4「慣れたこと」
「ねえ、西東くん。今ちょっといいかな?」
校内清掃の時間、担当区域の掃除もぼちぼち終わり、帰りのホームルームのために教室へ向かっていた真夏を、女子生徒が引き止めた。見覚えのない顔だが、後ろ姿だけで真夏を判断できたということは、同じクラスの生徒か、もしくは去年に同じクラスだったか。
真夏は人見知りをする性格ではあるが、それをあからさまに表に出して応対すると、どうしても素っ気なくなる。それでは怖がらせてしまうので、意識してわずかに明るい声で、優しめの言葉を選びながら作り笑いを浮かべた。
「いいよ、どうしたの?」
知り合いである体で返事をしているが、心の中ではただ誰だったかを思い出そうと必死だった。正直、尋ねそうになった。
「あ、いや、たいしたことじゃないんだけど。ここじゃちょっと……」
「……大事な話?」
「う、うん、まあ、その……誰もいないところで話せないかな?」
「あー。……そこの渡り廊下でいいかな?」
「あ、じゃあ、そこで」
いったい真夏になんの話があるのか。そんなことは、声をかけられてここでは話せないなどと言われた時点で既に察していた。ため息をつきそうになるのをギリギリでこらえる。先に指定した渡り廊下には、一年生の男子が一人か二人ほど見えたものの、二年の生徒はいない。ちょうど誰にも話が聞こえないであろう位置で立ち止まり、本題を待つ。
「ほんと、あの、たいしたことじゃないんだけどね、別に」
「うん」
「西東くんってさ……その、山吹くんと仲良い、よね?」
「ああ――」
やっぱりその話か。
「うん、そうだね」
「どれくらい一緒にいるの?」
「小学校の二年だったかな。それからだよ」
「そっか……じゃ、付き合い長いんだね」
「まあね」
「じゃあさ、知ってたらでいいんだけど……山吹くんって、付き合ってる子とかいたりする?」
何度も同じ質問をされてきた。いちいち回数を数えてなどいないが、山吹のことを知りたい女子が真夏のもとへと情報を集めにやってくるのはこれが初めてではない。本人には近寄りがたく、直接聞くことなどできないから、こうしてそのしわ寄せを真夏が引き受ける。そんなことをしたところで、話しかけることができないなら、なにも意味がないというのに。ただ真夏に自分は山吹が好きだと伝えているだけだ。
モテる男はたしかに大変だが、モテる男の親友というのも、なかなか大変だ。
「彼女はいないよ。好きな子もいない」
「そうなんだ! あ……ちなみにさ、山吹くんの好きなタイプとかって、どういう……」
「……えっと」
さすがにそこまでは真夏も知らない。返答に困っていると、女生徒はあわてて手を振った。
「あっ、やっぱ、ごめん、なんでもない! 今の忘れて! ご、ごめんねーいきなり変なこと聞いて――じゃあ、ありがと!」
一方的に話を切り上げ、そそくさと去っていくセーラー服の後ろ姿をぼんやりと見送り、そのうち真夏も自分の教室へと戻った。厚意で答えるようにはしているが、正直、こういうことの相手をするのは面倒だ。
ホームルームが終わると一斉に校内がざわつきはじめる。次々と教室を去っていくクラスメイトたちに続き、真夏もショルダーバッグ型の学生カバンを肩にかけた。カバンはもともと兄のおさがりでベルトが長く、兄ほど長身ではない真夏には扱いづらかったが、慣れてしまったのか、最近はあまり気にならない。使えないわけでもないので妥協している。
「真夏くん」
教室から一歩出たとき、廊下に立っていた男子生徒が真夏に声をかけた。真夏より小柄で、温厚そうな顔をした、どちらかというとかわいらしい顔立ちだ。知っている顔だ。たしか名前は――。
「ああ」
……なんだったか。
いや、たしかに知っているのだ。顔も声も、何度も見たし、何度か話したことがあるのも覚えていて、もはや人見知りをする時期のすぎた相手だ。先週の土曜日に街でばったり出会ったときも、どちらからともなく声をかけて少し話したのも覚えている。名前だけが出てこない。呼んだ覚えがないからだろう。
「蒼、もう帰った?」
「さあ、まだいるんじゃねえの」
思い出せそうで思い出せない、もどかしさを隠して教室を振り返るが、まだ教室に残っている生徒たちの姿に隠れてしまっているのか、すぐには見つからなかった。もう一度、少年を見ると、そのうしろから一人、これまた顔は知っているが名前が出てこない女子生徒がやってきた。肌は白く、目つきがやや鋭いような印象を受けたが、顔立ちは整っている。デフォルトで張り付いた無表情が人形を連想させるが、案外、このポーカーフェイスはすぐに崩れる。
「蒼は?」
少女が同じことを問う。そこではっとした。いつも一緒にいる男女の二人組で、真夏の顔見知り。ということは香とナズナだ。……たぶん。いや、あまり自信はない。というか、名前自体は合っているかもしれないが、どちらも中性的な名前なため、どちらが香でナズナなのかがわからない。
少年がうしろからやってきた少女を振り返ったときに、彼のカバンが真夏の腕をかすった。咄嗟にそれを捕まえると、無断のままにファスナーを開け、中からノートを一冊引っぱり出した。社会科のノートだ。表には山吹などとは比べるのも失礼なほど丁寧な字で「藤谷香」と記名されている。香があっけにとられているのをよそに、ひととおり中身をパラパラ捲ってカバンに戻す。
「ノートにらくがきないね」
「してないよ。社会の先生、厳しいし」
香はカバンのファスナーを閉じながら笑っている。真夏の奇行を見慣れているような順応力だが、最初の顔から察するに、適応したのは今この瞬間からだろう。
「香、蒼まだいた」
ナズナが教室の隅を指差して言う。真夏もつられてそちらを見ると、千秋となにやら話し込んでいる蒼の姿があった。二人はすぐに真夏たちに気付いて、出口に集結する。ナズナが蒼に向かって、なにしてんの、と不満そうな声を出した。
「放課後、本屋行くって言ってたじゃん」
「え、そうだっけ」
「自分で言っといて忘れんなよバカ」
「バカじゃないし」
喧嘩――と言うにはあまりに静かなやりとりだ。言い合いはこのまましばらく続きそうな様子だったが、千秋が間に入って止めた。
「ごめんごめん、私が引き止めてたんだ。もしかして急いでた?」
「いや、別に急ぎじゃないし」
申し訳なさそうな千秋を、あせったように擁護する蒼。香が思いついたように、そうだ、と真夏に振り向いた。
「千秋と真夏くんも一緒にどう?」
「え? うーん……うん、蒼が行くなら私も行こうかな」
千秋はニコニコと機嫌がよさそうだ。見ていると心が浄化されていく。蒼の目がちらりと真夏を見たので、真夏は顔の前で手を振ってその視線を遮る。
「俺はいいや。今日は財布も持ってきてないし」
「そう? じゃあ、また今度」
「機会があったらな」
真夏は帰宅に向けて歩き出そうとするが、五歩もしないうちに立ち止まった。もう一度教室のほうを見ると、香とナズナはまだそこにいる。
「お前らって付き合ってんの?」
二人は真夏の問いに目を丸くしたが、やがて香が困ったように笑った。
「そういうんじゃないよ」
「へー。じゃーな」
この男が言うだけ言って去って行くのはいつものことだ。
生徒玄関で帰路を急ぐ生徒たちのなかに田中夏目の背中を見つけた。夏目は真夏に気付くと片手を挙げる。
「なにしてんだ、夏目。部活は? サボリか?」
「ちがうよ、今日は休みなんだ」
夏目は運動部に所属しており、いつも朝や放課後は忙しそうにしている。真夏は自分で聞いておきながら、たいして興味もなさそうに、ああそうとだけ言った。
「蒼はどうしたんだ?」
と夏目。なぜ彼はいつも真夏と蒼をセットに捉えているのだろうか。
「別にいつも一緒にいるわけじゃないぜ? ナズナたちと本屋に行くんだってさ」
「本屋かあ。そういえば、真夏もよく本とか読んでるよね」
「……まあ、たまにな」
他のクラスメイトと比べれば読書量は多いほうだとは思うが、読書が趣味であるとか、読書家だとか公言できるほどではない。読まないときは読まないし、読むときは狂ったように読む。
「なにかおもしろい本ないかな? ほら、もうすぐ夏休みだし、読書感想文とかって宿題に出るし」
「そんなこと言われても、個人の好みもあるし、自分で図書館にでも行って、これだと思ったの借りてくればいいだろ」
「俺、本とか探すの苦手なんだよ。いっぱいあるから、なにから見ていいか……」
「そうかい。俺は他人に物を薦めるのが苦手なんだわ」
上履きを脱いでスニーカーに履き替える。履き古されたスニーカーは真夏の足によく馴染んだ。
「……じゃあ、うち来るか? 俺の好みでよけりゃ、いくつか紹介するから、気になったやつがあったら貸してやるよ」
「え、いいのか?」
「ダメなんだったら言うわけねえだろ」
カバンを肩にかけなおし、夏目と並んで校舎を出た。
「真夏の家に行くのって、そういえば初めてだなあ。あ、今日は山吹は?」
「今日は一緒にいる気分じゃない」
「き、気分って」
「いや、委員会のことで呼ばれたらしくてな。まあ、そうでなくても、毎日一緒なわけじゃねえけど」
「ああ、なるほど。山吹は、読書感想文はどうするのかな」
「あいつの手書きの感想文を読まなきゃいけない先生も大変だな。あんな古代遺跡の石版に彫られてそうな文字を正しく解読できるものなのかね」
「古代文字は言い過ぎだけど……まあ、キレイな字のほうが読みやすいのはたしかだよね。あいつって、本とか読むっけ」
「いや、山吹は漫画ばっかりだな」
「そっか。じゃあ、なに読むか選ぶの大変だろうな。真夏はどうすんの? やっぱり、これまで読んだことのある本から決める?」
「いや、俺は宿題とかやらない派だから読書感想文も書かないし、本も気が向いたときにしか読まない」
「……大丈夫なの? それ」
「夏休みに休めないなんて、それじゃあ休みの意味がないだろ。そっちのほうがどうかと思うぜ、俺は。子どもは子どもらしく遊ぶために生きてるんだからな」
「ダメ人間がいる……」