4 それがお前の物語
縛められた仮面の女が連行される。落日の宮廷内には人気がまるで無い。乾いた足音だけが大袈裟に響き、邸内の虚ろを強調する。通路に飾られた年代物の甲冑の青銅や磨かれた大理石の床に写された女は、死を前にして固く眼を閉じている。半分に砕けた仮面は旅の苦労を物語るように罅割れ、染みや汚れに覆われている。罪人を連行する兵士以外誰もいない内部はまるで凍っているかのように薄ら寒く、女の指先を強張らせた。
やがて女は大広間へと辿りつき、背中を押されつんのめるように入室する。二階の中央に設けられた豪奢な椅子に蜘蛛は座り、ゆるゆると謎めく視線でこちらを見下ろしている。照明の落ちた室内は幕の落ちた舞台のように物悲しく、寂しい風情が漂っている。窓から差す残り火の夕日が幽かに薄闇を照らしだし、宙に舞う粒子を写しだす。罪人の処刑の筈が辺りには首切り役人も司祭も控えていない。疑問に感じていると、背後の兵士が女を縛りあげていた縄を解いた。兵士はそのまま縄を胸の前に掲げ、二階に座る蜘蛛の影の中へとまるで階段を降りていくようにかつかつと靴音を立てて沈んでいった。
「実際の所、この城には誰も住んじゃいないんだ」
女は吐き捨てる。
「どうか私を暴かないで」
悲しげに眼を伏せ、蜘蛛は手に持った扇で口元を隠した。ふざけたその仕草に女は痛ましい表情を浮かべる。
「仮面を被った時、そしてアサスーラを殺した時、私は確かに蜘蛛だった。だから私はあなたの気持ちだって経験してる。私とあなたは同じ筈だ」
「でもそれは半分だけでしょう。何もかもが半分で、半分のまま……」
「私が歩んだ人生は同時にかつてあなたが生きた蜘蛛の物語でもある。だとしたら死ぬまでのあと半分は、また別のものだっていいじゃないか」
「いいえ。もう半分はいらない。私はただ、冬が欲しい。もう春は嫌なのよ」
幼子を諭すように蜘蛛はゆっくりと語った。
「違う。あなたはもうずっと冬の中にいる。永遠のように眠り続け、夢の中で仮初の春を仰いでいるだけだ」
「あなたはまだ何も知らないからそんなことが言える。千年という時の風化の中ではどんな春だって色褪せてしまうものよ。あなたは今日吹く風と明日吹く風は違うものだと思っているかもしれない。けれど何百年も経てば〝違う〟という言葉の意味でさえ失われてしまうから、どんな風が吹いたとしてもそれは郷愁にしかならない。もう取り戻せないから懐かしいと思う。その懐かしさの前では、この世の全ては物語になってしまうよ。あらゆる母が子供に読んで聞かせる御伽話も、いつか私の愛する人が闘った冒険譚に過ぎない。隣に立つ人の母も、その母の母もその母の母の母も私はみんな知っている。みんなそうやって過去を語り継いできたのだということを私は確かに知っている。……けれど、そうやって母の母の母の母の母の母の……と繰り返している内に、ハハという音の意味はわからなくなり、言葉の構成は崩壊してしまう……」
「私とあなたはどこか似ていて、それでもやはりどこかが違うんだ」
蜘蛛の言葉を遮り、女は床に座り込む。
「押韻は言葉の繰り返し。その響きは同じでも言葉の意味は違う筈なのに、二つの言葉の間には何かが宿る。言葉と言葉が見えない形を孕むのなら、そしてどんな娘もいつかは母になるのなら、どんな女だっていつかは乙女だったに違いない。だから私はあなたにキスをする。私はまだあなたにおやすみのキスだってしたことがない。ねえ、親に愛されなかった子供がすることと言ったら、愛されるためにもっともっと頑張るか、愛されなかった分だけ親を愛するか、そのどちらかしかないんだよ」
「お前の言葉はいつだって幼い」
尊大に口調を変えた蜘蛛はあたかも仮面をつけたかのように表情を失くし、弛緩した筋肉を死体のように弛ませた。その途端蜘蛛が纏ったドレスの裾から天道虫が次々に這いだし、床を這い、天井を駆け、無数の虫達は見る間に満ち溢れていく。女の影から、柱の亀裂から、扉の隙間から、瘧の如く伝播して室内を侵していく。
天道虫は待ち針じみた極細の脚を痙攣させながら百億の羽を擦りあげ、その口から呪いのように歌声を上げた。
地鳴りの如く奏でられる交響楽。蟲たちはぱちりと弾け反転しながら狂おしく絶唱する。
──とも跳ねよ。かくても踊れ。
東方の響きを伴って歌われる呪文は豪雨のように床を叩き、迸る怨念を撒き散らす。
六道輪廻の間には
ともなふ人もなかりけり
独りむまれて独り死す
生死の道こそかなしけれ
膨れ上がった黄金奔流は広間を覆い、やがて天道虫の頭を持つ人間の姿をとって辺りを取り囲む。煮凝りのように固まった天道虫の兵士達は手に手に弓を持ち、矢をつがえ、広間の中心で胡坐をかく仮面の女に狙いを定める。だが女は顔色一つ変えずふてぶてしく座り込んでいる。女は仮面で顔を隠し、しかしその仮面をつけたその顔こそが素顔なのだと考えている。蜘蛛は人間の顔をして、しかしその素顔こそが物語という名の仮面なのだと知っている。
二階席から見下ろす蜘蛛は穏やかに微笑み、不思議によく通る声で語りかける。蜘蛛と仮面の問答は続く。
それでお前はどこへゆくの。
私はどこへも行かない。
けれどあの男を求めるのでしょう。
あれは私のものだ。誰にも渡さない。
けれどもいつか人は死ぬ。男だけが老い、女は永遠に生き続ける。人と蜘蛛とがどうして手と手を取って生きられると言うの。踏み出すリズムが違えばワルツを踊ることはできない。異なるもの同士が理解しあえるというのは幻想よ。
だから、その幻想を踊りで表現しなきゃならないんだろ。
女はやや声を強めて言う。
たかだか二十年生きただけの女が何を言う。
蜘蛛の嘲弄に、女は悲しそうに顔を歪める。
わからないよ。
全ての震えを吸い込み静寂に帰す白雪のように、女の声は寂寞としている。
あなただってそう思うんだろう? 私にはあなたがわからない。本当は何もわからないんだよ。自分のことだってさ。……でも、だから、自分を理解しようとしてくれる人を大切にしたいし、まだ死にたくないとも思う。……それでも私は、やっぱり何かをわかりたい。あなたともっと……一緒にいたい。そんなことを言う唇は罪ですか?
蜘蛛は瞑目する。
この世の全ては過去になる。現在は瞬く間に過ぎ去り、全ては風化していく。過去は砂漠に残る風紋、未来は波濤の中の盲目。そして今とは手を伸ばせども掴めぬ体温、形の無い風と同じ。風はただ通り過ぎていくだけ。辛辣に記憶を掘り返し、郷愁と無常を突き付けていく。風が吹いて、落ち葉が舞って、だがそれが何になる? 枯れてしまったものに与えてやる言葉などありはしない。文学には書物が残り、音楽には楽譜が残り、絵画には絵が残る。だが舞踏はどうだ。踊りには何もない。人々の振舞いそのものを記録することはできない。いかな記譜法によろうとも、存在そのものを量り取ることなど不可能だ。あとはただ永遠のように忘れ去られ、脳髄の中に屍を埋めていくのみ。だから私は冬を求める。芝居小屋の片隅で春を鬻いでいた女は一瞬の幻夜に拐かされて蜘蛛となった。そして春に芽吹き夏には焼かれ死んでいく植物神のように、生きては滅ぶ蜘蛛の怪がやがては一柱の神となり蜘蛛神の力と共に千年を生きたとして……、千年生きて千年一人の蜘蛛神がついには雪を待ち侘び、無言の冬を求めるのだ。お前は私にとっての冬、雪荒ぶ山々の松籟だ。さあ踊っておくれ、私のために。その仮面をつけ蜘蛛となり、蜘蛛の力で私を殺せ。さもなければ私がお前を殺す。九十九の矢で身体を貫かれお前は父のように踊り狂って死ぬ。悩むことはない。ただお前は復讐すれば良いのだ。お前を弄んだ私を憎み、その心のままに私を殺せ。
女は煌々と輝く瞳で蜘蛛を見据える。鋼の意思に彩られた強い眼光は母を捉え、澄みきって揺らぐことはない。
生き物はいつか死なねばならぬ。それこそがこの世の定め、この世の法。さあ、お前のその手で世界のあるべき姿を見せておくれ。
仮面の女はゆらりと立ち上がり、虚ろな声を彷徨わせる。
何もかも思い通りか雪侘蜘蛛。たかが寂しがりの老いぼれ風情が随分と勝手なことを言うじゃないか。
幼い少女が風の中に囁くように、女はそっと言う。
……人は誰でも、物事を正しく捉えたい、正確に量り取りたいという願いを持っている。だがそれは人の視点だ。人は自分の心から逃れることはできない。それでも人は解釈を重ね、自由な視点で対象を捉えようとする。それは遠近法。人が見出すVanishingPoint(消失点)は神ではなく人間のためのもの。それはけして復讐のためなんかじゃない。
女はきっと蜘蛛を睨み、声を張り上げる。
舞踏に残る形はなく、ただむなしい体温が風の海に揺蕩うだけ。それは一瞬の幻影、束の間の錯視。地を離れ天を目指しておきながら女の身体はいつだって脆い。天地の狭間で浮遊する女の魂は陽炎の如く霞んで揺らいでしまう。その様はまるで、V字によって再現される冥界下降譚のようだとは思わないか。アドニス、イシュタル、ペルセポネ、そしてオルフェウス。冥界に足を踏み入れたものは、それでもいつか地上へ帰る。片足立ちの娼婦が爪先立ちで臨んだ跳躍のその果てには、必ず落下が待っている。Vを逆さにしたように、いつか女は地へ落ちる。そんなことは誰にだってわかっている。だがそれでも人は跳びあがるんだ。
女は両手を広げ、澄み切った声で高らかに告げる。
踊躍の先で神になって、それでどうする。もっともらしい顔でもっともらしいことをして、それで面白いと言えるのか。たとえどれほど上手く演じようとも、演じ切ってはいけない! あなたの言うとおり私は仮面をつけよう。蜘蛛にもなろう。だがそれは蜘蛛でありながら蜘蛛でなく、模倣でありながら模倣ではない。舞踏は一瞬の幻影、束の間の錯視。それはただ、今この時だけの幻の夜。過去でも未来でもない、凝縮された現在の容。
仮面をつけて、あなたはそれでどうするの。人でなく蜘蛛でもないとするのなら、それは一体何だというの。
決まっているじゃないか。私は……”娘”さ。
蜘蛛の問いに、仮面の女はク、と不敵に笑って見せる。
人と蜘蛛の娘! それが私のあるべき姿、私の物語だ!
娘?
父と母の間には娘がいる。私の父は人間で、母は蜘蛛だった。だから私は娘だ。父がいて母がいて、その子供がまた父となり母となり、家系図のV字下降の水底には現在を生きる娘が現れる。織り上げた糸に巻かれて生きるんでもない、千年螺旋の中に死んでいくんでもない。それは娘だ! 今この時を生き、一瞬の回転を踊る娘! それがこの私だ!
勇ましい眼をして大口上を述べる女に、蜘蛛はそっと目を伏せる。
あなたはなぜ、踊るの。
──さあな。
そう。なら見ていてあげる。あなたが踊り、そして死んでいくさまを。さようなら、ロウ。私の娘。けれどいつか忘れていく私の家族。百年経てばあなたもまた過去になる。
蜘蛛はゆっくりと手を上げ、最後に何か言い残すことは、と尋ねる。その問いに仮面の女は閑かに笑う。
──人はなぜ、恋をするの。
そして蜘蛛は叫んだ。
「放て!」
宮廷に夜が落ちる。振り下ろされた合図の手。広間の八方から蟲毒の矢が雨霰と降り注ぐ。風を切る矢羽の擦過音は孀の唄を奏でながら飛び狂う。大理石の床を刺す弓矢はたちまちに赤黒い液体に変わり、どろりと腐臭を発しながら地を埋めていく。鋼鉄の鏃は凄惨な音を上げて肉を食い破り、女の身体に一筋の裂傷が刻まれる。
だが仮面の女は臆すことなくひらりと跳び、狂鳴嵐の中で踊り出した。
──女の舞うその踊りに詩はなく、その身を任せる律もない。だがしかし──ああ、されどなお大地踏み鳴らすその足は、軽やかにして妖艶、定型にして夢幻、か弱い肉を纏った骨を碇の如く打ち込んで、我と我が身とを広がる大地に繋ぎとめようとする。燃え上がる熱情に右眼の紅は沸騰し、煮え滾った涙を零しながら女は舞う。震える金毛で薄闇に流星を流し、たおやかな手の平で血飛沫を断ち切って飛んだ。片足立ちの娼婦が全ての眠りと引き換えに幻化する爪先立ちのこの夜こそはプロメテウス。火烈鳥の脚で大地を打ち鳴らし迅速の鼓動を供にして飛び立つは魔性の怪物、焔の乙女。か細い身体をけだものにして誘惑の牙を剥き出し、破倫の爪を尖らせて遠吠えを上げる。獅子吼の果てに導くは白く耀く両足で編む灼熱の交響。誇り高き爪先の片足旋回は魂の尾で螺旋を描いて弾けた。その吐息は悠久、その脈動は雷鳴。描き出す舞踏絵図は運動の星々、破滅の晩餐遊戯。甘く掠れた溜息で人の心の間隙を貫き、永遠の不意打ちの如き流眄を贈る。睫毛から滑り落ちる汗は乳香にも似て香しく、悩める女の肢体をしっとりと濡らす。豊かな口唇から蜜蜂を生み出すように空間はあらゆる振舞いに震え唸りを上げる。
──さあ、もうおしまい。何もかもがこれでおしまい。
終焉を物語る女の瞳が別離の予感に潤う時、飛来した一本の矢が彼女を襲う。閃く残影、飛び散る鮮血。ぐらりと態勢を崩す女の掌にはしかし確かに矢が握られている。加速度の重みそのままに奔る矢は女の皮膚を焦がし肉を削り取った。醜い傷痕から血を流しながらしっかと矢を受け止め、女は不敵に笑う。
──全てここで終わる。たった今、これがおしまい。
浅く鋭く息を吐きだし女は鋭く笑う。動きを止めた女を矢は次々に貫き、手を脚を脇腹を膝裏を打ち抜いた。溢れる苦鳴に口端からは涎が零れ、女は苦痛に呻き跪く。それでも女はその瞳に孤高の光を宿し、三度荒く息をして顔に一瞬哀しき懐旧を浮かべ四度目の息で臓腑のあらゆる感情を吐き出して叫んだ。衝動の躍るまま喉元の擦り切れんばかりに喚きながら、肉体を貫く矢を強引に引き抜き、粘つく血液に濡れた掌で顔を掴む。油汗をこめかみに浮かべつつも女は捕まえた矢を咥え、矢羽をしゃぶり、歯を固く食いしばる。火箭の如き眼光で真っ向を見据え女は再び高く跳ぶ。それは舞踏のようで舞踏でなく、舞踊のようで舞踊でない。天と地のダンスを模倣しながらもまるで異なるその仕草、既存のいかなる美的範疇をも超えて跳び結ぶ幻影舞踏。
──だからさよなら。これでさよなら。
生きとし生ける全ての鼓動を残響にして舞踏曲は荒々しくも流麗に奏でられる。肩甲骨を見事に撓めた彼女の肢体は切ないほどに薄く、背筋を反らせ宙でくるりと回転するその振舞いは静かな陶酔を追い求める。それは忘我の剣をわが身に突き立てる衝動。立つべき場所を外れ、正気と狂気の境を朧に乱す幻感覚。暗い肉の宿に取り残された子宮海の細波を今こそ暴風として解き放つその女の唇は、遠く離れた記憶のように母の名を一度強く呼んだ。
──けれども、蜘蛛の心は動かない。
それで、と蜘蛛は言う。虚無を湛えた緑の瞳で淡々と娘を見つめ、ゆっくりと言葉を続ける。
それで、どうするの。どうなるの? そうやって忙しく踊って見せて、あなたは何をしたつもりなの?
投げつけられた問いに女は答えず、荒々しく肩で息をする。
私はどうすれば良かったの? あなたの踊りを見て、感動して、改心して、これからは良い母親になりますと言って、あなたにキスをすればよかったの?
仮面は答えない。
踊りが……踊りが世界の全てなら、世界の全てを踊りが変えてくれる。けれどそうではないのでしょう? あなたは踊りではないし、命は踊りではないし、言葉だって形だって踊りではないのでしょう?
仮面は答えない。
わからないわ、ロウ。踊りさえすればなんとかなると本当に信じていたの? これがあなたの望んでいたことなの? あなたが踊って幸せな結末を迎える、それがあなたの求めた物語なの?
なおも仮面は答えない。故に蜘蛛は問う。答えなさい、と。
蜘蛛は何も感じない。詩情に満ちた女の舞踏を前にして、しかし琴線の糸はぴんと張り詰めたまま身動きしない。踊りは何も変えない。踊りは何も伝えない。悔しくも悲しいその感慨がふと蜘蛛の心を軋ませる。それは孤独、それは忘却。掌に残ることなきその感触はただ幼く寂しく儚い。──ああ私には何も分からないのだ目の前で娘がこれほどに踊りを踊っているというのにその意味もその理も何一つ私には届かない私には何も分からない。蜘蛛にはただ、娘が眼前で踊っているということしかわからない。その記憶もまたいつか薄れ消えていくのだろう。
──わからないわ。
寂しげに囁く蜘蛛はもどかしそうに首を振る。
だからそれが何だというの。踊って、踊り続けて、それが一体何になるの。たとえどれほど美しい踊りでも、私はそれを言葉でしか受け取れない。だから、飾る言葉が幾重でも人は何もわかりあえない。
しかし仮面の女は動揺することもなく、力なく微笑んで母に応えた。
いつか、私もそう思ったんだよ。
だから?
わからないよ。
わからない?
わからない。
わからないの? わかった気にもなれないの?
わからないよ。
わからない……。
言葉を繰り返すうちに、わからない、と呟く蜘蛛の唇が震えた。
さみしいね。
はっと目を見開いた蜘蛛は、わなわなと震える唇を歪ませる。蜘蛛にはただ、娘が眼前で踊っているということしかわからない。それ以上でもそれ以下でもない。その記憶もまたいつか薄れ消えていくのだろう。
──わからないわ。私には何もわからないもの。言葉の一つだって届かないもの。……ああ、どうせこんなことになるとわかっていたのよ。こんなことが前にもあったと、確かに私は考えていた。
蜘蛛は言葉を繰り返す。その台詞は確かに不思議な既視感に溢れている。
こんなことが、前にもあった。
そう思いながらしかしそれが何なのかもわからず、何を失ったのかもわからず、伸ばすだけ伸ばした手のひらがむなしく空を切って躱す遠い体温。
仮面の女は俯く蜘蛛を見つめ、ぽつりと言う。
生まれる前の私たちは、きっとそんな寂しさで繋がっていたんだよ。今私はあんたの胸の中にいて、あんたは私を模倣しているんだ。
女は仮面の内側から蜘蛛を見つめ、冷たい声で告げる。
また来る明日を厭うなら、今この舞台で死んでいけ。
仮面の女は深く息を吸い、腹の底から声を張り上げた。
──人は言葉を繰り返し、舞踏は法を繰り返す。その繰り返しの中で物語が生まれるのなら、私は今一度の餞に蜘蛛へと語る。千年生きて千年一人の雪侘蜘蛛が……と、それがお前の物語。千年生きて千年一人の雪侘蜘蛛が女王の胎に身籠って、王宮の一室で生を受けたというのなら、今度は私がお前を産んでやる! 十行詩蝶よ群れ集え! 童の無邪気で母の肉を毟り取り、その記憶を食らえ! 蜘蛛を忘れ赤子に戻り、再び人として生きるがいい! 全ての植物神が春に芽吹き夏には焼かれ死んでいくというのなら、しかし秋の倦怠と冬のまどろみの果てにまた春は来るのだ! 千年機械の巣を逃れ、恵みの春に蝶よ舞え!
女の絶叫と共に蝶は写しだされる影のように現れ、けなげな翅を魔術幻灯的に輝かせる。無数の蝶に取り囲まれ、女は姿を幻夜にとる。はためく腕の運動を蝶が覆い、軽やかに爪先立つ脚を祝福する。
おかあさん……?
蜘蛛は不思議そうに声を絞り出す。仮面の女は涙を堪えながら優しく答える。
……そうだよ。いつかは。
見守る母のように穏やかで静かな言葉。蝶達は口々にざわめき、歌い出す。お母さん。お母さん。お母さん……。一心に呟き、その言葉を唱えながら、不器用と戸惑いの翅でひたひたと飛んで蜘蛛を目指す。
そして女は、両足で強く跳び、どこまでも高く何よりも軽く浮かびあがる。
男と女。天と地。神と人。唇と唇。過去と未来。鋭く尖る爪先が対決の相を鮮やかに蹴破り、女はその狭間を跳躍する。
──それは一瞬の幻影、束の間の錯視。どこか似ていてどこかが違う二つの言葉を結ぶ不可視の魔術。霞む陽炎の押韻対連詩。
天の頂きに昇り詰めた女は静かに身体を丸め、そしてくるりと回転した。




