8「冬に至る」
冬の冷気が露骨ににじみ始め、登下校中の学生たちの首元に防寒具がちらつくようになったころ。夏目は西東家をあとにすると自宅へ向かって歩き出した。まだ夕方の五時だと言うのに、あたりは既に薄暗い。身に染みる寒さに、冬の訪れを痛感させられた。
真夏の自宅へは夏に一度来て以来、何度か遊びに行く機会があったのだが、最近になって彼の兄である西東真冬と遭遇することが多くなった。彼もあの家に住んでいるのだから、当然といえば当然なのだが。たとえば、真夏の部屋で話しているとき、一階から物音が聞こえたり、階段を上り下りする音や、隣の部屋の扉の音だったり、他に誰かがいることがわかるような音はこれまでも何度か聞こえることがあった。真夏に兄がいること自体は知っていたし、彼の両親は共働きで、日中は家にいないことも聞いていたので、夏目が真夏の家に遊びに来た時間帯で、真夏以外の誰かがいるとしたら、その兄である真冬でしかない。
しかし、そうして家族の気配を感じたことはあっても、実際に目にしたことは一度もなかったのだ。真冬がなにか用事があるときも、夏目が少し席を外した隙に済ませていたようだし、一番大きなアクションでも、扉をノックして真夏だけを部屋の外に呼び出したくらいだ。それも、そう何度もあるわけではない。夏目が真夏の兄の姿を家の中で見たことはなかった。気まずくならないための真冬なりの気遣いだったのかもしれない。
それが最近では嘘のようになくなったのだ。ちょうど、真冬が自宅の鍵を紛失して、真夏に鍵を借りに来たときからだ。きっと、一度姿を見られてしまったから、もうどうでもよくなったのだろうと思う。――と、言うか、真夏がそうなのだろうと言っていたから、夏目もそれで納得しているだけなのだが。
ともあれ、今日、会ったときに髪の色の明度がひとつ下がって、耳たぶのピアス穴が両耳にひとつずつ増えていたことに気付けたくらいには、夏目は真冬の姿をよく目にするようになったのだ。バスケ部に勧誘されたこともある。夏目が運動部に所属しているということに、彼は夏目が言い出す前に、体格を見て気付いていたらしい。
また、真冬とばったり会うのは家に遊びに行ったときだけではなかった。どうも夏目と真冬の帰り道がバッティングしている箇所があるようで、時間帯によっては本当によく見かけるのだ。ときどき帰宅途中に呼び止められては、少しばかり雑談に付き合うのだ。彼の見た目と、彼が一緒にいる友人たちの容貌が恐ろしいので、連れがいるときはあまり長くは話さないが、一対一なら時間の許す限り話すこともある。
そうした雑談の中に、強い違和感を感じることが、たびたびあった。真冬と夏目の共通点は、二人とも真夏に関係しているということと、運動部所属であることだけだ。なので、話の内容も自然とそれに準じたものばかりになる。運動部――といっても、夏目は剣道、真冬はバスケなので、あまり共通の話題とは言い難いが。ゆえに、真夏についての話をすることが多かった。真冬がよく喋る男なのと、夏目があまり話し上手でないという自覚から、真冬が話して夏目は聞き手にまわるばかりだ。それ自体は一向に構わないのだが、彼の話を聞いている、その雑談の中の違和感というのは、主に真夏の話をする場面で感じるものだった。
真冬と夏目の、真夏に対する認識や印象が大きく食い違っている。
夏目の知っている真夏と言えば、良くも悪くもよく喋り、たしかに教師の前などでは萎縮してしまう小心さはあるものの、それでも夏目たちの前では、少し意地悪でありながら優しさもあり、よく笑う、それなりの明るさを持った少年だ。夏目は真夏と話すときも、真冬のときと同じように聞き手にまわることがほとんどで、彼の話は聞いていて楽しい。見た目はまったくといっていいほど似ていない兄弟だが、その点においては少し似ているのかもしれない。
しかし、真冬から見た真夏は、夏目の知る真夏とはおよそ正反対だった。雀の涙ほどの愛想もない。月に一度でも会話が成立すればラッキーなほうで、半年間、いや、その年に一度も真夏の声を聞かないことも珍しくはない。笑わない。それどころか表情が変わることすらまれなこと。趣味も特技もわからない。首の動きだけでイエスかノーかくらいの意思疎通はかなうのだが、真冬は真夏の声を忘れかけていると冗談めかして笑っていた。
あんな石みたいなやつと一緒にいるなんて、お前たちは相当の物好きだな。と、彼は夏目に言った。
同じ人間の話をしているのに、ここまで印象が食い違うことが、はたしてあるのだろうか。
だが、よくよく思い返してみると、真冬のいる前で真夏がなにかを喋ったことは一度もなかった。夏目が初めて真冬を見たあの日も、真夏の家で真冬が部屋に顔を出したあのときも、真夏はただ表情を殺して押し黙って、事の成り行きを傍観しているだえkだった。どうしてそんなことになるのか、夏目にはわからない。
西東真夏とはどういう人間なのか――これまでの付き合いで、なんとなくでもそれを掴みかけていた夏目は、真冬と話すうちに、その輪郭すらも完全に見失ってしまったような気がした。
ゆえに、夏目はわずか、混乱した。
*
山吹の帰り支度を待つ間に起きたことといえば、田辺千秋がそわそわと落ち着かない挙動で廊下を行ったり来たりしていたことくらいだった。待ち時間の暇つぶしにしようと思い、真夏が声をかけると、千秋は赤くなった顔をこちらに向ける。
「千秋、めっちゃ顔赤くない? 風邪?」
「ま、真夏」
「志村は一緒じゃねえの?」
蒼の名を聞いて、千秋は俯いた。普段から活発な彼女がいつになくしおらしい態度なので、真夏は小首をかしげる。
「なにかあったか? まさか本気で体調悪い?」
「ど、どうしよう、真夏、あのね、さっき別なクラスの人が来て」
「別なクラスの人が来て?」
千秋の顔がいっそう赤くなる。
「……す、好きって、言われた」
「ま」
思わず大きな声を出しそうになる真夏に、千秋はでもね、とあせったように補足する。
「で、でも私、そういうつもりなくて、けど、びっくりして。なにも言えなくなって……その人、私が返事する前に帰っちゃったから……ど、どうしよう。どうしたらいいと思う? 私、こんなこと初めてで、どうすればいいかわかんないよ」
「えっと」
そんなことを聞かれても困る。千秋は告白されたのは初めてだと言うが、ということは、以前に見かけた呼び出しはそういう呼び出しではなかったか。蒼はあわてただけ損だったということだ。
「その逃げた相手が、後日になっても返事をくれって言ってこなかったら、別にほっといていいと思うけど」
「それだとなんか悪くない?」
「千秋はそいつのこと好きなのか?」
「……ううん。気持ちはうれしいけど、知らない人だったし」
「なのに返事するか迷うなんて、律儀なことだな。したいならしてもいいんじゃない? こっちから捜して呼び出せば」
「でもさ、改めて呼び出すって言うのも、変に期待させちゃうかなって」
「だったら他の人に呼び出してもらうとか、代わりに伝えてもらうとか……直接言いに行くのもいいけど、相手に少しも期待させたくないなら、とにかく前置きを省いて、緊張しても怖くても、ぐずぐずせずに結論から言う必要がある。できるか?」
「まず最初に結論から、きっぱりはっきり……」
「そう」
「他の人に呼び出してもらうとか、伝えてもらうとかって、たとえば? 私、こんなこと頼めそうな友達っていないよ」
「ナズナは?」
「ナズナは男子と話すの苦手だし、それに、ナズナが声かけちゃうと、ちがう意味で期待させちゃうかも」
たしかに。おとなしいのであまり目立たないが、ナズナも目を惹く整った顔立ちをしている。
「じゃ、志村に頼めば?」
「な、な、なんで蒼なの?」
「お前と仲良くて、なんでも頼めそうで。そんなのあいつくらいじゃないのか? あいつに代わりに断ってもらえばいい。いや、まあ、あれもあれで小心者だけどな。それか、彼氏のフリでもしてもらうとか。志村じゃ不満か?」
ぴたり、と千秋の動きが止まる。
「別に……そういうわけじゃ……だ、だって、巻き込んじゃって、それじゃ蒼にも悪いし……」
「んー、たしかにあいつもヘタレではあるけど、千秋のためならやると思うけどな、俺は。ああ、それとも俺がやってもいいぜ、それ」
「え、いいの?」
「ああ、いいとも。そいつを呼び出して、千秋の肩抱きながら、俺の彼女だから駄目です、って言えばいいんだろ?」
「殴られそう」
「殴られそうだな」
さすがに冗談だが。
「ま、でも俺は、そういうのを頼むならあいつが一番だと思うけどな。別にキライなわけじゃないんだろ?」
「それはそうだけど」
「好きだから意識しちゃう?」
もごもごと口ごもる千秋に単刀直入に尋ねると、千秋は顔をさらに真っ赤にした。
「な、なに変なこと言ってんの!」
「あれ、ちがうの? 本当に? てっきりそうなんだと思ってたけど」
「やだやだ! もう、真夏なんてキライ!」
「いやん、きらわれちゃった」
両手で頬を覆い、片足を曲げて女のようなポーズをとろうとするが、肩からカバンがずり落ちそうになったのでやめた。
「とにかく、返事をするなら早めにどうするか決めたほうがいいぜ。俺からあいつに話を通してやってもいいし、さっき提案したとおり、本当に俺があいつの代わりになってもいい。ただ、その場合は俺がお前と付き合ってるって噂が流れる可能性があることも考えろよ。万が一、噂がたつとしたら俺と志村、どちらのほうが周囲から見ても自然で、どちらのほうが自分のためになるのかっていうのも、視野に入れてな」
「私のため?」
「だってそうだろ? もし、俺とお前の噂が立ったら、志村にまで誤解されるかもしれない。その誤解を解いたところでわだかまりが残らないとも限らない。そうなりゃ、お前にとっちゃデメリットだろ。そんなリスクを背負うよりは、普段から一緒にいて、付き合ってると言って、みんなが信じるような間柄のやつに頼むほうがいいだろうよ」
「う、うん……」
「それに、ここで志村に恋人のフリでもさせておけば、それを機にあいつもお前を意識するかもよ」
蒼は既に千秋を意識していると思うが。
「ま、またそんなこと言って……それに! なにも、告白を断るのに、彼氏のフリをしてもらう必要だってないじゃん。そのまま、蒼や真夏に頼んで伝言として伝えてもらったり、手紙を渡してもらったり、方法は他にもあるし……」
「俺はあくまで、そういう方法もあるぜっていう提案をしただけだ。そのやり方でいけとまでは言ってない。ま、自分と相談しなってことだ。どうあがいても、告白を断るってことは、相手を傷つける。それは絶対に避けられない。少しでも向こうの傷を浅く済ませるためには、より良い策も、考えればもっと見つかるだろう」
教室から山吹が出てきたのを見ると、真夏は千秋と別れて彼に合流し、生徒玄関へ向かった。
あとで聞いた話によると、千秋は蒼に事情は話したらしいが、結局、彼には頼らず、自分でその告白を断ったらしい。会って伝えたのか、手紙などを使ったのかまでは、真夏は把握していないのだが。