12「夏」
「香、ナズナ」
「真夏くん。……あれ、山吹くんは一緒じゃないの?」
「山吹は来ないってさ。そっちこそ蒼は?」
「千秋を迎えに行ったよ。もうすぐ来ると思うけど」
「ふうん」
真夏が香たちに呼び出されたのは四月も半ばに差し掛かった某日のことであった。その日、市民体育館の表のグラウンドでは花火大会が催され、真夏を含む数人の友人たちはそれに参加すべく、夏の夕暮れに身を投じたのだ。
「夏目はまだなのか」
真夏が聞くと、ナズナがあたりを見回しながら、うん、と言った。
「五時半には来るって言ってたけど、まだっぽい」
「今って何時?」
「五時……四十分くらい」
「珍しいよね、いつもなら五分前には着いてるのに」
「おいおい、あいつが来いってうるさいから来てやったのに、当のあいつが遅刻とは何事だ。これだとまるで俺のほうが楽しみにしてたみたいじゃないか」
真夏は寒いのは平気だが、厚さにはめっぽう弱く、それなのに半袖の服が苦手で長袖ばかり着る傾向にある。だから夏場はなるべく外に出ないよう尽力しているのだ。今日は夏目があまりにしつこく誘ってくるので承諾したのだが、そもそも真夏は花火にも祭りにもたいした関心がない。見るものすべてが輝いて見えた純真な幼少期はとうに終わったのだ。
香は笑みを絶やさないものの、少し心配そうだ。そんな彼を横目に、ナズナがため息をつく。
「これだけ混雑してるんだし、遅れるのも仕方ないよ。それか、道にでも迷ってんじゃない? 夏目だし」
「言うねえ」
「真夏くん、ちょっと捜して来てくれない?」
「俺が? 別にいいけど、それよりお前らさ」
「なに?」
「その真夏くん、ってのやめない? なんで微妙に距離取るの」
「え、ごめん」
「呼び捨てでいいから」
「わかったよ。じゃあ、真夏」
「ほら、ナズナも」
「真夏うるさい」
「それでよし」
満足したようににんまりすると、真夏は二人に背を向けて夏目捜しの短い旅に向かった。屋台もとっくに開店しており、祭りの会場は既に大勢の人で賑わっていた。こんなにたくさんの人が、この静かな町のどこに隠れていたのだろうか。人々の流れに逆らいながら注意深くあたりを確認する。ひと気の少ない脇道に逸れ、そのまま林のほうへ歩いていくと、しばらくしたところの分かれ道で立ち往生している人影が見えた。
「やっぱりここにいたか」
声をかけると、人影は真夏の名を叫びながら駆け寄ってきた。今にも泣きそうな顔だ。もう十五歳だというのに情けないったらない。
「ひでえ顔だな、夏目」
「だ、だって、近道だって聞いてたのに、全然着かないから……」
「迷うほどの道でもないだろうが」
「ごめん……」
「さっさと行くぞ。香たちを待たせてるんだ。まったく、俺よりお前のほうが長くこの町に住んでるはずなのに、なんで俺が道案内してるんだよ」
「う……ごめん」
「いい歳こいて迷子って。俺たちもうすぐ高校生なんだぜ?」
「ご、ごめん……」
謝ってばかりだ。
「あ、高校――といえば、さ、真夏。あの、俺……」
「そういやお前、北から東に進路変えたんだって? ……あ? なんか台風みてえだな?」
「えっ、な、なんで知ってんの?」
「山吹に聞いた」
「山吹」
「あいつの信用のために言っておくと、俺が半ば強制的に聞き出した」
「……うん、別に、話すつもりだったからいいんだけど。実は、まだはっきり決めたわけじゃないんだ」
「でも変えるんだろ。なんで?」
「なんでって」
「理由までは聞いてないのですわよ。なんでよ?」
真夏が問い詰めると、夏目はじっと黙り込んだ。真夏が、言いたくないならいい、と言おうとしたとき、ぼそぼそと呟くように彼は答える。
「……ま、まだ、みんなと一緒にいたい、から……俺、北桐じゃなくて、東坂に」
「ふうん」
「ど、どう思う?」
「なにが?」
「こんな理由で、進路変えるって……」
「上等な理由じゃねえか。お前には学歴よりも大事なもんがあるってだけのことだ。それを否定する権利なんて誰にもねえよ。たとえ親や教師でもな。どんと構えてりゃいい」
「……そっか。ありがとう」
林を抜け、雑踏に身を任せてゆるゆると前進し、香たちのもとへと戻る。既に蒼と千秋が合流していたので、夏目が最後のようだ。全員がそろったところで、いよいよ祭りを見てまわることになった。
「ひゃあ、さすがに人が多いな」
「そういうものだよ、夏祭りって」
嫌な顔をする真夏に千秋が笑う。この酔ってしまいそうな人混みもまた、祭りの醍醐味ということか。千秋は隣にいた蒼を引っ張り、出店に向かっていく。
「真夏、どうする?」
「かき氷を食わないことにはなにも始まらねえな」
「あ、いいね。俺もかき氷買おうかな。香とナズナは?」
「そうだね、せっかくだし」
「志村と千秋――は、そっとしとくか」
「そういえば、あの二人は? さっきまでそこにいたのに」
「もう見えなくなってるね」
「金魚すくいに行ったのが見えたぜ。ま、あいつらはあいつらで、好きにさせときゃいいよ」
「なんだよ、二人だけ除け者か?」
「バカが。ここは気を利かせて二人きりにしてやるところだろうが。野暮なこと聞くなっつうの」
「あ……そ、そっか」
ようやく納得する夏目をよそに、真夏は周囲を見渡す。かき氷の屋台の前から香が夏目に声をかけた。
「夏目、シロップ、いろんなのがあるよ」
「わあ、本当だ。どれにしようかな」
「ナズナはどれにする?」
「イチゴ」
「うーん、じゃあ、俺はレモンにしようかな。なあ、真夏はどれにした――あれ、真夏?」
夏目は真夏を呼びながらあたりを見る。その表情は徐々に険しくなっていき、様子がおかしいことに気付いた香が肩を叩く。
「夏目、どうしたの?」
「ま、真夏がいない」
「ええ?」
香とナズナも同じように周囲を確認する。人が多いため見通しが悪く、よくは見えないが、たしかに、つい先ほどまでそこにいた彼の姿がどこにもない。
「うそ、まさか今の一瞬ではぐれた?」
「人ごみに流されちゃったのかも」
「おい、真夏! おーい!」
「なんだようるせえな」
あわてて真夏を捜そうとする夏目の背後から声がした。振り返ると、左手にたこ焼きの詰められたトレイと焼きそばのパックを重ねて持ち、左手に持っていたフランクフルトをかじる真夏がいた。
「ま、真夏……勝手にいなくなるなよ」
「なんだよ、俺がどこに行こうが俺の勝手だろ」
「かき氷はいいの?」
「お前らなんにした?」
「僕とナズナはイチゴ、夏目はレモンだよ」
「じゃあ、俺はブルーハワイ」
「……ブルーハワイって、当たり前に並んでるけど、結局それって何味なわけ?」
ナズナが何気なく言う。香と夏目は答えに詰まった。
「え、うーん、たしかに、どうなんだろうね。ハワイの海とか空とか、そういう、さわやかなイメージの味……とか?」
香が自信なさげに言う横で、真夏は小さな氷山に鮮やかな青のシロップをかけた。
「何味っていう明確な定義はないらしいけど、語源としてはブルーキュラソーから来ているそうだ」
「ブルーキュラソー?」
聞き慣れない単語に香が聞き返す。真夏はストローのスプーンで青い氷をざくざくと刺しほぐしながら頷いた。細いスプーンからこぼれ落ちんばかりの量をすくい上げ、そのままぱくりと口に含む。
「オレンジの皮から作られるリキュールを色付けした酒のことだ。で、それをベースに作るカクテルがブルーハワイ」
「じゃあ……つまり、オレンジの皮味?」
話の途中にも真夏はかき氷をまたひと口食べた。質問される間にがりがりと小気味良く噛み砕き、飲み込んだあとで返事をする。
「そういうことになるけど、ま、今言ったとおり、ちゃんとした定義のない曖昧なフレーバーだから、メーカーによって味も少しずつ違ってくるんだけどな。これ、っていう明確な答えが存在しない。ので、ブルーハワイはブルーハワイってことでひとつ」
「そうなんだ」
感心している夏目だが、ナズナはじとりと呆れ気味に真夏を見る。
「……っていうかさ、真夏はなんで、そんな使い道のなさそうなこと知ってんの?」
「なんだ、使い道なら今、あっただろ」
まるで常温の物でも食べているようにぱくぱくと甘い氷を食べ進める真夏だったが、少しして手を止めた。そして、両頬を挟むように手で口を覆う。
「口が冷えて喋りづらい」
頬の内側がかじかんで、うまく喋れないと滑舌を悪くして言う真夏に。ナズナがもう少しゆっくり食べるよう促すが、もたもたしていると融けてしまうので、そうもいかない。真夏はカップに残った氷水を一気に飲み干す。
「頭、痛くならないの?」
夏目が問う。真夏は近くのごみ箱に空の容器を捨てながら、別に、と答えた。
「じゃ、本格的に屋台めぐりといくか」
「そうだね、金魚すくいのほうは蒼と千秋がいるから、僕たちは……射的でもする? たしか、向こうにあったよね」
「へえ、去年まではなかったのになあ」
香の提案に夏目が言う。どこに向かうか、すんなりまとまりつつあるのを感じた夏目は、真夏の真似をしてかき氷を一気に流し込もうとするが、低くうめいて頭を押さえた。香がおかしそうに笑う。
「そんなにあわてることないよ、ゆっくり食べよう」
「射的の屋台ってどこ?」
これはナズナだ。
「えっと、あっちじゃなかったっけ」
香はあたりをきょろきょろして、歩き出す。夏目は相変わらず、急いで手元のかき氷をつついている。真夏がおいおい、と声を上げると、ナズナは足を止めてこちらを見たが、香は聞こえなかったのか、そのまま歩いていく。
「香、そっちじゃねえって、正反対……おーい! もー」
人と人の合間をぬって手を伸ばし、隙間に見えた腕を掴んだ。
――瞬間、しまった、と思った。
手のひらから伝わる肌の感触。その情報だけでそれが本来引き止めたかった相手とは別人のものだと、頭では理解したものの身体の運動がそれに追いつかず、掴んだ腕をそのままに手をひっこめた。先にいたのは、やはり香ではない。
「きゃっ、……あ、あれ、さ――西東くん?」
「い、委員長?」
いつもの眼鏡がなかったので別人かと思ったが、声はたしかに彼女のもので間違いない。ひとまず、見知らぬ人をひっつかんだわけではなかったことに安堵する。うしろから追いついた夏目も彼女に気付く。
「あれ? 君、たしか同じクラスの……」
「あ、どうも、こんばんは」
委員長がぺこりと頭を下げると、夏目もつられて頭を下げた。落ち着いた青色の浴衣を着た彼女はいつもより大人びて見える。髪型はいつもの三つ編みではなく、ラフにおろしているため、声を聞かなければ本当に誰だかわからない。
「委員長も来てたんだ。一人?」
「うん、本当は来ないつもりだったんだけど。おばあちゃんが着付けをしてくれたから、少しだけ見てこようと思って」
「髪とかいつもと違うから一瞬誰だかわかんなかったよ。でもなんかそっちのがかわいいね」
「あ、ありがとう……」
ナズナによって連れ戻された香が合流したが、委員長とは面識がないため、話には加わらず静観している。
「浴衣かあ。俺たちも着て来ればよかったな、真夏」
「俺このままでいいよ、楽だし」
真夏らしいなあ――と夏目は苦笑するが、すぐに委員長に向き直った。
「あ、ねえ、よかったら、せっかくだし、一緒にお祭り見てまわらない?」
「え? でも」
委員長はちらりとナズナたちを見た。
「いきなりだと迷惑じゃ……」
「迷惑なんて、そんなこと……ない、よ、ね?」
夏目も同じようにナズナと香を見た。香はいつものにこにこ顔で、うん、と頷く。
「僕はいいと思うよ。せっかく来たのに一人でまわるのも退屈だと思うし。ね、ナズナ?」
「ああ、うん」
ナズナの返事は素っ気ない。彼女はもとより内輪でしか警戒を解かない性質――つまり内向的なのだ。真夏の人見知りとはまた少し訳が違うのだが、似たようなものと言えば、似たようなものである。
「まあねナズナさん、別に害はないから」
「いや別に、反対はしてないじゃん」
「じゃあ、決まり」
人の流れに沿ってゆるゆると歩きはじめる。日中より気温は下がっているが、鉄板などを使う屋台の近くはやはり暑い。多くの人が密集しているせいもあるだろう。長袖を肘まで捲ってみたが、落ち着かなくてすぐに戻した。
香が再び輪からはぐれて迷子になったのは、それから十数分後のことで、夏目が単身で捜しに向かうものの、ミイラ取りがミイラになってしまったのは、もはや言うまでもないだろう。