前編
いらっしゃいませ。
この話は、多少ヘタレな軍属の男性、割と多めの女の子成分、その周囲を取り巻くオッサン達、以上で構成されています。
まずは、手に取ってくれた事に感謝を。興味を持って目を通してもらえれば、更に幸いです。
プロローグ
薄暗い階段だった。
等間隔に並んだ照明鉱石が放つ、朧げな明かりのみを頼りに、二人は地下を目指している。
「尋問官、暗いので足下に気をつけてください」
相方の気遣いに頷きだけを返して、彼は黙々と湿っぽい石段に靴音を響かせる。
階段の終点からは、さらに奥に通路が伸びており、石壁には扉が貼り付くように点在していた。
二人は手前から三つ目の扉の前で、足を止める。
形式上、扉に軽くノックをすると、内側からくぐもった声で返答があったので、彼は軋む扉を開けた。
「ようこそ、いらっしゃい。我が城へ」
さして広くない室内の中央を仕切る鉄格子。
ここまでの通路に較べれば随分と明るいが、それは照明鉱石の数が多いというだけの事である。
明かりとりの窓すら必要としないこの部屋は、紛れもない地下牢だった。
鉄格子を隔てた向こう側、牢屋に設置された簡素なベッドの上で、老人が足を投げ出して座っている。
その背を堅い石壁に預けながら、彼はからかう様な口調で、一礼する二人に言葉を投げかけた。
「やあ、お二人さん。実は、君たちがここに来る事は、もうないと思っていたが」
老人は先ほど入室して来た二人のうち、青年のほうに目を向け、独り言のように呟く。
「ふむ。なにか心変わりがあったようだね」
その視線から目を逸らさず、青年は鉄格子の前まで歩み寄った。
「俺はこの国を、変えたい」
ぽつり、とそう告げた青年の心の底を視るように、老人は視線を外さない。その口許は、真一文字に引き結ばれている。
「なにを、変えたい?」
唐突な言葉を吐く青年に、老人は静かに問いかけた。
心中を見透かされているような居心地の悪さに、青年は思わず逸らしそうになってしまう目に力を込めつつ、口を開く。
「くそったれな、決まり事を」
「なぜ、変えたい?」
「虐げられた人の為に」
感情の窺えない老人の視線を受けて、たまらず青年が鉄格子を掴む。その顔に刻まれた表情は、普段の彼を知る者ならば目を疑っただろう。
「いや違う。・・・俺の」
それは、血を吐くような声音だった。
青年の後ろに控える無表情な少女の瞳に、涙が浮かぶ。それでも、その眼差しが彼の背中から逸らされる事はなかった。
「・・・俺の為に。俺が許せないから、壊してやりたい。身勝手な権威にあぐらをかいて、それを当たり前だと思い上がっている連中に、冷や水をぶっかけてやりたい」
鉄格子が微かに音を鳴らす。
握り締める手は血の気を失って、白い。静かな、怒りだった。
「人には、上も下も無いって事を、思い知らしてやりたい」
なおも感情を窺わせない老人の視線を受けながら、青年は細く息をつき、おもむろに頭を下げる。
「貴方を賢人と見込んで、お願いします。俺に、知恵を貸してください」
恥や外聞など、捨て去っていた。
協力の対価として、こちらから老人に支払えるものなど、何もない。ただ、相手の善意に期待するだけの、稚拙な願いだった。
室内が、静寂に包まれる。
しばらくして、老人の身じろぎする気配がした。
石床の上を、裸足で歩く音が近づいてくる。
鉄格子越しに老人の手のひらが、そっと青年の下げた頭の上に置かれた。
「よろしい。君に持ち込んでもらった書物に関して、この数日で抱いた私なりの見解でよければ、教授しよう」
その言葉に思わず頭を上げた青年の目に、優しくまなじりを細めた、小柄な老人の姿が映る。
きっと老人の目には、まぬけな顔をした自分が映っているのだろう。
「ゆめゆめ、その熱を忘れないように。・・・あと、女の子を泣かせては、いかんよ」
その言葉の意味がわからずに振り向こうとした青年の頭を、少女の両手が後ろから挟み込んで懸命に振り向かせまいとする。
二人の様子を見て破顔する老人に対し、青年は少女に頭を固められたまま、厳粛な面もちで感謝を口にした。
「はい、勉強させていただきます」
「貴方の国のこと。異世界の、知識を」
一日目
ゆらゆらと揺られていた。
ひどい倦怠感を感じる。覚醒に至る不快感は、日々律儀に彼を苛むのだった。
「兄さん、朝ですよ。起きてください」
首を締めつける圧迫感にたまらず、 ロウは長髪を振り乱して咳きこんだ。
「ユニ、もうすこしっ、ごほがはっ、やさしく、おこしてっ・・・、ぐほ」
「起きましたね。・・・全く、私がいないとダメなんですから」
ユニと呼ばれた少女は、背後から抱きかかえていた彼の頭を胸から離し、抑揚の少ない口調で満足げに呟く。
「げほげほっごほっかは、・・・げほおーーっほがは、がは・・・っ」
安物のベッドを軋ませながら、ロウはなんとか肺に空気を取り込もうと、さらに激しく咳きこんだ。
「・・・いい加減、騒がしいですよ、兄さん」
「え、それ、本気で言ってるの・・・?」
ユニは心底見下げ果てた様子で、黒いタイツに包まれた足を、靴へ滑り込ませながらベッドを下りる。
そんな同居人の淡々とした発言に、ロウは戦慄した。
せめてもの反抗の意思表示として、少量の非難を含んだ眼差しを少女の無感情な横顔に向けてみるが、とりつく島もない。
それどころか、振り返った彼女から反射的に目を背けてしまった自身の情けなさに、ロウは内心頭を抱えたのだった。
いつの間にか開けられたベッド脇のカーテンから射し込む初秋の朝の光が、少女の色素の薄い翠色の髪と白い肌をさらに淡く、照らしだしている。
小柄ながら、背筋の伸びたその佇まいは、身内のひいき目を抜きにしても、可憐であるとロウは思う。
「あとはもう少し、愛想があればな・・・」
「? 何か言いましたか、兄さん」
未だ半覚醒のままベッドの上であぐらをかきつつ、ぼんやりと見つめてくる寝癖だらけのロウに対して、ユニが小首を傾げる。
「聞こえなかったか。その、あれだ。もう少しお前に胸があったらな、って話」
なんとなく話題を逸しながら、ロウも革靴に足を通す。足首まで引き上げ、そのまま板張りの床にごつり、と踏み下ろして足に馴染ませた。
あまりの寝覚めの悪さの為に、ほぼ毎日、起こしてもらっている自分自身の事を棚に上げるようだが、そのたび後頭部に当たる少女の肋骨の感触に、そこはかとない心配を覚えるのも、また事実である。
「ああ、その件ですか。杞憂ですね。それは時間が解決してくれる類の問題でしょう」
目を閉じて自身の薄い胸にそっと手を当てながら、ユニは自信ありげに鼻息をもらす。
そんな彼女は、今年で十七歳になる。希望が全く無いではないが、順当にいけば絶望的だろう。
「いや、頭蓋骨固め、やめてくれよ」
毎朝首を絞められる、こちらの身にもなってほしい。
主張が遠回しすぎたか、とため息を吐きながら、ベッドの上に放りだしたままの革紐を手に取り、適当に髪を束ねる。
昨日は外出着のまま自室で深夜まで本を開いていたのだが、どうやらそのまま眠ってしまったようだ。
今日はもうこのまま出勤しよう、とロウは決心し、これまた適当に、手のひらで服のしわを伸ばした。
「え。・・・まさかそれで、登城するつもりですか」
ユニが若干引いている。
その反応に内心で首をひねりながら、ロウは部屋の片隅に立てかけてある姿見の前に歩みを進める。
この縦長の鏡はユニから贈られたもので、私物の少ない彼にとっては、書物以外の数少ない所有物の一つだった。
姿見が、お世辞にも冴えているとは言い難い、青年の姿を映しだす。
年の頃は二十代半ば。小柄なユニと並べば少しはひきたつ、そこそこの長身がよれよれの紺色の制服に包まれている。
焦げ茶の頭髪と同じ色の、短く伸びた無精ひげを撫でながら、明日剃ろう、とロウは欠伸を噛みころした。
「おかしくないだろ、別に・・・」
そう独りごちながら、ロウはユニの私室にも繋がるリビングへと続く扉を開け、その奥に姿を消した。
あまりの事に大きな瞳を更に見開いたまま、それを無言で見送ってしまったユニが我に返り、声を上げながらその後に続く。
「替えの制服は用意してありますから。身なりはきちんとしてください、兄さん。私達いちおう、軍属なんですから」
扉が閉まり、ロウの私室は一時の静寂を得る。いつもどおりの、朝だった。
結局、着替えさせられました。
二人暮らしの借家に鍵をかけると、ロウとユニは、石造りの建造物の隙間に遠く臨む王城を目指し、未だ薄く残る朝もやの中、並んで町人街に足を踏み出した。
路地を抜けて大通りまで出ると、早朝にもかかわらず、多くの竜車が忙しげに行き交っている。
この先の商人街では、既に賑わいを見せ始めている頃だろう。
そんな、ここバステア王国も、十年前までは戦時下にあった。
十七年前、亜人戦争と呼ばれるその争いは、幕を開けた。
亜人とは、バステア王国の勢力外に独自の文明を築いている種族の総称で、その身体に獣のような特徴を持つ。
その亜人の軍閥が連合し、突如として王国の支配地域に侵攻し始めたのが、全ての発端となった。
争いは、言葉に喩えようもない程、悲惨なものとなる。
古来から、人間種と明確な棲み分けを行ってきた亜人たちが、何故そのような蛮行に及んだのか。
一説には、彼らを言葉巧みに扇動した人物が存在したというが、本当のところは、よくわかっていない。
七年間続いた泥沼の戦は、人間側の勝利で終わった。
講和条件として、有力な軍閥の領土の大半が、バステア王国に併合された事をきっかけに、彼らにとっての冬の時代が始まる。
もともと潜在的に亜人に恐れを抱いていた人間たちだが、戦勝国となった事で、その感情が激烈な種族差別というかたちで噴出したのである。
まず、人間にとって不可侵の領域であった亜人の土地にバステアの軍隊が派遣され、亜人たちの従来の社会構造を徹底的に破壊した。
それにより、まずは亜人社会の有力な長たちが、根こそぎ処罰された。
その代わりとして、王国の息のかかった亜人に高位の階級を与え、傀儡として各地を治めさせたのだ。
この仮りそめの階級社会は、人間側の支配にとって、非常に都合の良いものだった。
階級による職業選択や参政権の制限は、亜人同士の差別意識をも助長させ、彼らの再びの結託を阻害したのである。
戦後、王国領でも亜人を見かけることが多くなった。
しかし彼らは、身分の低い二等国民として扱われており、人間による差別にさらされ、加えて安価な労働力として、搾取される日々を余儀なくされている。
それでも、故郷である亜人の集落よりは、まだマシなのだろう。
王国の後ろ盾のある亜人が、自身の利益のみを追求した結果、彼らの土地の治安は悪化し、賊徒による略奪が横行したのだ。
そうした理由で故郷を追われた亜人たちの多くは、今も城下町の隅のスラム街で肩を寄せあって、不自由な生活を強いられている。
亜人戦争が終結して十年。それがこの国の現実だった。
「兄さん、前、危ない!」
とりとめのない考え事をしながら歩いていたロウの耳に、珍しく慌てた調子のユニの声が響く。
間を空けず、腹部に衝撃があり、ロウはたまらず後ろにたたらを踏んだ。
驚いて、何事かと目の前を確認すると、おそらくは走ってぶつかってきたのであろう子供が、石畳に尻餅をついて低くうめき声を洩らしていた。
ぶつかった際に落ちたらしい帽子をロウは拾い上げ、軽く汚れを払って子供に差し出す。
「すまんな。前をよく見てなかった俺が悪かっ」
謝罪を言い終えるのを待たず、子供は帽子をひったくり、逃げるようにその場から走り出した。
慌てて道を空けたロウの脇を、駆け去る子供の頭が過ぎる。
その髪の上には、犬のような耳がくっついていた。
「不注意ですよ。平気ですか、兄さん」
離れていく子供の背中を目で追いながら、ユニが近寄って来て、声を潜める。
「・・・あの子、亜人でしたね」
「あの耳が飾りかなんかじゃなければ、そうだろうな。・・・よし、財布は無事っと」
スリを疑ったことを、ロウは心の中で子供に詫びた。スラム街の人口が増えてから、窃盗の被害は多くなる一方なのだ。
子供の姿が建物の陰に隠れても、ユニは同じ方向を見つめ続けている。その立ち姿は、足に根が張ったかのようだった。
その様子にロウはため息を吐き、彼女の短めに揃えられた髪に、そっと触れた。
「・・・なんのつもりでしょうか、兄さん」
「いや、なんか、構って欲しそうに見えたから」
「そうですか。しかしそれと私の身体に触れる事に、なんの因果関係があるのでしょうか。もし、それが情欲からくる行動なら、この往来で、大声で助けを呼ぶ事になりますが」
「お前の恐るべき発想の飛躍には、いつも頭の下がる思いだよ」
今朝あれほどくっついてきた人間の台詞とは思えなかったが、彼女は昔から、人から触られる事を好まないところがあるのだった。
温かな髪の触れ心地に多少の未練を残しつつ、手を離す。
なんとなくそのまま自前の髪を掻いてみたが、感触に雲泥の差があり、つまらなくなって、すぐにやめた。
「機嫌、直った?」
「もとから悪くありませんよ。兄さんの目は節穴ですか」
行きますよ、とユニは踵を返して、王城への道を歩き出した。
徐々に人の増えてきた大通りを進む二人が、通りに沿って露店が立ち並ぶ商人街にさしかかった時、ふいに車道側から声をかけられた。
「おう、ロウにユニちゃん。偶然だな」
そう言って地竜の背から身を降ろした軽装の兵士が、立ち止まった二人に向けて軽く手を上げる。
「カスパーさん、何かありました?」
ユニは、見廻り装備の地竜を車道脇の街路樹に係留しながら先輩兵士に尋ねるが、既にカスパーはロウと話し込んでいるようだった。
その話が一段落するまで、地竜の鼻面を撫でて待つことにする。
ゴロという名のこの地竜は、王城の営舎に駐屯している部隊の所属で、勿論ユニとも面識がある。
地竜とは、前脚の短い二足歩行の大きなトカゲ、といった生き物である。
その見た目で誤解されがちだが、こうして兵士の足として正式採用されている事からもわかるように、本当はとても人懐こく、賢い。
このゴロは乗り手を選ばない、穏やかな優しい子で、ユニは特にお気に入りだった。
喉元の鱗を、軽く爪先で掻いてやる。ゴロは機嫌良さげに低く鳴き声をあげると、その短い前脚でユニの腕に触れてきた。
ああ、この子と私は相思相愛だ。
そう思い、自然と弛む頬を堪えながら、ユニはうっとりと目を細める。
「ユニちゃん。・・・もう良いかな」
いつの間にか、ロウとの話を終えたらしいカスパーが、苦笑を浮かべながらユニに声をかける。
すみません、と我に返った彼女は、名残惜しそうに地竜に軽く手を振った後、カスパーに向き直った。
「で、何かあったかというと、またひったくりの通報があってね」
困ったもんだ、とカスパーは自身の整った髭を擦る。
しかし、ユニの頭三つ分ほども大柄で、そのいかつい見た目に反して穏やかな彼は、あまり困ったようには見えなかった。
「またですか。何が被害にあったんです?」
「食料品。もう毎日だよ。さっき被害に遭った露店に顔を出して、今からスラムの方に巡回に行くとこ。お前さんらが来た方角だけど、なんか挙動が怪しい奴、見なかったか?ロウの奴は、知らんって言ってたけど」
・・・見たといえば、見た。先程ロウとぶつかった子供だ。
ユニがカスパーの背後にいるロウを窺うと、彼は我関せず、とばかりに欠伸を噛みころしている。
「・・・いえ。何かあったといえば、さっきリード先輩が子供とぶつかって転ばせたくらいですかね。彼を傷害罪でひっぱりましょうか?」
彼女の発言に、カスパーは声を上げて笑い、ロウの肩をはたく。
「兄弟、尻に敷かれてるな。それじゃあ、俺はそろそろ仕事に戻るよ。二人共、引き留めて悪かったな」
そう言って、また軽く手を挙げ、カスパーは停めてある地竜のもとに歩いていく。
彼がその背に跨り、走り去るまで、残った二人はなんとなく見送った。
お互い示し合わせるでもなく、再び商人街を歩き出す。
この時間には既に、どの店も仕入れを終えており、早朝の市場は早くも活気を帯び始めていた。
「リード先輩とか、他人行儀でお兄ちゃん寂しい。お前も姓はリードなんだから、ややこしいじゃないか」
「気持ち悪い言い方しないでください。例え兄妹といえども、隊内ではけじめをつけないと」
そんな短いやりとりの後、しばらく無言で歩みを進める。
そろそろ商人街を抜け、王城を含む行政区にさしかかろうかという時、ユニは口にするか迷っていた疑問を、ロウの背中に投げかけることにした。
先程の、カスパーの件である。
状況としては明らかに不審だったあの子供のことを、何故ロウは彼に伝えなかったのだろうか。
「兄さん。さっきはどうして、カスパーさんに正しい報告をしなかったんですか」
「正しいって・・・。ユニ、決めつけは、良くない」
返ってきた声音は、酷く、悲しげなものだった。
他の人が聞けば、ロウのいつもの少しぼんやりとした調子との違いはわからないはずだ。
しかし彼女は、伊達に彼の同居人をしている訳ではない。
苦しんでいる、と感じたのだ。
ユニは少し俯いて、振り返りもしない彼の後を、とぼとぼとついて行く。
あの子供が亜人だったからですか、とは聞けなかった。
「ロウ=リード二級尋問官及び、ユニ=リード二級書記官。入舎しました」
王城の外壁に付属する警備隊の営舎に出向き、担当者に出頭の報告をする。
それを終えると、そのまま城壁の内側の通路を利用して、王城の外庭まで抜けた。
ここバステアの王城は、他国と比べてそれほど大きな規模ではないという。
議会や役所などの機関は全て、王城をとり囲む行政区にある為、広大である必要がないのだ。
だからといって、王族の権威が弱い訳では、決してない。
むしろ議会の権限はあまり強くなく、皇太子が上院(貴族院)に有力議員として務める事も相まって、実際は、議会に対して君主が優越していた。
特に皇太子は、少なからずある、現国王への不満の受け皿として、国民から絶大な人気を得ている。
バステア国王と、その子供である皇太子に皇女。
皇后と第二皇子は事故で亡くなっているので、この三名が、実質的にはバステア王国の頂点だった。
庭園を横ぎって王城内の仕事場に向かう途中で、ロウとユニは、見知った人物と鉢合わせになった。
「クシュナ隊長。おはようございます」
敬礼する二人に向かって、偉丈夫が頷き返す。
「おう、おはよう。これから地下か?」
「はい。昨日、新しい方がいらしたので、しばらく通いになりそうです。隊長は、交代の点呼ですか?」
クシュナの背後、王城の柱の陰から、当直だった衛兵がぞろぞろと出て来るのを、ロウが見やった。
「まあ、いつもの変わり映えのしない仕事よ。それよりお前らはどうだ、慣れたか?」
部下である二人にそう言うと、クシュナは首に手を当てごきり、と音を鳴らした。
一見粗野に見えるこの人物だが、王城の警固を主としながらも、城下町の巡回、違法行為の取り締まりまでを担当する王城警備隊、三百人の最高責任者である。
筋骨たくましい巨躯に加えて、左目に眼帯着用という山賊さながらの外見だが、思慮深い性質の持ち主で、ロウとユニにとっては、並ならぬ恩のある上司であった。
「はい、おかげさまで、ぼちぼち。自分はともかく、ユニは期待の新星ですよ」
「ぼちぼちとか言ってんじゃねえよ。もし、隊内でぬかしやがったら張り倒すぞ。王立図書館には出向させてるだけで、お前が軍属でなくなった訳じゃねえんだから」
荒い口調に反して、クシュナの隻眼は優しく細められている。恐縮した様子で頭を掻いているロウを、ユニは面白がっているようだった。
「ユニも、しっかりやるんだぞ」
「はい。警備隊の名に恥じない働きをしてきます」
よろしい、と少しおどけたふうに胸を張ると、クシュナは営舎に戻って行った。
王城に、足を踏み入れる。
その規模こそ地方領主の館とそう大差ないが、それでも、王族でない二人にとっては広大に感じた。
ここには、何度訪れても圧倒される。贅を凝らした内装に加え、価値こそ計れないものの、その調度品の一つ一つは、豪奢そのものなのだ。
とはいえ、ロウ達の職務に、そんな事は無縁ではあった。
権威に裏打ちされた独特の威圧感も、政事に関わりをもたない一兵士である彼らには、関係のない事である。
別に、王に拝謁に来たわけではない。
二人の職場が王城内にある。ただ、それだけの事だ。
時折すれ違う、王城付きの使用人たちに会釈を返しながら、足早に目的地を目指した。
「ロウ=リード二級尋問官及び、ユニ=リード二級書記官。一〇三号房への、入室の許可を願います」
中庭に面する、屋根付きの渡り廊下を経由して、職場である東館に到着する。
王立図書館別室と呼ばれるここ東館は、その名が示すように、行政区に本拠を置く王立図書館の別部門として、七年ほど前に改装された。
東館の地下は、牢屋となっていた。一般の罪人用の牢獄は、外壁の警備隊の営舎内に設置されている。
わざわざ王城内部に、小規模とはいえ別個に牢屋があるのは、収容される要人の特殊性ゆえだった。
東館地下に収容されるのは、罪人ではない。
加えていえば、おそらく、この世界に生きる人間ですらない。
彼らが初めて確認された事件は、亜人戦争より以前にまで時代を遡る。
事の起こりは、バステア領内の一地方だった。
突如、その土地の農民たちが、穀物にかける税を見直すよう、領主に直談判したのだ。
聞けば、自分たちは不当に搾取されているという。
領主は不審に思った。彼はその人柄から領民に慕われており、その絆は深いものだった。
そんな彼が、農民を苦しめるような非常識な税率になど、しよう筈もなかった。
そのうち、ある人物が浮上してきた。
いわゆる流れ者で、彼の素性を知る者は、誰もいなかった。
土地に根付いたその流れ者は、少しずつ農民の信頼を勝ち取り、彼らに入れ知恵をし、遂には扇動するようになったという。
領主による懸命の説得が功を奏し、農民の中にも不審に思う者が現れだした。
自分たちが今まで疑問にも思わなかった税の事など、どうして一介の流れ者が問題にしたのか。
自分たちをこうもあっさりと反抗に流してしまうほど完成された理論を、彼はどのようにして得たのか。
そもそも流れ者は、自分たちの現状をどうして間違っているなどと、断定したのか。
まるで予言者だ、と誰かが口にする。
気味が悪くなった農民達は、流れ者の目的を質す為、彼の住居に押し入った。
流れ者は既に何処かに姿を消しており、再び彼を見た者は、誰もいなかった。
これを皮切りに、王国内の各地方で、類似する事例が頻発し始める。
同時に何件も発生する事があり、もはや一連の事態を一人の仕業だと思う者はいない。
そして、その全てが従来の国家観を否定するものであった。
解決策の無いまま、この異常事態が数年続き、徐々にバステアの国力は疲弊していく。
そして遂には、亜人戦争という最悪の結果をもたらしたのだった。
この悲惨な戦争の陰にも、同様の扇動者の関わりが噂されたが、真偽は定かではない。
亜人戦争に辛くも勝利したバステア王国は、扇動者の調査に、並ならぬ力を注いだ。
これ以上の混乱は、国家転覆の可能性を孕んだ、死活問題だったからだ。
なりふり構わない追跡の結果、王国は数人の扇動者の捕縛に成功する。
投獄された後、口にするのもはばかられるような尋問の末、扇動者が口を揃えて証言した内容に、王国側の人間は己の耳を疑った。
彼らが言うには、自分達はこことは全く別の世界から転移して来た人間、らしい。
その与太話を信じるかは別問題として、彼らが今の常識では辿り着けないような、先進的な思想の持ち主であるのは事実だった。
しかし、それは大して重要ではない。
王国の関心は、扇動者の出現条件と、その全員の捕縛にのみにあった。
現実に起こる被害に比べれば、彼らの素性など、どうでもよかったのだから。
それから数年をかけて、遂にバステア王国は扇動者達の生態について、その傾向を把握するに至る。
まず、彼らが照明鉱石の産出地に、突然発生する事例が多く見受けられた為、それを利用して、ある程度の誘導が可能である事。
もう一つは、彼らはある行動を一日ごとに繰り返さないと、発生するのと同様、雲のように消えてしまう事である(彼らの証言によれば、元の世界に帰るのだという)。
まさに雲を掴むような荒唐無稽な話だが、この条件を頼りに、対応策を講じる以外の選択肢はなかった。
取り急ぎ王城の地下に、照明鉱石の高純度結晶をふんだんに使用した牢屋が、試験的に造られる。
その効果は、予想を超えた。
扇動者が発生した瞬間から牢屋に捕らえる事に成功し、その結果を受け牢屋をさらに増設すると、国内の被害は目に見えて減少したのだった。
こうして事態は終息に向かい、もはや扇動者たりえなくなった彼らは、迷い人と呼ばれ、王国の管理下に置かれる事となった。
「一〇三号房への入室及び、ストレンジャーとの面会を許可します」
受付の係官が帳簿にペンを走らせた後、ロウとユニに許可証を手渡す。
それを受け取ると、通路の先にある扉の前に佇む衛兵に提示し、奥に通してもらった。
その先は、狭い部屋だった。入って来た扉以外の三方向は、全て地下へと続く階段になっている。
二人はその内の、入り口に「一」の札が掛けてある階段に向かい、下りだした。
途端に薄暗くなる。照明鉱石の淡い明かりだけが頼りで、周囲が石造りの階段は湿っぽく、辛気臭い事この上ない。
階段を下りきり、手前から三つ目の扉をノックする。
中からくぐもった声で返答があったので、二人は入室し、部屋の主に向かって一礼した。
「失礼します。体調はいかがですか?バープー」
高純度の照明鉱石で形成された牢獄は、通路よりも一際明るく感じられた。
ロウは手のつけられていない食事にちらりと目をやりながら、部屋の中央を仕切る鉄格子の前に置かれた、簡素な椅子に腰かける。
「悪くない。考え事をするには、最適の環境だな。あと数日は、滞在するかも知れない」
この牢屋に収容されているストレンジャーは、昨日発生したばかりである。
しわだらけで色黒の、小柄な老人だった。
きれいに髪のない禿頭に、変わった形の丸い眼鏡をかけている。
みすぼらしいといっていいような白い腰布だけを身に着け、ベッドの上で足を投げ出して読書に耽る彼は、こちらに目をくれる事もない。
ロウの背後で、椅子を引く音がした。
扉の脇には机が置いてあり、ユニが自前の鞄から出した筆記用具を、その上に並べている様子が、見なくてもわかる。
「ご所望の本、持って来ましたよ。王国史に法律書、図鑑まで・・・熱心ですね」
鉄格子に取り付けられた、食事の提供にも使用される小窓から、分厚い書物を一冊ずつ差し入れる。
「水しか口にしていないじゃないですか。ここの食事は、口に合いませんか?」
「口に合わないわけじゃない。ただ、私は肉を食べない。塩も使い過ぎだな」
初日の面会の際、自身をバープーと名乗った老人は、ぺらりと本のページをめくった。
「私の国の教えでね。気にしないでくれ」
「・・・以後、気をつけます。貴方の国の教えとは、どのようなものなのですか?」
「真理への飽くなき探究。以上」
「真理、ですか。・・・作物の豊作祈願などではなく?」
「そういうのも、ある。君の国にも教えはあるだろう?それと大差はない。教義の違いなど聞き手によって変わるもので、全ては一つだ」
最初は大体、こういった雑談から職務が始まる。
ロウは、自身の担当するストレンジャーに対しては、まずはその人となりを知る事を第一としていた。
尋問官の役目は、ストレンジャー達がそれぞれ持つ、現代においては特殊とも言えるその思想を、バステア王国の益とする為に聴取する事にある。
相方である書記官は、牢獄での彼らのやりとりを、その傍らで紙面に記録する事を主な業務としている。
彼らの所属が王立図書館の管轄となるのは、その職務の性質ゆえだった。
牢獄は地下にある為、よく時間の感覚が狂いそうになる。今日は他愛のない雑談だけで、面会は終わりそうだった。
ロウは急いで成果を得ようとは思わなかった。まずは、彼らとの最低限の信頼関係を構築する事が、第一歩である。
今まで担当してきたストレンジャーに対しての個人的な見解だが、彼らは異邦人でありながら、積極的にこの世界と関わり合いになろうとする傾向がある。
何か爪痕を残そうとする、というか、まるでこの世界に来たからには、何事か為さなければならない、というような使命感すら感じる事があるのだった。
実際、ストレンジャーはその気になれば、すぐに自らの世界に帰還する事ができる。
ここ数年で確認された範囲ではあるが、何故か彼らは、一人の例外も無く不思議な砂時計を所持していた。
これを逆さにする行動を一日でも怠ると、途端にこの世界から消失するのだ。
つくづくわけの分からない存在だが、王立図書館の方針として、この砂時計は没収しない決まりになっている。
それは、あくまで教えを乞う立場としての礼儀であり、彼らの最低限の権利を尊重した結果だった。
囚われている、という不信感をストレンジャーに抱かせるのは、お互いの益にならない事である。
実際、この扱いに辟易して、即時帰還した者も、少なからずいたらしい。
ストレンジャーは、この世界で何事か為したい。
王立図書館は、彼らの知識を得たい。
それは、奇妙な需要と供給といえた。
「それでは今日のところは、これで失礼します」
そう言って、ロウは席を立ち、机で記録を担当しているユニに面会の終了を告げた。
ごそごそと鞄に筆記用具を仕舞うユニを尻目に、ロウは老人に一礼する。
「私が君らの価値観についてもう少し学ばねば、お互い実りのある話はできないだろう。・・・明日も来るのか?」
「はい。何かご所望は?」
「糸車はあるかね?」
「糸車・・・ですか?申し訳ありませんが、持ち込みは難しいと思います。理由を訊いても?」
「私は盗人ではない。働かずして糧を得る事は、罪だ」
「貴方の国の教えですね。糸車のような、ある程度大きさのあるものは難しいのですが。・・・仕事なら、何でもよろしいのでしょうか?」
「構わない。仕事に貴賤はない」
「考えておきます。では」
老人がベッド脇の小さな机に手を伸ばし、砂時計を逆さにする。
ロウはユニを促して、牢獄を後にした。
二日目
翌日、バープーには、封筒作りの仕事を紹介した。
食事の内容も要求どおり改善すると、老人はようやく食べ物を口にした。
それでも、わずかな野菜と穀物しか口にしない。
しかも、ほとんど生のような状態で食べるのだ。それだけでも、彼の実践する教えの困難さが窺えた。
見た目に反して食いしん坊のユニが、あまりの事にバープーの身体を気遣うと、老人はただ、優しく目を細めるのだった。
穏やかともいえる、面会時間が流れていく。
バープーは今日限りで、この世界の学習に一応の区切りをつけるらしい。
どうやら明日から、本格的に彼の聴取が始められそうだった。
ベッドの上でページをめくる老人に、翌日も訪問する旨を伝え、ロウはこの日の面会時間を終えた。
東館を後にして、活動報告の為に行政区の王立図書館に出向こうと本館を歩いていたロウとユニは、背後から呼び止められ、足を止める。
振り返ると、声をかけてきたのだろう使用人が、膝を軽く屈伸させて略式の礼をした。
「お呼び止めして申し訳ありません、ロウ=リード様、ユニ=リード様」
使用人とは互いの業務が交わる事がない為か、こうして足を止めて話す事は珍しい。
年の頃は、ユニと同年代くらいだろうか。
王城仕えを示すメイド服に身を包んだその外見には、無視できない特徴が一つあった。
肩口で揃えた、少し癖のある明るい茶色の髪にのせたヘッドドレスを挟むように、猫のような形の耳が揺れている。亜人だった。
厳しい職業制限のある亜人を王城内で見かけることは、極めて珍しい。
挨拶を口にした使用人は、何かを期待するような眼差しを、ロウに向けてくる。
心当たりがなく、内心困惑するロウと目が合うと、使用人は小首を傾げて、微笑みを返してきた。
「さるお方が、お二人にお会いになりたいと仰られていますので、どうかご同行ください」
花が咲いたようなその笑顔に、ロウは無意識に怯んだ。
「ところで、さるお方とは?」
メイド服を揺らしながら、王城の通路を先導する使用人の背に、ユニが質問をする。
「ここでは口にできません。聞かないほうが御身の為ですよー」
静々と歩く、猫耳メイドの明るい声音に反した物騒な返答に、ロウとユニは、思わず顔を見合わせる。
そのまましばらく無言で、使用人のスカートの裾から覗く、耳と同様の毛並みの尻尾を目で追いながら歩いた。
「尻尾、かわいいですね」
「わ、ありがとうございます。ユニ様も、思ってたよりもずっと可憐ですよー」
ユニが感想を述べると、早くもくだけた雰囲気で、くるりと猫耳メイドが振り返った。
そして、後ろ歩きをしながら自前の尻尾を軽く一度しごき、片目を閉じる。
使用人としてはどうかと思う動作だが、不思議と無礼には感じず、天真爛漫な微笑ましさすらあった。
おお、とユニが小さく感嘆の声を上げる。
軍服か、おかたい国立機関の制服で日々を過ごす彼女にとって、このあざといくらいの少女像には、憧れのような気持ちがあるのかもしれなかった。
「もしよろしければ、触らせてもらっても・・・」
良いでしょうか、というユニの声が、風に吹き散らされていく。
案内人は王城の裏口から外に出て、西館と東館の間に位置する、広大な中庭のバラ庭園に向かって歩いていった。
湿気を含んだ初秋の風が、盛りを迎えた濃密なバラの香りを蒼天に巻き上げ、中庭全体を華やかに包みこむ。
迷路のように区画された、背の高いバラ園のなかを、使用人は迷う事なく進んでいく。
しばらくすると、緑色の半円形をした何かが、姿を現した。
よく見ると、ドーム状の骨組みに、大量のバラの蔓が複雑に絡み合っている。
そこには入り口のようにアーチが口を開けており、猫耳メイドはその先に姿を消した。
ドームの中に入ると、中央に瀟洒なテーブルが設置されており、その上にティーセットが用意されていた。
そのテーブル横に置かれた椅子の一脚には、肘掛けに片肘をつき、脚を組んで座る一人の人物がいる。
待っていたと思われるその人物に向かって、案内人がメイド服のスカートを軽くつまみ、一礼した。
「ルル様、お二人をお連れしました」
そう声をかけられた人物の人相を認めると、慌ててロウとユニは地に片膝をつき、頭を垂れた。
自身に対して下げられる二人の頭を、ちらりと鬱陶しげに見下し、手にした扇子を緩やかに振るう。
そうして、椅子の上の貴人は鷹揚に、周囲をとりまくバラと同じ色の唇を開いた。
「よい、面を上げよ。私の時間を無駄にするな」
許可を得ると、二人は立ち上がり、直立不動に姿勢を正した。
目前の人物を再度確認しても、ロウは今の状況に現実味を感じられない。
軍人として国境に駐屯していた頃、彼女が公務で慰問に訪れた際に一度目にしただけだが、間違いはなかった。
真紅の豪奢なドレスに身を包み、結い上げた髪の色は黄金そのものと比較しても遜色なき金色。
射抜くような目の光は、それだけで彼女が支配する側の人間であることを、余人に確信させる威圧感がある。
アルルリーゼ=バステア。
その名の示すとおり、バステア王国の皇女であり、王位継承権第二位。まさに、貴族の中の貴族だった。
皇女が扇子で、テーブルを挟んで向かいの椅子を指し示すと、無駄のない動きで、使用人が椅子を引いた。
「ロウ様、ユニ様。どうぞ、お掛けになってください」
促された二人は、困惑した面もちのままテーブルまで歩み寄り、皇女に一礼してから、腰掛ける。
緊張した様子で仏頂面をする二人に微笑みかけながら、使用人が三人分のカップに紅茶を注いだ。
「フォール。貴様、この私に冷めた茶を飲ませるつもりではなかろうな」
ロウとユニを待つ間に、用意したポットが冷めてしまったのだろう。
構わず給仕する使用人に、皇女が鋭い眼差しを向ける。
「こういうのは様式美ですよー。大事なのは形ですから、カタチ」
とがめられても怯む様子は一切なく、フォールは歩いて皇女の背後に控えた。
「口の減らん奴だ」
ふん、と鼻を鳴らす皇女に、フォールは優雅に一礼してみせる。
「僕の行動一つ一つは、全てルル様を想っての事ですから」
「うむ、愛いやつ。特別に許してやろう。寛大な私を敬え」
それで本当に、皇女の機嫌は直ったようだった。
ロウは内心で頭を抱えてしまう。
まさか、こんな馬鹿げたやりとりを見せられる為に、呼び出されたのだろうか。口が裂けても言えないが。
「・・・僕、ですか」
ぽつり、とユニが洩らすと、皇女と使用人が不思議そうに彼女を見つめた。
「え?あ、いえ。少し違和感があっただけで、その、大した意味はないのです。メイドさん、貴女であれば、大抵の事はかわいくなると思いますし」
ユニは、その表情こそ変わらないが、しどろもどろだった。
そんな彼女の様子に合点がいったのか、皇女は小動物をいたぶるような目つきになり、にやりと底意地の悪そうな笑みで口角を上げる。
「ユニ=リード。フォールは男だ」
一陣の風が、バラ園を吹き抜けた。
ユニはしばらく固まったあと、ゆっくりと紅茶を口に含み、皇女に微笑みかける。今日一番の笑顔だった。
「皇女殿下、お戯れを」
「貴様、私が虚偽を口にしたというのか。不敬である。フォール、証拠を見せてやれ」
「かしこまりました、ルル様」
そう言って躊躇いなく自身のスカートに手をかけたフォールを見て、ロウが堪らず制止の声を上げる。
「部下の情操教育の為になりませんので、どうかこれ以上はご容赦を」
その言い回しがおかしかったのか、フォールが口に手を当てて、明るい調子で笑いだす。
ユニがまた固まっていた。ショックが大きかったのだろう。
「つまらん男だ。ここからが面白かったのに」
興醒めしたような、皇女の独り言をあえて聞き流して、ロウは冷めた紅茶を口に運ぶ。
「すみません、ユニ様。騙すつもりはなかったのですが」
フォールのその言葉に、ユニはようやく我に返った。
「いえ、早合点でした。こちらこそ、すみません。・・・その、フォールさんはどうして女性の衣服を?」
「私が命じた。よく似合っているだろう」
「はい、それは、恐ろしいほどに」
皇女の簡潔な返答に、ユニが頷く。
「貴様は、なかなか理解っているではないか。よく見れば私好みの身体であるし、野暮ったい制服など捨てて、城仕えにならんか?」
実は少しだけ動いた心を隠したつもりのユニを、ロウは見ないふりをする。
脱線し過ぎた。尋問官だって暇ではないのだ。時間の無駄を嫌うのならば、ここらで話を本筋に戻すべきだった。
ロウは一つ、咳払いをする。
「皇女殿下。本日は、どのようなご用向きでしょうか」
微かな苛立ちも、顔に出したつもりはなかった。ユニもその雰囲気を察してか、佇まいを正した。
先程まで、遊んでいるようにしか見えなかった皇女の気配が、一瞬にして変わる。
その圧倒的な存在感に、ロウは萎縮しそうになる気持ちに活を入れる。
とても、今年二十歳を迎えたばかりの人間が放つ気配とは、思えなかった。
「今日、こんな席を用意したのは他でもない。貴様に折り入って頼みがあるのだ」
皇女の深翠色の瞳が細められる。ロウは口を挟まず、次の言葉を待った。
「ストレンジャーの知識を、私に授けよ」
手にした扇子で自身を扇ぎながら、皇女は目前の尋問官の反応を窺う。
「王立図書館の蔵書を閲覧なさるのが、一番の近道でしょう」
この場で教師の真似事をする気など、さらさら無い。
当然、尋問官には守秘義務があり、おいそれと聴取内容を口外することはできないのだ。
「私の時間を無駄にするな、と言っている。人の手垢のついた情報など要らん。未だこの国で誰も識らない、私だけの知識をこそ私は欲する」
書記官の記述した聴取内容の書面は、王立図書館の別部門で研究、検証された後、その資料は編纂されて図書館に保管される。
その書物も許可を得れば閲覧可能だし、実際、これを参考にした法案が、議会で可決された事もあったそうだ。
「・・・理由をお訊きしてもよろしいでしょうか」
その動機を計りかね、ロウは皇女に尋ねる。
ただの道楽でも、今ならまだ許せる、と思った。許さなかったところで、何をする訳でもないのだが。
「私に兄がいるのは知っているな?」
ロウは、頷きで応える。
カールリッツ=バステア。
バステア王国の皇太子で、王位継承権第一位。つまり、次期国王である。
「国王の覚えもよく、議会で大きな力を持ち、民にも絶大な人気を誇る、私のカール兄様」
数年前、皇太子が義務としての兵役に就いていた頃に、ロウは一度だけ、その姿を目にした事があった。
気取らない性格らしく、軍という、荒くれ者も少なからずいる環境でも、評判は悪くなかった事を覚えている。
将来、彼が治めるバステア王国の繁栄を疑う者など、誰もいない。
「そんな兄様を引きずり下ろして、私は、私の国が欲しいのだ」
おそらく本気で、皇女はそう口にした。
「・・・なぜ自分に、その話をなさったのですか?」
そう言いながら、ロウは考えを巡らせた。
これは、聞いてはいけない類の話だ。もっと慎重に行動するべきだったし、少なくともユニは連れてくるべきではなかった。
後悔がないといえば、嘘になる。だが、聞いてしまったからには、腹をくくるしかなかった。
「当たり前の考えでは、私が兄様に勝てるわけがない。当たり前でない考えが必要なのだ、尋問官」
「尋問官なら、他にも多くいますが」
兄を出し抜く為に、皇女がストレンジャーの奇抜な発想に期待しているのはわかった。だが、それは自分が選ばれた理由にはならない。
「貴様の経歴を、見せてもらった」
どういう経緯で皇女がそれを知りえたのか、今はどうでもいいことだ。ロウが皇女の背後に立つフォールにちらりと目を向けると、彼はにこりと微笑んだ。
「一年前、貴様ら二人が、バステア本国と、併合された亜人の領土との国境警備の任に就いていた時だ」
ロウとユニが、共に国境警備隊の所属だった頃の話だ。
その担当地域では賊徒の略奪が、亜人の生活領域から国境を越え、バステア領の農村地帯にまで及んでいた。
その日も哨戒任務の為、二人を含めた六人編成で、砦から進発した。
何年も前に終わった、亜人戦争の名残が未だ建物に刻まれている集落を越え、地竜に乗ったまま、森林地帯に進入した時だった。
突然、先頭を走っていた地竜の足がもつれ、搭乗者もろとも転倒した。
それを合図として、左右の木陰から一斉に矢が射掛けられる。
「敵襲」
部隊の誰かが、叫んだ。
転倒した地竜に阻まれ、身動きのとれないロウ達は、急いで地竜から降り、それぞれ腰の剣を抜き放つ。
素早く状況を確認する。幸いな事に、矢の被害を受けた隊員はいないようだった。
殺せ、と誰かが叫んだ。
矢を射られた木陰から、十ほどの人影が走り出てくる。亜人の集団だった。
それからは、乱戦になった。
しかし、亜人の動きは統制のとれたものではなく、戦闘の訓練を受けた正規兵の前に、次々と無力化させられていく。
残り数人となったところで、亜人たちは倒れた仲間を置いて、林の中を逃げ去っていった。
くそ、と悪態をついて、ロウは額の汗を手の甲で拭う。ぬるりとした感触があり、それではじめて、自身が腕を負傷している事に気付いた。
誰一人欠ける事のなかった隊員が、まだ息のある亜人にとどめを刺していく。
「待て、一人は砦に連行するぞ」
ロウが声を上げると、隊員が一人の亜人を後ろ手に拘束して、引き連れてくる。見れば、まだ子供のようだった。
「殺しちまっていいんじゃないですか。もうとっくに戦争は終わったってのに、こいつら、いくらでも湧いてきやがる」
若い隊員のその言葉を無視して、ロウはユニのいる方に目をやる。
無理もない、と思う。彼女にとっては、これが初めての実戦だったのだ。命があるだけ、褒めてやりたかった。
小さい傷をいくつか負って、軍服に赤い染みをにじませるユニは、呆然とへたりこんでいる。
その手に固く握りしめられた剣は、抜いた時と同じ、白いままだった。
砦に連行された亜人は、厳しい取り調べにも仲間については口を割らず、そのまま翌日の処罰が決定された。
「その亜人を、貴様たち二人は夜のうちに独断で解放し、命令違反で軍を追われそうになった」
そう言って、皇女は紅茶で唇を濡らし、心底不味そうに眉をしかめた。
「・・・それと、この度のお話に何の関係が?」
その後、王城警備隊のクシュナのとりなしによって、ほとぼりが冷めるまで、軍属のまま王立図書館に出向、という奇妙な落とし所になったのだった。
「そう焦るな。私が興味をもった点はここでな。・・・亜人の捕虜を解放して、貴様に何の益があった?」
皇女の有無を言わせぬ言葉に、無意識にユニが身をすくませる。それを横目に、ロウが口を開いた。
「亜人の権利が、侵害されたと感じたからです」
皇女の目が細められる。嘘は許さぬ、という無言の圧力があった。
「ろくな審議も為されず、あの亜人は極刑に処されるところでした。自分は、それを認める事ができませんでした」
ロウの横顔を窺うユニの眼差しには、その無表情に反して、言葉にできない複雑な感情が入り混じっていた。
「何故か、と訊かれれば、そう答えるしかありません」
ユニの目線がロウから、テーブルを挟んだ二人に向けられる。
皇女は満足げに音を立てて扇子をたたみ、フォールの表情からは、感情が窺えない。
「よい。それが聞きたかったのだ。私も、種族差別などというものは撤廃すべきであると、考えている」
その言葉が、ロウには意外だった。現体制を築いた王族の中に、そんな思想を持った人物がいるとは思わなかった。
「それが貴様を選んだ理由だ、ロウ=リード。ストレンジャーの知識が有用であれば、私がお父様に直接上申しよう。良い返事を期待している」
会談は、これで終わりのようだ。今ここで、皇女に協力するかの答えを出す必要はなさそうだった。
ロウとユニは一礼して、この場を後にする。
二人残されたバラの園。アーチを抜ける客人たちを、フォールが昏い眼差しで眺めていた。
行政区の王立図書館に顔を出して、この日はそのまま帰宅した。
「ユニ、どう思った?」
夕食時の会話は必然、昼間の皇女の要求の話題となる。
「どうもこうも。皇女殿下の言うとおりにするなら、兄さんは虚偽報告で、私は公文書偽造じゃないですか。二人そろって懲戒処分とか、困りますよ。毎月の家賃支払い的な意味で」
ご飯も食べられなくなってしまいます、とユニはパンをひとかけ口に運ぶ。
「そうだな。でも断ると、危ない気もする」
皇女の話は聞いてしまえば最期、引き返せない類の内容だった。いわばこれは、妹が兄に仕掛ける後継者争いなのだ。
正直、ただの夢物語だとは思うが、皇女としては、企てが露見するのは絶対に避けたいはずだ。共犯者にならなければ、命に関わる可能性は十分に考えられた。
そうなれば、案外あのフォールが刺客として送りこまれて来るのかもしれない。
どういった経緯で、彼が使用人をしているのかは分からないが、その動作は明らかに、何かしらの戦闘訓練を受けた人間のものだった。
しかし、考えようによっては、この立場を利用し、皇女を通して国王に直訴できるともいえる。
我が子の言葉ならば、国王も無下にはしないだろう。
種族差別は撤廃すべき、と皇女は口にした。
その一点において、ロウと皇女の主張は、一致しているのだ。
「・・・俺はこの話、受けてみようと思ってる。ユニはどうだ?」
「どうもこうも。私は、兄さんについていきますよ。・・・ああ、おじさま、おばさま、クシュナ隊長、ごめんなさい」
ユニは細い指を絡めて、養い親と恩人に懺悔をする。
食べ物を含んだ口を、もごもごと動かしながらではあったが、申し訳なさだけはよく伝わってきた。
ロウも心の中でクシュナに詫びる。事の次第によっては、彼の顔に泥を塗る事にもなりかねないのだ。
「ごめんな、ユニ。大変な事に、お前を巻き込んでしまったかもしれない」
「いえ。私も、同じ気持ちですから」
これで、背任確定だった。
明日から自分たちは、任務に背いて、皇女に機密情報を横流しする。
ただの一兵士が、もしかしたら国を変える事ができるかもしれない。皇女を利用して、間接的に自らの理想を叶えられるのではないか。
そんな思いに、ロウは囚われていた。
三日目
窓から差し込む陽の光が、今朝も昨日に続き快晴である事を窺わせた。
ロウが自室の姿見の前で身なりを整えていると、ノックの音の後、扉を開けて部屋に入ってきたユニが目を丸くした。
「珍しいだろ?ちょっと興奮気味で眠りが浅かったんだ」
「そんな飢えたケダモノのような人の隣室で眠っていたのかと思うと、ぞっとしますね」
少し残念そうに、ユニがロウの横まで歩み寄る。
「お前の恐るべき発想の飛躍には、いつも頭の下がる思いだよ」
そう言って、彼は姿見から視線を外した。
「ユニ。まだそんなの、持ってたのか」
彼女の長い前髪の左半分をこめかみあたりで留める髪留めを目にしたロウが、懐かしさに思わず、声を上げる。
「そんなの、とはなんですか。そんなのを人に贈るのが、兄さんの趣味ですか。畜生ですね」
その髪留めは、五年前にユニがリード家に養子としてひきとられた頃に、ロウが贈ったものだった。
とにかく記念になるようなものを、とそこそこ値の張る品にしたのだが、周囲には不評だったのを覚えている。
つまり、センスの欠片もない兵士が選んだ、変なネコ的なものを象った髪飾りだった。
「いえ、兄さんと同じでは、畜生に悪いですね。畜生に謝ってください」
「いや、酷くない?」
ユニがムキになっていた。
もう無くしたものと思っていた髪留めを、成長した彼女が身に着けているのを見て、くすぐったいような気分になる。
「懐かしいな。もう無くしたか、捨てたと思ってたよ」
「もっと私を見てください。たまに着けてましたよ」
ロウは何やら申し訳なくなってきた。無頓着な男との共暮らしに、彼女なりに彩りを加えようとしてくれているのかも知れなかった。
「お前には苦労をかけるな・・・」
「絶対勘違いしてますから、もうそれでいいです・・・」
お互いしんみりしながら、リビングへの扉に手をかけた。
「今日からでっちあげの書類作成に励む事になるんですね。ちゃんと審査を通るのかどうか」
朝食を終えて、仕事道具一式の詰まった、愛用の大きな革鞄を肩からたすきに掛けながら、ユニが小さくため息をつく。
携帯用の筆記用具に加え、書類一式の詰まった鞄はそれなりの重さになるが、彼女がそれを苦にした素振りを見せたことは一度もない。
まだ一年に満たない書記官人生だが、彼女なりに誠心誠意、職務を全うしてきた証だ。
慣れない尋問官という仕事に腐りそうになった時、その姿に何度励まされた事か。
そんなユニに、自分は不正の片棒を担がせようとしている。
「ユニ。・・・やっぱり、やめようか」
ほぼ無意識に、そう口にした。言った自分に、愕然としたほどだ。
決心したはずだ。眠れなくなるほど、あらゆる仮定を繰り返したはずだった。
そのはずが、突然、たまらなくなった。
自分だけならまだ良い。だが、失敗すれば最悪、ユニを喪う事になりかねないのだ。
それだけは、耐えられない。
「やめてどうなるものでもないでしょう。兄さんは私の作文能力を疑っているんですか」
冗談と受け取ったのか、軽い足取りでユニは玄関扉へ歩き出そうとする。
その手首を掴む。振り向いたユニは、目を丸くしていた。
「そうじゃない。なにもかも捨てて逃げることだって、きっとできる」
ユニは黙ってロウを見つめてくる。いたたまれなくなって、彼は目を逸らした。
「もし追手がかかったとしても、お前一人くらいなら守ってやれる」
執拗な追手はかからない。これに関しては、確信があった。事を荒立てる行為は、皇女の首をも絞めかねないのだ。
仮にも自分は軍人だ。徹底的に姿をくらませれば、捜索は困難なはずだった。
手首を掴んだロウの手に、ユニの手が重ねられる。
「それが私を想っての事なら、兄さんは勘違いをしています」
そう言いながらロウの手を、そっと手首から外した。
「兄さんの理想は、私の理想です。私を逃げる理由に使うのは、私にとっては迷惑です」
顔を俯かせたままのロウに、構わずユニが語りかける。
「五年前、私を救ったように。一年前、亜人の捕虜を解放したように」
過去を思い返して、彼女は柔らかに微笑む。
「兄さんはどうしようもなく、誰かを助ける人です」
ロウは片手で顔半分を覆う。ユニの存在が、何故かとても、恐ろしいものに感じた。
「そんな兄さんを支える事が、私の使命です。私の全てをもって、あなたに尽くします」
言い切った。ためらいなど欠片ほども感じさせない、ただ、誠実な言葉。
「やりましょう、兄さん。役者不足でも、無理でも無茶でもいいじゃないですか。あなたはきっと、もっとたくさんの人を助けます」
ロウは片手を顔から剥がす。
恥ずかしさが、こみ上げてくる。自分はユニを、見くびっていたのか。
「やられた。ユニ、お前は凄いやつだ」
「はい。兄さんの、妹です」
迷いは、斬って捨てた。
自分にはこんなにも心強い、相棒がいる。
ロウとユニはどちらともなく目を合わせ、頷きあった。
「ロウ=リード二級尋問官及び、ユニ=リード二級書記官。一〇三号房への、入室の許可を願います」
登城して営舎で出頭の報告を済ませ、王立図書館別室こと王城東館に到着した。
「一〇三号房への入室及び、ストレンジャーとの面会を許可します」
昨日と同じ、片眼鏡の女性係官から、ロウは許可証を受け取る。
心にやましいものがあると、毎日の景色も違って映るものだ。
同じ組織に所属している以上、自分は彼女をも、だましている事になるのだろうか。
「何か?」
係官が眼鏡をつい、と指先で押し上げながら、訝しげな表情をしている。
どうやら考えごとをしながら、そのままぼんやりと突っ立ってしまっていたらしい。
ユニが体の向きを変える際、肩に掛けた鞄を勢い良く尻にぶつけてきたので、ようやく我に返った。
拡大解釈し過ぎだ、と反省する。
係官にやんわりと会釈をして、そそくさと通路の先へ向かった。
衛兵に許可証を提示して、扉の奥の階段部屋に通されてから、ユニがため息をついた。
「尋問官、気、小さ過ぎです」
彼女はその時々の立場で呼び名を変えるので、たまにそれがややこしく感じる事がある。
兄さん、リード先輩、尋問官、などと種類が豊富なのだ。
「忠実に職務に励む人を見て、急に罪悪感がこみ上げてきた」
それでも、今から背任行為しますよ、と言って回る訳にもいかない。
歯切れの悪いロウの物言いに、ユニが呆れたようにジト目になる。
「今朝もそうでしたが、今さら尻込みもないでしょう。四の五の言わずに、やってしまいましょう」
しびれる言い分だった。
開き直った女性の、なんと強靭な事か。いわゆる、男前な発言である。
ロウは眩しいものを見るように目を細めて、彼女を眺めた。
荷物でぱんぱんの大きな鞄を、ユニはその小さく細い身体でがっつりとぶら下げている。向こう三軒両隣に自慢して回りたくなるくらい、逞しく育ってくれたものだ。
「額に入れて、飾りたいくらいだよ・・・」
「・・・今きっと尋問官の頭の中で、理不尽に辱めを受けてますよね、私」
どうにも話の噛み合わないまま、二人は地下への階段を下りだした。
「今日はいつもと比べて、明るいですね」
下り階段の壁面に、等間隔で設置された照明鉱石を眺めながら、ユニが独りごちる。
照明鉱石は、水分に反応を起こして発光する性質をもつ。
その発光量は与える水分量によって調整が効くのだが、この地下牢獄は地中の水脈から直接水を引いている為か、日によって明るさがまちまちなのだった。
「そうだな。あ、そこの段、今日は濡れてるぞ。滑らないようにな」
途中、別の尋問官と書記官の組と、すれ違う。
階段を上ってきた尋問官は、何やら疲れたような表情をしていた。
全く異なる感性をもったストレンジャーとの交流は、やはり心労が伴うものだ。ロウにとっては、身につまされる思いである。
そのことについてだけ言えば、正当も不正もないのだった。
あちらの書記官も女性で、ユニとは顔見知りだったらしく、彼女たちは小さく手を振りあっていた。
一〇三号房の扉の前で立ち止まり、ロウは一つ、深呼吸をする。
隣に立つユニに目配せすると、彼女は普段通りの無表情で頷き返してきた。
意を決して、ノックする。
扉越しの、くぐもった返答を確認した後、二人は入室した。
「ようこそ、いらっしゃい。我が城へ」
昨日と同じくベッドに足を投げ出し、壁に背中を預けた老人が、二人を迎え入れる。
聴取を行う態勢を整えるロウとユニを、彼は黙って眺めていた。
「なにかと不自由な環境ですが、体調はいかがですか?バープー」
「問題ない。なんの因果か、牢屋暮らしには慣れているのでね」
「慣れている、ですか。貴方は、以前にもこんな経験が?」
幽閉されていたのか、とはあえて言わなかった。
「似たような事ならば、ある。私の国での話だがね。・・・出来上がった封筒は、どうすればいいかな?」
「お預かりします」
鉄格子の小窓のすぐ脇に置かれてあった封筒の束を、ロウが回収する。いずれも丁寧にのり付けされていて、良い出来だった。
封筒をユニが使う机の上の、彼女の邪魔にならないところに置いて、ロウは鉄格子の前の椅子に腰掛ける。
「それでは、聴取を始めます」
いつもと同じ業務を、いつもとは異なる心持ちで、開始した。
「持ってきた書物は、全て読まれたのですか?」
「一通り、目は通した。この国の生活様式は、おおよそ私の世界の近代に似かよった点が多いようだ」
その点は、重要だった。
ストレンジャーが、あまりにもかけ離れた文化圏の人間だと、多くの場合その考えを参考にはできないのだ。
「なにか関心を持った事柄は、ありましたか」
「気になったのは、やはり生態系だな。地竜などという生き物がいたり・・・、だが私の世界にも、これに代替する生き物として、馬という動物がいる。故にそう大きな違いは無いのだが・・・」
老人は図鑑を手に取り、何かを探すようにページをめくると、目当ての箇所をこちらに向ける。
「これだ。この、亜人という生き物。人間と似て、非なる存在。彼らの社会的地位はどのようなものなのかね?」
書物で得た知識は前提として、生の声が訊きたい、という意味なのだろう。
いきなり、核心の部分がきた。
心中の興奮を表に出さないようにしながら、ロウは戦争後の亜人の虐げられている現状を、私情を交えず客観的に説明した。
「どういった感想を、抱かれましたか?」
少し気持ちが逸っただろうか。
その自覚はあったが、ロウはバープーの考えの方向性を見極めておきたかった。この問題に一石を投じる知恵をこそ、自分は求めているのだ。
「どこにでも、似たような問題はある。それは私の世界でも然りだ。・・・いくつか、こちらから尋ねても良いかな」
期待した答えを得られたわけではなかったが、ここはバープーの質問に応えるべきだ。焦り過ぎは、良くない。
「どうぞ」
ロウが応じると、老人は少し身をよじらせ、ベッド脇の机に書物を置いてから、しわだらけの口許を動かした。
「盗賊がいたとする。彼は君に害を為そうとした。君はどうする」
奇妙な問いだった。質問の意図は計りかねたが、とりあえずロウはそれに答える。
「どうするも。打ちのめして、罰を与えます」
考えるまでもない。自身に害を為す者に罰を与えるのは、当然の行為だ。
「そんな君を、盗賊はやり過ごし、今度は他人を襲うかもしれない。だが、目をつけられた他の犠牲者もまた、人間だ。それは姿かたちを異にする、君自身ではないかね」
自分は被害を受けなくても、どうせ他人が同じ被害を被る。それでは略奪は減るどころか、増え続けるばかりだ、と老人は言う。
「その理屈は理解しかねます。身にかかる火の粉は、払うだけです」
苦難をもたらす者を、排除するなというのか。それがまかり通るのならば、軍隊など必要ない。
「盗賊を罰するより、耐えて、許すことはできないだろうか?君が彼を、自分と変わらぬ人間として扱う事で、彼は正気に立ち返るだろう」
まるで、人類みな兄弟だ。
老人のその言葉に、ささくれ立つ気持ちを自覚する。
そんな甘い事を言っていれば、奴らは際限なく、こちらの財産を奪い尽くすだろう。
「バープー。貴方の国では、それで物事が解決するのですか?」
だとしたら、相当におめでたい連中だ。
この国と生活様式が似かよっている、と老人は言ったが、頭の中身は全くの別物なのではないか。
「別に、彼の加えた危害を見過ごせ、と言っている訳ではない。それは、ただの臆病だ」
「罰する以外の解決手段が、他にあると?」
随分と話が本題から外れているが、彼がこれにどう答えるのか聞いておきたかった。
それによって、この老人の話を真に受けるか否かの、試金石とする。
「君は身内に接するように、彼の心を捉える努力をするべきだ。そうすれば遂には、盗賊は悪の道から立ち直るだろう」
もう付き合っていられなかった。
盗賊に向けて、盗みなどしてないで、こっちに来て働け、とでも言うつもりなのか。そうする前に、殺されるだろう。
十年前、亜人戦争末期の地獄を、ふと思い出す。
入隊したての新兵だった自分が見た、奪い、奪われるだけの戦場。
亜人たちはきっと、十年経った今もまだ、あの地獄の中にいる。
だからもう、そんな事は終わりにしたかったのに。
「・・・そんなこと、できるわけがない」
「ならば私から君に話すことは、もう無い」
それきり興味を失ったように、老人は作りかけの封筒に、のり付けをし始める。
「聴取を終わります」
ロウは音をたてて、椅子から立ち上がる。
努めて平静を装っているものの、その肩は小さく震えている。そのまま、出口に向かって歩き出した。
唐突な面会の終了に、慌ててユニが机の上のものを鞄に詰め込む。
挨拶の一言もなしに退室したロウに代わり、ユニは老人に一礼する。
頭を上げた彼女の目に映ったものは、鉄格子越しにある机の上の、もうすぐ尽きようとしている砂時計だった。
「突然どうしたんですか、尋問官」
王城東館からすぐの渡り廊下に出ると、ユニは周囲にひと気がないのを見て、無言で歩き続けるロウを呼び止める。
この屋根付きの渡り廊下は吹き抜けになっており、中庭のバラ園の、さらに向こうの西館まで臨むことができる。
風が、ここまでバラの香りを運んできた。
足を止めたロウが一つ、深呼吸をしてから振り返る。
彼は普段、気持ちがあまり顔に出ない質なのでわかりにくいのだが、今は相当、苛ついているのが伝わってきた。
「驚かせて悪かった、ユニ。・・・どうやらハズレだな、今回のストレンジャーは」
「ハズレって・・・、もう、彼の聴取そのものを終えてしまうつもりですか」
これは、という知識を引き当てるまで、自らの目的に関係のなさそうなストレンジャーの深追いをしない方針は、昨夜のうちに決めていた。
要するに、回転率を上げるためである。
ユニもそのことについては聞いていたのだが、見切りをつけるのが、まさかここまで早いとは思わなかった。
「そのつもりだ。あの爺さんから学ぶことは、何も無い」
そう言って、ロウは渡り廊下の手すりに手のひらを乗せ、もう一度深呼吸をする。
「尋問官、少し冷静さを欠いているのではないでしょうか。私は、彼から得られるものは多いと考えます」
焦るべきではない、とユニは言外に告げる。共犯者として、言うべきことは言っておくべきだと思ったのだ。
「確かに彼は賢者だろう。俺も、その点は疑ってはいないよ」
吹き抜ける風が、ロウの束ねた髪を揺らす。廊下の石畳に落とす視線は、どこか昏いものを含んでいた。
「でも、彼の精神論で救えるものは、この国には無いと思う」
疲れたようにユニに微笑みかけると、彼は王城本館に向けて歩き出す。
何か言い知れない気持ちを持て余しながら、彼女もその後に続いた。
王城本館の通路を歩いていると、その一角に、知っている人影を目にした。
「ロウ様、ユニ様。お疲れ様でした」
猫耳の付いた頭が、折り目正しく下げられる。フォールだった。
「昨日の返事をお聞きになりたいそうです。中庭まで、ご足労願えますか」
周囲に人がいないのにも関わらず、彼は随分とぼかした言い方をする。
こういった慎重さを見せられると、やはり彼がただの使用人だと、ロウには思えないのだった。
昨日の今日なので内心は億劫だったが、そうも言っていられない。ロウは黙って彼の先導に従った。
本館の裏口から見るバラ園に、既視感を抱く。気候も含めた昨日との違いを見つけることは、ロウには難しかった。
「今まできちんと眺める機会がありませんでしたが、良く手入れされたバラ園ですね」
園芸の嗜みがあるわけではありませんが、と言いつつ、ユニが歩きながら優しくそっと、バラの花を撫でる。
「すごいでしょう。特にあのバラのドームなんか、王城から死角になってて、密会には最適なんですよー」
何やら台無しなことを口にしながら、フォールは姿勢良くバラの迷路を歩いていく。
その佇まいの隙の無さが気になったが、ロウは先程から浮かぶその考えを、頭から追い払う。考えても、無駄なことだった。
「フォールさん。脚、きれいですよね」
先導する彼の脚を背後から眺めながら、ユニがぽつり、と口にする。
彼の身長は、男性的には平均値だが、女性としてみれば、やや高い部類になるのだろう。
ユニはもう完全に彼を女性として扱っているようで、ロウもその脚の長さには特筆すべきものがあると思った。
「いえいえー。ユニ様、お上手ですねー。真に受けちゃいますよ、僕」
フォールは頬に両手を添えて、照れた素振りを見せる。
「それです。いい、いいですよ。使わせてもらいます」
ユニが表情を変えないまま、鼻息を荒くしている。彼女のなかでは、フォールは何かしらの師として仰がれているようだった。
「うーん、どうでしょうか。ユニ様はこういうの、お似合いになられないかも知れませんね」
素直なユニに毒気を抜かれたのか、フォールは苦笑して彼女に向き直った。
「やはり私には、素養がないのでしょうか・・・」
がっくりと肩を落とすユニに対して、フォールがゆっくりと首を振る。
「そうではありません。あるのは向き、不向きだけです。愚考するに、ユニ様は自己評価が低いのではないでしょうか。ちょっとそこらでは見かけないくらい、可愛らしいと思うのですけれど」
ユニは俯きながら、ずり落ちた鞄を肩に掛け直した。
「・・・ありがとうございます」
フォールは本気のつもりらしかったが、ユニは完全に社交辞令として受け取ったようだった。
予想以上の自己評価の低さに、フォールが少し慌てた素振りをみせる。
「わ、ちょ、落ち込まないで。えと、ちょっと子供っぽいかなーって思うけど、その髪留め、とてもお似合いですよー」
「ダサくてごめんなさい・・・」
フォローは空振りに終わった。
例の髪留めは、実は受け取った本人にすら不評だった。ロウにとっては五年越しの、衝撃の事実である。
それきり無言で、とぼとぼと歩くユニを持て余したのか、フォールが助けを求めるように、ロウに目を向けてくる。
ロウが頷きでそれに応える。女性の扱いが、なっていない。周到そうに見えるフォールも、まだまだ年若いという事か。
「ユニ。軍の厳しい調練にも耐えてきたお前が、脚の長いの短いので、何を恥じることがある。お前の良さは、そんな事で計れはしないさ」
少し気障だっただろうか。それでもユニの為ならば、この照れにも、あえて目を瞑ろうじゃないか。
髪を掻きながら、ふと前を向いたロウの目に映ったのは、ジト目でこちらに流し目を送る、ユニとフォールだった。
「え、この人本気で言ってるんですか?話を振った僕が、悪いみたいになるじゃないですか」
「信じられないでしょうが、目の前で起こったことは、全て事実です。こういうつまらない人間なんです」
二人でヒソヒソと話しているように見えるが、明らかに、こちらに聞こえるように喋っていた。
フォローのつもりだったが、どうやら不評らしい。自分もまだまだのようだ。慣れないことは、するものではない。
「鈍感さも、こうなってくるといっそ、おぞましいですね・・・。わ、ユニ様。こっち、見てますよ」
「女慣れしてるふうにでも、見てもらいたかったんでしょう。この童貞は」
「すみませんでした・・・」
謝った。
年長者としての矜持など、そこらに捨てた。もし拾った者がいたとしたら、是非可愛がってやって欲しい。
もしも今、この状況から抜け出せる方法があるとすれば、大概のことはしてしまいそうだった。
勿論そんな方法などどこにもなかったので、目的のドームに辿り着くまで、ロウは二人の非難に耐え続けなければならなかった。
「ルル様、お二人をお連れしました」
バラのアーチをくぐる。
蔓がひしめく天井から、木漏れ日のように陽射しが零れ落ちている。
昨日と同じく、皇女は脚を組んで椅子に腰掛けていた。
ロウとユニは地に片膝をつき、真紅の貴人に頭を垂れる。許しを得ると、テーブルを挟んで、皇女と向かい合う椅子に腰掛けた。
フォールが紅茶の用意をするのをよそに、で、と口にして、皇女は椅子の背もたれに身体を預ける。
「色よい返事は、貰えるのかな?」
深翠色の目を細めて問いかける皇女に、ロウは頷いた。
「はい、皇女殿下。慎んで、ご協力させていただきます」
解りきっていた答えを耳にするように、皇女は鼻を鳴らす。
一仕事終えたフォールが皇女の背後に立つのを見届け、ロウは一つ疑問に思っていたことを口にする。
「皇女殿下。ひとつ、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「許す。申してみろ」
テーブルの上から、カップの載ったソーサーを手に取って、皇女が先を促す。
「そもそも何故、皇女殿下は国王の座を望んでおられるのでしょうか」
ロウは、昨日の皇女が話した内容のなかで、最も腑に落ちなかった点について尋ねることにする。
これから協力していく上で、それは最低限聞いておきたい事柄だった。相手の行動原理を知ることは、絶対に損にはならない。
何故、国王になる必要があるのか。
次期国王は王室歴代、最も優れているとの噂高い、カールリッツ皇太子である。
彼の政治的手腕は既に証明されているし、その妹であるアルルリーゼ皇女もその庇護のもと、一生の安泰が約束されているのだ。
二人の不仲がささやかれた事もない。
つまり、皇女が王位を望む理由がない。
「ふむ。言葉にするとなると、これがなかなかに難しいが・・・、そうさな」
皇女は、音もなくカップに口をつけてから、考え込むように首を傾げる。少し、幼く見える仕草だった。
「兄様のこしらえた籠の中で、一生を終えるのは御免だから、だな」
俯き加減に、あごに指を当てながら彼女は口にする。それから、困惑した面もちのロウに目を向けた。
「三年前、私の母と弟、つまりバステア王国の皇后と第二皇子が事故で亡くなったことは、知っているな」
バステア国民で、それを知らない者はいないだろう。当時は、その件で国民全体が喪に服したのだ。
「私はその事故を、カール兄様が計画したものと考えている」
ティーセットを載せたテーブルが、音をたてて揺れる。ユニが、脚をぶつけてしまったようだった。
そちらに目を向けると、彼女はほとんど呆然として、口許に手を当てていた。
無理もなかった。まだ信じたつもりはないが、事実なら、国そのものがひっくり返る程の大事件だ。
「なにを、根拠に」
ロウは努めて平静を装うが、少し声が上擦っているのを自覚する。それほどの、衝撃だった。
「お母様は、弟を溺愛していたからな。弟を王にしようと画策したのかも知れん。今となっては、わかりようもないが」
だから消された、と。
皇女は身内の話を、まるで他人事のようにする。
「根拠といえば、この話、フォールも無関係ではないな」
背後に控える使用人に、皇女は流し目を送る。フォールは少し困った様子で、曖昧に微笑んでいる。
ここで、思いもしなかった名前が出てきた。先程までの話の内容に、フォールが絡める場面など、一つもなかったはずだ。
「ではここからは、僕が話を引き継がせていただきます」
観念したようにしばらく目を閉じて、フォールが口を開く。皇女は手にしたカップをもう一度口に運び、ソーサーをテーブルの上に戻した。
「亜人戦争よりずっと昔から、僕の一族は、なんというか、その、密偵を生業とした集団でした。戦後も、仕事こそ減りましたが、その生活は変わりませんでした」
当時、バステア国外の亜人の集落のいくつかには、そういった特殊な稼業を専門とした集団がいたという。
戦時中、ロウは何度かそんな話を耳にしたことがあった。
「三年前、ある筋から大きな仕事が入ったと、にわかに集落が慌ただしくなりました。戦後からこっち、村の状況は酷いものだったので、仕事の失敗は許されるものではありません。総動員です。当然、僕も例外ではありませんでした」
当時を思い出しながら、フォールは話す。淡々とした印象だった。
「決行の夜、数人でバステア王城内に忍び込みました。僕は仕事の内容を知らされませんでしたが、下っ端がそんな事を知る必要はありません。言いつけ通り、中庭の見張りをしていた最中、城内が突如として慌ただしくなったのです」
その日に、事故に見せかけた暗殺が行われたのか。ロウは、知らず知らずのうちにかいていた手のひらの汗を、制服のももの部分で軽く拭った。
「逃げ遅れてしまった僕は、丁度このバラのドームに身を隠しました。そこを、ルル様に見つかってしまったのです」
フォールは、仲間に見捨てられたのだろうか。仕事の内容を知らされていなかったのは、情報漏えいを防ぐ為だろうが、どのみち捕らえられてしまえば、その特徴的な猫耳から、身元が露見しそうなものだった。
騒ぎになるのが想定より早く、混乱したといえばそれまでだが、どこか、ちぐはぐな印象を受けた。
「ルル様は僕を匿ってくださり、そのまま侍女として、お側においてくださいました。・・・僕が知っているのは、ここまでです」
フォールの話は、皇太子の関与を証明する内容ではなかったが、少なくとも皇后と第二皇子の死の真相は、暗殺で間違いなさそうだった。
皇后が第二皇子を擁立しようとした場合の利害関係から、皇女は兄を疑うに至ったのだろう。
「・・・皇女殿下は何故、その、皇后と第二皇子が亡くなった夜、このバラのドームにいらしたのですか?」
なかば呆然と話を聞いていたユニだったが、どうしても気になったのだろう。皇女に向けて、おずおずと尋ねた。
「あの夜ここには、泣きに来たのだ」
おおよそ、目の前の皇女が口にする理由とは、思えなかった。ロウにはその答えは意外なものだったが、ユニは黙って頷き返している。
「事故か暗殺かなど、当時は知る由もない。私はただ、母と弟が死んで、悲しかったのだ。もっとも、賊に邪魔されて、泣けはしなかったのだが」
皇女の物言いに、背後の使用人が目を細めて微笑む。
「いーえ、確かにお泣きになられてましたよ。拾っていただいた夜から、ルル様だけを見て生きてきた僕が言うのですから、間違いありません」
「貴様が私以外、他に何を見るものがあるというのだ。フォール、貴様はただ私という、この世で最も貴いものを仰いでいれば、それでよい」
当たり前のことを口にださせるな、と皇女はドレスと同じ色の、肘まで包む真紅のオペラ・グローブを、開けたデザインの豊かな胸の前で組んだ。
「私は、私が悲しくない国を望む。そういうことだ、ユニ=リード」
抵抗せずに飼い馴らされるくらいなら、命を危険にさらしてでも、敵として立ちはだかろう。
そんな皇女の宣言を聞き、ユニはもう一度頷いた。
「こちらの不躾な問いに答えていただき、感謝いたします、皇女殿下」
生真面目に頭を下げるユニに、よい、と皇女は口許を緩めた。
「さて、そろそろ貴様の話も聞かせて貰おうか、ロウ=リード」
皇女はテーブルの上から扇子を取り、それを片手で振るって広げる。
話を促されたロウは、先程終えたばかりであるストレンジャーの聴取の結果を、簡潔に述べた。
「・・・以上が、担当するストレンジャーに関する自分の見解です。彼の思想は難解かつ、非現実的であり、皇女殿下の参考にはなり得ないでしょう」
つまるところ成果無し、ということなのだが、協力すると決めた以上、空振りでも報告する義務が生ずる。
「今回のストレンジャーは見送り、次の機会を待っていただくのが、良いと思います」
今日の面会での老人の思想は、ロウの理解の範疇を完全に超えていた。
ロウにとって重要な事は、皇女との間に、亜人に対する差別をなくすという共通認識があるということである。
ならば彼としては、この立ち位置を最大限に利用して、自分の目的を遂げるのみだ。
それが叶うのならば、皇女が王になるか、ならないかなど、言ってしまえばどうでもいい。
その為に、不確実性を多分に含む老人の思想に皇女を誘導して、台無しになるのは避けたかった。
今回については叱責を受けるだろうが、ロウは確実を期する為に、焦るつもりはなかった。
「・・・貴様、なにか思い違いをしていないか?」
音をたてて扇子が閉じられる。
顎を少し上げ、険を孕んだ声音で皇女がロウに告げた。
「私は貴様の意見など聞いていない。ストレンジャーの知識に価値があるか、判断するのはこの私だ。貴様はただ、事実だけを口にすればいい」
折りたたんだ扇子を、もう片方の手のひらに振り下ろす。その深翠色の瞳から、目に見えない威圧感が放たれていた。
「私の考えを左右しようなどと、不敬にも程がある。立場を、弁えよ」
「しかしながら、皇女殿下。慎重に事を為さなければ、亜人の地位の改善は見込めません」
しまった、と内心で思う。だがすぐに、言ってしまったことは仕方がないと、ロウは気を取り直した。
思った以上に、皇女は聡い。
しかし彼女が現体制に一石を投じたいと思うのであれば、未だ手つかずの種族差別問題から崩していくというのも、現実的な一手ではあるのだった。
「それが思い違いだというのだ。貴様の目的と私の理想を混同するな」
皇女の言葉に、ロウはなにか、不吉な予感めいたものを感じる。
「私の自由を縛ろうとするものを、私は許さん。ロウ=リード、貴様、思った以上につまらん男だったようだな」
皇女が感情的過ぎると、笑うことが自分にできるだろうか。
できなかった。これは目的ばかりに囚われて、皇女という人間を知り、その信頼を得ることを怠った、自分の落ち度である。
そんな尋問官としての最低限の基本さえ、忘れていたというのか。
そしてこの失敗は、取り返せない類のものだった。
「当てが外れた。もういい、どこへなりと、去れ」
それで、終わりだった。
皇女は興味を失ったように、扇子を振ってロウ達に退席を促す。
失意の表情で席を立つロウを気遣わしげに見上げるユニは、妙な雑音を耳にして、思わずそちらに目を向けた。
見れば、漁るように音をたてて、フォールがバラの茂みに手をさしこんでおり、なにかを掴んで引き出したところだった。
その手には、鉈のような抜身の刃物が握られている。無骨な鋼が、木漏れ日に照らされて、きらきらと輝いていた。
それを見たロウは一瞬で我に返り、無意識に腰の辺りに手をあてがう。
当然、帯剣などしていない。内心で舌打ちをする。
決裂した場合、命に関わる。この可能性は、事前に考えていたはずだった。いったい自分はなにを、浮ついていたというのか。
「フォール、なんの真似だ」
つまらないものを見るような目で、皇女は自らの侍女に問いかける。
フォールは非難を含んだその視線から辛そうに目を逸らして、ロウたち二人を昏い目で睨みつけた。
「ルル様、彼らは色々と知り過ぎました。生かして帰すと、御身の為になりません。お二人には、皇女殿下に狼藉を働こうとした、不埒者になっていただきます」
そう口にして、フォールは二人に向かって、ゆっくりと歩き出した。
ロウはユニを背後に隠す。背中を向けると、一気に来そうだった。
「フォール」
語気を強めた皇女に、使用人の身体が大きく一度、震える。
「貴様には、一切の殺人行為を禁じたはずだ。私に、兄と同じ所に堕ちろというのか」
殺人を手段として用いない。それをしてしまえば、肉親殺しの兄と何ら変わらない。
皇女は手にした扇子の先を、俯く使用人に向ける。
「貴様は、私の何だ」
「僕の全ては、貴女のものです」
フォールが手放した刃物が、地面に転がる。そのまま皇女に向き直り、片膝をついて、深々と頭を垂れた。
「出過ぎた真似をいたしました。どんな罰でも受けます」
「許す。忠節、大義である。以後も私の為に励め」
立ち尽くすロウに皇女が、まだいたのか、と言わんばかりに目線を送ってくる。
「ロウ=リード。小賢しく私を操ろうなどと、考えないことだな。消えろ」
ロウは無言で一礼をし、芝生を踏みしめながらアーチへと歩き出した。
この場から立ち去る二人を、皇女が眺めている。
ふと振り返ってその顔を見たユニは、なぜだか泣いてしまいそうな気持ちになった。
行政区の王立図書館でこの日の活動報告を終え、夕暮れ時の城下町へと帰路に就いた。
「兄さん、晩ごはん、どうします?」
人でごった返す商人街にさしかかると、ユニが声を明るくして尋ねてくる。
ロウは食欲がなかったが、彼女の為にも食べない訳にはいかなかった。
こう見えて食欲旺盛な彼女には、一食を抜くなどという概念がない。一人で食事を摂るのを酷く嫌がるので、必然、ロウもその食生活に合わせることになる。
外で済ませるか、と何の気なしにロウが口にすると、彼を見上げるユニの瞳が輝きだす。
「外ごはんですかっ。・・・いえ、今日はなにか、出来合いものを買って帰りましょう」
そう言ってユニは、口惜しげに感情を押さえ込み、通り脇の商店で買い物をし始めた。
彼女なりの気遣いだろう。それほどに今日は、酷い日だった。
ストレンジャーの聴取、そして皇女との関係。そのどちらをとっても、最悪の結果と言わざるを得ない。
このまま、終わってしまうのか。
思った以上の荷物を抱えてきた彼女に面食らいながら、ロウの頭はその思いに囚われていた。
夜の時刻の到来を告げる鐘の音が、夕暮れ色の濃くなった街なかに響き渡る。
商人街と町人街とを繋ぐ、橋の上の街灯が、ぼんやりと明るくなり始めた。
街灯として利用する、照明鉱石を灯す為に水を掛けて廻る係の者と、橋上ですれ違う。
二人はどちらともなく足を止め、橋から遠く望める、川上の田園風景と山々を、しばらく眺めた。
「あ、カスパーさん。お疲れ様です」
先に気がついたのは、ユニだった。
町人街の方向から、地竜に跨った警備隊のカスパーが、ゆっくりと歩いてくるところだった。
「や。お二人さんも、今帰りか?」
随分と疲れた様子のカスパーが手綱から片手を離し、二人に対して振ってくる。
「カスパー、随分とくたびれてるようだが、平気か?」
近くで見れば、深緑の軍服姿は、ところどころ汚れているようだった。
「平気なもんかい。出会ったんなら愚痴を聞いてけよ、兄弟」
地竜から降りるのも億劫らしく、寄って来たロウの肩にそのまま腕を回す。そんな無理な体勢でも、カスパーは片手で地竜を御している。
こいつは昔から竜の扱いが上手かった、と口許を緩めながら、ロウはカスパーの腕を引き剥がした。
「一昨日のひったくりの件、覚えてるだろ。さっきまでそれ関連で、何人か動員してスラムで捕物だよ」
カスパーが跨がる、お気に入りの地竜であるゴロの鼻面を撫でて和んでいたユニが、その内容を聞いて表情を曇らせる。
「亜人の子供ばかりの窃盗集団でさ。そんなのを兵士が寄ってたかって囲み込んで、まとめて牢屋送りだぜ。ほんと、嫌になるよな」
うんざりした様子で、カスパーがため息を吐く。
彼の指揮ならば、そう手荒な真似はしなかったのだろう。子供相手だったにも係わらず、不自然に汚れた軍服が、それを物語っている。
わかっていた。無論カスパーが悪いわけではない。彼は己の職務を全うしただけであり、捕らえた子供に同情的ですらある。
罪を犯した者に相応の報いを与えるのは、当然の事だ。ならば、盗みをせざるを得ない子供を生み出すこの国の体制を、自分は胸を張って正しいものと言えるのか。
ふと、牢獄の老人の言葉が、頭をよぎる。
「まあ、こんな事でも、仕事は仕事だ。お前さんらも、早く戻ってきて手伝え」
冗談めかして笑うカスパーに、ロウも笑い返す。
昨夜からあれほど決意して、今日に臨んだというのに。
今朝と今の自分は、まるで別人のようだ。
正直、もうどうだって良かった。
四日目に続く