2 唇盗人
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花を一輪摘み取って表情一つ変えず、じっと眺めていたかと思えば次の瞬間には散り散りにして風に撒いてしまうような気まぐれな女だった。もしかしたら自分でも何をしているのかわかっていなかったのかもしれない。
パラウルスは貴族として生まれた。広大な荘園を管理する一族の一人娘、何の苦労もない幸福な生活。絵本や人形にも興味を示さず長椅子に座ってぼんやりと窓の外を眺めては、ほう、と長い息を吐いて終いには寝てしまう。そうかと思えば突然馬に乗り一日中領地で狐狩りをして乗馬服を泥だらけにしてみせ、「上流階級の女がやることではない」と父に諭されれば「そうね」と素直に頷き目を細めた。夕食時テーブルについた彼女は昼間のことなどなかったかのような落ち着きで上品にスープを静々と啜る。「なぜあんなことを」と尋ねられれば「さて」と首をかしげ瞬きをする。
でも、と彼女は言う。つまらなかったわ。
彼女は自分の記憶というものにまるで頓着しない女であり、良くいえば屈託のない、悪く言えばいい加減な人間だった。あまり昔のことを思い出したりはしなかったし、明日何をするかという予定を考えたりすることもなく、ただ朝起きて夢遊病のように世界を歩き回るだけの、要するに不連続的な女だったのである。
そんな彼女のことだから何事も長続きしなかったが、唯一ダンスの練習だけは飽きることなく繰り返していた。これには父もほっと胸を撫で下ろした。何といっても社交界で名声を得るならばきちんと踊れなければ話にならない。裕福な家に娘を嫁がせるためにはまずもって官能的な舞踏で男を誘惑させるのが一番であり、そのためならば体と体を擦りつけるあの下品な円舞曲を踊らせても構わない、と父は考えていた。うちの娘ほど美しければ、王族に嫁ぐことも夢ではないと。深く悩むことのない彼の娘は非常に整った容色をしており、彼女の性格も相まってかそこには白痴美的なものさえ秘められていたのである。白く透徹したその瞳が細められる時、父は自らが裁かれたような衝撃に襲われ思わず跪きそうにさえなったという。
貴族として生まれただけあってなるほどパラウルスは機智に長け、軽妙な会話も出来たし育ちの良さが伺えるだけの上品な物腰を身につけていた。彼女の動きは常に優しい加速と減速を連れており、歩いても物音一つ立てなかった。
美しい自分の娘を足がかりになんとか王室と親戚になれないものかと父は企んでいた。だからパラウルスが「バレットをやりたい」と言った時彼は仰天した。俗に爪先舞踏と呼ばれるその踊りは社交界における教養を超えたものだったからである。
「お前は高級娼婦にでもなる気なのかね。そんなにダンスが好きか」ほとほと困り果てて父は頭を抱えて呻いた。
「楽しくはないわ」けれどパラウルスは飄々と答える。「ただしてみたいだけ」
父は父なりに娘を愛しており、まあ一流の舞踏家として公爵の愛人に選ばれるということも無いわけではないか、とため息をついた挙句、どこからか娘に家庭教師を見つけてきた。こうしてパラウルスはバレットを学び始めた訳である。
彼女の家が没落し出したのも丁度この頃であった。その頃父は一人の愛人にいれあげており、多額の金を女に貢いでいた。荘園の管理は疎かになり、ぶなの木は枯れ、土地は痩せ、主人の眼を逃れた使用人たちは木陰で眠りこけている。母は既に他界しており父に忠告するのはパラウルスの役目だったはずだが、彼女は口をはさむことなくただ静かに破滅を眺めていた。何事にも執着しないという点において彼女はまさしく優雅であった。
父は女を離れに住まわせていた。小川の側の水車小屋を改築して作った小ぢんまりとした家である。父とその女は夜、銀色に染まった小川のさらさらという天使のささやきのようなせせらぎを耳にしながら睦言を交わす、というわけである。頻繁に離れに通いやがてそこに泊まり込むようになった時、既にして父は奴隷であった。父の老いた体には背中に乗せる女の尻がひどく堪えたことだろう。
パラウルスは相変わらず自由な生活を送っていた。雪の夜の青白い世界を見つめながら天を仰いでみるのも、荒れ狂う嵐の中で疾風の乙女として木管横笛を吹き鳴らすのも、たとえ喜びもなく悲しみもなくとも彼女には必要だったに違いない。
ある日珍しく父の愛人は本邸にやってきて、日の落ちかけた広間で気だるく長椅子に横たわっていたパラウルスに近寄りそっとその唇を盗んだ。その口付けは砂糖水の凍れる珠をしゃぶったような味がした。窓辺から差し込んだ夕日の紅が一瞬、ぎらりと女の背を切り裂く。喘ぐ言葉に震える舌はひたひたと蠢き、互いの舌に物語を綴るように先端で肉をなぞる。
「なぜキスを?」とやや鬱陶しそうに右目を引き攣らせ尋ねると、女は羽毛のように軽やかに笑った。
「人を愛するのに理由が必要?」
女は恋人の娘を腕のうちに閉じ込め、耳元に唇を寄せる。パラウルスはその夜、燃え立つ夜具の中で官能というものを知った。
父は順調に身を持ち崩し、破産は間近に迫っていた。だがパラウルスは女を責めることも憎むこともなく、家の没落にも動揺一つ見せず舞踊の基本ポジションなどを繰り返し練習するだけだった。ついに立ち行かなくなった家計は破綻し、父は自殺。パラウルスは借金をかたに売られ、娼婦となることが決まった。
最後の日、わずかに残った衣類を詰めた古びた革の旅行鞄を手に提げ、パラウルスは女にキスをした。それは復讐だった。
「なぜキスを?」
からかうように口元を歪める女に、パラウルスは素っ気なく答える。
「唇と唇の間にあるものを確かめ合うために」
女は一瞬呆気にとられ、面白そうに笑った。それから両手を開いて爽やかに言った。「ねぇ、私たち友人になれないかしら」
「なれないわ」
「どうして?」と悲しそうに女は言う。
「私は人間だもの」
そう告げると、女は残念そうに「そう」と目を伏せ、「それなら私はさよならを言ってあなたの元から消えていくことにするわ」と続けた。パラウルスの目の前で女は庭に此方から彼方へと張った見えない糸に飛び移り、軽業師じみた体重を感じさせない所作でひょうとマシラのように駆けあがった。女の纏った紅毛更紗のドレスが風の中に翻ったかと思うと、跳躍した女は宙でくるりと回転し胎児のように体を抱え、次の瞬間ぱっと消え失せた。跡形もなく。
強い風が吹いて、松毬がどこかで転がって行った。
鼻腔に残る幽かな獣臭と瞼に焼きついた閃光のような女の回転。パラウルスはしばらくまんじりともせず立ち尽くしていた。無尽に吹きすさぶ風が彼女の全身を嬲り、滑らかなその髪を千々に乱す。彼女は一旦女の消えたあたりに手を伸ばしかけたが、すぐに手を降ろしそこを立ち去った。
パラウルスは売られた劇場で踊り子兼娼婦として働き始めた。苦労は絶えなかったがもともとの性格もあり大して絶望することはなかった。踊ることができるのならば男に抱かれようとも構わない。夜の営みも所詮はダンスのようなものではないか。
踊り子と娼婦はとても近しいものであり、大抵はパトロンを必要とするものである。やがて彼女は何人かのパトロンを抱えるようになり、劇場でもそれなりの地位につくようになった。
パトロンの一人は劇場の支配人で、彼はそこで園長と呼ばれていた。すなわち劇場は動物園である。逃げないよう風切り羽を折られた片足立ちの娼婦たちは夜に羽を広げ、ほんの一瞬だけ宙に跳びあがりダンスを踊る。場末の娼婦ではなく、かといって高級娼婦と呼ぶには玩具のようで、天と地の狭間で踊る彼女たちの住みつく世界は見世物のように動物園と称されている。
五年ほど働くとなんとか借金も返すことができパラウルスは晴れて自由の身となったが、他にやることもなく踊り子を続けていた。
彼女は時々あの女とした接吻のことを思い出した。人差指で唇をなぞり、はてどんな感触であったかと思う。男と体を絡ませ唇を合わせる度に、彼女はいつもこれではないと考える。あの遊戯的で、破滅的で、なおかつ譫妄的であった口付けとは。そんな時大体彼女はベッドから男を蹴落として鏡の前に座り、引き戸から取り出した獅子彫刻のナイフを銜えてみる。銀の凍みつくナイフが彼女の火照る唇を撫でる。
パラウルスが主として舞う劇場の位置する場所はそれほど治安の良い場所ではなく、歓楽街というだけあって娼婦や女衒がごろごろしているし、道を歩けば浮浪者や乞食に出会う。彼女が買い物がてら街をぶらぶらしていると、道端に何か汚らしいものが蹲っていた。こちらに背中を向けてレンガ造りの壁に身を寄せている。どうやら子供のようだった。みすぼらしい身なりをして、最後に食べ物を食べたのはいつのことか、骨のようにやせ細っている。身にまとうポンチョのような襤褸布は擦り切れ、血や泥で汚れ、垢まみれのために油のように鈍く光っている。全身に蝶が集っているところを見ると、もう死んでいるのかもしれない。そんな光景は見慣れていたので気にせず通り過ぎようとしたが、彼女はその子供が仮面をつけていることに目をとめた。靴の先で子供の脇腹をぐいと押して転がすと、仮面が露わになる。
彼女は不意にその仮面が欲しくなった。
身を屈め仮面を手に取る。仮面は簡単に顔から剥がれた。紐で固定していたわけでもないのに、一体どのような方法で顔に固定していたのか判然としない。手近に寄せて矯めつ眇めつしていると子供が呻いたような気がしたが、手当をしてやる義理もないので放っておく。目の部分に小さな穴の空いた仮面は右目のあたりに茴香と炎が描かれてあり、なかなかの細工物と知れた。仮面にこびりついた草の汁や土の汚れを軽く払い、彼女は仮面を持って歩き出した。やっていることは盗人であるが自覚はない。こうした衝動的な振る舞いによって彼女に出会った男は魅了されるか恐れるかの二つに分かれるのであるが、彼女自身はもしかしたら人よりも呑気だというだけなのかもしれない。彼女は悠々と足を進める。
その時であった。彼女の背後で稲妻の炸裂じみた怒声があがり、じりと何かが地面を擦った。振り返れば先ほどの子供が狗のように尖った眼をして、返せと叫んでいる。返すも何もこれは私のものなのに、というようにパラウルスは仮面で口元を隠してみせる。子供は逆上して躍りかかった。
当然彼女は一人のダンサーであるからひらりと身を交わしてみせるし、子供が次々に飛びついてきてもドレスの裾にさえ触れさせなかった。何度やっても仮面を取り返すことができないので子供はくたくたに疲れ果て、終いには鼻を鳴らしだす始末。感情をそのまま顔に出す幼さは、なんとわかりやすい子供だろうと街行く人々に思わせるには十分なものだった。無論彼らは仮面が子供とその家族とを繋ぐ唯一のものだということを知らないから、少女の切実な焦燥と悲壮を理解せずとも仕方のないことではあるけれども。
子供はとうとう諦め、ふてくされた顔をしてパラウルスの後ろからとぼとぼと付いてきた。彼女はまったく構わずに歩き続ける。途中何人かの出しゃばりが「ご婦人、わたくしめが乞食を追い払いましょうか」と提案してきたが、そういう輩には一つ涼やかな流し目をくれて「結構」と告げるだけで十分であった。
彼女の手で仮面が揺れるたびに、子供の視線がちらちらと揺れる。あまりにもまっ直ぐなその反応に、パラウルスはついつい仮面を弄び、軽く宙に投げたりなどして遊んでしまう。その度に子供は、母の死体に縋りつく赤子のように分かちがたく離れがたい何かに急かされて風を切って跳んでみせ、パラウルスは仄かに笑う。
そんな風にして道々ふざけた結果、家に帰る頃にはもう、その子供は仮面の付属品か何かなのだという気になっていた。出迎えた女中が「その子は?」と訝しげに尋ねるに、パラウルスは首を無造作に曲げて「おまえ、名前は?」とぞんざいに確認する。子供は恨めしげにしばらく黙りこくっていたが、渋々といった様子で口ごもるように「ロウ……ロウヴィー」と答える。
「ですって」と彼女は言い、納得いかぬ様子で首を捻る女中を尻目にすたすたと家の中に入っていく。
「ですって、じゃあないでしょう。それは私の仮面なんだから、返してよ」
きちんとした発音で言葉を話すロウに女中の表情が少しだけ和らぎ、「よくはわからないけど水でも浴びてきたら」と親切に話しかける。ロウは律義に「ありがとうございます」と頭を下げ、しかし慌ててパラウルスを追いかけて言い募った。それは大切なものだから、返して。
「嫌」
厳然とパラウルスは言い放った。憮然とするロウに、彼女は冷然と言葉を続ける。いつもよりほんの少しだけ饒舌に。
「でも貸すという形ならいいわ。私のものをおまえが時々借りていくというのなら」
そうして仮面の内側から少女を覗き、暗い淵に引きずり込むような声で囁く。
「おいで、ロウ。私と共に」
……そうして彼女は一人の少女を預かることになり、身の回りの世話を任せるようになった。愛人の気まぐれに「迷い猫ねぇ」と園長は面白そうに喉を鳴らし、振付師のカルタンは「猿のような娘だ。気性が荒くて歯をむき出しにする」と大げさに怯え、娼婦仲間のイシュタルは「どこで拾ってきたのやら、野良犬みたいに目付きが悪い」と馬鹿にした。
「もしかしたら」とパラウルスは薄く唇を歪め沈着冷静に答える。「蜘蛛かもしれない」




