後編
「トム? どうかしたか?」
「いや……なんでもない。ただ、どうするか考えていただけだ」
休眠状態のゾンビについて、教本の内容を思い出す。
確か、休眠状態のコイツらは、音や光ではそうそう目覚めない。ただし、接触したら即目覚める。
もたついている時間的余裕もない。最短ルートはここから真下に降下するものだ。縄の長さは足りるだろう。そして目標を回収してから、また縄登りだ。
「こっから縄を垂らして、パレットラックの上に降りるのが確実だな」
「ぱれっと……?」
「バカでかい商品棚があるだろ、金属フレームの。それだ。重量棚で分かるか?」
「分かんね」
「なら話はお終いだ。楽しい時間をありがとよ。縄をこの柱に結んで、直接下の棚の上に降りる」
縄を受け取る。
こういうときに適した結び方は、サバイバル研修で教わったのだが、名前は忘れた。
「…………」
この作戦の問題点は、この灰にすることが確定しているカッサカサのゴミに、再び全体重を預ける必要があることだ。今度は足をつける壁もない。完全にこのゴミ1本にすべてを預ける。
いいか? 今回うまく作戦を終えたら、灰にするのは勘弁してやる。引き続きあの車体に揺られる栄誉を賜らせてやるから、ここは気張れ。お前は縄だってのをここで示せ。
「トム? 俺が先行くか?」
「いや、オレが行く」
チキンを先に行かせることも考えはしたが、今回求められるのは慎重さ。つまりは、コイツに知性の次に足りないものだ。行動はまずオレが先んじておくべきだった。
脅しを済ませて、降下地点を最後に確認した。
棚は高い。10メートルには届かないだろうが、それでも下からは見上げるほどの高さだろう。
「ふぅぅ……よし、先に行く。合図したら来い」
「おうっ、ここヒマだからはやくな」
「……お前の神経には嫉妬するぜ」
「強いからな」
慎重に縄を足に絡め、右手で梁を掴みながら体重をかけていく。
軋むような音と、微かな振動。そうして数秒様子をみて、今度こそ右手も離した。
「————————」
ギギギ、なんて頼りない音に、いちいち肝が冷えた。
汗が顔の輪郭を伝う。痒い。こんな時に限って、痒みは強くなる。
そのまま徐々に足の力を調節しながら降下を開始した。
「トム。遅すぎないか、それ。怖いなら俺に任せりゃよかったってのに」
「お前————」
黙らせようと上を見た瞬間だった。
「ぅ——ッ?!」
ぶヅ、なんてふざけた振動が手を伝い、腕を通って、背筋に反響したのは。
声をあげる間もない
チキンが目を見開くのを視界に収めながら、自由落下の浮遊感に心臓を撫でられる
チキンが
小さくなっていく
違う
離れているのか
オレが
衝撃
「ゲあぅッ!?」
背面の衝撃で、肺の中身がすべて吐き出される。
肺が鼻から飛び出たかと思った。
箱を押しつぶしたような音を聞いた気がする。
再び浮遊感
視界が回転する
一瞬の眩しさ
音
暴れる腕
受け身
無駄
死ぬ
衝撃
「ギぅッ!!」
- - - - - - - - - -
「ぅ…………」
嫌にしつこい声に、意識が浮上する。
全身に血の巡りを知覚する。
鈍い痛みが、意識を叩き起こした。
「トム!」
「ちきん……?」
逆光が眩しい。黒いシルエットに覗き込まれている。
「にんむは……ッ、グ」
起き上がろうとすると、肩甲骨の間から腰にかけて痛みが駆け抜けた。つまり、オレは生きてるってことだ。
「おい大丈夫かよ! トム! 聞こえるか!?」
「ああ、聞こえてる……」
まとわりつくチキンを退けて、痛覚を薄める。こういう時に無理ができるのがこの身体の利点だ。チキンに手を借りて立ち上がる。どういう状況だ、これは。
「ここは……そうか。ここに落ちたか」
「マジであぶねえよ! 死体がなかったら死んでたろ?!」
眩しいはずだ。ここは死屍累々の祭壇。まさにその死屍累々に救われた。
周囲には休眠状態のゾンビども。微動だにしない。
『音に鈍感』というのがどれほど『鈍感』なのか。『○○デシベルです』なぞ当然書いていない。そんな言葉に命を預けるつもりもなかったが、これだけ騒いで無反応なところを見ると、図らずも教本にいう『鈍感』とは『とんでもなく鈍感』だったことを実証したわけだ。
だったらそう書いておけ、間抜け。
オレの落下地点となった死体は、その胸を大きく陥没させている。あれが潰れることで、オレの後頭部は守られたらしい。
「…………」
上を見上げる。天井の梁から、あのクソが垂れ下がっている。
伝うように視線を下げると、おおよそ5、6メートルのところでブッツリ切れていた。
「やろう……」
あんなものに殺意を覚えたのは初めてだ。今なら腰のホルスターから得物を抜き放ち、たった一発を撃ち込んでやってもいい最低の気分だった。
だがおかげで、捕縛銃が肩紐ごとなくなっていることに思い至る。
「チキン」
「どうした?! 気分悪いか?! 死にそうか?!」
「おい落ち着け。んで声を落とせ。休眠状態の奴らはともかく、今この瞬間にも目を覚ましているのがいないとも限らない」
「お、おう、俺は静かだ!」
混乱しているな。そういやコイツの前で意識を失ったのは初めてのことだった。
いつまで寝ていたのか腕時計を確認すると、ずいぶん経ったという体感に反して、ほとんど時間が経過していない。
「ん? お前、どうやってここに降りた?」
「え? 縄つかった……ん?」
指し示される先を見る。どうみても、オレを裏切ったクソを指している。
「本気でふざけた身体能力だな、お前」
「あ? へへ、あんだよいきなり」
つまりコイツは、あの千切れた縄を途中まで使い、そこから棚の上へと落下。オレが奇跡的に何かの箱によって救われた高さを、尋常に着地し、こうして棚から伝い降りて来た訳だろう。
なんだこの化け物は。たまにコイツが敵だったらと思うと薄ら寒くなる。
「あー、オレの銃を見たか?」
すっかり調子を取り戻したバカの指が、オレの背後を指す。
恩人の死体。その傍らに、捕縛銃は一見無事に横たわっていた。
もう散々騒がしくした。
にもかかわらず、知らず歩みは静かなものとなった。何か、ドタバタとするのは不謹慎な気がした。オレみたいな男にも、道徳心だか信仰心だかはあったらしい。あるいはそれ以外の何か。
得物を拾い上げる。ためつすがめつし、リアサイトからフロントサイトを眺める。歪みはないように見えた。本当のところは、一度バラしてみなければ分からないが、ここでそんな真似をするほど死にたがりでもない。
「チキン」
周辺の警戒を忘れるなと言うまでもなく、チキンは銃を構え、棚を背にして周囲を警戒していた。言うことなしだ。いつもその調子でやってくれりゃ楽できるんだが。
棚から少し離れたことで、オレを救った箱の正体も分かる。棚の最上段。見上げる先に、ぶっ潰れて中身を吐き出しているものがある。まるでハラワタを思わせる内容物は、ちょうどチキンが棚に当たったことで滑り落ち、ボタリと着地する。
縄だ。新品の。神様ってのは見ているらしい。
「おい、それ拾っとけ」
「ん?」
「縄だ。使えるかもしれない」
ここから脱出する最も確実な経路。そんなもん決まってる。侵入経路を逆行することだ。
降りて来たなら、鮭よろしく遡上する。それが最短だろう。
問題は、どうやって錘も付いていないこの縄を、あのはるか高い梁へ届かせるかだ。縄だけでは、たとえこの見上げるような棚をよじ登って投げても、到底届かない。
いや、錘があったとしても、フックもないんじゃ引っ張りゃ落ちてくる。
まあ、そんなことは目標を確保してからだ。
「なあトム。これなんだっけか?」
チキンは縄以外にも、何か拾い上げている。
「ゴーグルだな。死体にはいらないものだし貰っとけ。必要だろ」
「ん? なんでこんなもん必要なんだ?」
「網膜に血が触れたらまずい」
「なんで俺たち使ってねえの?」
「元々使ってたろ。大げんかした時に割っちまって、以来支給の順番待ちだ」
「ああ! そういやそうだ!」
オレが最も死を感じた大げんか。
あのガチャガチャの中で、互いのゴーグルがバッキバキにぶち割れてゴミになった。
まさかすぐに交換されないとも思わなかったし、にも関わらず任務が降ってくるとももちろん考えなかった。
「いやぁ、あれ楽しかったなー! 他のヤツらはさ、俺にビクビクしてたんだよ。そんなのに背中預けられねーだろ?
ったらさ、トムはぜんっぜんビビらねえの。食い着いて来て、こいつとなら良いって思ったね!」
「二度とゴメンだ」
ふざけやがって。オレにとっての死に物狂いの抵抗が、こいつにとっては犬猫のじゃれみたいなもんだったらしい。ヘタすりゃマジで死んでたんだぞオレは。
「んじゃ、これはトムのだな」
「なんでだよ。喧嘩の原因はオレだったんだ、オレが受け取るのは話がおかしい」
「いや、トムの方が弱いから、便利になっとけって!」
「……………………」
ぐうの音も出なかった。
投げよこされたゴーグルを、ひとまず装着する。
久しぶりにつけてみると、これがなんとも窮屈で鬱陶しい。結局これを嫌いやがったんだ。絶対に。
そんなわけで、今度こそ目標を回収するとしよう。
「……触るぞ」
名前も知らない恩人。すでに死んだ人間に許可を取るなんてどうかしてる。
肩に手をかけ、そっと退かす。
あった。腕に抱えられているソレこそが、オレたちの目標だ。
やっと会えたじゃねえか、チクショウ。
まるで銀の水筒を思わせるフォルム。繋ぎ目も見当たらない。まるっきり銀の塊だ。
それに手を伸ばそうとしたとき、死体が固く握りしめているものに気が付く。死の瞬間に腕に抱えてこの銀塊を守りながら、手には何かを握りしめていた。
なら、何か重要な物資なのかもしれない。
「……………………ぁぁ」
ペンダント。開閉式の。小さな写真を入れられる。
「重要だろうな、あんたにとっては」
手に取ると、半分開いていたソレが完全に開放される。
家族写真だった。
誇らしげにはにかんでいるのが、この男だろう。その胸に抱きついてこちらに微笑む女は、妻か。なら、そんな二人の間で親を見上げている、その背伸びした背中は……娘なのか。
メモが一切れ、はらりと落ちた。拾い上げて中身を見る。
『思い出せ』
それだけが書かれていた。
要するに、あんたもオレたちと同じだったのか。
「トム、あったか?」
「ああ」
一瞬迷ったが、持ち帰ることにした。
できることがあるかは分からないが、機会さえあれば、オレがなんとかこの写真のどちらかに渡してやりたかった。そんな機会はありえない。だが、ここまでこんなゾンビの中を回収に来る人間なぞいるはずもない。なら、この方がまだ可能性はあるだろ。
ひとつ、それを恩返しにするってのは……ダメか?
返事はない。これは自己満足だ。
「あん? 見た目以上に軽いな」
目標を手に取る。持ち上げると、覚悟していた重量と比べて拍子抜けするほど軽かった。
プラスチックでできているのかと思うくらいだ。重要性に比べて、なんともちゃちなもんだ。
「トムッ!?」
「なん————」
『あったっつったろ』と、そう、言おうとしていた。
「————————」
目。目がある。
目、目、眼、眼、め————
休眠状態だったはずの、
閉ざされていたはずの、
まぶたが、
ひらいて————
「登れェッ! チキンッッ!!」
————視界の全てが、オレを見ていた。
- - - - - - - - - -
「どうする?! 俺はなにすればいい! トム!!」
「良いから撃てェ! 登らせるな!」
パレットラックの最上段。夥しい這い上がる気配に銃口を向けて、構えるまでもなく引き金を引く。
ワイヤーが展開され、気色の悪い顔面のいくつかを、その面の持ち主もろとも床へ攫っていく。
どちゃ、という音。それに背筋を掻きむしる余裕もない。
「何体いんだ?!」
「1000や2000じゃ足りねえよ! いいから——」
「危ねえッ!」
視界の外で登って来ていたゾンビを、寸前でチキンが蹴り落とす。錐揉み回転しながら、そいつもグチャった。
それを音だけで知覚しながら、揺れる足場で踏ん張り、最速でマガジンを交換する。
落ちたら終わりだ。助かる高さでもない。運が良ければコイツらの仲間入りってとこだろう。
「やっばい! 弾がやばいって!」
「んなもん分かってんだ!」
考える。
こう言う時にチキンの頭に頼っても意味はない。
オレが考えなければ、思いつかなければ死ぬ。
ふとした拍子に、腰のハンドガンに手が触れた。
思い、ついた!
「チキン! 縄よこせ!!」
「ああ、ちょうど邪魔だった!」
ハンドガンからマガジンを抜く。マガジンには、たった1発の弾が入っている。
だが、何も自決してさっぱりしたい訳じゃない。用があるのは銃そのものだ。
受け取った縄を、ハンドガンのトリガーガードに固く結ぶ。こいつが錘兼フックだ。
「チキン! コイツを梁にぶん投げろ!」
「よこせ! ッシャアオラァアッッ!!!!」
風切り音と、ややあって金属同士が触れた音。
最高のコントロールだ! やっぱ最高だお前!!
縄を引く。
確かな手応え。
間違いなく、三角の角に噛んだ!
「チキン! 登れ! お前の方が早い!」
幸い目標はチキンが抱えている。コイツなら持っていけるはずだ。
だが——
「いやお前だトム! 登ったらぶん投げるから、うまくキャッチしろよ!」
「お前、何言って——」
オレの言葉を無視して、チキンは馬鹿げた跳躍で通路を挟んだ棚へ移動していた。
ゾンビどもの大多数が、あからさまにあいつを標的として移動する。
「あれを、追ってんのか?!」
もうここまで来たら、まごついている暇はない。
あとで覚えておけ! 勝手なマネしやがって!
急いで縄に飛びつく。あのゴミと違い、圧倒的信頼感が握った感触でよく分かった。
シャクトリムシのように、全身を使って這い登る。後先なんていい。体力の温存なんざ考えない。全力だ。全速力だ。
縄に縋りつこうとするゾンビどもは、どこからか飛んできた捕縛弾がことごとくはたき落とした。あいつ、逃げ回りながら最高の働きをしてやがる!
そしてついに、右手が鉄骨の梁に届いた。
すぐにハンドガンを回収し、縄を安定した鉄の柱に結びつける。
荒い呼吸のまま、どこにいるかも分からないチキンを呼んだ。叫んだ。
「登ったぁあああ!! チキぃいいいンッッ!!」
素早い人影が、さっきまでオレのいた棚の最上段に現れる。
そいつは手に持つものを振りかぶると、攻撃としか思えないような速さで射出した。
「ぐブぅあッ?!」
手で挟み取るだけでは衝撃を消せず、勢い余って顔面にめり込んだ。
錆びた鉄の匂い。だが、確かに回収した!
ゾンビどもは明らかに標的をオレに変えたのが、上から俯瞰するとよく分かった。
まずいことに、地獄にたれた蜘蛛の糸よろしく、わらわらとゾンビどもが集まって来ている。
縄がぎしりと鳴った。
「チキン?」
どうするかとチキンに目を向けると、妙なことに気がついた。
あまりにも……あまりにもゾンビどもが興味を失っている。
チキンが逃げている間にも、オレは追われていた。縄を登っているときですら、何度落下しそうになったか分からない。
「ぉい……おまえ」
最悪の予感。
コイツらが興味を失う条件を、オレは知っている。
「チキン! おまえ……おまえェエエエエエエッッ!?!?」
「トム!」
不気味に押し黙っていたチキンが、顔を上げる。
ああぁ……ああああぁぁぁぁああぁ、ぁ、ぁ…………。
「だからっ! ゴーグル、使えって…………」
赤い液体。赤い瞳。網膜に、それは完全に染み渡っている。
もう 手遅れだ。
「トム! まだ1発、残ってたよな!」
「ふざけんなぁああああ!! ふざけんなよ、ふざっけんなよおまえェ!!」
ゾンビどもが縄に縋り、積み重なってくる。
信じられない執着。本当にここに来かねない。
「トム! お前なら、動かないオレなんて楽勝だろ?!」
「なにいってるか分かってんのかあッ?! 今、いまこれを回収したんだ! 二度目でも治るんだよ! いいか! 死のうとなんてすんじゃねえ!」
欺瞞だ。なんでオレがその1発を持って来たか、あいつ分かってんだ。
「トム! ……………………たのむよ」
不安に震えた声。自身の変容を冷静に受け止められるようなやつはいない。
怖くないはずがない。今こうしているのだって、あいつは不安でしょうがないはずだ。
時間はない。ヤツらが、とうとう迫って来た。
「たのむってぇえええッ!! 橋田ぁあああッ!!!!」
オレの名前。こいつが覚えない、本当の名前。
「——っ、……………………オレを…………許すな……!」
銃口を向ける。標的へ。
指だけはこれっぽっちも震えちゃなかった。
引き金を引く。くだらない、ちっぽけな音がひとつ。
————この地獄に、反響した。