10「年度の移り」
冬は去り、中学時代における最後の年がやってきた。知り合いもいない三年の卒業式を仮病でごまかし、顔見知りのいない新入生の入学式を居眠りでやりすごしたころには、西東真夏は中学三年生となっていた。やはりというか、受験生という実感はなく、今までどおりの生活を続ける真夏は、しかしクラス全体が同じような雰囲気だったのもあって、一人現実から取り残されるようなことにはならなかった。
そんな調子で、真夏自体は相変わらずのありさまなのだが、良くも悪くも感情豊かでがんばり屋の夏目などは、既に時間があれば参考書や問題集に向き合っていたが、そうまでして上を目指す彼の向上心は、立派だと感心はすれど理解はできない。周囲に彼ほど律儀でわかりやすい努力をしている生徒がいなかったことも理由のひとつだろう。夏目の志望校は片並であるそうだから、ならば根を詰めて勉強に明け暮れるのも当然かもしれないとは思った。
クラス替えの結果、夏目や蒼、千秋などとは去年と同様に同じクラスだが、山吹、香、ナズナは別のクラスとなっていた。あの山吹がすぐ目の届く場所にいないというのは少しばかり心配だったが、なんだかんだでうまくやるだろうと、たいして気にはしていない。真夏は怠け者のまま新しい一年のスタートを切った。
クラス替え直後の教室で、新しい担任が出欠確認の点呼をとっていく。真夏の番はすぐにまわってきた。
「相田。和泉。伊藤。木下。黒宮。にし……ん? ニシアズマ? サイトウ?」
「サイトウです」
「あーはいはい、西東ね」
ニシアズマ、と呼ばれた瞬間、うとうとまどろんでいたにも関わらず真夏は条件反射でそう返した。読めない苗字ではないというのに、なぜこうもひっかかる人が多いのだろうか。
その日はまだ新学期の初日だったこともあり、午前中のうちに解散となった。
それから数日。冬の間には頻発していた朝寝坊もすっかりなくなり、真夏が新しい教室になじんできたころには、また人がいない早い時間帯に登校してくるようになった。冬は好きだが、冬の朝はキライだ。周囲と比べて寒さに強い体質であるのに、起床時にはまるで役に立たない。
二年のときは真夏がどれだけ早い時間に来ようとも、必ず先に蒼と千秋が教室にいたので、二人と同じクラスとなった今年も、職員室に立ち寄ることなく教室へ向かった。算段どおり、教室の扉は開いている。蒼と千秋に向けた朝の挨拶――というよりただの無気力そうな奇声――を発しながら、開いたままの扉をくぐった。
既に教室にいた女子生徒が、手元の本から顔を上げた。黒縁の眼鏡に三つ編みのおさげ髪。スカートの丈は膝が隠れるかどうか。蒼と千秋がいない。真夏はぎょっとした。他の生徒がいたとしても、てっきりあの二人もいるものだと思ったからだ。女子と話すのが苦手なわけではない。彼は本来、人見知りなのである。
「あ――さ、西東くん、おはよう」
女子生徒が言う。たしか、このクラスの学級委員長を務めることとなった娘だ。名前は覚えていない。顔から血の気が引いていくのを感じながら、真夏は真っ白になった頭の中から返す言葉をしぼり出した。
「へあ、お、うん、早いね」
声が裏返った。
「西東くんも……あの、いつもこれくらいに?」
「あー、まあ……いや、今日はちょっと早め」
「そうなんだ」
気まずい沈黙が流れる。彼女は真夏の右斜め前の席で、真夏が机にカバンを置くと、委員長はこちらを振り返った。
「あの」
「え、なに?」
「こ、この前は……ありがとう」
「え?」
身に覚えのない感謝に疑問の声が洩れる。委員長は不安そうな顔で上目に真夏を見る。
「あの、私、学校帰りに……校門近くの歩道で転んで。怪我したんだけど……そのとき、たまたますぐ近くにいた西東くんが助けてくれて、手当てとか……二月のことなんだけど、覚えてないかな?」
「あー……あったね」
覚えていない。
「ず、ずっと捜してたんだけどね、クラスも違ったし、同じ学年っていうのも知らなくて、名前もわからなかったから……あの、そのときに借りたハンカチ、返したくて」
言いながら、委員長は薄い緑のハンカチを真夏に差し出した。それを受け取ったときに、ようやく思い出す。言われてみればそんなこともあった。たしかに冬……厳密な時期は覚えていないが、下校中に転んだ女子生徒に手を貸した覚えがある。
「ああ、思い出した。いや、目の前で転んだ人を無視するのもアレだと思っただけだから……」
「でも、ありがとう」
「……うん」
世間、もとい、学校とは狭いものだ。
*
「賞……っすか?」
四時間目の美術の授業が終わり、教室へ戻ろうとする真夏を呼び止めた美術教諭の佐山の話に、真夏は問いを返した。
「そう。去年の秋に授業で描いた木の絵があるでしょう? 西東くんの絵がね、コンクールの結構いいところまでいったのよ。残念ながら優秀賞ではなかったんだけど。明日の集会で表彰されるから、たぶん担任の先生からも言われると思うけど、私からも伝えておくわね」
「はあ」
「それで西東くん、美術部とかって入る予定ない? 一組の志村さんも賞をとっててね、あの子にも何度か声をかけたんだけど……前々から君の絵はイイと思ってたのよ。最後の一年だけでもどうかな?」
「え、いや……」
「もしかして、なにか部活やってたりする?」
「もう三年なんで、今からはちょっと……俺はいいです」
というより、課題やテーマを設けられて指示通りに描くのが嫌なのだ。真夏はいつだって、なにかを描くなら自分の好きなときに、好きなように、好きなものを好きなだけ描いてきた。誰かに従って描くのはストレスでしかない。なので、絵を描くことは好きだが美術の授業は好きになれないし、この学校の美術部の活動とも相性が悪い。
「そう? まあ、本人がそう言うなら無理強いはできないけど、いやー……いいセンスしてると思ったんだけどなあ」
「はあ、どうも」
真夏が描いた木の絵というのは実にふざけたものだった。というのも、実際にふざけて描いたのだから当然なのだが、それが賞をとったというのだから芸術とは理解に難い。それに一緒に入賞したというナズナの絵は、彼女のは本当に絵がうまくて評価されたのだ。シュールさだけで食い込んだ真夏なんかとは違う。一緒に語っていいものではない。
放課後になり、そのことを山吹に話すと、彼はひどくおどろいてからひとしきり笑った。
「それ、本気で言ってるのかよ。お前の木の絵ってたしか、あの、木の幹に謎のキノコが大量に生えてたやつだろ?」
「そう。やけくそに生やしまくって非常に気持ち悪い出来になったアレだ」
「なまじ絵がうまいばっかりに、気持ち悪さとシュールさが際立っていたアレがなあ……芸術ってわからないな」
「俺もそう思う」
「なにはともあれ、入賞はおめでとう。表彰されるんだろ?」
「そうらしい。別にわざわざ集会でやらなくてもいいだろうに。だってたかが入選だぜ? 一等賞とったわけじゃないぜ? 帰りのホームルームでちょちょっと発表されるか、個人的に報告されるくらいでいいだろ」
「真夏は昔から目立つようなことはしたがらないよな。その意に反してときどき変な目立ち方してるけど」
「注目をあびるのがそもそも苦手なんだよ俺は」
*
「もう嫌だ、帰る! 俺もう帰る!」
「落ち着けって真夏! あんなの別に気にしなくて大丈夫だって」
「そ、そうだよ、明日になればみんな忘れてるって!」
「今日は覚えてるってことだろが! 帰る、離せ!」
カバンを持って教室を飛び出して行った真夏を夏目があわてて追いかける。あの友人があんなにも顔を赤くして羞恥に取り乱す場面など、見たことがなかった山吹はおどろきを禁じ得なかった。
あの奇妙で不気味な絵がコンクールで入賞したのだという知らせを受けた翌日の体育館。退屈な集会に舟をこいでいた西東真夏は、自身の表彰のことなどすっかり忘れており、夢と現の狭間で聞こえた、読み間違われた己の姓に、いつもどおりの訂正の声をあげた。あれはもはや無意識の行動なのだろう。
「ニシアズマ真夏くん」
真夏のあれは、もう脊髄反射の域なのか。今日、そのときも例外なく、いつもに増して大きな声で、真夏は言った。
「サイトウです!」
体育館中に響き渡るような声だった。
校長と真夏のその問答に、五割の生徒が笑い、三割の生徒が小声でお喋りを始める。残り二割は苦笑する者と無関心な者と居眠りをしている者だ。
賞状を受け取り列に戻るその往復の間と、集会が終わって教室へ戻るまでの廊下で、知り合いや友人たちに散々からかわれ続けた彼は、クラス教室の自分の席でため息をつくや否や、開口一番に、
「死にてえ」
と呟いた。先の言い合いはその直後のことである。真夏が出て行った数分後、教室に一人で戻ってきた夏目は、山吹を見ると眉を八の字にした。
「どうしよ、本当に帰っちゃった」