5「その秋」
「それで? ひと月前、お前は夏休みの課題には一切手を付けないと豪語していたわけだが、これを見てもまだ同じことが言えるのか?」
白坂友人が二枚の再生紙を真夏の顔の前に突き出す。数式の羅列。計算しなさい、と指示されているにもかかわらず、半分以上の問いが未回答のまま赤いバツ印をつけられている。記入した氏名の横にはゼロから数えたほうが早いほどの、あまりに低い得点。
それは西東真夏の数学の答案用紙だった。一学期の中間テストと期末テストの結果を足してもなお、点数は五十に満たない。白坂は机の上にテスト用紙を叩きつけ、テーブルを挟んだ向かい側に、どすんと腰を下ろす。夏休みも終盤の昼頃、真夏の自室でのことだった。
「お前が昔から数字に弱いっていうのは知ってるけどさ。せめて数学の問題集くらいは片付けておいたらどうだ?」
真夏は床にごろりと横になり、嫌そうな顔をする。
「ええ? ヤだよ。今さらそんなのやったところで、救いがあるとでも思うかね?」
「まったく思わないが。受験のほうは大丈夫なのか?」
「俺たちはまだ二年生だぜ? そんなの、まだ考えたくもねえな。なんのために生きてるのかわからなくなってくる」
「もうちょっと危機感を持てよ……」
「俺がそんな説教で行動を起こすはずがないことくらい、お前は知ってるだろうよ。今まで何度同じことを言われてきたと思ってんだ」
「ダメ人間だなあ」
「それも既に知っているはずだ」
この白坂というのは、真夏の幼馴染である。いったいどれほどの付き合いになるのか、今となってはいまいち覚えていないが、山吹よりも白坂と一緒にいた時間のほうが長いことは明白だ。つまり、真夏がこの片並町へ越してくる以前からの付き合い――ということだ。家の事情で転居が決まったとき、この白坂との縁もおしまいかと思ったが、どういうわけか、いつからかこの男もこの町に住んでいるのである。
ともかく、白坂と真夏は一般的には親友と呼べる間柄の付き合いを、かれこれ十年以上は続けている。真夏はあまり家族との仲がうまくいっておらず、家庭内での会話を厭う。そんな真夏にとっては、彼こそが自身にもっとも近しい、唯一であり随一の理解者で、同時に、真夏もこの友人を誰より理解しているつもりだ。
「そんなに言うなら白坂、お前も手伝ってくれよ。俺一人じゃ問題集を片付けるどころか、向かい合っていることすら五分と続かない」
「わがままだなあ」
白坂は言う。呆れた顔はしているが、それ自体は本心ではない。白坂は昔から面倒見のいい――面倒見の良すぎる男だ。誰かに頼られることがなによりの快感で、頼りにされることこそが生き甲斐なのだ。なので、真夏をわがままだと言って呆れてみせるのは上辺だけで、もとよりそのわがままに付き合うつもりだった。断るつもりなど微塵もないのである。それがどんな頼みであろうと、彼は引き受ける――長い付き合いの中で、真夏はそのことを重々に理解していた。異様に尽くしたがりな人間なのだ。
そして対する真夏は、いかんせん能天気であまり細かいことを気にせずに生きているためか、白坂の要望――なにか自分に要望をよこせという要望――にも、たいして疑いもなく答え続けている。単純に真夏自身にそなわっていた、願望や理想を現実のものにしたがる傾向、つまり少々わがままな部分の矛先をすべて白坂にぶつけているというのもある。彼の世話焼きな性格をいいことに、あれこれ言いたい放題なのだ。
ただ、西東家は真夏がまだ幼かったころから両親が多忙で、毎日、朝早くから夜遅くまで仕事に明け暮れているため、とくに平日の間はろくに顔も合わせない。現在高校一年の兄も、バイトや遊びに忙しいのか、両親に同じく家の中で顔を見る機会も少ない。真夏自身が家族とあまりうまくいっていないというのもあるが、基本的には自分のことは自分でしてきたので、真夏はあまり他人に頼ったりしない。誰かにやらせるよりも自分でやったほうが早いということだ。
だがこの白坂も見上げたもので、真夏の些細な言動で、真夏がこれからしようとしていることを理解しては先回りして物事をこなしたりする。状況を把握するのが早い。だが、白坂が己の思うがままに誰かに奉仕し続けてしまうと、大抵の人には負担になってしまうのだ。自分はなにも返せないのに、なぜこの人はここまでしてくれるのだろう。いったいなにを期待されているのだろう、と。頼まれたことだけこなすならまだしも、頼まれていないことまでやってしまう。尽くしすぎて気味悪がられ、せっかくできた彼女にフラれることも多い。
要はお互いがストレスのはけ口になっていて、真夏はなにかといいように白坂を利用し、白坂は自分の願望のままに利用され続けている。白坂の異常な奉仕属性を受け入れ気にしない真夏と、真夏を甘やかすことで奉仕願望と奇妙な承認欲求を満たす白坂。ギブアンドテイク……と言っていいのだろうか。互いに便利だから続いているような関係だ。もちろん、それはそれとして、人柄や趣味嗜好などの相性もいいのだが。
しかし、それだけ相性がいいにも関わらず、西東真夏と白坂友人は一瞬たりとも同じ学校には通ったことがない。保育園、小学校、そして現在の中学校に至るまで、片並町に来る前も今も、真夏と白坂は同じ学校内ですごそうと思ったことはなかった。真夏は自分の言うことを聞いてくれるなら誰でもいいし、そもそも白坂に頼らずとも大抵のことは自分でできる。白坂とて、自分を頼りにしてくれて、思う存分尽くさせてくれるなら真夏でなくてもいいし、真夏にこだわる必要はない。お互いが必要以上に依存したりしないようにという線引きの意味もあるのかもしれない。意外とドライなのだと真夏は思う。
真夏は白坂に言われるがまま、素直に数学の問題集をカバンから探り出した。記名すらされていない問題集は新品そのもので、それを机の上に雑に開くと、シャープペンシルを手に取った。しかし、それきり真夏は動かない。しばらく問題文を睨みつけ、頬杖をついたり、ペン先で紙のページをとんとん突いたりしてから、問題集のうしろに附属していた薄っぺらい冊子を白坂に渡す。
「白坂、答え読み上げて」
「あきらめるのが早すぎるだろ。もう少しがんばれよ。どれ、ええと……」
「ああ、待って。やっぱり自分で写すからいいや。そのほうが早いし。お前はもういいから、適当に漫画でも――俺ほとんど漫画持ってねえや。そのへんの本でも読んでて」
真夏は素っ気なく言い、白坂から回答の冊子を返すように手を出して催促するが、そうすると白坂はあからさかに機嫌の悪そうな顔をした。怒っているというよりは、子どもが拗ねているような表情だ。もっとも、真夏は自分のこの言動によって、白坂がどういった行動に出るかなどは推測済みだ。逆に言うと、白坂を動かすにはどういう態度をとればいいのかを理解している。この程度の操縦ならば簡単だ。
白坂は冊子を真夏には渡さず、床に置いた。そのあと、真夏の手からペンと問題集を取り上げ、お前は国語と社会科の宿題でもやっていろ、と怒鳴るように言うと、勝手に問題を解き始めた。白坂という男は、一度は頼んだ用事を取り消したり、取りやめたり、とにかくせっかくの仕事を奪われそうになると、無性に腹が立つ性格なのだ。とくに真夏の前ではこれが我慢ならないらしい。
彼は真夏とは違って勉強が得意なので、ニ十ページほどしかない夏季休暇中の宿題用問題集など、すぐに終わらせてしまうだろう。学力的にはおそらく、学年トップレベルの山吹と並ぶか、あるいはそれ以上ということも考えられる。なんでも言うことを聞いて、頭がいい。真夏にとっては都合のいい存在だ。
結局、数学の課題はすべて白坂がやってしまい、真夏はと言うと、昨日と一昨日のうちに気まぐれに手を出した国語の問題集を軽く終わらせてしまい、そのあとは読みかけの本を読破することに専念していた。白坂が真夏から課題を奪ってから十五分もすると、パシ、と紙の束を叩く音がした。
「ほら、これでいいだろ」
白坂が問題集を返却する。仕事が早い。パラパラとページを捲って中身を確認してみる。
「何問か解きかけだったり、やってないところもあるけど」
「全問正解だと教師に疑われるだろ。とくに、お前は数学の成績が壊滅的なんだからな。だから、途中のむずかしい問題は解きかけであきらめたように、その問題集で最高難度の問題は手をつけず、ついでに、いくつかお前がよくやる計算ミスも挟んでおいた。それなら、誰かにやらせたとも答えをカンニングしたとも思わないはずだ。筆跡も問題ない。お前の字に似せて書いてある。お前の字は汚いというより癖が強いだけで、特徴的だから真似がしやすいからな」
「……あ、うん。ありがとう」
尽くしたがるのは大いに結構。真夏もあまり白坂のすることを気に留めないので、気味が悪いと思うこともほとんどない。真夏に損はないので黙っていたが、いや、さすがにそこまでされると少し、なんというか……。とにかく、ときどきこういうところがあるのだ。ちょっと待ってろ、と真夏は部屋を出て一階のリビングへ向かった。キッチンで冷凍庫からアイスを二本取り出して、二階の部屋に戻る。緑と紫のアイスのうち、緑のほうを白坂に差し出す。
「ねぎらいだ」
「何味?」
「メロン」
「お前って、いつも嫌いな味を俺に処理させるよな。前はイチゴだった」
「イチゴはともかく、メロンは西東家じゃ誰も手をつけないんだよ」
「俺はこの家で一度も、イチゴとメロン以外のアイスをもらったことがない気がする」
「みかん味もあるけど」
「いや、メロンでいいよ、嫌いじゃないし」
「病院で舌を診てもらったほうがいいぜ」
「お前は世界中のメロン好きに謝ったほうがいい」
「ごめんね」
「うーん……、よし」
いいのか。
白坂は問題集と筆記用具を片付け、アイスの小包装を開封すると、最近どうだよ、と雑に世間話を切り出した。真夏もアイスをかじる。この男はときどき少し気持ち悪いところはあるが、そういう他愛のない会話も楽しめるくらいには話しやすく居心地のいい良き友だ。
「どうもなにも、相変わらず――いや、どうだろうな。もう中学生なんだ。それなりに色づきだしてもおかしくはない年ごろだろうよ。さすがに、いつまでも小学生気分ってわけにもいられないのが現実だね」
「思春期男女の成長の現実より、自分の成績の現実を見てほしいもんだが――すると、なにか? ついに真夏にも春が来たってことか?」
「バーカ、俺じゃねえよ。前に話した志村ってやつだ」
「ああ、少し前に知り合ったひ弱そうなやつのことか。そいつがどうしたんだ」
学校で出会った友人たちのことは、日ごろから白坂にも話して聞かせているので、彼も蒼たちのことは知っている。
「同じクラスに田辺千秋って女子がいる。志村蒼の幼馴染だ。とはいえ、この年の男女としちゃ仲がいい」
「別に、不思議なことでもなかろうよ。男女の友情ってものが、必ずしも成立しないとは限らない。お前だってそうだろ?」
「そりゃあ、俺にだってお互いに異性として見てない女友達くらいいるから、それはわかってる。でもなあ、なんというか。あの二人の挙動を見ていると、ただのオトモダチですってわけでもなさそうなんだよ」
「……つまり、その志村蒼が田辺千秋を、あるいは千秋が志村を好いていると?」
「二人の様子を間近で見ている俺から言わせてもらうと、その両方って可能性もあるな」
「お前の観察力は侮れないからな。じゃあ両片想いってことになるのか。そいつはまた、めでたい話で」
「めでたいもんかよ。お互いがお互いの好意にまるで気付く様子がないんだぜ? それがもう、見ていてまあ歯がゆい。じれったい。当事者二人がそれでいいってんならいいんだと思うがな。そうでないならもっともどかしい」
「お節介だな。そもそも、その二人が本当にそう、片想いし合っているというのも、お前の推測であって、実際のところはわからないんだろ?」
「いいや、あれは確実だと思うぜ。なにも、これに気付いてるのは俺だけじゃない。近くで見てりゃ、わかるもんなんだよ。あいつら自身に隠す気がないのか、そこからもう既に無自覚なのかは知らんがな」
「わかった。真夏がそうまで言うならそうなんだろう。でも、だとして、だからなんなんだ? 二人が付かず離れず、で、お前はなにがしたい?」
白坂の問いに、真夏は面倒くさそうに眉をひそめた。
「ええ? いや、なにがしたいっていうか……さっさとひっつかねえかなって」
「それこそ余計なお世話だな。他人がどうこう口出ししていい問題じゃないだろ。そっとしといてやれよって。俺はむしろ、早くお前の彼女を拝んでみたいぜ」
「そいつは無理な話だ。当分の間はあきらめてもらおう」
「なんだ、好きな子もいないのか?」
「いねえよ。うちの女子って怖いし。面倒ごとは御免こうむる」
「どうしたもんかな」