ダラリ旅
かすかに東の空から太陽が顔を出した頃、未だに宿場は静かであった。まだ寝ているのか誰も部屋から出てきておらず、宿の従業員達も極力、音をたてないように朝食の準備をしている。
そんな静けさを楽しむように、一人の女性が紅茶を飲んでいる。艶のある黒髪が長く、どこぞの王族かと思わせる漆黒のタイトドレスに身を包む……レイミールだ。
目の前にはこのあたりの地形が描かれた地図が広がり、それを彼女の漆黒の瞳が眺めている。面倒なことだが、レイミールはこの世界に蔓延る魔物とやらを退治してほしいと、この国の王から直々に頼まれてしまった。よりにもよって魔王族の姫、黒衣の冷徹王女と畏れられた彼女が、である。
「おっ!? 嬢ちゃん、すげー別嬪さんだな……どっかの貴族の家出娘か?俺と一緒に遊びに行かねえかい?」
突然、一人の男が彼女に声をかけてきた。どうやらこの宿に泊まっている客の一人のようである。眠そうに目を擦りながらこちらに微笑む男は見るからに遊び人だ。彼女の瞳は一瞬彼を捉えたもののすぐに興味を失ったように地図へと戻る。
「おいおい……つれないなぁ~」
男は彼女の許可を取ることもせず、馴れ馴れしく彼女の向かいのイスへと腰を下ろした。そんな彼の行動に、レイミールは柳眉を持ちあげる。
「……何の用だ?」
「いやぁ……君一人?もしそうなら俺と遊びに行かないかなあ……なんてね」
ニヤニヤ笑う男と目を合わせることも無くレイミールは紅茶に口を付ける。少しだけそれを飲んで一息つくと、そのまま彼女は目の前の男に口を開いた。
「残念だが、私には連れがいてな……」
ビシッと音が鳴るのではないかという勢いで男の後ろを指差す彼女を男は怪訝そうな顔で見た後に、ゆっくりと振り返った。
直後、彼の目に飛び込んできたのは死人のように顔を白くして小刻みに震えながら、充血した目を見開いている男……情けない悲鳴が朝の宿場に響いたという。
***
「まったく、あまりにも寒くて死ぬかと思いましたよ……」
暖かい紅茶を飲みながら暖を取るレシアム、どうやら一夜を外で過ごしたらしい。しかも何の荷物も持たず宿を飛び出したため、毛布すら持っていないと言う状況でだ。
「それにしても……さっきの男性はどうして悲鳴を上げて逃げてしまったんですかね?助けを求めただけなのに……」
お化けだ~などと悲鳴を上げながら、逃げて行った男を思い出したレシアムは首を捻った。そもそも朝にお化けなど出るのだろうか?腰を抜かして泣き叫ぶ様子は滑稽だったが……同じ男として情けない。
「……さあな」
すでに紅茶を飲み終わり、地図を手に取っていた彼女は、話題を変えるようにレシアムに地図を向けながら尋ねる。茶色い大陸が一つだけ描かれた陳腐な地図だ。
「そもそも邪の気とやらはどこで生まれたのだ? この地図では良く分からん」
「……私も書物で読んだだけなんですけどね……確かこの地図には書いていない、北の北常に地面が凍りついていると言う極北の地に生まれたと聞いていますよ?」
曖昧な記憶を頼りにレシアムはそうだったはずだと説明する。実際、なぜ地面が凍りついているのかについては、邪の気が生まれてそうなったのか、それ以前からそういう地域だったのかはもう誰も分からない。ただ、邪の気によって不毛の地になったと言うくらいだから恐らく邪の気が現れてからなのではないだろうか。
「……面倒だな、そもそもなぜ、邪の気は北の地に現れたのだ?」
「う~ん……それはちょっと分かりませんねぇ」
そもそも邪の気の存在自体、今では眉唾物と化している。生まれた理由、なんて生まれた場所よりも分からない。良く良く考えてみれば正体も分からないものを倒しに行くのだ。
……出鼻をくじかれ、何やらグダグダな空気になりつつあるこの状況で本当に大丈夫なのだろうか……
レシアムは紅茶を飲み干すと、不安を振り払うように勢いよく立ちあがった。未だに地図を眺めているレイミールへとその勢いのままに口を開く。
「こうしていても仕方ありません!! 出発しましょうっ、一日でも早く邪の気を打倒すのです!!」
レイミールの返事を待たず、レシアムはこうしてはいられないと、未だ寝ているらしいティアとマリアを起こすために食堂を飛び出して行った。しばらくして……本日二度目となる悲鳴―――恐らくあの声はティアだろう―――が宿に響いた。
***
迷惑だと、宿を問答無用で追い出されたレイミール御一行は、神聖アルテミス帝国を出て、今では草木の生い茂る森を歩いていた。ようやく旅に出はじめたはずなのだが、レシアムがなぜかすでにボロボロであるのは、ティアのせいである。
「全く、部屋に忍び込むなんて……やっぱり男なんて……」
ぐちぐちぐちぐち……ティアは小さな声で愚痴をこぼしている。ノックもせずにレシアムが部屋の扉を開け放ち、偶々着替え中だったティアが悲鳴を上げて彼を殴った。
そんなことがあって、朝食を取る暇も無く宿を追い出されてしまったのである。愚痴をこぼしたいのはこっちだと思いながらもレイミールは感情を表に出すことなく、これからどう旅をしていけばいいのか彼女達に尋ねた。
「……私はこの世界について良く知らないが、魔物は一体どこにいるんだ?」
宿場で見ていた地図を未だに広げ、目の前に広がる景色と地図の位置を照らし合わせているレイミールに、マリアがにこやかに答えた。
「勇者様、魔物は今では世界中に広がっております。神聖アルテミス王国のすぐ近くにあるこの森にも魔物は居るんですよ? 頻繁に魔物討伐が行われているので少ないですけど」
「ほぅ……マリア、本当に魔物討伐は頻繁に行われているのか?」
「え? どういうことですか?」
レイミールの言葉の意図が分からずマリアは頭を傾げる。しかし、聞き返すまでも無くマリアの目にあり得ないものが映った。
「うそっ……どうしてシルバーウルフがっ?」
彼女の視線の先、生い茂る木々の間を縫うように、歩いている巨大な獣の姿があった。魔物討伐を頻繁に行っているこの森ではまず居るはずのない物。白銀の毛に体を包まれ強靭な脚を持った獣。中途半端に開いた口からだらしなく舌が垂れている。
「……シルバーウルフ?」
獣から目を離すことなくレイミールはマリアに聞き返す。言外に何それ?と聞いているというのはマリアにでも分かった。足の震えを必死に抑えながらマリアは獣に気が付かれないように小さな声で彼女に耳打ちした。
「魔物討伐軍の精鋭たちでも数十人の隊でようやく倒すほどの強力な魔物です。今のうちに逃げましょう勇者様!!」
本当に小さな声だった筈なのだが、獣の耳が小さく揺れると光る双眼がこちらに向けられた。
無理矢理、旅を始めた感じが、かなりする。
……まあ、いいや。