9「十四日」
あっという間に年が明け、二月になっても蒼と千秋のつかず離れずな関係に変化はなかった。十四日の馬連タリンデー。真夏が遅れて登校してくるころには、既に教室には甘い香りが充満していた。鼻孔をなでるような柔らかな香りに、朝食を済ませたばかりだというのに食欲をそそられる。
教室の隅で毎年の恒例のように蒼へチョコを渡す千秋を見つけ、真夏は蒼のうしろから彼の頭にもたれかかるように身を乗り出した。
「千秋、俺のは?」
「おい西東!」
真夏の腕の下で蒼が怒った声を出す。怒っているのは声だけだ。千秋は苦笑しながら膝の上のカバンに手を入れる。なんだかんだで人数分のお菓子を用意してくれるのが千秋だろうと確信を持っての発言だ。
「しょうがないなあ、はい」
赤色のリボンでラッピングされた黄色の小袋を受け取った。重さと感触からクッキーだと推測する。蒼が持っているものだけが他の包装と色や大きさなどが違うのは、やはり義理と本命の差というやつだろうか。蒼はそれに気付いていないようだが。
「やった。さんきゅ。俺もクッキー作ったから、ひと月早いお返しあげる」
どこからともなく取り出された小袋のラッピングは完全にバレンタイン仕様だが、そんなことは気にしない。中身はたしかに真夏が作ったものだ。バレンタインになにかをもらっても、来月のホワイトデーには忘れているので、真夏は毎年この日にお菓子を交換することでチョコを入手しているのだ。千秋はそれを受け取りながら、わあ、と小さく歓声をあげる。
「真夏ってお菓子とか作れたんだ」
「お菓子しか作れないの。心配しなくても志村の分もあるぜ」
もうひとつ、千秋に渡したものと同じのを蒼にも渡す。
「義理だよ」
「くたばれ」
ホームルームの予鈴が鳴ったのでその場を離れて席に着く。冬の朝はなかなか起きられず、暑さで目が覚めてしまう夏とは打って変わって遅刻ギリギリだ。寒さには強いはずなのだが、起き抜けはどうしても寒い。
出欠確認の間に何人かの男子がこっそりと机の中を探っているのが見えた。真夏はというと、ただぼんやりと雪が降りだしそうな外を眺めている。当然だ。真夏の机には教科書やノートがすべて詰まっているので、なにかが入る隙間など一切ない。確認するだけ無駄なのだ。
担任からの連絡事項と、バレンタインだからと浮かれすぎないようにという注意事項を聞き流しながら、真夏はあとで隣のクラスの香やナズナのところにも行ってみようと考えていた。
放課後、無事にナズナと香の二人とお菓子をトレードし、真夏はご満悦な様子で教室に戻った。聞いた話によると、香はお菓子作り――というより料理全般――が得意で、毎年この日にはなにかしら持ってきているのだとか。帰り支度に手間取っている山吹の背中を叩いて、カバンの上に水色の小箱を置いた。
「おい山吹、香から義理チョコ」
「言い方が悪いぞ」
「山吹んち、温かい緑茶とかある?」
勝手に山吹の家に向かう方向で話を進めるが、これはいつものことなので、彼も今さら気にしない。
「緑茶? さあ……冷たい麦茶ならあるが」
「いや寒いわ」
*
山吹の部屋に到着すると、テーブルの前に腰を下ろす。山吹もカバンをおろして真夏の正面に座った。真夏がテーブルを両手で軽くぺしぺし叩くと、山吹は急かすなよと少しだけ笑った。脇に置いた紙袋を膝に乗せ、中身を取り出して並べ始める。二月十四日の恒例行事。それは、学校でいかにして義理チョコを集めるかの取引ではなく、山吹がどれだけのチョコをもらったのかを確認し、それを二人で消費することだ。
「女子って大変だよな。友達のチョコと、本命のチョコに加えて、クラスの男子にも配ってるっていうんだからさ」
クラスの人みんなに配ってるんだけど――そういう建前で山吹にチョコを渡す女子はたくさんいる。なかには本当に全員に配っている律儀な女子生徒もいるが、大半は山吹にしか渡していない。もちろん、山吹はその真実には気付いていないのだが。
溶かして固めただけのチョコや生チョコなどのスタンダードなものから、カップケーキなどの少し凝ったお菓子。数種類の市販品を詰め合わせただけのもの。中身はさまざま。日持ちがするお菓子はいいのだが、そうでないものは早めに食べてしまわなければ傷んでしまう。
山吹は真夏とちがって小食で、甘い物は好きだが、もそれほど得意ではなく、すぐに気持ち悪くなってしまう。そして山吹ファンの女子は、この日だけはお互いに目をつぶって山吹にチョコを渡す。総数はかなりのものだ。山吹一人ではとても食べきれない。なので、こうして真夏が加勢するのだ。山吹のために作られたお菓子を、山吹ではない男が食べる――というのは、女子生徒たちの乙女心を裏切るようで心苦しいが、腐らせるよりはよっぽどいい。
それに、すべて一人で抱え込み、それでも贈り手の純粋な心に誠意をもってそれらをいただこうと、苦手な甘味を大量に摂取し、胸焼けに苦しめられる親友をただ見ているだけというのも薄情だ。ゆえに真夏は、これらを苦労して作ったであろう女性たちに感謝する傍ら、申し訳ないと罪悪感を感じつつも、友を救うために仕方なく食すのだ。
そもそも、同じ学校に通う生徒とはいえ、相手は見知らぬ女性たち。いったいなにが入っているかもわからない。真夏は親友が危険なものを口にする可能性も危惧しており、いわばこれは毒見役でもある。
決して、絶対に、そう、断じて、自分が食べたいから食べているのではない。
「しかし今年も大漁だな。では、おこぼれにあずかるとしよう」
持つべきものはモテる友人だ。
「なんだよ、俺がもらったなら、お前ももらっただろ?」
「いや、俺の話はいいよ。とりあえず、日持ちしなさそうなのから片付けていこうぜ」
「悪いな。なにかしらくれるのはありがたいが、甘い物はあまり……」
「シュークリームひとつで胸焼けを起こすくらいだからな」
「昔はもっといろいろ食べていたはずなんだけどな」
「味覚が成長したってことだろうよ。あ、そうだ。俺のクッキーも食べるか? まだ余ってるんだけど」
「この状況でまだ菓子を出してくるとは恐れ入るよ」
「でも受け取るんだな」
「味に絶対的な信頼を寄せているからな。実は結構好きだぜ」
「おうよせやい、照れるじゃねえか」
丁寧にラッピングされた袋から取り出したカップケーキを山吹に渡す。彼がそれを食べたのを見てから、真夏は別の物に手を出した。ビターチョコが使われているものは極力山吹にまわして――というのも別に彼を気遣っているのではなく自分が苦手だからだ――順調に菓子の山を削っていく。
「お前、本当によく食べるよな。量もそうだが、全部が全部甘ったるい物なのに」
「いや、俺もお前と同様、最近は甘い物の許容量が狭まってきたよ。渋めのお茶がないと、なかなか」
「でも、この前ただでさえ甘いミルクティーにふざけてガムシロップを四つ入れて、それでも平気で飲んでたよな。あれは見てるだけで気持ち悪くなったぞ」
「ああ、あれは飲みやすかった」
「病気になるぞ」
「別にいつもあんな飲み方してるわけじゃねえよ」
「小学校のときもオレンジジュースに砂糖を入れて飲んでいた」
「あれはあのジュースの苦味が気になったから入れたんだ」
「いつか本当に体を壊す」
「壊れたら壊れたでいいとは思ってる」
「いいのかよ」
「夏目でも呼ぶか?」
唐突に真夏が言う。
「なんだ、助っ人としてか?」
「そんなところ」
「別に、今日だけで消化しきる必要はないだろ。夏目も今はまだ部活中だろうし」
「そうやって明日、また明日って先送りにしてたら、山吹の場合、絶対になくならないだろ」
山吹は深いため息をついた。
「……今日は夕飯いらないな」
「夕飯か。夕飯なににしようかな。唐揚げ食べたくなってきた」
「まだ食べるのかよ」