13「憂い」
田中夏目は不安であった。
なにを不安に思っているのかというと、ずばり人間関係についてである。夏目は決して、友達が少ないわけではなかったが、また、人一倍多いわけでもなかったし、多ければいいというつもりもない。そもそも悩んでいるのは数についてではなく、質のほうなのだ。
質――というがなにも、優劣がどうとかいうことではない。たしかに、簡単な規則にすら従わない素行の悪い不良よりは、マジメで優秀な者とのほうが付き合いやすい、あるいは付き合いたいと思いやすい気持ちもあるが、それはモラルの問題だろう。夏目が心配している友情の質というのは、それが脆いか堅いか、というような、平たく言えば絆の強さだとか、上辺だけのものかどうかというようなことである。
夏目はどちらかというと気弱な性格で、真面目で他人に優しい――というよりもお人好しで、そして臆病だ。それゆえに、絆の決壊を人一倍恐れていた。自分一人では生きていけないという自覚があるからこそ、友情を、人とのつながりを求めてしまう。その友情を大切にしようと思えば思うほど、誰にも嫌われたくないという思いが強くなる。嫌われたくないと思うほど、相手のために自分の気持ちを犠牲にしてしまう。意に沿わないことがあっても、相手の意見に合わせ、みんなの意見に同調し、自分の気持ちは言えないまま、誰にでもいい顔をしてしまう。平和主義などではない、八方美人なのだ。
みんなと仲良くしたい。誰にも嫌われたくない。上辺だけの脆い友情を恐れる反面、夏目自身が上辺だけの友情を振りまいている矛盾。友に対し、誠実に、正直にあらねばならないとわかってはいるが、誠実さを貫いた結果、友が離れていくならば意味がない。だから、自分の思ったことを思ったままに、包み隠さず口に出すなど、到底でき得ない。自分の本性をさらけ出す勇気がない。夏目は常に葛藤していた。
だが、夏目が自分の意見を、気持ちを言おうが言うまいが、相手に同調しようとしまいが、夏目から離れていく人というのは、なにを言ってなにをしようと無条件に離れていくのだ。その理不尽な友情の決壊もまた、夏目には恐ろしかった。自分のなにがいけなかったのかがまるでわからないからだ。
だから、西東真夏もまた、夏目の恐れる対象にあった。正確には、真夏の性質が――である。
「真夏ってさあ、渡り鳥みたいなやつなんだ」
ある日、山吹と一緒に帰る機会があり、夏目が真夏についての話を振ると、彼がそう言った。渡り鳥? 夏目が聞き返すと、山吹は頷く。
「一箇所に留まらないんだよ、あいつ」
「どういうこと?」
「いつも一緒にいる、仲良しのメンバーってあるだろう。小学校でも中学校でも、同じ空間で長くすごせば、意識しなくても自然と集まるグループができて」
「ああ、うん。とくに女子はすぐにグループで固まるよね。まあ、男子はそうじゃないってわけじゃないけどさ」
「真夏は昔から、どこにでも属したけど、どこにも属さなかった」
「え?」
「あいつな、人見知りで、言っちゃ悪いけど根暗だけどさ。孤立したりいじめられたりするタイプじゃないんだよ。他人への警戒心が強いわりに、他人からの警戒心の合間をすっとくぐり抜けて、既に出来上がってたグループにいつの間にかなじんでたり、自分で新しいグループを作ったり……とにかく、自分の居場所を作るのが妙にうまいんだ」
「そりゃすごい。うらやましいなあ」
「けどな、すぐに出て行く」
どくり、と心臓がひときわ大きく脈打った。
「出て――行く?」
「ごく自然に輪の中に入り込んで、ごく自然に抜け出ていく。跡をにごさず、いつの間にかな」
夏目の表情が緊張に強張る。さっきまで自然と浮かべることのできていた口元の笑みが固くなるのを自覚した。
「昨日まであの人と遊んでいたのに、今日は別のグループに加わっていて、そこでしばらくすごしていたと思ったら、翌日にはまた別の人と一緒にいる――みたいな。一過性の友情っていうか、執着心がないっていうか、だから、とにかく一箇所に留まらないんだ」
「一過性の、友情……」
「俺だって例外じゃないぜ。あたかも、あいつが転校してきてから小学校五年間、ずっと一緒にいて仲良しだったみたいに幼馴染なんて言っているが、実際は二年分ほどの空白の期間がある」
「そ、そうなのか?」
それは初耳だ。
「俺も友達は少なかったし、一番仲がよかったのがあいつだったから、このままだと二度とつながりを持てないと、あわててどうにかつなぎなおして今に至るんだが。まあ、中学にあがってからは、ついに腰を落ち着けたのか、年単位で今の、夏目たちとのグループに定着してるけどな」
今の、夏目たちのところに腰を落ち着けた。
本当に?
「そういえばこの前、真夏が別なグループの人と仲良さげに話してるの見た……ような」
「なら、まだ続いているのかもな」
「続いてる?」
「渡り鳥だよ」
「ああ――」
一箇所に留まらない。
急な焦燥感に動悸が乱れる。
「真夏と、その仲が良かったはずの子たちの関係って、今はどうなってるの」
「俺がそいつらと親しかったわけじゃないからなあ。真夏もそういうことは話さないし……でも、話しているところは見たことがないな。一度離れたらそれっきりって感じで。真夏の中では全部なかったことになってるみたいな……ああ、と言っても、これはただの所感だ。それに、声をかけられたら挨拶くらいはしてる」
ああ、ああ、なんと恐ろしい話を聞いてしまった。
西東真夏は――つまり、いつ離れていくかわからないのだ。ある日突然に、目の前からいなくなる。いつか知らないうちに、どこか知らないところへ行ってしまう。渡ってしまう。
「じゃあ、俺たちのところからも……いなくなる?」
「可能性としては否定できないが……どうだかな。とくに俺は高校が別々だから、今度こそ――終わってしまうかもしれない」
「山吹、お前」
「なんだ」
「怖く――ないのか?」
「……そりゃあ、少しはさびしいような気もするけどな。でも、まあ、なんだ。いつまでも遊んでいられるわけじゃないんだし、友達ばかり優先していても仕方ないだろ。怖いっていうのは、少しおおげさだ」
山吹はなんでもないように答えたが、その瞬間、夏目にはわかった。
嘘だ――と。
山吹和正という男に関して、踏み込んだことはなにもわからない。だが、きっと西東真夏という唯一にして随一の幼馴染を失うことを快しと思ってはいない。そうでなければ、一度離れて行こうとした彼を、わざわざ引き留めるはずがない。本当はこれからもずっと親友であり続けたいと、縁が途切れてほしくなどないと思っているはずだ。しかし、そうも言っていられないことを悟り、本音を理性で抑えて嘘を言うのだと、なぜだかわかった。
そして、その本音を夏目に打ち明けるつもりがないことも、同時に察した。
「俺は、怖いな」
「怖いか?」
「どうして、真夏はそんなことを繰り返すんだろう。友達になっても、すぐにやめたってことは、なにか喧嘩とか、不満でもあったの?」
「真夏の一過性をこうむった中には、俺と接点のあるやつもいたから、聞いてみたことがあるんだ。最近は一緒にいないみたいだが喧嘩でもしたのかって。なにもなかったそうだ。ただ急に関わらなくなった、と」
「理由がない?」
ならば、なおのこと恐ろしい。
「そういうやつなんだよ、あいつは」
「そういう――」
そのとき、彼の日頃の態度を思い返し、ぞっとした。
思ったことはなんでも言う。周りがなんと言おうと、自分のしたいようにしている。なにかと面倒くさがりで、自由で気まま。関心がなければ見聞きせず、いかなるときも自分のペースを保つ。周りの目を気にしない。周囲にどう思われるかなど、どうでもいいかのようだ。
他人はどこまでいっても所詮は他人。嫌なら縁を切ればいい。今いる場所から出て行っても、またすぐに新しい場所に入り込めばいい。誰かに嫌われたとしても、替えが利くから構わない。そのほうがなにかと楽だから――だから彼は、渡り鳥であるのだろうか?
もしそうなら、いや、そうでなくとも、夏目はどうするべきなのだろうか。嫌われていようと、いまいと、彼がそこからいなくなる可能性が常にある。あの男の心変わりひとつで、今の人間関係は変化する。まるで最初からそこに存在しなかったように、まるで最初から、友情などなかったかのように、突然に消失するのだ。夏目や山吹には、真夏の代わりなどいないというのに。
「どうして――」
そんなことを。
「本当、わからないときはてんでわからないな、あいつ」
「どういうこと?」
「あいつはな、よくわからないやつだが、とてもわかりやすいやつでもあるんだ。……いや、この件に関しては、これは当てはまらないが。俺も本当に知らないし」
「わからない、けど、わかりやすい?」
なにを言っているのだろう。山吹の言葉の意味が、夏目にはまるでわからない。
「ま、その人間関係のあれこれについては、本人に聞いてみたらどうだ? 言ってみれば案外、すんなり教えてくれるかもしれないぜ?」
渡り鳥であり続ける理由を、真夏本人に直接たしかめる――たしかに、推測だけで怯えているよりも確実で手っ取り早いだろう。……いいや、下手に踏み込んで、それが真夏が離れていく原因となってしまえば元も子もない。山吹ですら知らない領域だ。尋ねるならば、慎重に言葉を選ぶべきだろう。いや、そんなリスクを冒してまで知らなければならないのか? 自分が知りたいと思うことで、真夏が嫌な思いをするのでは? そうなれば、ますます彼がどこぞへと飛び立ってしまう確率が上がってしまう。そんな恐ろしいことはできない。
ああ、恐ろしくてならない。
西東真夏という人間が――まるで理解できない。
*
そもそも、どうして今になってそんな会話を思い出し、西東真夏という男の性質に混乱しているのかというと、その原因はやはり、先日の彼の言動にあった。
夏休みが明けてすぐのこと。夏目がいつもどおりに登校すると、真夏と蒼がなにやら話をしていた。喧嘩――のようだった。とはいえ、蒼が一方的に真夏に向かって怒声を浴びせているだけだったのだが、おそるおそる様子を伺っていると、その内容は花火大会の日のことについてであるらしかった。
実はあの日、蒼と千秋が二人きりになるよう、はぐれた二人をそのまま意図的に取り残して祭りをめぐった夏目たちは、その後も彼らとは合流しないままに帰宅していったので、蒼と千秋がどうなったのかはなにも知らないのだ。
てっきり真夏のことだから、こっそり二人のあとをつけて覗き見でもするのかと思っていたが、真夏は屋台のたこ焼きやらイカ焼きやらを延々と食べ続け、花火の打ち上げが始まると、混み合わないうちにと帰ってしまったのだ。ナズナと香もそれに合わせて早々に帰ってしまい、おそらく歩きながら花火も見ていたのだろうとは思うが、会場には夏目一人が残されたのである。ちなみに、例の委員長は真夏が家まで送り届けたらしい。
夏目は花火が終わってすぐに蒼と千秋に合流できたので、みんなが先に帰ってしまったことを伝えたのだが、再び――故意ではないのだが――二人とはぐれてしまい、花火大会はそのままお開きとなった。
真夏がどのようにして蒼に声をかけたのかはわからないが、余計なことをするな――と、蒼が怒鳴っているのが聞こえたので、おそらくあの日になにか進展があったのか探りを入れたのだろう。千秋との仲を詮索されたくなかったのだと夏目は思う。真夏は自分の思ったことをそのまま口にする傾向にあるので、無遠慮というか、無神経なところもあるだろう。癪に障る言い回しでもしたのかもしれない。
夏目は困惑した。
なぜ、わざわざ人を怒らせるようなことができるのか。なぜ、怒っている相手に対し、謝罪らしい謝罪もなしに態度を変えずにいられるのか。そのままでは蒼に嫌われてしまうかもしれないのに、なぜ真夏は平然としていられるのだろう。
そう思ったときに――山吹が言った、渡り鳥の話を思い出したのだ。
真夏はこれまで仲間内で――もちろん仲間外でも――揉め事というものを起こしたことがなかった。相手をむっとさせるようなことはときどきあったかもしれないが、彼が誰かと喧嘩らしい喧嘩をしているところなど見たことがなかったのだ。常に理性的で論理的で、彼が感情的になったことはなかった。マイペースで、自分勝手で無責任だが、同時に、常識的で優しくて、正しい人でもあったのだ。
なので、知る由もなかった。
彼は、相手がいかに顔を赤くして怒っていようと、まるで顔色を変えない。相手が熱くなっているからといって、その熱に当てられたりしない。彼は争い事を厭う平和主義者などではない。彼が誰かと喧嘩しているところを見たことがない? 当然だ、あれでは喧嘩など成立しない。言い合ってすらいない。相手の怒りに無関心なのだ。感情的になった蒼と、理性的なままの真夏。二人の温度差を目にしたとき、夏目は背筋にひやりとしたものを感じた。
――飛び立つつもりなのか?
いまさら騒ぎを起こしたということは――そろそろ潮時だとでもいうつもりなのか? 彼は我々の間に芽生え、根付きつつあった友情関係を、その手で破綻させるつもりなのか。もしくは、すぐにでも飛び立てるように身辺整理でもしているのか。彼は、真夏はどういうつもりで、蒼を怒らせたのだろう。
田中夏目は、不安であった。