17「二人の行方」
二月十四日、毎年恒例のバレンタインデーは例年どおりのにぎわいと浮わつきを見せていた。教室には既にチョコの甘い香りが漂い、真夏は朝から胸が躍る気分だった。
別のクラスの友人たちに手製の焼き菓子を配り、女友達からは義理チョコを頂戴してから教室へ戻る。ナズナは風邪で欠席しているとのことで、去年よりもらえるチョコの数が減ったからと思ったが、山吹のことで真夏に世話をかけた女生徒数人からの謝礼という思わぬ収穫もあり、喜ばしいことに今年は豊作であった。口止め料の意味も込められているかもしれないが、こういう見返りがあるのならいくら呼び出されても構わない。
「千秋、義理チョコちょうだい」
クッキーの入った小袋を片手に横から千秋の肩を引き寄せた。その正面にいた蒼がはっとするが、千秋の手前なのでなにも言わず、ただ真夏を睨むだけだ。
「真夏のクッキーって、年々バージョンアップしてるような気がする」
「作り始めるとだんだん凝りたくなってきて。ほれ、志村にも」
「いらない」
「じゃあナズナの分。帰ってから渡しといてよ」
「自分で渡せば」
鋭く言う。真夏は、ああそう、となんでもないように会話を切り、千秋に軽く手を振ってから席に戻った。数秒、ぼんやりとし、唐突に発声する。
「委員長、クッキー食べる?」
いきなり呼ばれた委員長が振り返る。席替えの結果、彼女は今、真夏の前の席になっていた。真夏は蒼たちをちょい、と指で示した。
「志村がいらないって言うから、余っちゃった。あげる」
「ありがとう……あ、じゃあ、私も、これ」
委員長はカバンからプレゼント用の小さな紙袋を出して、真夏に差し出した。中にはかわいらしいリボンとシンプルな包装紙でキレイにラッピングされた箱が入っている。
「お、ありがとう。これ作ったの? はあ、なるほど、これが女子力か」
「本当は、こっそり机に入れておこうかと思ったんだけど……」
「ああ――」
真夏の机の中は教科書類でいっぱいだ。チョコが入る隙間などないし、今日のためにわざと隙間を作っておく、という発想も真夏にはない。委員長は真夏が渡したクッキーを大事そうに両手で包み込む。彼女は物の扱いがいつも丁寧だ。
「西東くん、クッキーとか作るんだね。ちょっと意外」
「機会があれば作るよ。夏目あたりに聞いてみな。結構、好評だから」
「珍しいね、男の子でお菓子作りが得意って」
「そう? 香とかも得意だけど……珍しいといえば委員長、最近あんまり眼鏡してないね」
「あ、う、うん。コンタクトに変えてみたの」
「髪型もときどき変えてるよね」
「……へ、変じゃないかな?」
「全然。雰囲気が変わって、いいと思うよ」
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきたので会話が終わる。真夏の頭の中は、既に放課後に山吹の家で開かれるチョコレート処理の会のことでいっぱいだった。
「いや、すごいな、今年は」
机の上に今年の戦利品を並べていく山吹に、真夏は思わず苦笑した。今年で卒業であるからか、これまで渡せずにいた者も勇気を出したのだろう。その数もさることながら、中身にもかなりの気合が入っていることが見てとれた。両手で抱えてもこぼれ落ちる。数えるのも面倒なほどだ。これだけあれば、持ち帰るのもひと苦労だろう。
「いくつか本命がまざっててもおかしくないんじゃないか?」
「全部、余り物とか、みんなに配ってるからって渡されたし、それはないんじゃないか?」
毎年のことだが、その言葉が建前であることに気付かない彼の鈍感さもさすがだ。山吹は苦しそうな顔で真夏を見る。
「とりあえず……今年も頼む」
「はいはい。あ、でも、俺も今年は収穫が多かったし、そのつもりで食うから。今日はいつもよりがんばれよ」
「ええっ」
「胃袋も無限じゃないから」
「無限みたいなもんだろ」
「お前は俺をなんだと思ってんだよ」
山吹がグラスを差し出し、茶を注ぐ。
「それで、そっちはどうなんだよ、本命のほうは」
「え? ああ、まあ、うーん……」
なんと答えたものか言葉に迷う。山吹は首をかしげる。
「うん?」
「……ま、俺ほどの男にもなると? 本命のひとつやふたつ? もらえてもおかしくないけど?」
「おっと、ウザいパターンに入ったか」
山吹は手近にあったクッキーを一枚、口に含むと少し黙った。そして、腕組をしてなにかを考えている。
「どうした?」
「いや……なんだろうな、この……言っちゃ悪いんだが、女子よりもお前や藤谷が作るお菓子のほうが……うまいんだよな。なんだ……なんなんだお前は、気持ち悪いな」
「それは、ええ……? なんだよ、怒ればいいのか? 喜べばいいのか?」
山吹が持っていたクッキーを一枚、手に取って噛み砕く。
「あ、たしかに俺より下手だね」
「はっきり言いすぎだ」
*
志村蒼は決断できずにいた。
田辺千秋への恋心を、真夏に悟られつつあったことには以前から気付いていた。あの男は普段とぼけた顔をしているくせに、妙なところで鋭いのだ。しかし、千秋への想いを知られたとしても、蒼の生活がなにも変わらないのなら、なにも困ることはなかった。ごまかしが効かなくなり、想いを認めることになっても、それだけなら構わないと思っていた。
だが、現実は違った。蒼が想定していた遥か上をいく結果が待っていたのだ。千秋を慕っているという、あの男の言葉を今でも受け入れられずにいる。まさか、こんな身近に恋敵が現れるなどとは、夢にも思っていなかった。蒼のショックは大きい。
「蒼、どうかした?」
千秋が隣から蒼の顔を覗き込む。はっと我に返り、いや、と首を振る。
「なんでも、ない」
卒業まで、残り一ヶ月を切っている。あの男は本当に、卒業式の日に千秋へ想いを伝えるのだろうか。いや、あれならば、やりかねない。
「千秋」
「なに? 蒼」
「あのさ……」
西東真夏はまっすぐな男だ。そして同時に、複雑に入り組んだ人間性の持ち主である。思ったことをそのまま言葉にできる素直さ。自己中心的な発言と、気ままな行動に、時折、見え隠れする優しさと他人への心遣い。度胸があって、気が小さい。思慮が浅く、計算高い。お調子者だが、謙虚で冷静。
態度が矛盾だらけで理解に難い。会う度に少しずつ、知らない顔を見せる。ただの一度、関わっただけでは到底掴みきれない。なんだか深く覗き込みたくなるが、近くに寄って手を伸ばすと、するするとすり抜けていくような、奇怪な男だ。
「あいつのこと、どう思う?」
「あいつ?」
「西東」
「ああ、真夏? どう思うって……いい人、だと思うよ。なんだかんだ優しいよね。私、いろいろ悩みとか、話聞いてもらっててさ。よくわかんないところもあるけど、結構、好きだよ」
好き、という言葉に一瞬、ぎくりとした。友達として、というニュアンスに聞こえたが、もしかすると――という不安が、胸の奥で渦巻く。
蒼には真夏ほどの個性がない。真夏は人見知りでも慣れると非常に気さくだが、蒼はそもそも人と話すのがあまり得意ではないし、表情を他人にさらすのも、なんだか恥ずかしい。強い感情は咄嗟に隠そうとしてしまうし、あまり素直でもない。優しく、気が利くわけでもない。人一倍の勇気などもあいにく、ない。取り柄らしい取り柄がまるでないのだ。こんな自分が、千秋を好きになることはあっても、千秋から好かれるはずがない。そして、千秋が真夏に好意を抱かない保障など、どこにもない。
真夏が言ったとおり、千秋は魅力的だ。そんなことはわかっている。誰よりも近くで、誰よりも長く、彼女の隣で、彼女とずっと一緒にすごしてきたのだ。わざわざ真夏などに言われなくとも、彼女の持つ魅力は、蒼が一番よくわかっている。あんな男よりも、蒼のほうがよっぽど千秋をわかっているのだ。
自分が一番、彼女に近かったはずなのだ。
それを今さら、他の男にとられるなんて。
そんなのは嫌だ。
「ち、千秋、あの」
一瞬、千秋と目が合った。すぐに逸らしてしまう。そして、自分はなにを言おうとしたのかと冷静になる。やめておけ。おかしなことを言うな。このまま黙っていれば、なにも変わらずに帰れるのだ。幼馴染で、親友という、この関係のおかげで千秋と一緒にいられるのに、自らそれを壊すことにメリットはない。壊してしまえば後悔する。蒼はただ、明日も明後日も、今までと同じ生活を送っていたいだけなのだ。
余計なことはするな。
「どうかしたの?」
そう、黙っていればいいのだ。口を閉ざすのは得意だろう。なんでもないような顔をして、その無表情の下にすべてを隠してしまえばいい。なにも難しくはない。いつもしていることだ。
「……なんでもない、また明日」
一方的に話を終わらせ、帰宅したあとも蒼の気持ちは晴れないままだった。胸中では常に不安と緊張がせめぎ合い、ストレスのあまり吐き気を催しそうなほどだ。
なにもしないまま時間だけが無駄に流れていき、日が暮れ始めても、蒼の頭の中は千秋と、真夏のことでいっぱいだった。
ずっと今のままでいたい。だが、このままではいけないとも思っている。千秋のことは好きだ。それは友達に対して抱くそれとはまったくの別物で、愛情であることははっきりとわかった。だからといって、千秋と恋人同士になりたいという思いはない。ただ今の心地良い距離感のままで、これからも一緒にいたい。それだけなのだ。
変わってしまうのが怖いのだ。
蒼がこのまま、千秋に対してなにもしないことが問題なのではない。蒼がなにかをしたところで、また、なにもしなくても、西東真夏のこれからの行動にはまるで影響しないということが問題なのだ。その日になれば、必ず変化は訪れる。千秋と蒼の関係も今までどおりとはいかなくなる。もし、あの二人が付き合うことにでもなれば、きっと、蒼と千秋が二人で会うこともなくなる。
壁の向こうから階段を上る音が聞こえた。足音自体はほとんど聞こえないのに、床の軋む音だけがかすかに響いている。それだけで誰の生活音なのか、確認しなくともわかった。
「ナズナ、誰か来たの?」
部屋の前を通りすぎようとした双子の妹が、扉を半分だけ開けて部屋を覗いてきた。一日休んで熱は引いたらしく、思っていたより元気そうだ。質問したあとで、聞かなければよかったと思いなおす。真夏が来たと思ったからだ。それは蒼が今、一番聞きたくない名前なのだから。
「お見舞い。あと、届け物」
ナズナが持っていたのはクッキーだ。真夏がときどき趣味で作る物に間違いない。やはりあいつか、という蒼の考えを見透かしたように、ナズナは首を振った。
「真夏から預かったって、千秋が」
「え、千秋が?」
「だからそうだって言ってんじゃん」
ナズナは無愛想だ。なぜそうもかわいげのない言い方をするのか。いったい誰に似たのだろう――とむっとしたものの、相手が自分と血を分けた双子の兄妹であることを思い出した。
「今帰ったところだし、なんか話したいなら行けば」
「は? 別に、話したいとか……ないし」
そのとおり、話したいことなど、なにもない。
「どこ行くの」
「別に」
冷たく答えながらナズナの横を通り過ぎ、一階の玄関に向かう。履き慣れた靴を足にひっかけて外に出ようとするが、鍵の開錠にややもたついた。動揺するな、と自分に言い聞かせた。
千秋と話したいことはなにもない。それでも、話すべきことはひとつ、ある。
すっかり日が落ちた町は薄暗く、身を刺すような鋭い冷気が全身を包んだ。吸い込む空気が冷たい。吐く息は白く、凍えそうなほど寒いはずなのに、顔だけが熱い。
そうだ。
蒼が西東真夏からの宣戦布告を受け入れようと、受け入れまいと。
千秋に想いを伝えようと、伝えまいと。
蒼にとっての日常が変わってしまうことに変わりはないのだ。
宣言どおりに、あの男は動く。
なにもしないのは本当に楽だと思う。ただなにもしないだけでいいのだから。だが、このままなにもしないというのは、真夏に千秋を奪われていくのを、ただぼんやりと指をくわえて見ているということだ。
「千秋!」
見慣れた後ろ姿に駆け寄る。心臓の音がうるさいのも、息が苦しいのも、きっと急に走ったせいだ。緊張などではない。恥ずかしくなどない。ただの息切れだ。関係ない。呼吸を整えるのは、あとでいい。
「蒼? ど、どうしたの、そんなにあわてて……」
なにも伝えずに、なにもせずに奪われるくらいなら。
「ちあき」
それなら、いっそ。
「すきだ」