11「思春」
「真夏は?」
「今から来るってさ」
受話器を置きながら夏目がそう返す。中学三年の夏、期末テストを終えた直後の休日のことだった。夏目は山吹にひと言断ってからカバンを手繰り寄せ、問題集を開いて勉強を始める。学校からの宿題があるわけではなく、自主的な学習である。真夏と違って彼は生真面目だ。
山吹は夏目とはクラスが離れたので、よく知らないのだが、聞くところによると彼は三年に進級してからは休み時間でもずっと今のように勉強をしているらしい。山吹もこれまで自宅での学習は習慣的におこなってきたし、進級してからは学習時間を少しずつ増やすようにもしているが、授業の合間にまで問題と向き合うほどの熱意はない。
「夏目はどこの高校に行くんだ?」
夏目の部屋の本棚には参考書や各教科の問題集が敷き詰められていて、あちこちから付箋が飛び出した教材が何冊も机の上に積み上げられている。彼の勤勉さには目を見張る。そこまで勉強が好きなわけではないだろうし、成績も優秀と言っていい。まさか勉強するのが趣味でもないだろう。
もはや、勉強に打ち込むことで余計な思考を排除し、精神の安定を保っているような、そういった危うさがある――と、以前に真夏が言っていたが、その推測も、いよいよ否定できないところまで来ているように感じた。
夏目は手を止めると、うーんとうなった。
「片並か北桐かで迷ってて……やっぱり北桐、と思ってたんだけど」
「思ってたんだけど?」
片並高校は山吹が進学を考えている高校で、北桐はその片並よりワンランク下の高校だ。夏目はこのとおり勉強熱心で、成績もそれ相応だ。北桐なら今のままでも十分に合格を狙える。夏目は気まずそうに頬を掻いた。
「うん、その、どうしようかな……って感じ」
言葉をにごして核心を避けるように夏目が言う。山吹は壁にもたれていた背中を離した。
「どうしようもなにも、お前なら北桐でも余裕だと思うぞ。そんなにガチガチに勉強しなくても、今までどおりで十分なんじゃないのか? 片並に行くとしても……まあ、今のお前の成績を詳しく見せてもらったわけじゃないが、それでも、そんなに根を詰めなくても」
「あ、いや、そうじゃなくてさ。片並ならともかく、北桐ならそんなにがんばらなくても――って、先生も言ってた。けど、そうじゃなくて……」
「そうじゃない?」
「北桐でやっていけるかとか、やっぱり片並にしようかとか、それで迷ってるんじゃなくて。俺は……さ、もっと、根本的な……あの、今さらそんなことって、怒られそうで、先生にも親にも言えてないんだけど……」
夏目はもごもごと言い渋る。なかなかはっきりしないのでもどかしい。
「俺には言えないことか?」
苦笑まじりに冗談ぽく尋ねると、彼は図星だとでも言わんばかりにうろたえて、目を泳がせた。まったくわかりやすい男だ。
「そ、そんなこと! ……ない、ことも、ないけど……ち、ちょっと、だけ」
「だったら、もう少しはっきり言ってもいいんだぞ? お前には言えないって。別にそれくらいで傷ついたり、怒ったりもしないし」
夏目は他人想いだ。というよりも、お人好しで心が弱い。相手を傷つけたり、嫌われたくなくて、周囲に気を遣うあまりに自分の言いたいことが言えずに、ときに八方美人と称されることもある。自分の思ったことをそのまま口にできる真夏と比べると、よっぽど思慮深く、臆病で、繊細で、責任感が強いお人好しな性格だ。
だが、言いたいことを言いたいままにズケズケと言ってのける幼馴染を持つ山吹に、今さら言葉を選んで気を遣う必要などないのだ。
「まあ、言いたくないことなら無理に言う必要もないけどな」
「言いたくないっていうか……山吹はほら、マジメだから、なんていうか……」
言い訳をする夏目だったが、やがて吹っ切れたような――というか、ためらいを無理に振り払うようなため息とついて、実は、と言いにくそうに口を開いた。
「ひ、東坂……行こうかな、って」
「……、はあ!?」
思わず声を上げる。
「ほ……本気で言ってんのか?」
念を押すように聞きなおすと、夏目は泣きそうな顔で、だから迷ってるんだよ、と情けない声を出す。
「そりゃ、はじめはさ、学力的にも北桐が妥当かなって、思ってたんだよ。親も先生も、俺がなにも言わなくても、進路の話になると自然と北桐の話になってたし。俺もそのつもりだったし」
「それがどうして急に」
「だ、だって、真夏も、蒼も、香もナズナも千秋も、みんな東坂に行くって言うんだよ。山吹は片並だけど、俺じゃ片並なんて無理だろうし……」
「……つまり、一人がさびしいから、みんなに合わせて東坂に、ってことか?」
「平たく言うと……そんな感じ、かな」
山吹は返す言葉を失っていた。理解できないわけではないし、共感できないわけでもない。なんとなく意表を突かれたような気持ちだ。夏目は以前として不安を顔に浮かべて俯いている。
「ちょっともったいなくないか? せっかく、お前は勤勉で頭もいいのに、東坂じゃ、あきらかにレベルが低すぎるだろ」
「そんな、別に俺、そんなに頭いいわけじゃないよ。成績だって全然、普通だし」
「お前で普通なら真夏なんてゴミクズじゃねえか」
単なる謙遜なのだろうが、彼の成績は学年でも悪く言っても中の上に分類される。たしかに、特出して優れた成績というほどではないかもしれないが、それでも東坂に置いておくにはあまりに惜しい。
「まあ、自分の進路なんだから、お前の好きにすればいいとは思うけど……」
どこか歯切れの悪い山吹の言葉に、夏目は首をかしげる。
「ど、どうかした?」
「いや、……別に」
自分の学力に合った高校よりも、もう少し低い高校に進学先を変更したい。理由は、他の友達のほとんどがその高校へ進むから。……そこまでひどく反対されたりはしないだろう。それらしい言い訳ならあとからいくらでもこじつけられるし、夏目の親もそれを断固として却下するほどの教育親ではなかったはず。
「……それより、さっきは聞き流したけど、田辺も東坂なんだな。あいつ、お前より成績よかったんじゃないのか?」
「うん、俺もてっきり、千秋は片並か北桐だろうと思ってたんだけど、前に聞いてみたら、東坂だって」
おそらく、蒼がいるからだろう。
「それで、お前も感化されたというわけか」
「まあ、ね」
自分より東坂に相応しくない千秋が行くなら――という具合に、なびいてしまったのだろう。本当に進路を変更するのかどうかはともかく、多少の説得で言いくるめてしまえば、親も教師も尊重してくれるはずだ。夏目がはっきりと意思表示をすれば、簡単に叶うことなのだ。
正直、うらやましいと思った。
*
その日、真夏が学級委員長の少女と帰り道をともにしていたのに深い理由はなかった。委員の仕事で遅くなり、一人で帰ろうとしていたところに、彼女が現れた。ただそれだけのことである。自宅の方向が同じで、通学路も途中までは同じであるので、自然と一緒に帰る流れになった。
人通りも車通りもそう多くない、セミのわめき声だけがやかましく響く夏の通学路。ふと、目の前を横切って落ちていく木の葉に気をとられていると、俯き気味に隣を歩いていた少女が、視界を遮るように垂れる前髪を耳にかけた。
「あ……暑いね」
「夏だからねえ。委員長、熱中症とか平気?」
「うん、大丈夫」
「もう夏休みか。なんか早いなあ。いつの間にか中学入って二年経って、もう三年目だもん。きっと卒業までもあっという間だろうな。んで、高校生活もあっという間」
「……あ、そういえば、西東くんは、高校はどこに?」
「東。委員長は?」
「片並、かな」
「ああ、委員長、頭いいからな」
「そんなこと……でも、じゃあ卒業したら、別々だね」
「同じ町に住んでて、家も近いんだし、会いたくなりゃいつでも会えるよ。ああ……そういえば片並なら山吹も一緒か。あいつ、高校入ったら俺がいなくてさびしいだろうな。あまりにも友達ができないようだったら、たまにこっそり声かけてやってよ」
「や、山吹くんと西東くんって、仲良いよね」
「幼馴染だからね」
「……いいな」
「ん?」
「あっ、いや、あの、私、あんまり友達とかいないし……幼馴染とか、ちょっとうらやましいなって」
「委員長、夏目と同じこと言ってら。でも、俺もそんなに友達いないよ?」
「そうなの?」
「そうなの。そこは一緒だね」
「そう、だね」
「クラスの人のほとんどの顔と名前も覚えてないし」
「私は一応、それは覚えてるけど」
「そう? あ、でもそうか、委員長だもんね。大変そう」
「そんなことないよ。学級委員なんて、誰でもできるよ」
「委員長、俺と山吹が仲良いってよく知ってたね。あいつ、今年は別のクラスなのに」
「え? あ、それはほら、放課後とか一緒にいるでしょ? それに、よく田中くんたちと話してるし……席、ほら、私と西東くん、席が近いから、ときどき聞こえるの」
「ああ、斜め前だからいろいろ聞こえるか」
「あ、ごめんね、別に盗み聞きとか、そういうつもりじゃなかったんだけど……」
「いやいや、聞こえるもんは仕方ないよ。うるさかったらごめんね」
真夏はうんうん頷いていたものの、すぐに考えこむように黙った。委員長はそんな真夏を不思議そうに見ている。ふとそちらに目を向けると目線が重なり、少女はあわてて俯いて、眼鏡を押し上げる動作をした。暑さのせいか、頬が赤みを帯びており、首筋はじっとりと濡れている。セミの声がやけにうるさい。
「委員長って」
「なに?」
「いや……、やっぱいいや」
山吹ねえ、真夏は独り言のように呟くと、また黙り込む。しかし、下を向いていた顔を上げると急に立ち止まり、かと思ったら手で顔を覆って落胆するようにため息をついた。当然、少女はその態度の意味がわからない。真夏より二歩ほど歩きすぎた委員長は、振り返ると困ったような顔になる。
「さ、西東くん? どうしたの」
委員長が言い終える前に、男の声が重なった。
「おいおい、おォい、彼女ができたなんて聞いてねえぞ、真夏!」
「うるっせえなあ、なんでいるんだよ? 白坂」
正面から大股で歩いてきた白坂友人は委員長がいる反対側から真夏の隣にまわりこみ、叩くようにして乱暴に肩を組むと、状況が掴めずおろおろしている少女を見た。
「こんなマジメそうなかわいい子をたぶらかすなんて、やっぱり隅におけない男だよな、お前ってやつは」
「かっ……!」
委員長が頬を真っ赤にしてうろたえる。真夏はじろりと白坂を睨んだ。だがもはやこの幼馴染に真夏の睥睨などは効果がない。
「彼女じゃねえし、暑いから離れろ。さわんな。もう一回だけ聞くけど、なんでいんの?」
白坂は真夏の肩から離れると、折りたたんで持っていた手拭いを真夏の顔に押し付けた。
「お前が来いって言ったんじゃん」
「言ったけどそれ明日じゃん」
「あれ?」
「バカかよ」
真夏はもう一度、白坂をキッと睨みつけ、委員長に彼を紹介した。我々の東坂中学ではない、他校である角崎中学の生徒であり、真夏の幼馴染だと説明すると、突然現れた謎の男の正体を理解して、ようやく安心したらしい彼女は、真夏のクラスメイトだと言って白坂に名乗った。
止まった足を再び動かし始める。白坂は委員長にあれやこれやと話を振り、要所要所に委員長への褒め言葉を混ぜ込んでは、彼女があわあわと困っている反応を見ておもしろがっていた。そんな意地の悪い男を叱りながら、真夏は段々と彼の挙動を怪しみだす。
「そんで、白坂。結局このあと、うち来るの?」
「そのつもり。あ、委員長ちゃんも一緒にどう? メロン味のアイス食べ放題だよ」
「えっ、い、いいよ。西東くんにも悪いし、それに、このあと塾があるから……」
「別に悪かないけど、塾ならしょうがないね」
「うん……あ、じゃあ、私、こっちだから」
十字路で委員長と別れ、白坂とともに自宅へと歩を進める。先ほどまでとは打って変わっておとなしくなった親友は、真夏を見ながら静かに口を開いた。
「あの子、もしかしてさ」
「あ?」
「……、……いや、なんでもねえ」