蛮族との邂逅
蛮族との邂逅
坂東太郎と渾名される荒くれた利根川を渡れば、もはや安住の埼玉では無い。茨城県は古河市、魔境への玄関口だ。
古河は群馬、栃木、茨城、埼玉の結節点である。SENGOKUの時代には古河公方が居城をかまえ、関東一円に威を示した伝統ある土地だった。まあそれも今は昔、22世紀を間近にした現在では、群馬、並びに各県の緩衝地帯としての役割を果たしているに過ぎない。
一説によると、古河総合公園および渡良瀬遊水地の地下にはメガトン級の水爆が埋設されているとの事。群馬県民が一斉に侵攻してきた場合に起爆するといわれている。破れかぶれの焦土作戦である。事の真偽は定かでないが、イスラエルの核保有と同等には確からしい。
古河の特産は、怪魚FUNAの煮付けである。甘辛く煮付けた白身は、暴力的なまでに白飯とマッチする。ちなみに怪魚FUNAは、群馬県民との抗争で殺された栃木県民を餌にして養殖されているとの噂。これも真偽は定かでないが、インド人や中国人の約束よりは信用できる情報だ。
核にしろ養殖の餌にしろ、いずれも酷い話であるが、国民も関係住民も冷静である。ネオ日本人は、政治における公然の秘密を暴いて喜べるほど幼くはない。かつての日本人とは違う。
さて、利根川を渡った浅井は、スマート眼鏡の録画機能をスタートさせた。学術的な記録もまた、今回の群馬行の目的の一つだからだ。
ハンドルを握りしめ、彼は改めて気を引き締めた。坂東太郎を渡った以上、ここから先は何があってもおかしくない。慎重かつ大胆な行動が必要になる。
浅井は緊張に苛まれつつ、あえてクルマの速度を上げた。低速で狙われるより、一気に走りぬけてしまった方が良い。
この辺一帯はグンマー交易の為に、あるいは安全保障上の観点からしっかりとコンクリート舗装されている。高速で走っても問題ないし、大型のトラックはおろか、戦車でも走行可能だ。
装甲ランドクルーザーは古河総合公園の横を一気に駆け抜け、思川沿いをしばらく走ると、土手を越えて、あっというまに渡良瀬遊水地駐車場に滑り込んだ。浅井は二台分の駐車スペースを使ってクルマを停めた。午後一時過ぎだった。
意外にも駐車場には沢山の車が止まっていて、
「なんか、バーベキューやりたいなぁ」
思わず能天気な独り言が出て来てしまうくらい、のんびりとした空気が漂っている。
広大な湖を横切るように設けられた道は、白くコンクリート舗装されていて、その道沿いに百人を超える太公望たちが列を成して釣り糸を垂れている。怪魚FUNAを釣っているのだ。
遊水地は馬鹿みたいに広く、群馬ガイドとの待ち合わせは、『渡良瀬遊水地で、午後遅め?』、と言う以外に詳細がわからない。まあ、群馬県民のみならず、発展途上国や沖縄県民との仕事では、こんなテキトーさはしばしばみられる。時間という概念を理解できない民族は思いのほか多いのだ。
「……これ、ガイドとちゃんと出会えるのか?」
とりあへず、浅井は駐車場に車を置いたまま、湖を間切るコンクリート道を進み、200メートルほど先に造成されている公園まで進んだ。この辺りまで来ると人影はまばらで、ジャージ姿で犬を連れたご婦人などが見られるだけだ。どこにでもある公園の日常風景で、機動装甲背広を身にまとい、ポマードできっちりセットした七三分のビジネスサムライは完全に浮いている。
長閑過ぎるこの風景……おそらく、この周囲に住む古河市民は、危険に慣れ切ってしまっていて、生物としての本能を失っているのだろう。一種のヤケクソというか、焼け野原願望なのかもしれない。浅井の胸は悲しみに痛んだ。
結局、あちらこちら公園内を歩きまわって群馬人を探したが……どうにもそれらしい人間が見つからない。
「まいったな!」
一時間ほど探索した後、自動販売機で缶コーヒーを買い、公園のベンチに座り、湖を眺めた。
鴨が飛んでいる。三羽、四羽、いっぱい。かわいい。
鷺も飛んでいる。一羽、二羽。そんだけ。きれいだ。
水音がして、絶叫が響いた。釣り人の一人が、怪魚FUNAに引きずり込まれたのだろう。哀れである。
現在時刻は午後三時、総合公園に着いて早二時間。
浅井は長閑な午後の日差しを浴びて、
「ああ、どうすんだこれ……」
深くため息をついた。
もう、とっくに缶コーヒーも飲みきってしまった。こういう時には、禁煙に成功した自分が憎たらしくなる。仕方が無いので、胸ポケットから常備薬の飴ちゃんを取り出して、一粒口に入れた。チープなソーダ味、これが旨い。
「ゴミ箱がどっかに……あ」
蛮族娘が目の前にいた。いつの間にか。
目の前で胸を張る彼女は、けしからん程にムッチリしているではないか。ああ、けしからん。本当にすごいよやばいよ。
ベンチに腰を下ろしたまま、浅井は呆然と彼女を見つめる事しか出来ぬ。
「おい、テメェがネオ日本ショージなサイターマ野郎かい?」
溌剌とした声。高く凛と響く。
歳は18歳前後だろうか、あるいはもう少し上か。左手を腰に当て、右手には美しくも巨大なこけしを握りしめていた。
身長は浅井より拳一つ分くらい低い。スマート眼鏡によると推定身長165センチ、女性にしては幾分か大きい方だろう。背中に革の背嚢を背負い、ごく緩くウェーブした黒髪を、革紐でポニーテールに結わえて、裸足だ。
茶色の柔らかいなめし革を豊満な胸部に巻き、なめし革のパンツを履いて、さらに腰に革パレオを巻いていた。胸、腰、腿――体躯はどこまでもしなやかで、ムッチリである。すべらかな小麦色の皮膚の下には、女性らしいムッチリ皮下脂肪と、野趣あふれるムッチリ筋肉がみっしりと共存していて、ムッチリである。くびれはしっかりある。DBでもポッチャリでもない。絶妙なムッチリである。このムッチリさにパトスを迸らせない男がいるとするならば、赤玉を出した古老だけである。情動を失った屍である。いっそ、潔く腹を切って死んだ方がよろしい。生きる価値も無い。
彼女の造作は極普通の日本人であろう。丸顔で、童顔。ほっぺがふっくらしていて、ちょっとだけ下膨れ。俯瞰で見ればネコ系の印象なのに、顔は子犬系だ。物凄く美人なわけでも、飛び抜けて可愛いわけでも無い。もちろん不細工なわけも無いが、まあ、普通の十人並みの容姿かもしれない。
ただ、凛と引き結んだ唇と、鳶色をした垂れ気味の大きな瞳がエキゾチックな雰囲気を醸していて、野生のサーバルキャットのような清潔な魅力を溢れんばかりに…………
………ええい!馬鹿め!たわけめ!クソ駄文め!下手っぴな形容など要らぬ!
彼女を見た瞬間、浅井はダメになったのだ。
他の男はどうだか知らない。だが、こと浅井に関して、このあのそれはちょっともうダメむりギバップなのである。
脳の奥底、太古から眠る爬虫類の部分が痺れたようになって、出てはいけない量のホルモンとか脳内伝達物質とかがダダ漏れで、理由はわからなくとも無茶したくなって、無茶されても良くて、どちらでも構わないし、どっちでもイけるし、胸が詰まって、抱きしめたくて、もう泣きそうだ。
28歳、いい歳をした男である。女性との関係だってそれなりにはあった。おそらく十歳近くも年下であろう娘、しかも出会った瞬間の蛮族娘に心の奥底を鷲掴みにされるなど、浅井のサムライ人生は想定していなかった。
だが、もういい。
もういいのだ。全てを忘れて楽になって、この群馬人女性と仲良く一緒に暮らすのだ。沢山抱き合い、沢山の子を成し、大自然の中で生きて死ぬ。そんな人生もいいではないか。だって、にんげんだもああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!シャー!! オラーッ!!
ビジネス! サムライ! 敵の六倍の火力! ロジスティクス! 気組み! お勤め!お勤め!お勤め! 超アラミド千人針!!!
しっかりしろ浅井忠吾! 勘違いするな!
群馬人だぞ!? 小娘だぞ?! しかも神聖なるビジネス相手だ!!
愛では無い! 恋でも無い! 一目惚れなどあり得ない!
大脳生理学とか神経生理学とかなんかそういう生物学的なメカニズムで脳が活性化しているに過ぎない! 激烈な緊張下でふと出会った魅力的なメスに過敏に反応しているだけなのだ! そう、TSURIBASHI効果である! TSURIBASHI間違いなし! うむ、よし! おっぱい! 俺、大丈夫! お勤め!お勤め!お尻! よし、大丈夫だ!
ここまで3.87秒。
「おいテメェ、どうした。ヘンな奴だな、答えろ。テメェがサイターマ野郎か?」
パシンパシンと手の平にこけしを打ちつけながら、彼女はもう一度訊いてくる。
浅井は前頭葉を120%強制駆動。禅の不動心を励起しつつ、大脳辺縁系から様々に沸き起こる情動を全力抑制し、
「失礼いたしました。はじめまして、私はネオ日本商事の浅井忠吾と申します。あなたがガイドの方でいらっしゃいますね?」
直立し、何事も無いように答えた。顔色すら変えない。
表情筋の完全制御はビジネスサムライの基本スキル。サムライ式接遇研修においては、副交感神経の部分制御をもって可とし、心拍および血圧制御をもって良とし、脳波の完全制御をもって優とする。浅井の成績は可と良の間だ。
浅井の予定調和式返答術に、彼女は「ハンッ」と鼻を鳴らし、
「ん、そう。アタシがグンマーの案内人だよ。タカサーキ族の戦士だ。コマと呼べ」
自己紹介して、腰に手を当てた。振動を受けた豊満なOPIがたゆんとふわんとぽわんと揺れる。
「コ、コマさんですね。よ、宜しくお願いします」
あろうことか、サムライがどもった。
OPIだ。強力なOPI攻撃。敵の火力は強大だ。圧倒的な攻撃力である。衛生兵! 衛生兵!
参考までに言うと、クラスDのロケットタイプである。スマート眼鏡に、そう表示されている。この眼鏡を作った、福井のサイバー眼鏡職人、滝元五郎氏は、本当に気持ちの悪い男だ。
まあ、OPIならまだ良い。問題は……
(見るな見るな見るな見るな見るな)
浅井は気を引き締めて、これ以上は彼女の腰に眼をやらないように、強固な自己暗示を施した。実は熱烈なOSR星人の浅井である。OPIならまだしも、彼女のOSRを見てしまったのなら、もはや抗いようもないであろう。リアヴューなど考えただけでも恐ろしい。斜め下30度からの光景などは……あああっ! もうエレクトが危険なのです。無理、これ以上無理……こけしになっちゃう! 艦長! 発狂寸前です!
そんな病的な葛藤を鉄壁のサムライフェイスで押し隠し、
「コマさん、宜しくお願いいたします。これは詰まらないものですが、お近づきの印です。ドーゾ」
浅井は出来るだけ彼女を見ないよう、名刺と手土産を差し出した。
「ふーん」
コマは無造作に名刺を受け取ると、手土産の包みをビリビリビリビリ――
「テメェ、気が効くじゃねぇか。どれどれ……くぁwせdrftgyふじこlp!! 美味い、美味すぎる!!」
「十万石まんじゅうです。埼玉、いえ、サイターマは行田の特産です」
「あはは! 気にいったよ!」
タマは大声で叫び、右足を踏み鳴らした。
――ドカンッ!
彼女の踵は豆腐のようにコンクリートを砕いて地にめり込む。浅井の着る最新の37式機動装甲背広でも、このような出力は到底出せぬ。まさにグンマーはパワーである。
「このジューマンゴクマンジューってのはギョーダってところでつくってんだな? よし、後でギョーダを攻めとる事にすんべ」
「あ、いや、それは……」
「んんん? 駄目なんか?」
「もちろん駄目ではありませんとも!」
この瞬間、行田はグンマー冊封体制に組み入れられる事となった。さようなら、行田。浅井には止める事も出来ぬ。むしろ彼女が望むなら、無駄な血が流れる前に手伝いたい。ケーキカットならぬ、行田切り取りをもって二人の初めての共同作業とし……いかん!
「それにしても、よく私が約束の人間だとわかりましたね」
「ん。ここら全員に聞いたから」
「釣りしてる人達にもですか?」
「ん、そうだよ?」
太公望は百人以上いるのに……意外と努力家さんだった。そういうの、結構いい。ヤバイ、また点数が上がってしまった。
「テメェはグンマーに入りてぇんだべ? なんかKONNYAKUが欲しいとか聞いたぞ?」
「はい、KONNNYAKUが最大の目標です。他にも欲しいものはありますが、第一目標はKONNYAKUですね。コマさんにはご迷惑をかけるかと存じますが、ご協力のほどよろしくお願いします。――まあ立ち話もアレですので、先ずは私のクルマまで」
「ん、おし!」
歩きだした浅井はビジネスライクに半歩前に立って先導しようとしたが、コマはそれを許さず、当たり前のように横に並ぶ。
群馬は強烈な女尊男卑社会、男が女の前を歩む事は許されぬか――サムライスキルで察した浅井は、男性パーソナルスペースの外側に彼女を置き、毎分85mで横並びに歩いた。
「今日はお天気で良かったですね」
「んや、雨のが良いよ。濡れれば暑くないかんな」
そんな感じで、わだかまりを感じだした頃のカップルめいた微妙な距離を保ちつつ、並んで駐車場に進んでいると、
「どわぁ!」
叫び声がして、浅井の背広の襟がピーンと引っ張られた。
「おっとっと……釣り針?」
近くで釣りをしていた中年男の針がバレて、浅井の方に飛んで、引っかかったようだ。
「おう兄さん! すまね……うえぇぇぇ!!」
コマを見た中年男は俄かに奇声を上げた。彼女が群馬人であることは一目瞭然、畏れられるのも当たり前だろう。男は脂汗を垂らして数歩たたらを踏むと、しばらくしてから意を決したようにおずおずと近寄ってきた。
「ん? どうした、オジさん?」
コマがきょとんと訊く。
「あのあの、す、すいません。は、針が外れちまってな……すす、すまねぇな、兄さん」
「いえ、何でもありません。背広の襟に引っかかっただけですから。後ろなんで、ちょっと取ってもらえますか?」
「よ、よし。……ちちょっと待ってくれよ……よし、とと取れた。ここ、これで大丈夫だ」
瞬間、コマが躍動した。
「え?」
AIKI-HYOFOめいた美しいフォームで振り抜かれるこけし。中年男の側頭部に食い込み、弾けた。
「え?」
浅井の視界から中年男は消失。キリキリと縦に大回転しながら宙を舞う。そのまま放物線を描いて、5.2秒後に、
――びちゃん
着弾。
生音。
もちろん即死。
確認するまでも無い。
「な、なぜ……殺したんです?」
「んん? コイツはトツィギ人だべ? あはは、気にすんな気にすんな。死んだコイツも気にしてねぇべ」
コマは胸を張って笑い、自信満々に言い切った。
浅井は軽度ポルナレフ状態に陥った。何が何だか訳がわからない。
頭をぶっとばされた中年男が栃木人というのは、わかる。大丈夫を「だいじ」と言った。
だが、ゴキブリを叩き潰すかのように栃木人を殺すとは、一体どういう関係か、群馬と栃木はそこまで強く敵対しているのか、さらには殺された方も気にしないとはどういう意味か……
余りに常識が違う。この黄昏領域で、南関東の常識は通用しない。これより先、一挙手一投足が死亡フラグである。
おそろしい……
そんな浅井の動揺をあざ笑うかのように、遊水地を渡る空気は何故かノスタルジックに爽やかで、殺人直後というのに血なまぐささが全くない。ザザッと風に葦が揺れ、コマのポニーテールが溌剌と踊った。愛い。実に愛い。
彼女は満足そうにほほ笑む。すりすりと手の中のこけしを撫でる。愛い。これも愛い。
「それにしても、まぁず素晴らしい殴り心地だ。さすがは新作の卯三郎こけし、モノが違う。いい殴り卸しが出来た」
彼女は言った。凶器には血も付いておらず、綺麗なままだ。芸術品とは一線を画し、あくまで実用民芸品として究極の美を備えている。
「それが伝説の卯三郎こけしだったのですね。聞きしに勝る威力です」
「うふふふふ。良いべ良いべ? あ、でも、あげないぞ?」
ニコニコ笑って、とっても嬉しそうだ。ああ、笑顔は危険、危険危険危険可愛い危険可愛い……ヤバイ、もう顔も見ないようにしよう。KAKUGOすら忘れてしまいそうだ。とりあへず無言は色々とコワイので、なんとなく場繋ぎの為に話すべし。
「コマさん、仮に彼が、イバラーキ人だったらどうしました?」
「イバラーキの場合はちぃっとばっかし考えねぇとなんねぇ。ばれるとウシクのダイブツがお礼参りに来るかんな。あのアミダはつぇぇぜ。タカサーキ族にもカンノンがあんけど、マエバーシのクソとの戦いで出ずっぱりだかんね……それにひきかえトツィギの野郎は、見ざる言わざる聞かざるで猫は眠りっぱなしだべ? 楽勝よ」
「なるほど!」
牛久に配備されている重装阿弥陀仏立像が群馬県民と戦闘を行ったという公的な記録は無いが、水面下ではかなりの暗闘がなされているらしい。グンマー人はまず間違いなく仏敵に認定されているだろう。折伏するぞ折伏するぞ折伏するぞ折伏するぞ折伏するぞ折伏するぞ仏罰覿面! あなや!
更に訊いた。
「TOKYO人なら?」
「TOKYO人なんて見た事もねぇね」
愚問であった。TOKYO都民は土に触ると死ぬ。あるいは虫を見ると死ぬ。ある種の神経生理学的疾患である。未開の地、群馬などに足を運ばないのは道理だ。
「では、これがサイターマ人なら如何です?」
「へなちょこサイターマ人じゃ坂東太郎は渡れねぇ」
埼玉県民は吸血鬼では無い。河くらい渡れるはずだ。橋だってかかっている。現に浅井は利根川を渡ってここに来た。
しかし、こうまで自信満々に彼女から断言されると、己の存在がなにやら不確かに思えてくる浅井である。己は何者か、浅井忠吾である。浅井忠吾とは何者か、名も肩書も属性もすべて取り去った後に残るであろう己とは何か、そもそも己が残るのか、形骸とは、本質とは、魂とは、仏性とは……
静かに己の存在証明に悩む浅井を無視し、コマは裸足でぺたぺた歩いて栃木人の死体を回収すると、
「えいっ!」
湖に投げ捨てた。とても可愛い声。彼氏の前でコロッケを油に投入する際に発する、女子の掛け声であった。
カニクリームコロッケよろしく大投擲された栃木人は回転しながら水平に飛んでいき、水面で二度三度と跳ねた後、バクリッとFUNAに食われて儚くなった。無情かつ無常。
「……慣性とか、無いんですかね?」
「ん? 何だそれ?」
グンマー人は既知の力学の外で生きているようだ。ニュートン、アインシュタイン、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、その他赫々たる自然科学の巨人たちの名も、グンマーの前では輝きを失う。もしかすると、グンマーこそが万物理論を構築するための鍵なのかもしれない。
コマは湖に向かい、手を合わせ、目を閉じ、丁寧かつ厳粛に、「なむなむ、なむなむ」と祈った。
浅井も手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と祈った。
二人とも、ちょっとすっきり、ほっとした。なんか、ひと仕事終えた感がある。
「行きましょうか」
「ん」
なんてことは無い。栃木人なんていなかったんや。二人は分速95mでスタスタと駐車場まで歩き、装甲ランドクルーザーに到着した。
浅井は助手席のドアを開け、
「どうぞ、お乗りください」
「これに乗って行くんか?」
「はい、最新の装甲ランドクルーザーです。乗り心地はそんなに良くありませんが、信頼性のある良い車ですよ。一応の装甲があるので攻撃にも耐えますし」
「へー……ちょっと書くもん貸しなよ」
浅井がクルマからサインペンとA4の紙を取り出して渡すと、コマはさらさらりと複雑怪奇な文字を書いた。上毛文字である。
上毛文字はグンマーの公用語。古代ケノ文明を連綿と伝える難解な象形文字である。あらゆるグンマー人は完璧にこの文字を使いこなす。三歳から『上毛かるた』という県外不出の呪具を用いて、過酷な訓練を課されるのだ。もちろん、上毛かるたを使えない他県の者では、上毛文字を理解する事は出来ない。コンピューターによる解読も不可能。おそらくは呪的理由である。
「これ、貼っといて。じゃないと色んな部族にやられんよ?」
「それは……コワイですね。何と書いたのか、お聞きしてもよろしいですか?」
浅井の問いに彼女はニヨッと笑い、
「ん、『タカサーキ族、戦士コマの車、止めたら二度ぶつ』。あとな、これも見えるようにくっつけといて。これ見れば、誰でもタカサーキ族って分かんから」
背中の革リュックを開けて、浅井に小さな高崎ダルマを手渡した。
これでどうやら安心である。
浅井は彼女との出会いを、心から天に感謝した。






