を、口にするな。現体制を築いたのはバステアであり、私はその王族だ。自らを虐げている象徴たる人間の言うことなど、誰が聞く耳を持つものか」

「貴女なら、それができる。フォールが、その証です」

 皇女が首だけで振り返り、フォールを見つめる。その視線を受けた彼は、唇を引き結んで俯いてしまう。

 フォールの心の内は、未だ複雑なはずだ。それでも耐えて、この場に留まってくれている。それだけで、十分だった。

「虐げてきた人たちと親しく交わり、あらゆる障害を克服して、相手の心を捉えろと。現実的、政治的結果を無視してでも、亜人を友とせよと。ストレンジャーは、そう言いました」

 皇女がゆっくりと肘を曲げて片手を上げると、フォールが手のひらで、そっとそれを包んだ。

「貴女の愛は、これほどに彼の心を捉えた。これは他の王族には真似のできない、皇女殿下だからこそできる事です」

 今にして思えば、職種が厳しく制限されているはずの亜人が、王族の住まう王城内にいること自体がおかしかったのだ。

 それは無理を押し通してでも、皇女が彼を守り抜いたことの証左でもある。

 フォールの身体が、微かに震えている。彼の想いは手のひらを通じて、確かに皇女に伝わっているはずだ。

 彼らの絆は、きっとそれほどに強いものなのだろう。

「ストレンジャーというのは、随分と奇妙な思考をするものなのだな。それではまるで、聖人ではないか」

 半ば呆れたように肘掛けに片肘をついて、皇女がため息をつく。フォールとは、まだ手を繋いだままだった。

「彼は間違いなく、聖人ですよ。しかし自分たちはある程度、現実的にも政治的にも成果をださなければなりません」

 あの老人のように在れたなら、と思う。自分たちが彼の域に達するには、かなりの時を要することだろう。

 だが、誓いさえ忘れなければ、いつか必ずそこに辿り着けるはずだ。今は、やれることを懸命に為せばいい。

「ロウ。貴様に一つ、訊いておきたい事がある」

 繋いでいた手を離し、皇女がロウを見つめる。その深翠色の瞳から激しさは消え失せて、今は理知的に光っていた。

 ロウは頷きで、それに応える。皇女の側から話を振ってくるのは、珍しかった。

「何故、そこまで亜人に肩入れする。貴様をそうさせる理由が、私にはわからない」

 皇女からすれば、ロウの亜人への拘りようが、普通ではないように思えたのだろう。しかし、その理由が見えないからには、信用などできるはずもない。得体が知れないのだ。

「それは・・・」

 ロウは言い淀む。皇女との信頼関係を築く為の、第一歩だった。大事な問いである事は、わかっている。

 それでも口にする事は、ためらわれた。これは、自分だけの問題ではない。

 まずい。そう思った。

「皇女殿下。その質問には、私が答えさせていただきます」

 どの会談でも、基本的には口を挟んでこなかったユニの声を聞き、皇女が意外そうに彼女を見つめる。

「どういう事だ。私は、ロウに訊いているのだが」

「ユニ。やめろ」

 話の腰を折られて不機嫌そうな皇女と、狼狽するロウを無視して、ユニが椅子から立ち上がった。

 振り返って皇女に背を向けると、ユニはおもむろに、自身の制服の上着を脱ぎだす。

 堪らず立ち上がったロウが制止する前に、ユニはシャツを腰まではだけさせ、その背中を露わにした。

 皇女とフォールの、息を呑む気配が伝わってくる。

 彼女の白い肌は美しかった。

 そして、その肩甲骨の辺りは、翠色の鱗に覆われていた。

「・・・竜人族」

 フォールが呟く。疑いようのない、亜人であることの証だった。

 久しくそう呼ばれることのなかったユニが、その声に首を振り向けて、皇女に語りかける。

「皇女殿下。私が、兄さんの理由です」

 その言葉を聞いた皇女の瞳に、困惑の色が浮かぶ。それを認めたユニが、考え込むようにバラの天井を見上げた。

「少し補足をしなければ、不親切ですね。やっぱりお願いできますか、兄さん」

 状況によって、色々な呼び名を使い分けるユニが、今ここで、自分のことを兄さんと呼んだ。

 そこに込められた意味に思いを馳せながら、ロウは頷く。

「私、あの日の事、上手く話せそうにないですから」

 彼女も、戦っている。その邪魔をする事など、誰にだって許されはしないのだから。


 その事件は、五年前に起こった。


 戦後五年が経過していた当時、併合した亜人の領土における、バステアの支配体制は一応の安定を見せていたが、亜人の生活圏にはびこる賊徒の数は、一向に減る気配がなかった。

 治安維持の名目で各地に配されたバステアの軍隊の多くが、賊徒の鎮圧に消極的だった事も相まって、連日、目を覆う程の被害が報告された、そんな時期だった。

 バステア本国と亜人の土地とを分かつ大河流域にある、山岳地帯の集落の一つが、賊徒によって壊滅させられたという。

 現場から最も近くに駐屯していた治安維持部隊より派遣された数人が、被害の検分に訪れた際、集落の様相は酸鼻を極めていた。


「・・・無茶苦茶だ」

 集落の中央に位置する広場から周囲を見渡したロウが、顔をしかめる。

 焼けてぼろぼろに崩れた土壁と、未だ細く煙を上げる黒焦げた柱。

 流れる血も既に枯れた亜人と、原形を留めない程に焼けた、人だった何か。

 誰にもその最期を看取られる事なく、この集落は静かに終わりを迎えていた。

「皆殺しだな、これは。ロウ、ぼっとしてんじゃねえよ」

 一通りの見廻りを済ませた、同じ隊の兵士の一人が、立ち尽くすロウの隣まで歩いて来て、尻を叩く。

「・・・これ、本当に賊徒の仕業なんですかね」

 不意を突かれたロウがよろめきながらも振り返って、先輩の兵士に話を振る。

 農民が麦を収穫するように、人間から財産を略奪するのが賊徒である。

 同列に考えてはいけないが、賊徒が農民から奪い続ける事をその目的とするのならば、皆殺しにしてしまっては、それこそ意味がない。

 それに、嫌な噂を耳にしたこともあった。

 終わりのない治安維持任務に倦んだ王国軍人が、その不満を解消する為に、現地の亜人に害を為した事例が、これまでにも何件かあったという。

「・・・知らねぇよ、そんな事は。もう日も暮れる、そろそろ隊に戻るぞ」

「すみません、先輩。もう少しだけ」

 背後からの制止の声を振りきって、ロウは焼けた家屋の群れに向かって駆け出す。

 たまらなかった。理不尽だった。

 無駄と知りつつ、ロウは次々と、一度は見廻った家屋に飛び込む。

 何軒目かで、ふと違和感があった。

 家財が、不自然に折り重なっている箇所がある。どかしてみると、床に木製の蓋があり、地下へと通じているようだった。

 鼓動が、高まった。どうせ裏切られると思いながら、本当は心の片隅で、祈るような気持ちでいる。

 少女は眠るように、そこにいた。

 ほぼ暗闇の地下室を、頼りない足取りで近づき、呼吸を確認する。

 衰弱しているものの、確かに生きていた。

 それからしばらく、自分が歓喜の声を上げているのか、応援を呼んでいるのか、ロウには判然としなかった。


 少女は事件の参考人として、駐屯地に連行された。

 生き残りは、彼女一人だった。

 衰弱した少女の回復を待った後、ロウが聴取を担当する事となった。第一発見者としての縁なのか、ただ面倒ごとを押し付けられただけなのかは、よくわからない。

 少女は、自らをユニと名乗った。

 竜人族という種族らしい。地竜の親戚のようなものとして、理解した。

 淡い緋色の瞳と、透き通るような翠色の長髪が印象的な子供だった。

 机の用意された幕舎で、聴取が始まる。

 少女はすらすらとこちらの質問に答え、仕事は滞りなく進んだ。手のかからない子だな、とロウは感心する。

 どのくらい話をしていただろう。楽だから気にならなかったが、それなりの時間は経過していたはずだ。

 それだけの時を要して、ようやくロウは彼女に異常さを感じだした。


 まだ子供である彼女にとって、あの集落は世界の全てだったはずだ。

 それを喪った事の意味が、この利発な少女にわからない訳がない。

 家も、家族も、身寄りも、今までも、これからも、その全てを喪って。

 彼女は利発なままに、壊れていた。


 自分が助けだしたつもりでいたのは、一体なんだったのだろう。

 今、目の前にいる濁った瞳の少女だろうか。

 答えを得られないまま、淡々と時は過ぎていく。

 二人を隔てる、机の木目をかりかり、と掻く少女の爪の音が、妙に耳についた。


 その翌日、彼女の身柄は王国側に引き渡すことになった。

 おそらくは二等国民となって、バステア領内のどこかの大農場で働かされる事になるだろう、と聞かされた。

 国境を越え、バステア国内の関係機関にユニの身柄を届ける役には、ロウが志願した。

 日の高いうちに、部隊の駐屯地から地竜を駆けさせて、大河に沿って建てられた国境砦を目指す。

 地竜には二人乗りになったが、ユニが小柄な為、負担は少ないようだった。その速度を落とす事なく、軽快に草原を走る。

 昨日あれだけ話していたユニが、今日はロウの腰にしがみついて一言も喋らない。

 今の彼女の状況を思えば、当然だった。昨日は質問された事柄に、ただ反応していただけに過ぎない。

 小高い丘の上から、大河が窺えた。

 国境の壁沿いに地竜を走らせ、程なく砦に到着する。手続きを済ませてバステア領内に入る頃には、だいぶ日は傾きかけていた。


 夕暮れの斜陽を浴びる広大な小麦畑が、黄金の海のようにうねっている。

 畑に挟まれた街道を縫うように走るロウたちを、その日の作業を終えた農夫が遠巻きに眺めていた。

 やがて二人は一軒の農家の前に辿り着き、先に地竜から降りたロウが、ユニを抱えて地面に立たせる。

 少女にしばらく待っているように言い聞かせ、彼は慣れた様子でその農家の扉を開け、中に入っていった。


 程なくして家に招き入れられた彼女は、そのままこの農家に預けられ、日々を過ごす事となる。


 思っていたよりも、騒ぎにはならなかった。

 ユニを実家に預けたその足で、予定されていた引き渡し先に顔を出し、彼女が護送中に失踪したと、でっち上げた。

 翌日、駐屯地に戻ってその報告をすると、顎が歪みそうな勢いで殴られたが、それほど重い懲罰は与えられなかった。

 そんな事にいちいち目くじらを立てていては、治安維持部隊ではやっていけない。

 それが、現実だった。


 何故こんな事をしたのか。

 顔を腫らしたロウは、地竜の糞を片づけながら、そんな自問をした。 

 今回の事件と似たような悲劇は、亜人の土地では珍しくない。

 ユニも、数多くの被害者の内の一人に過ぎない。彼女だけに目を掛けるなど、傲慢以外の何事でもないではないか。

 だったら何故。さらに、問う。

 ユニの濁った瞳が、頭に浮かぶ。二度と見たくない。あれはきっと、許してはならない、何かだ。

 そう感じた時、衝き動かされた。あの目のまま、少女が生きていくのだと思うと、たまらなくなった。

 我に返った頃には、ユニを両親に預け、今こうして顔を腫らしている。これではまるきり、馬鹿ではないか。

 何故。何度でも問う。問い続ける事が、大切なのだと思った。

 今はわからなくてもいい。大事なのは、これからなのだ。

 ロウは額の汗を拭い、国境向こうのバステア領土の空を眺めた。


 それからしばらくの時を経て、ロウの治安維持部隊の任期は終わった。

 異動されて国境警備隊に転属となってからは、非番の度に、実家まで顔を出すという生活を続けた。

 天涯孤独となったユニを育み、王国法で禁止された、亜人にバステア王国民の姓を与える危険性を知りながらも、事実を隠して彼女を養子に迎えてくれた両親には、本当に感謝の言葉もない。

 今、ユニが無事なのも、全て両親のおかげだった。考えなしのロウ一人では、事件後の彼女を匿う事もできなかった。

 いかに、ユニの心を回復させるか。仕事の時以外は、そんな事ばかりを思い悩んだ。

 自分には、彼女の人生を変えた責任がある。そう、思い詰める事もあった。

 時間の許す限り、ユニに会いに行く。まだ年若いロウには、結局そのくらいしかできる事が思い付かなかった。

 そうと定めれば後はもう、ただ必死だった。彼女は、新しい家族なのだ。

 せっかく拾った命なのだから、笑って生きていって欲しい。そんな少女の未来を願って、ロウは今日も街道を走る。


 一年、二年と、そんな月日が流れていって。

 三年目に、ユニは微笑みながら、ロウと同じ道を歩む事を選んだ。


「・・・それが、貴様の理由か」

 ロウの話を聞き終えた皇女が、考えごとをするように、その豊かな黄金の髪を指先で弄んでいる。

 はだけた服をもう一度着込んで椅子に腰掛けたユニを、フォールが心配そうな眼差しで見つめていた。

 ユニが出自を隠して王国軍人となった事が知れれば、彼女だけでなく、おそらくは両親も罪に問われるだろう。

 皇女の質問に対して、ロウが口ごもったのも、その為だった。

「事の始まりは、自分の独断です。全ての罪は、自分にあります」

 都合の良い言い分なことは、百も承知だった。それでも、家族に累が及ぶ事だけは避けたかった。

 ロウの表情に、苦悩の色が浮かぶ。全てを承知の上で、ユニには真実を告げる覚悟があった。自分はやはり、半端者なのだ。

「ルル様・・・」

 何かを言いたげにするフォールを、皇女は軽く片手を上げる事で制した。

「わかっている、フォール。・・・ロウ、私が貴様に訊きたいのは、そんなどうでもいい事ではない」

 皇女の言葉にあからさまな安堵の息をついたフォールだが、すぐに澄ました表情をつくる。

「不問だそうですよ、ロウ様。ルル様の寛大な処置に、感謝してください」

「・・・ありがとうございます」

 会談前の意趣返しと言わんばかりのフォールの態度だったが、何にせよ、ありがたい話ではあった。

「よい。・・・ユニとの出会いが、貴様の原風景なのだな」

 髪を指先に絡めながら、皇女は独白のように呟く。リード家の姓の話題は、本当にどうでもいいようだった。

「はい。ユニと過ごした日々が、自分に現体制への疑問を抱かせました」

 王国の支配体制の弊害として、あの事件は起こった。あれからさらに、五年の年月を経た今でも、亜人を取り巻く環境の劣悪さに変わりはない。

 いつか町人街でぶつかった、亜人の子供が脳裏に浮かぶ。あの子も、今なお続く迫害の犠牲者の一人だ。

 こんな悲劇の連鎖は、断ち切らなければならない。ユニのような不幸を、これ以上繰り返してはならないのだ。

「ユニ。貴様にも一つ、訊いておこう」

 椅子の背もたれに預けていた身体を起こし、座り直す。

 それだけで、皇女の雰囲気は一変した。木漏れ日によってさらに映える黄金の髪が、その肩から流れる。まさに貴人の佇まいだった。

 皇女とユニは、互いの瞳を見つめ合う。

「今は、幸せか?」

「はい。幸せです」

 皇女の問いに一瞬のためらいも見せず、ユニが答えた。

「勿体無いくらいに、幸せです。兄さんと、一緒ですから」

 そう言って微笑んだユニの瞳から、涙が一粒、零れ落ちた。

 それを見て一つ頷くと、皇女はロウに向き直る。

「ロウ。貴様は私と同じく、果報者だな」

 ロウは俯いている。皇女に話しかけられても、彼は顔を上げる事ができないでいた。

 これではいけない、とロウは自身の上着の裾を握りしめる。

 ユニのその言葉が聞ければ、もう他に何もいらない。そう考えてしまう自分の甘さを、戒めた。

 何の為に、この会談に臨んだのか。そう自らを叱咤するが、震える唇は上手く言葉を紡いでくれそうになかった。

 ロウは俯けていた頭をさらに下げて、懸命に口を動かした。


「皇女アルルリーゼ。亜人と寄り添って、共に歩んでください。どうか、彼らの味方になってあげてください」


 ようやく出てきた言葉は、この上なく不細工だった。

 時間が凍りついたように、誰も話さない。ロウは恥ずかし過ぎて、顔を上げる事すらできないでいた。

 しばらくバラ同士の擦れ合う音だけがするなか、不意に誰かが、可笑しそうに吹きだした。

「ルル様、ご覧になってください。普段すかした感じのロウ様が、面白いことになってますよ」

 フォールが皇女の座る椅子の背もたれに手を添えて、笑っていた。

「そうか?見たくもない汚い頭を眺めさせられて、不愉快だが」

 吐き捨てるような皇女の口調に、さらにひとしきり笑い、その目に涙を浮かべたフォールが、指先で目許を拭った。

「でも、いいな。そうなったら、本当に嬉しい」

 祈るように指を組んで、フォールが呟く。

 風に散らされたバラの花弁が一つ、皇女の膝に舞い落ち、彼女は目蓋を閉じる。

「いつまでそうしているつもりだ。その汚い頭を上げろ、ロウ」

「兄さん、二回汚いと言われましたよ。いい加減、髪を切ってください」

 ロウを促す皇女の言葉に、ユニが乗っかってきた。彼は決まりが悪そうに顔を上げ、束ねた長髪を掻く。風に煽られた髪が、酷く乱れていた。

「いいだろう。今回は、貴様の口車に乗せられてやる」

 黙思するように閉じられていた目蓋が、ゆっくりと開く。

「この件は、私からお父様に伝えよう。大義であった」

 そう短く告げて、皇女は手に取った扇子を振るう。

 彼女の起こした風で舞い上がった花弁を、フォールは受けとめるようにして手のひらに、そっと包んだ。


 こうして会談は終わりを迎えた。

 それは同時に、彼ら四人の夢の始まりだったのかも知れない。


 日が暮れる。城壁の周囲を巡る堀の水面を、初秋の涼やかな風が、撫でるように渡っていく。

 王城と行政区とを繋ぐ幅広の石橋の上で、二人は緩やかに波立つみなもをぼんやりと見下ろしていた。

「皇女殿下に引き受けてもらえて、良かったですね。兄さん」

 少し疲れた様子のユニが、欄干の上にある小石を手に取り、堀に落とす。

「そうだな。でも、全てはこれからだから」

 彼女の隣で肘をついて欄干にもたれかかるロウは、広がる波紋を眺めながら、そう呟いた。

 そう、全てはこれからだ。

 皇女が種族差別に一石を投じる結果が、どうなるのか。それを知るには、迫害の歴史と同じだけの時間を必要とするのだろう。

 ふと、ロウは堀の周囲に植えられた背の高い樹木の一本に、目を移す。その細い枝の先に野鳥が二羽、翼を休めているのが見えた。

 枝は折れそうな程に、しなっている。今日の自分たちは、あのくらいに綱渡りだったと、今になって思う。

「私のこと、ばらしちゃいました」

 ぽつり、とユニが呟く。彼女は、自らの出自の事を言っているのだ。

 それに関しては、一応は心配していない。皇女たちは、この件には目を瞑ってくれるようだった。あの時、ユニが助け舟を出してくれなければ、今日の交渉は危なかったかも知れない。

 しかし思えば、自分たちのしてきた行いは、王国においては不正だらけだ。

 隠蔽、背任、なんでもござれ。しかも、家族ぐるみである。

 その報いは、いつか必ず受ける事になるのだろう。

 もし、亜人を廻るこれらの罪が、罪ではなくなるような時代が来たとしても、この行為が正当化される訳ではないのだ。

 牢獄の老人の言葉が頭をよぎり、自分はやはりまだまだだ、と目蓋を閉じる。

「兄さん」

 振り向くと同時に、額に衝撃が走った。

 ユニの顔が、目前にある。頭突きをしてきた彼女は、そのままロウに額をこすりつけてくる。かなり、痛かった。

「また、考え込んでいますね。全く、気の小さい」

 なんとでもなりますよ、とユニは澄ました顔をしている。

 唖然とそれを見て、次第にロウの口許が苦笑に歪んだ。本当に、こいつには敵わない。

「これからも、頼りにしてるぞ。クソ女」

 ロウは、全幅の信頼を込めて、彼女を額で押し返す。

「私も、信じてますよ。クソ野郎」

 ユニも、ありったけの信愛を込めて、彼に微笑み返した。

 沈みゆく夕陽を受け、石橋に落ちた二人の影は、まるで寄り添い合う鳥のようだった。


 その日の夜、王城の謁見の間において、バステア国王に向けて皇女アルルリーゼより種族制度の見直しを求める上申が為された。

 その堂々たる佇まいは、国王だけでなく、並み居る重臣たちをも感じ入らせるものであったという。



六日目


 昨日と同じく、二人は朝から行政区の王立図書館へ出向いていた。

 ロウの自室のベッドの上に、一冊だけ置き去りにされていた書物を、改めて資料室に返す為だった。

 牢獄の老人を待たせるようで申し訳なかったが、何しろ返却の期限が迫っていたのだ。

 入り口の大扉を押し開けると、二人は階段を目指して、大図書館の背の高い書棚の間を進んでいく。

 靴音が、よく響く。まだ一般には開放されていないこの時間帯の館内は、職員をちらほらと見かける程度で、とても静かだ。

 それでも、二階へ続く階段の手すり越しに階下を見下ろせば、この膨大な知識の集積地の威容に、圧倒されるのだった。


 辿り着いた資料室には、一人の先客がいた。

 その姿を認めたロウとユニは、慌てて床板に膝をつこうとする。

 手にした書物を閉じ、その人物は微笑みながら、二人の行動を手で制した。

「そう畏まらないでくれ。朝からそういう固いのは、お互い抜きにしよう」

 穏やかな声音でそう口にした貴人を窺いながら、ロウは内心で狼狽する。

 カールリッツ=バステア。

 この国の皇太子であり、次期国王の最有力候補である。

 皇女アルルリーゼの兄でもある彼の、その黄金の髪と深翠色の瞳は、彼女と全く同じものだった。

「君とは、どこかで出会った事があったかな?」

 ロウを眺めながら、皇太子は顎に手を当て、考える素振りをみせる。その柔らかな佇まいは、皇女とはまた違う種類の威厳に満ちていた。

「皇太子殿下が兵役に就いておられた頃、自分は一度、お目にかかった事があります」

 その問いに、姿勢を直立させたロウが答える。できるだけ、動揺が表に出ないようにしたつもりだった。

「思いだした。確か、国境勤務だったな。私は内地にいたから、あまり接点はなかっただろうが」

 ロウは遠目に皇太子を見た事があるというだけで、面と向かった事は、一度もない。それでもロウを憶えているというのなら、それは驚くべき記憶力だった。

 皇太子は、まだ腑に落ちない様子でロウを眺めている。

「しかし今は、図書館員の制服を着ている。軍人は、辞めたのか?」

「いえ、王立図書館には出向扱いで、軍に籍を置いています」

 その内容に興味を惹かれたらしく、深翠色の瞳が好奇心に輝いたように見えた。

「変わった経歴だ。図書館では、どんな事をしている?」

「・・・尋問官です」

 返答に、少しの間が空く。

 ロウはこれからも、皇女が王城で発言力を持つ為の手助けをするつもりでいた。それは、皇太子の力を削ぐ事と同義である。

 質問に答えない訳にはいかないが、不用意な発言は避けたかった。

「ストレンジャー、彼らの思想は興味深いな。だから私はたまに、ここで異世界の空気に触れる時間をつくる事にしている」

 唐突に話が飛んだように感じて驚くロウに構わず、皇太子は手にしていた書物を再び開いて、眺めだす。

 どうやらそれは、王立図書館で編纂された、ストレンジャーの聴取記録のようだった。

 ページをめくる皇太子は、子供のように瞳を輝かせている。それきり、ロウに話を振ってはこなくなった。

 切り替えの早い人物だ、と思った。それが微笑ましくさえ映るのが、王族たる彼の魅力なのだろう。

「貴重なお時間の邪魔をしてしまい、申し訳ありません。要件を済ませて、すぐに退室いたしますので」

 皇太子の興味が他に向いた今を、好機と見る。これ以上の長居は、したくなかった。

 ロウは持ち出していた書物を手に、そそくさと歩き出す。目的の書棚は、皇太子が立つ位置の奥側だった。

「構わないよ。私は今日、とても機嫌が良いんだ」

 棚に書物を挿し込むロウの手が、止まる。理由は定かではないが、とてつもなく、嫌な予感がした。

「昨日の晩、アルル・・・私の妹が突然、父に意見の申し立てをしてね」

 皇太子は書物に目を落としたまま、片手間のように話す。

「・・・それは、ご立派ですね。どうなりましたか?」

 踏み込むのは、まずい。わかっていながら、ロウは訊いてしまう。

「とても素晴らしい内容だった。同席した重臣たちの中にも共感した者がいるようだし、正式に審議される事になると思う」

 皇太子がまた一枚、ページをめくる。

「皇太子殿下は、どのように思われましたか?」

 危険だ、やめろ。わかっていながら、ロウは訊かずにはいられなかった。

「妹の成長を、喜ばない兄はいない。私の知るアルルは、あのような突飛な発想を持つ子ではなかった。そう、まるで彼女は」

 皇太子は手にした書物を、音をたてて閉じる。


「ストレンジャーのようだった」


 ロウの背筋を、悪寒が走る。こちらに背中を見せる皇太子に目を向ける事すら、恐ろしかった。

 皇女が皇太子に対して抱いている疑惑の事を、何故か今、思いだした。

「私がこれまでに目を通した記録の範囲では、あのような記述はなかったな。・・・何か心当たりはあるか?尋問官」

 振り返った皇太子は、穏やかな笑みを浮かべている。窓から差し込む朝日が、整えられた黄金の髪を、艶やかな程に引き立たせていた。

「・・・心当たりと言われましても、自分は皇女殿下と、面識がございませんので」

 ロウは俯いたまま、顔を上げる事もできない。背にした朝日が逆光となって、彼は影のように惨めだった。

「だろうな。いや、引き留めたようで悪かった。・・・ええと、名はなんといったかな?」

 肩をすくめる皇太子は、本当に申し訳なさそうに見えた。

「・・・ロウ=リードと申します」

 そう言って一礼し、ロウはユニを伴って、逃げるように退室する。

「リード君。・・・良い一日を」

 資料室の扉が閉まる間際、そんな皇太子の声が、背後から聞こえた。


「完全敗北でしたね」

 図書館正面の大扉を閉じ、行政区の通りに歩み出ると、ユニが肩から下げた革鞄を揺らしながら、ロウを見上げてくる。

 それが先程のロウと皇太子のやりとりについての、彼女の感想だった。

「・・・そうでもないさ。皇女殿下は、約束を守ってくれたようだから」

 皇太子の話によれば、皇女の起こした行動は、王城の面々にかなりの影響をもたらしたようだった。

 これはロウの想像していた以上の成果であったし、今後の展望に期待の持てる結果でもある。その点については、まずは上々の出だしと言えるだろう。

 だが、とロウは顔を曇らせる。

 資料室での皇太子の発言は、皇女に対するロウの情報の横流しを、疑ってのものではなかったはずだ。

 皇太子が皇女に監視の目をつけていた可能性もないでは無かったが、昨日の今日で、彼が自分たちの関係を知り得る余地など、皆無に等しい。

 皇女もそれは警戒していたようで、フォールの仲介なくして彼女と接触できないのは、その為なのだろう。彼は密偵を生業とする一族の出身であり、そのあたりの抜かりはないように思われた。

 だとすれば、あの時点での皇太子の言葉に、根拠など無かった事になる。自分は、かまをかけられたのだ。

 後になって考えてみれば、どうという事もないのだが、あの時の自分は、完全に皇太子の雰囲気に呑まれていた。

 あの一瞬、ただの直感で尋問官の関与にまで考えを巡らせたとすれば、間違いなく皇太子は怪物だ。

 これから争う事となるはずの人物の底知れなさに、まだ何ほどのこともしていないにも関わらず、自分は圧倒されてしまった。

 その意味では、ユニの言うとおり完全敗北だった。


「・・・まさに完璧だな、あの御仁は」

 そんな人間を、これから皇女は正面から相手取らなければならない。

 無謀とも言える彼女の戦いを、陰ながらでしか手助けできない無力さが、今になってロウにはもどかしく思えた。

「頭が切れて、人望もあって、ついでに美男子。確かに、非の打ち所がないですね、皇太子殿下は」

 知らず知らずのうちに足取りの重くなったロウを追い抜いて、ユニが先へ先へと歩いていく。

 ロウの経験から見て、それは彼女が気分を害している時の、本人にとっては無意識の行動だった。

「ユニ。何か、怒ってない?」

 心当たりのないロウが、どうしてだか恐る恐る声をかけると、ユニは唐突に歩みを止める。

 かつり、と石畳に彼女の靴音が響いた。

「・・・私には、名前も訊きませんでした」

 ロウに背中を向けたまま、ユニは呟く。

「皇太子殿下は始めから最後まで、私をいない者として扱いました。まるで物のように、私を見ていました」

 それは普段どおりの抑揚のない声音だったが、ユニは相当に怒っているとロウには感じられた。

「これは私の勝手な思い込みですが、彼の亜人を見る目は、きっとこんななのだろうと思いました」

 見た目でわかり易い種族の亜人ではなかったからこそ、これまでユニは出自を偽ってこられた。だから彼女が亜人である事を、ひと目見ただけの皇太子が知る術はない。

 だがユニは直感的に、皇太子を差別主義者と判断したようだった。

 ユニの評価は、確かにただの思い込みかも知れない。彼女たち亜人の立場からすれば、現体制の象徴である王族に悪感情を抱くのは、無理からぬ事だ。

 しかしユニは、同じ王族である皇女には、むしろ好意的ですらある。そうすると、彼女にそう感じさせるだけの何かが、皇太子にはあったという事なのか。

「だから正直に言うと、ぶん殴ってやりたいです」

 だからと言って、正直に言い過ぎだった。

 この城下町は、バステア王族のお膝元である。今の発言を誰かに聞かれれば、それだけで牢屋にぶち込まれそうだ。皇女だけでなく、自分たちにとってもこれからだというのに、それで早くも台無しでは、あまりにも間抜けだった。

「勘弁してくれ。なんか、本当にやりそうで怖いから」

 立ち止まったユニに追いついたロウは、呆れたように髪を掻いた。

「牢屋に入った兄さんを、私、ずっと待ってますから。家で」

「当然のように俺を巻き込むな。・・・本当にいい性格してるよ、お前は」

「気の小さい。妹の為に、そのくらいやろうとは思わないのですか」

 隣に立つロウを上目遣いに見上げて、ユニが微笑む。

 良い笑顔だった。だが、そんなものに騙されはしない。

「やらない。あの綺麗な顔を殴って歪ませたら、きっと国中の女性にとっては計り知れない損失になるぞ」

 何よりもそれが怖い。怒った女性の恐ろしさは、既に目前のユニがその身をもって証明している。

 もしそんな事をすれば、ロウはもうこの国で生きてはいけないだろう。

「そうですか?兄さんの顔のほうが、私は好きですよ。趣味が前衛的ですから」

「どうしてだろうな。それを聞いても、全く嬉しくないのだが」

 素直じゃないですね、と言ったユニが、再び王城に向かって歩き出す。どうやら、機嫌は直ったようだった。

 内心、胸を撫で下ろしたロウも、置いていかれないよう小走りに彼女の後に続き、その隣に並ぶ。

 王立図書館の向かいにある王国議会の議事堂の前にさしかかった時、ロウは振り返って図書館の二階を仰ぎ見た。

 ロウの顔が、厳しく引き締まる。今、自分は酷い表情をしているのだろうな、と他人事のように思う。とても、ユニには見せられない。


 カールリッツ=バステア。

 貴方の行いは、俺の家族を傷つけた。

 その報いは、いつか必ず受けてもらう。


 二階の窓に、彼の姿が見えた訳ではない。それでも、まだ資料室に留まっているであろう皇太子に向けて、ロウは心の中で静かなる宣戦布告をした。


「ロウ=リード二級尋問官及び、ユニ=リード二級書記官。一〇三号房への、入室の許可を願います」

 王城東館を訪れたロウとユニは、相変わらず全く感情の読めない担当の係官から、面会許可証を受け取る。

 軽く会釈して奥の通路に向かおうとすると、係官に呼び止められた。

「リード尋問官。本日は随分と、体調が良好なようですね」

 おかげさまで、と微笑したロウが返答する。

 確か昨日も、係官はこちらの体調を気にかけていた。ストレンジャーとの交流で心労の絶えない尋問官の調子を計る事も、彼女の職務の一つなのだろう。

 自分たちは、日々をこうした細かな気遣いに支えられている。それに対する感謝の念を、忘れてはならない。

「私としましては、昨日の様子から、貴方が激しく体調を悪化させている事を、密かに期待していたのですが」

「なんでだよ」

 やっぱりこれだよちくしょう。

 いい加減、自分はこういった展開を学習すべきだった。

 悪くもないのに自己嫌悪に陥るロウを尻目に、係官は片眼鏡を指先で押し上げ、その隣のユニを見遣る。

「ユニさん。私は貴女を心配しているのです」

 何の事かと首を傾げるユニに対して、係官は表情を変えずに話を続けた。

「以前から私は、貴女の年齢で書記官の職務は辛いものではないかと、常々思っておりました」

 淡々と告げられる彼女の言葉に、ユニは黙って耳を傾けている。

「貴女は、まだお若い。他に幾らでも、道はあるはずです。もしよろしければ、昨日お訊きしたように、私から上の方に話を通させていただきます」

 それを耳にして、ロウは頭から冷水を掛けられたような気がした。

 今の今まで目を逸らし、無意識に蓋をしていた事柄を指摘されて、ようやくその異常さに気付かされたのだ。

 思えばユニは、自分のやり方に引きずられるようにして、今の書記官という立場に至っている。

 それに関して彼女は文句の一つも言わないが、それはただ、自分を想ってくれての選択ではないのか。

 いつかユニは、自らの全てをもって、自分に尽くしてくれると口にした。

 そんな彼女の言葉に甘えて、もしかして自分は、ユニの人生を私物化しているのではないか。

 だとしたら、そうであってはならない。ユニの人生は、ユニの為のものでなければならない。

 ユニを支配する為に、自分は彼女と家族になった訳ではないのだ。

 そう思い悩むロウに構わず、係官の話を聞き終えたユニは、その緋色の瞳で彼女を見つめた。

 ユニの表情は固い。係官が本気でこの話を持ちかけている事を、彼女は十分に理解しているのだ。

「せっかくのお誘いですが、それには及びません。確かにこれからも辛い事は沢山あるのでしょうが、これは私の選んだ道です。途中で放りだして、後悔だけはしたくない」

 本当にそれでいいのか。ユニはもっと年相応に、人並みに人生を謳歌するべきではないのか。

 ユニの決意を聞いても、ロウの思考はそんな堂々巡りを繰り返す。

「ユニさんのように責任感の強い子は、みんな同じ事を口にするものです。しかしそれでは、いつか心も身体も潰れてしまう。私は貴女より年長者として、そう意見を申しているのです」

 ユニの言葉に、係官は納得していない。普段の彼女からは信じられないような口数が、それを証明していた。

 係官の言う事は、良識に則ったものだ。彼女の正論を前にして、ロウは堪らず俯いてしまう。

 そんな当たり前にしてやるべき配慮を失念して、危険すら伴う状況にユニを巻き込んでしまった。

 それどころか、自らの理想の為に、自分はユニの想いを都合良く利用しているのではないか。

 そう考え至ると、ロウの頭は真っ白になった。

 だとしたら、なんという自己欺瞞だろう。

 自分は、本当に守りたかったものをないがしろにして、理想ばかりを追い求めていたというのか。

「・・・そうかもしれません。私はまだ子供で、自分を客観的に見れていないだけかもしれません」

 隣にいるはずのユニの声が、ロウには酷く遠くに感じられた。

 これまで当然の事と思っていた行いが、世間の常識に否定されて、ユニは今、戸惑いの声を上げている。

 助けてくれた人間への恩に縛られた彼女は、まるで籠の中の鳥のように、自由に飛び立てない。

 そんなユニが、不憫でならなかった。

 不意に、上着が突っ張るような感触がしたので、ロウは何事かと、緩慢な動きで片腕を持ち上げる。

 見るとユニが片手で、上着の裾を掴んでいた。

「正直に言うと、今の職務に拘るだけの、立派な理由もありません。恥ずかしながら、私はただ」

 ユニは一度、ためらうように言葉を切る。

 自信のなさそうな、それこそ消え入りそうな雰囲気の彼女は、それでも係官から目を逸らさず、再び言葉を紡いだ。


「ただ、この人のする事を、最後まで隣で見届けたい。それが私の理由であり、そこが私の進むべき道です」


 そう言って、ユニは上着の裾を、さらに握りしめてくる。

 ロウはふと、今のユニの姿を、昔の自分と重ね合わせて見ている事に気付いた。

 十年前、軍に志願した時、自分は丁度ユニと同じ年頃だった。

 時代は亜人戦争の末期で、戦場は言葉では言い表せない程、悲惨だった。

 そんな時期に、どうして戦いに赴こうと思ったのかは、今となってはもう、忘れてしまった。

 きっと、若いなりの志があったはずだ。そして多分、それが最も綺麗な理由なのだろう。

 そんな、自分では思いだせない何かを、ユニは今、その胸に抱いてくれている。

 辛いとわかっていても、ユニは自ら、その道を選んだ。まだ幼いその衝動を、いったい誰が責められるというのだろう。

 自分にできる事といえば、自らの足で歩き始めた彼女が道に迷わないように、見守るくらいしかない。

 ユニは、もう子供ではない。いや、自分が勝手に、そう思いたがっていただけなのか。

 絶望に瞳を濁らせた、あの少女はもういない。自らの生き方にとやかく口を出される事など、強く成長した彼女は許しはしないだろう。

 自分がユニを守っているなどと、勘違いも甚だしい。彼女は迷いながらも、自らの生き方を貫いている。

 それが、こんなにも誇らしい。胸にこみ上げる、じわりと温かい何かをロウは感じた。

「・・・抽象的な理由ですが、今回はそれで納得するしかないようですね」

 目蓋を閉じた係官が、小さく一つ、ため息をついた。彼女もユニの言葉に、何か感じ入るものがあったのだろう。

「リード尋問官のどこがそんなに良いのか、その点については、最後まで納得いたしかねますが」

 その辛辣な物言いに、ユニは少し困ったように耳を赤くする。彼女はまだ、ロウの上着を掴んだままだった。

「係官のお姉さん。そこまで私の事を案じてくださって、ありがとうございます。とても、嬉しいです」

「ストレンジャーとの面会に赴く貴女がたの調子を観察して、然るべき判断を下す。私は、その職務を遂行したまでです」

 礼には及びません、と係官は頭を下げるユニを制し、ロウに向き直る。

「リード尋問官。しっかりしているとは言え、ユニさんはまだ未成熟です。ゆめゆめ、それをお忘れになられませんよう」

「はい。書記官への特別の配慮、自分からも礼を言わせてもらいます」

 今回の話がなければ、いつか自分は大切な事を見失っていたのかも知れない。それを係官は気付かせてくれたのだ。

 その掴みどころのない性格の為か、一方的に誤解していたが、この係官は間違いなく才女である。

 一度は彼女の人間性を疑ってしまった自分を、ロウは恥じた。

「礼には及びません。私は、ユニさんのような小さな女の子が好きですので」

 係官は指先で眼鏡を押し上げながら、恐縮するロウに何気なく告げる。その表情は普段どおり、全く変化がない。

 何か、嫌な予感がした。

「ユニさん。先程のお姉さんという呼び方は、とても良かった。これからもそう呼んでいただけると、私としましては幸いです」

 係官は淡々とした口調で、自らの性癖を暴露していく。声に感情がこもっていないぶん、余計に恐ろしかった。

 ユニは素直に頷いている。どうやら意味がわかっていないようだった。

「貴女のことは、まだ諦めた訳ではありません。いつか、私と共に受付をいたしましょう」

「もう行っていいですか」

 がっかりだよちくしょう。

 完全に職権濫用だった。

 上着の裾を掴んだままのユニを引きずるようにして、そそくさとロウは東館の通路を奥に向かって歩き出す。

 奇天烈な係官には、心の中でもう一度、礼を述べた。


 そして、最後の時が訪れた。

 薄暗い地下通路に、一〇三号房の扉をノックする音が反響する。すると室内から、もはや聞き慣れた感のある応答があった。

 ユニを伴って、牢獄に足を踏み入れる。軋む扉を閉めたロウは、まず一礼をした。


「ようこそ、いらっしゃい。我が城へ。・・・この台詞も、今日でおしまいだな」

 老人は、いつもと変わらぬ調子で二人を迎えた。今日は定位置であるベッドを離れて鉄格子の前に椅子を置き、そこに腰掛けている。

 その手に弄ばれている砂時計は、室内の照明鉱石の明かりを照り返して、鈍色の光沢を帯びていた。

 ロウは普段どおりに、面会の態勢を整える。

 しかし今日は何故か、椅子が床を擦る音や、ユニが鞄から筆記用具を取り出す音などが、妙に耳についた。

「・・・それでは、聴取を始めます」

 鉄格子を挟んで、老人と向かい合う。話す内容をたくさん用意してきたはずなのに、どうしてか、すぐに言葉が口から出てこなかった。

 これではいけない、とロウは気を取り直す。

「まずは、昨日あった事から、説明します。今から話す成果には、貴方が大きく貢献していることを、前置きさせてください」

 聞いてもらいたかった事は、何といってもこれだった。

 バープーの導きが、自分たちにどれほどの影響をもたらしたのかを、知ってほしかった。彼に、喜んでほしかったのだ。

「いや、聞かないでおこう。私が留まったのは、今日の君の顔が見たかったからだ。それは、もう叶った」

 しかし、老人は片手を軽く持ち上げ、ロウの話を制した。

「どうしてですか。貴方たちストレンジャーは、この世界で何かを為すために、こうして流れ着いたのではないですか」

 だからこの話は、老人にとっては何よりの報酬になるはずだ。なのにそれを受け取らないとは、どういう事なのか。

 老人の真意が読めないロウは、椅子から少し身を乗り出して、困惑の声を上げた。

「違うな。ストレンジャーはただ、迷い込んだだけだ。君たちの世界を、君たち自身で変える。それが当然で、私には関係のない事だ」

 そう言って口許に笑みを浮かべたバープーを目にして、ロウは自分が考え違いをしていたことに気付く。

 この世界での出来事は老人にとって、きっと夢を見ているようなものだ。

 夢の結果を現実に持ち帰る事など出来はしないと、彼は言っている。もとから、見返りを求めてはいないのだ。

 無償の愛。それが、バープーの理由だった。

「さて、そろそろ戻るとしよう。私にも、母国で為さねばならん事がある」

「待ってください。・・・バープー、もう少しでいい、この世界に留まってくれませんか」

 椅子から腰を上げた老人を、ロウは思わず呼び止めてしまっていた。

 自分の言葉が、彼に夢の続きを見させるだけのものであることは、わかっている。それでも、そう言わずにはいられなかった。

 この聡明な老人から、まだまだ沢山の事を教わりたい。

 最後と思って臨んだ面会だったが、いざ蓋を開けてみれば、出てきたのはそんな浅ましい本音だけだ。

 不意に、熱を感じた。今きっと、自分は顔を赤くしているのだろう。こういうところも、半端者だった。バープーに釣られるようにして、立ち上がる。

「ロウ、落とすなよ」

 すると唐突に老人が、その手にしていたものを放った。

 鉄格子の隙間を通り抜けたそれを、慌ててロウが両手で受けとめる。

「バープー、これは」

 手には、砂時計が収まっていた。ロウは、内心で戸惑う。この行いがどういった意味をもつのか、老人はわかっているのだろうか。

 自分がこのまま砂時計を持ち去ってしまえば、彼は自らの世界に帰還する術を失うことになる。

 確かに、王立図書館の関係者がストレンジャーの持つ砂時計を没収することは、お互いの決め事として禁止されている。

 しかし、先程の話の流れからして、自分がそれを守らない可能性も、十分に考えられるはずだ。

 バープーにそれがわからないとは、とても思えない。

「ロウ。真に良いものとは、ゆっくりと進むのだ。それが急激であったり、過剰であったりすれば、必ず綻びが生じる」

 砂時計を握りしめるロウを見つめて、老人は穏やかな面持ちで話す。

「糸を紡ぐように、焦らず、慎重に事を運びなさい」

 そして一日たりとも、その胸の誓いを忘れないように。多くを語らず、彼はただ、それだけを口にした。

 ロウは、固く目蓋を閉じる。

 バープーは、母国で為すべき事があると言った。

 彼には彼の、使命がある。その邪魔をすることなど、本当は一日だって、許されはしない。

 やはり自分には、できない。自らの理想の為に、彼を都合良く利用する事など、してはいけないのだ。

「・・・最後に、見苦しいところを見せてしまいました。バープー、貴方の母国での活躍を、この世界から祈っています」

 ロウの手の中の砂時計は、もう砂が尽きそうだった。未練を断つようにもう一度、それを握りしめる。

「ユニさん。後で封筒を回収しておいてくれ。君がいれば、ロウも道を踏み外す事はないだろう」

「はい、お任せを。・・・さようなら、バープー」

 ユニは羽根ペンを机に置き、ロウの隣まで歩み寄る。もはや、聴取内容を書き記す必要はなかった。

 老人は目を細めてユニを眺めた後、再びロウに向き直り、頷く。

 微笑むバープーの瞳を真っ直ぐに見つめて、ロウは震える唇を開いた。

「こう言って良いものかわかりませんが、道中、お気をつけて。我が師」

 せめてこの感謝の気持ちだけでも、彼に伝わればいいのに。

 声が、上擦った気がする。自分は、上手く言えたのだろうか。

 さらば。

 それだけを口にして、老人は忽然と姿を消した。

 主を失った牢獄が、静寂に包まれる。

 鉄格子の小窓の脇に置かれた封筒の束。少し乱れたベッドのシーツ。残った痕跡は、そのくらいのものだった。

 消えてしまった砂時計の代わりに、ユニの手のひらの感触がする。温かいそれを、そっと握り返した。

 今は、顔を見られたくない。ユニも、こちらを窺おうとしなかった。

「・・・聴取を、終わります」

 時計仕掛けのストレンジャー。

 たった七日間でも、貴方との出会いは得難い経験だった。

 もう誰もいない牢屋に、言葉を投げかける。

 もちろん返事はなく、しばらく二人でその場に佇んでいた。



エピローグ


 ユニは、自室のベッドで目を覚ました。

 閉じたカーテンの隙間から、うっすらと差し込む明かりを頼りに、手早く身支度を済ませる。寝起きは、良いほうだった。

 次に、机の上に置いた小さな姿見を眺め、長い前髪を髪留めでまとめたところで、一つ、ため息をついた。

 どうも容姿が、あか抜けない。最近の、ユニの悩みだった。

 今まで、見た目など大して気に留めてこなかったのだが、近頃、急に意識するようになってしまったのだ。

 何故かと自己分析してみると、どうやらその原因は、皇女とフォールにあるようだった。二人共、何やらとても華やかなのである。

 その対策として、ユニはフォールを心の師とする事にした。男性であるか女性であるかなど、この際どうでもいい。

 皇女は、今はちょっと、参考にならない。色々と、違い過ぎるのだ。ユニは、自身の薄い胸に手を当てる。きっと、時間が解決してくれるはずだった。

 今日も、皇女との会談の予定がある。

 バープーがこの世界を去った数日後、また新たなストレンジャーが牢獄内に発生したのだ。その担当となったことを報告する為、フォールには昨日のうちに話を通していた。

 本来は皇女を手助けする大切な役目なのだが、ユニにとっては彼女たちと会う事そのものが、密かな楽しみとなりつつあった。

 とりあえず気を取り直したユニは愛用の革鞄を抱えて、できるだけ音を立てないように自室の扉を開けた。

 今の時期は、ユニが目を覚ます頃には、もうだいぶ外が明るい。

 リビングの椅子に鞄の紐を引っ掛け、調理場の貯蔵庫から、朝食となりそうな食料品を適当に選ぶ。

 先日リードの家から持ち帰った保存食は、まだかなり残っている。もうしばらくは、食事に困る事はなさそうだった。

 取り出した食料品を切り分け、皿に盛ってテーブルに並べると、もうそれだけで朝食の準備は完了である。

 ユニはこのテーブルの風景を眺める度に、もう少し手の込んだものを作ろうと考えるが、それをすると毎回、軍の野営時の配給のような有様になるのも、また事実だった。

 そんな一応の準備を整えて、ユニは自室の隣の扉に向かう。毎朝それが、彼女の行う仕事の仕上げだった。

 ノックをしてから、ロウの私室に入る。後ろ手に、そっと扉を閉じた。

 カーテンは閉め切られているが、とっくに室内は暗くない。ユニの侵入にも気付かない部屋の主は、今も寝息を立てている。

 ユニは足音を忍ばせて、ベッドに近づいた。ロウが目を覚ます気配は、全くない。

 口を開いた、間抜けな顔で眠っている。寝汚いところは、いつまでたっても改善されそうになかった。

 自分と同居するようになるまで、よくこれで軍人が務まったものだ。ロウの寝顔を眺めながら、ユニは不思議に思う。

「・・・全く。私がいないと、ダメなんですから」

 本当に、だらしのない。思えば以前から、朝だけでなく何事においても、彼は気の利かないところがあった。

 五年前、彼が嬉しそうに、趣味の悪い髪留めを押し付けてきた時は、馬鹿じゃないかと思った。

 二年前、入隊したてだった頃、新兵調練を担当していた彼の容赦の無さは、無神経だと思った。

 今でも、くよくよと考え込んだり、すぐに落ち込んだりする彼の様を見る度、つくづく小物だと思う。

 もう少し要領よく立ち回れないものかと、常々感じる。けれど、彼の行動にはいつも、言葉にできない温かさがあった。

 眠るロウに気付かれないように、その髪を遠慮がちに触れる。


 兄さん。

 今日も一日、頑張りましょうね。

 あなたの想いはきっと、この国を変える大きな流れになります。

 ずっと隣で、それを見てますから。

 兄さん、私は。

 あなたと出会えて、本当によかった。


 しばらく柔らかに弄ばしていた指を、撫でるように髪から離す。

 名残惜しい気持ちもあったが、そろそろ、終わりにしなければならない時間だった。

「さて、今日は何秒もつでしょうか。・・・覚悟してくださいね、兄さん」

 腕まくりをしている自分は、今とても意地の悪い笑みを浮かべているのだろう。しかしどうにも、それが抑えられそうにない。

 そうして靴を脱いでベッドに上がり、ロウの頭を抱きかかえた。



                                        完 


 


 おつかれさまでした。

 最後まで読んでいただいた事、重ねて感謝します。ありがとうございました。

 もしお時間がございましたら感想などいただければ、参考になるというか、私としてはとても嬉しいです。

 それでは、またの機会があれば。


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