16「あまい罠」
「それで、その志村に怒られたのは仕方ないとして」
メロン味のアイスを食べきった白坂が、あとに残った棒で真夏を指す。蒼と千秋のことについて、真夏は一切の事情と経過を逐一、彼に報告していた。自分のおこないを認めてほしいわけでも、愚痴の吐き出しでも、相談して助言をもらいたいわけでもない。ただ日記に書き留めて記録しておくような、一方的な感覚で話しているだけだ。白坂もそのことを理解しているが、それだけではあまりに機械的すぎるので、あえて口をはさむ。
「問題はそのあとだな。これからどうするつもりなんだ? お前は二人をくっつけたかったんだろうけど、当人に拒否されたんじゃ、これ以上は本当に余計なお節介だぜ」
「ここまできて今さらやめるわけないだろ」
「乗り掛かった舟というやつか。まあ、お前の性格からして、そうなるだろうな」
「だって、まあ、そりゃあ」
一単語分の間が空いて、二人が同時に言った。
「そのほうがおもしろいから」
やはり、よくわかっている。白坂は少しだけ笑った。
「あせるなよ、真夏。お前ならできるさ」
*
「おい」
がたん、と机が揺れて気が付いた。どうやら眠っていたらしい。顔を上げてみると、帰り支度を済ませた蒼が真夏を見下げている。視線を落とすと、机の上には六時間目の授業の教科書とノートが開かれたままだった。板書は途中で途絶えているが、黒板は清掃されたあとだ。手早く片付けて机に押し込み、筆箱だけをカバンに入れる。
「わざわざ起こしたくれたんだ?」
「別に」
蒼はマフラーを首に巻きながら無愛想な返事をする。件の悶着からお互いに謝罪もなく、仲直りらしい仲直りもしないまま、とうとう年が明けて二月になっていた。ホームルームも終わり、ほとんど生徒が残っていない教室は、底冷えするような寒さに包まれている。真夏は夏ごろとほとんど変わらない格好だが、蒼などは制服の下に何枚も服を着込んでいるらしい。
「お前、最近千秋と仲良い?」
蒼がぼそりと問う。真夏はカバンのファスナーを閉じる手を一瞬、止めた。おそらく、それを聞くために真夏を起こしに来たのだ。千秋への恋慕を隠す気があるのか、ないのか、判断に困る。つくづくなにを考えているのかわからない。
「ああ……まあ、よく二人で話してるよ」
「へえ」
質問の意図を明かさないまま、蒼が教室を出て行こうとするので、真夏は一度だけ引き留めた。蒼がどういうつもりで真夏と千秋の関係を気にするようなことを言うのか、そんなことはわざわざ説明されなくともわかるが、ここでなにかしらのアクションを起こしたほうがいいと、咄嗟に思った。ただ、そうすることによって、彼と真夏の今後の関係がどうなるのか、というところまでは考えていない。
「蒼、お前は千秋をどう思ってる?」
いつもなら苗字で呼ぶところ、蒼、と呼んでしまったが、蒼自身は気付いていない。真夏もこの程度の呼び間違い――なにも間違ってはないのだが――はよくやるので、とくに気にしない。蒼はじっと真夏を睨んでいた。
「……幼馴染」
「本当にそれだけなんだな? 一応、これって最終確認のつもりなんだけど」
「だから、僕は別に」
「ああ、そう。つまり、お前は千秋のことが好きなわけじゃないと」
「しつこいな、なんなんだよ」
真夏はゆっくりと立ち上がると、蒼に歩み寄り、わずかに背を曲げると、蒼の耳元で小さく言った。
「……じゃあ、俺がもらっていい?」
その瞬間、蒼が勢いよくこちらを振り向いた。頭がぶつかりそうになるので、真夏はそっと身体を逸らし、一歩うしろに下がる。今までに見たことのない動揺っぷりだ。あせり、おどろき、恐れ。ここまで強く感情をさらしてしまうとは、彼らしくない。
「なに、言ってんの」
「なんだよ、別におかしなことは言ってないぜ。なんで最近、俺が千秋と仲良くしてると思ってんだよ。考えてみれば、すぐにわかるだろ。まさか、その可能性は考えてなかったとか?」
動悸がする。腹の底が気持ち悪い。なんだか生きた心地がしない。
「千秋って本当にいい子だよな。頭脳明晰、成績優秀、才色兼備、優秀なのを鼻に掛けず、明るくて、いつも笑顔で。女子としては右に出る者がいないほど魅力的だ。今までは隣にお前がいるから遠慮してたけどさ、なんとも思ってないなら……なあ?」
蒼は目を瞬かせ、硬直していた。
「お――お前、千秋の、こと」
「好きだよ」
「は」
「俺って、こうしたいって思ったら、考えるより先に行動したいから、あんまりこうやって事前に宣言しとくってのは性に合わないんだけど……そうだな。よし、じゃあ――決めた、卒業式だ。俺は卒業式の日に千秋に告白する」
「ま、待っ、え?」
「いらないなら、俺がとっちゃうよ」
あわてる蒼の目を見て笑い、真夏はそのまま教室を出て行く。去り際にちらりと彼を振り返った。
「卒業が楽しみだな、蒼」
翌日から蒼の真夏に対する態度が激変したことは、言うまでもないだろう。真夏が視界に入れば親の仇でも見るかのように睨みつけ、ときどきなにか言いたそうな顔をしながらも決して話しかけようとせず、千秋と真夏を接触させないように努め、なおかつ、彼自身も真夏とは一切の接触を絶っていた。
そんな蒼のあからさまな様子に周囲もなにかがあったのだとすぐに察したが、とくに夏目などはおろおろとうろたえるばかりで、当人たちからなにも聞き出すことができずにいた。さすがの真夏も、今回のことをすべて説明するつもりはなく、香や山吹から事情を聞かれても、のらりくらりとかわすばかりで詳細は明かしていない。
次の授業に向けて教室を移動していると、階段の踊り場で千秋が真夏に声をかけた。
「真夏」
「おう、千秋。どうした?」
「いや、あのさ、……蒼となにかあったの? 見ててわかるくらいピリピリしてるけど」
「ああ、いや別に。たいしたことじゃないよ」
どうやら口を閉ざしているのは蒼も同じらしい。だが、それもそのはずだろう。千秋への想いを隠したがっている彼が、誰かに打ち明けるはずもない。千秋は眉間にしわを寄せた。
「嘘。たいしたことじゃないのに、蒼が誰かにあんな態度取るわけないもん」
少々弱った。これだから幼馴染の親友というのは厄介だ。こんなふうに断言されてはなにも言い返せない。
「そういえば、その蒼はどうしたんだよ?」
「先生に呼ばれてて。すぐに来ると思うけど。ねえ、それより……」
「なあ千秋、その影響かどうかはともかくとして、最近、蒼と一緒にいる時間が増えたんじゃねえか?」
話を逸らすと、千秋は二秒の沈黙をつくった。たった二秒、と思うだろうが、それだけあれば十分だ。彼女は案外、単純なところがあるので、話しを逸らして、逸らして、修正させる隙を奪ってしまえば、わりと簡単に話をごまかせる。
「これはチャンスだぞ、千秋」
「チャンス?」
そう――真夏は頷く。
「少なくとも、卒業までは今のような状態が続くと見ていいな。だから、それまでになにかしてみるといい」
「な、なにかって、そんなにあわてなくても、高校だって一緒なんだし……」
「ダメダメ。そうやって幼馴染っていう関係に胡坐をかいて安心した気になっていると、横から現れたぽっと出の誰かが、知らないうちにササッとかすめ取ってくかもしんねえぞ」
「どういうこと?」
「……俺に女子の友達がまあまあ多いってのは知ってるよな?」
「うん、結構あちこちで、よく喋ってるよね」
「実は、ここだけの話なんだが、お前の他に一人だけ、蒼のことが気になるって言って相談してきた子がいるんだよ」
「えっ!?」
「それで、あれこれ話してるうちに、卒業式の日に告白することに決めたらしくて……」
「ほ……本当に?」
もちろん嘘だ――が、白状しそうになるのをこらえて、顔をそらした。居心地が悪い。いったい、この短期間のうちに何度の嘘をつけばいいのだろう。ちょうど蒼が追いついてきたので、これ幸いとばかりに会話を切り上げた。立ち去る前に、千秋に告げる。
「勘違いするなよ、千秋。幼馴染ってのは絶対的な存在なんかじゃない。お前が思っているよりもずっと簡単に、あっさりと崩れて消えちまうような関係だ。脆くて不安定なものだ。聡明なお前にこれ以上、俺みたいなのが言えることはなにもないけど。なあ、イチかバチかで言ってみるか、言わずに後悔するか……お前はどっちがいい?」