7「芸術の秋」
美術室は生徒たちの声で賑わっていた。授業の一環で、クラス全員がコンクールに出すという作品のテーマは「木」。皆が思い思いに制作に取り組んでいるなか、座ったまま舟をこぎ始めた真夏は夏目に揺り起こされた。夏目と山吹の二人と授業に勤しむことになるが、ちらちらと蒼と千秋の様子を見ている夏目が気になってしまい、いまいち集中できずにいた。
「千秋、それなに?」
「わ、まだ見ないでよ」
「なに描いてんの?」
「見ればわかるでしょ!」
「え……わかんないけど」
「もう! 蒼のも見せてよ!」
完全に自分の作業が止まっている夏目の手を、ペン先でつつくと、はっと我に返った夏目が真夏を見た。二人を見すぎだ。なんと露骨なのだろう。
「夏目、お前のそれはなに描いてんだ。犬?」
「ひ、人だよ」
「犬かと思ってた」
「俺はずっと馬だと思っていたが……人だったのか、それ」
「なんだよ、二人して!」
夏目の絵を覗きながら批評にまざる山吹の手元を見る。画用紙の中央に大きな木――と思しき電柱のような寸胴の柱――と、そのまわりに草や花――と見えなくもない謎のふにゃふにゃした奇妙な物体――が生い茂っている。画面の右端にはその花らしきものとほとんど変わらない大きさの謎の物体があり、楕円型の胴体と推測できるものから五本の触手のようなものが下に向かって伸びている。色がない現段階では――おそらく色があったとしても――なにを描いているのかがまったくわからない。空想神話の世界観でも再現しようとしているのだろうか。
「山吹、は……お前、知ってたけど、絵はほんと……ヘッタクソだな。ちょっと今、びっくりした俺。正気度が下がったかもしれない」
「は、はあ? たしかにまあ、得意分野ではないが、でも、夏目よりはマシだろ?」
「いや正直……山吹のほうがひどいぞこれ。なに、この……えー、くらげ?」
「クラゲじゃない。馬だ」
真夏は頭を抱える。
「な、なんだよ」
「お前はこの世に存在するすべての馬に謝ったほうがいい。なんで馬に脚が五本あるんだよ」
「脚は四本だろ。ほら、一、ニ、三、四。で、これがしっぽで」
「……頭は?」
「それはこれから描くんだ」
「じゃあ、木は……まあいいとして。馬と花の大きさが一緒なのはいくらなんでも妙だろ。どんな巨大植物を想像してるんだよ。表現の自由にも限度がある」
「そういうお前のはどうなんだ? 俺と夏目のを見たんだから、お前のも見せるべきだ」
「なんだ、知らないのか山吹。俺はお前より絵がうまいんだぜ?」
言いながら腕で隠していた画用紙を山吹に突き出す。夏目が横から覗き込んだ。
「……うまいな」
山吹はどこか悔しそうだった。夏目はただ目を輝かせている。絵はまだ全体的にざっくりと輪郭をかたどった程度にしか描き込んでいないが、二人との差は歴然だ。この年代にしては――という言葉を前につけなくてはならない程度だが、それなりにうまく描けているほうだろう。
「スゲー、真夏って絵が得意なんだな。この前ノートにらくがきしてた猫はテキトーだったのに」
「授業中のらくがきでそこまで本気出すわけないだろ」
「し、知らなかった……お前、字は汚いのに」
「そいつはお互い様だろう」
「山吹も知らなかったの? ちょっと意外だな」
「言われてみると、山吹の前で描く機会って、そういえばなかったな。知ってるやつは知ってるんだが、俺も別に得意になってひけらかしてるわけじゃないからな。これについては知らなくてもおかしくはないさ」
「そっか。幼馴染って聞いたから、てっきりなんでも知ってるのかと」
「なんでもは知らない。ただ他より少し付き合いが長くて、ちょっと詳しい程度だ。真夏のことで俺が知らないことなんて、いくらでもある」
「そういうものなのか」
「たしかに、大体の行動パターンや、会話の規則性なんかはわかってきてるつもりだけどな」
「こう言えばなんて返してくるか、なんとなくわかるってこと?」
「まあそうだ。簡単な問答なら聞かなくてもわかる」
「いいなあ、お互いを一番理解している友達って。俺もそういう幼馴染とかほしかったよ」
夏目はうらやましそうだが、買いかぶりすぎだな、と真夏は思った。真夏はたしかに山吹のことには詳しいが、一番に理解しているつもりなどないし、山吹にしてもそうだろう。実際のところ真夏を一番に理解しているのはあの白坂だ。わざわざ口に出したりしないが、あれがいる限り、山吹が一番目に躍り出ることはないだろう。
「あの二人はどうなのかねえ」
真夏は蒼と千秋を見ながら呟いた。
*
だらだらと授業を受け流しているうちに昼休みに入り、給食を片付けたあと、この長い休憩をいかにしてすごすかぼんやり考えていると、あるとき校内放送がかかった。特に珍しいこともない、生徒の呼び出しだ。
「生徒の呼び出しををします。二年五組、西東くん。至急、職員玄関まで来てください。繰り返します。二年五組、西東くん――」
聞き覚えがあるような、ないような女性の声がスピーカー越しに、かすかなエコーをかけた声で繰り返す。二年五組にサイトウは真夏一人しかいない。身に覚えのない呼び出しにぎょっとする。
「真夏、呼び出し……」
夏目が心配ように歩み寄ってくる。
「……叱られるようなことをやらかした覚えはないんだけどなあ」
「いや、別になにか怒られるって決まったわけじゃないし。ほら、玄関に来いってことは、単純に誰か来てるとか。家の人になにかあって、それで迎えが来たとかじゃないの?」
「そうか? だったらいいや」
家族の身になにかが起きたことより、自分が叱られるかもしれないことのほうが重要であるというのが真夏の価値観だ。
「ついて行こうか?」
「あ、そう。じゃあそうして」
二人そろって教室から出て、真っ直ぐに続く廊下を歩いていく。この時間を待ち望んでいたかのようにはしゃぐ生徒たちの騒ぎ声は、最初こそやかましく響いていたが、職員玄関に近付くにつれて、遠く、小さくなっていった。子どもは大人たちの共有スペースには安易に近付こうとしないものだ。
指定の場所に到着するころには生徒たちの声は聞こえなくなったものの、代わりに耳慣れた男の声と、聞き慣れない女の声がした。
「――そう、じゃあバスケは続けてるのね」
「まあね。もともと好きで始めたし、やめる理由もないし」
「でもね、ちゃんとマジメに学校には行きなさいよ。どうせ、今日もサボってきたんでしょ。あなた、ここにいたときもテストの点数はよかったけど、中学と同じじゃないのよ、高校は。特に片並は厳しいのに」
「わかってるって。俺ってば、そのへんちゃっかりしてるし。欠席数も数えてメモとってるし」
「そのマメなのを他に活かしなさい、もう……」
夏目を連れてきたのは間違いだったと、そこに来て真夏は後悔した。真夏に気付いた女教師はあら西東くん、と声をかける。その教師と話していた男は、真夏より十センチ以上は背が高く、体格もいい。髪を色素の薄い色合いに染め、両耳にはピアス穴。ワイシャツのボタンを上から二つ外し、中に着ている赤いシャツが襟元に見える。ネクタイはない。ズボンをやや下にずらして履き、足もとは裸足で黒いサンダルをひっかけている。校則違反の塊のようだ。
「あなたのお兄さんが来てるわよ」
西東家における真夏の立ち位置は末っ子……と言えるだろう。真夏の実の兄――西東真冬を見た途端に、真夏は己の感情と声が一瞬にして死に絶えていったのを自覚した。一方の真冬は真夏を見るや否や、おお、と声を上げ、ずかずかとその長身を真夏に並ばせる。
「真夏! お前さ、あれ、家の鍵持ってる? 俺の鍵、いつの間にかなくなっててさ。落としたかもしんね。母さんに言ったら超怒られたんだけど」
真夏はズボンのポケットから自宅の鍵を出すと、黙って真冬に突き出した。真冬をそれを受け取ると、サンキューと悪びれもせずに言う。そして、真夏の隣で固まっている夏目を見た。
「お、真夏の友達? え、てかお前って白坂以外にちゃんとした友達とかいたんだ。ウケる。あ、でもたまーに部屋にあげてんね。前にうちに来たことある子?」
「あ、はい。えと、田中夏目です」
名乗る必要はないと思うが。
「へえ、夏目くん。俺、真冬。真夏の兄貴。今高一ね」
「……あの、もしかしてバスケ部の」
「あ、知ってる? なに俺って超有名人じゃんヤバ。照れる」
有名は有名かもしれないが、良くも悪くもだ。それも、悪い意味でのほうが七割を占めている。
真冬もこの中学校の卒業生なのだが、有名は有名でも厄介な不良として有名だったのだ。当時から現在でもバスケ部に所属しており、部活には熱心で主将を務めたこともあった。実力もあり、大会などでも功績を残していたが授業はサボリがちで、よく問題を起こしては説教を受けたり、親を呼び出されたりもしていた。
それでも要領がいいため、テストの点数だけはよかったのだ。社交的で上にも下にも友達が多く、存在感があった。彼を知る在校生も多い。素行は悪いが、点数は良かったために、なんとか片並の受験に成功し、進学したあとも相変わらず、問題児を続けている。真夏とはあらゆる面で正反対の男だ。
「こいつ、俺に似ず暗いからさあ。だいぶメンドクサイと思うけど、ま、今後とも仲良くしてやってくれや」
じゃあな、真夏――真冬はそれだけ言い残して職員玄関から駆け出していく。普段から運動をしているだけあって、すぐにその背中は見えなくなった。
「ま、真夏」
踵を返して教室へ戻ろうとする真夏に、夏目があわててついてくる。信じられないものをみたような目だ。
「今の、お前のお兄さん?」
「そうじゃなきゃ家の鍵なんて渡すかよ」
「や、そうだけどさ」
「なんだ、噂は知ってただろ。西東真冬。見てのとおり、ヤンキーなんだよ。片並生だけど」
「……だよな。片並生なのに」