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いいいいいい

方南町の一軒家にて

 紗季は自分の思い出話を架純と健一に話してくれた。結構重たい話であったがいま現在紗季が元気にこうやって生きてくれていることに健一はサトシという男の子に感謝した。この間は少しサトシに対して嫉妬をしてしまったが、今は嫉妬ではなくて紗季の紛れもない王子様であるということを認めざるを得なかった。

「サキさん 大変だったね」

涙ぐみながら架純は紗季の頭をひたすら撫でていた。明らかに酔っ払いの絡み方だった。紗季は何だか照れくさそうに、冷えた白ワインを口に含んだ。

先程からレゲエが流れている。音は紗季の部屋から流れていて、遠くから何気なく聞こえて来ていた。

 健一がトイレから帰って来ると、紗季の話を受けてなのか今度は架純が自分の話をし始めていた。健一は興味があったので、急いで座って耳を傾けた。

 架純は北海道生まれで、母親と弟と三人で暮らしていたそうだ。父親は自衛隊員とのことだった。架純の父親は自分の妻に対して暴力を振っていたらしい。それは架純が小学二年生のときだった。ある日の夜、架純は眠っていたのだが、何かの異変に気が付いて飛び起きた。母親がまだ小さい弟だけを連れて小さな荷物を抱えて出て行こうとしていたのだった。架純は自分だけ置いて行かれるのだととてもショックを受けたそうだ。母親と目が合った。「一緒に来る?」本当に聞こえるかどうかわからない小さい声で母親は架純に伝えた。架純は父親が起きてしまうと何か大変なことが起こる気がしていたので、物音を立てないようにただ頷いた。架純自身は何も持たずにひっそりと三人は家から出て行ったのだった。

 「母親のあのときの気まずそうな顔を思い出すと、胸が締め付けられるんだよねぇ でもしょうがないよね 今だったら母親の気持ちとかわかるような気がするもん でもあの時は何で見捨てたのってずっと心のどこかで思っちゃってて……」

架純はハイボールを飲んだ後にキスチョコを口に入れた。健一は架純の衝撃の過去を知ったときに、なぜ架純はわざわざあのときに巴恵と一緒に石川県まで行ってくれたのかが理解できたような気がした。(私がそうだったから……)という言葉を健一はずっと気にしていたのだった。架純はすごく強くて優しい人なのだとも思った。

「お父さんとは今どうなの?」

紗季が質問した。

「全然、あれ以来会っていないし……あっ! 弟は何回か会って話をしているみたいだけど私と母親は会ってない 会いたくもないしね」

「北海道には帰ってないの?」

健一が質問した。

「帰ってないねぇ ちょっとはあるよ 北海道の家族に会いたいって気持ちは でもなんか帰る場所っていうのがなくなっちゃったような気がするんだよね 北海道に行って母親と弟にあったとしてもそれが何というか帰る場所というには違うような気がするんだよね」

「わかる すごいわかる 私なんて母親と絶交しているし、帰る場所なんてないもの だから自分で自分の居場所を作った それが私にとっての笹塚なんだよね 私の居場所で絶対に譲れない場所なんだよね」

「うん そうそう 私たち笹塚ラブだから」

架純は紗季の肩に手を乗せて、先程から流れているレゲエの音楽に合わせて揺れていた。架純がこの空気を変えようとしているのが健一には分かった。もう自分語りをこれ以上はしませんよと宣言しているようだった。

 架純と紗季はお互いの腕をお互いの肩に乗せてレゲエのリズムに乗りながら健一を見つめている。次は自分の番だろうなと健一は思ったが、特に不幸を感じず生きて来た自分は目の前の二人に話すような過去はないので困ってしまった。

「健一さん 何のお仕事 しているの?」

紗季が質問した。

「いや 何て言うか 家の壁材を売る仕事をしています 断熱材とか防音材とか色々あって そういうのが必要そうなところに営業をしています」

「ケンイチさん 休みの日とかは 何するの?」

架純が質問した。

「えっ! 休みの日ですか? そうだなぁ 休みの日には結構な頻度で行く場所があってそこに猫がいるんですけど その猫に餌をやりに行ったりしています」

「健一さん 猫を 飼ってるんですか?」

紗季が質問した。

「いえ 飼っているというほどのことでもないんですが、ある場所に行くと結構な確率でそこにいつも見る猫がそこにいるので、いるときにはご飯をあげているんです」

「ケンイチさん もしも願いが叶うなら どんな願いをするんです?」

架純が質問した。

「俺の妹 トモエーッ 彼女の幸せ願います タマオとともに とわに幸あれ」

健一が珍しく調子に乗り始めた。

「ジャアジャア 聞きますけれどもお二人さん 休みの日には 何してんすか?」

健一がリズムに乗って二人に質問をした。

「私に休みはありません 自営業をやってます アロマテラピー広めてます 結構売れっ子なんですよ あなたも今晩どうですか?」

紗季が質問に答えた。

「ヨーヨー 俺は東京生まれヒップホップ育ち……」

架純がふざけてドラゴンアッシュのグレイティフルデイズを歌い出した。

「はい 終了でーす」

紗季が架純の肩に掛けていた腕を外して、このコーナーを閉めた。健一は少し調子が上がって来たのだが、それでもこれ以上は困るのでホッとしていた。

紗季のベストレゲエ集を酔っぱらいながら聞いていたら、気が付くとみんなで、でたらめなそれっぽいことをして楽しんでみたのだった。振り返るととても恥ずかしかったが、これはこれでとても楽しかった。

 気候がベストだったようで、カーテンを開け放した太陽光が部屋を暖めて、緩まった体を各々倒して、誰の話を最後にしたのかを定かにせず、気が付くと三人はそのまま昼寝をしてしまっていた。架純は落ちる寸前に健一の傍に来て健一の腕を枕にして健一に寄りかかった。紗季も負けじと健一のもう一方の腕をもらって枕にした。健一はこの上なく幸せを感じた。しかし健一も腕の痺れに気付くことなく爆睡をしてしまった。

 三人が目を覚ましたのはもう夕方だった。健一の携帯電話がもしもマナーモードでなくて鳴り響いていなければこのまま夜まで寝てしまう勢いだった。電話の相手は巴恵だった。

「ケンちゃん 今話してて大丈夫?」

「大丈夫だよ どうした?」

「今度、タマオとケンちゃんの実家に挨拶しに行きたいんだけど、架純さんにも紹介したいし、笹塚のから騒ぎバーに行きたいんだけど、ケンちゃんの都合を聞こうと思って」

「ああ そうなんだ それでいつ来るつもりなん?」

「ゴールデンウィークなんだけど、どお?」

「わかった 大丈夫だよ 架純さんにも伝えとくわ」

「ありがとう じゃあ よろしくね」

「はーい そんじゃね」

もぞもぞと紗季と架純がまだ眠い目をこすって起き出した。そういえばお昼ご飯がちゃんとしていなくて、お腹が空いてしまっていたのは全員一緒だった。

「なんか 食べに行こうか?」

架純が言った。

「うん なんか食べに行こうよ」

紗季が立ち上がってトイレに向かって行った。

「巴恵から電話があって、タマオ君と今度のゴールデンウイークに笹塚に遊びに来るんだって、架純さん予定大丈夫? なんか巴恵は架純さんにタマオ君を紹介したいそうだよ」

「わかった バイトの調整するし何とかするよ」

「ありがとう 詳しいことが分かったらまた連絡来ると思うし」

健一と架純は紗季がトイレに行っている間を狙ってお互い近寄り口づけを交わした。

「わたしもタマオ君に会いたいな」

トイレから帰ってきた紗季が健一に行った。

「はい 巴恵もタマオ君も一度笹塚に来るらしいんでそのときにから騒ぎバーで会いましょう」

「そういえば紗季さんって埼玉出身だよね?」

架純が紗季に質問した。

「うん 埼玉の深谷ね ネギが有名なんだよ」

紗季がまだ寝ぼけた声で二人に伝えた。

「えっ! 深谷? 俺は東松山です」

「近いじゃん!」

健一は紗季が埼玉県民だったことを聞いてまた少し親近感を覚えた。


ゴールデンウィーク初日

ゴールデンウイーク初日のから騒ぎバーは健一たちのグループ以外はほとんどいなくて落ち着いた雰囲気で話をすることができた。健一と架純と紗季の三人は先にから騒ぎバーでくつろいでいるとしばらくしてから巴恵が玉夫を連れてやって来た。

「架純でーす よろしくね タマちゃん」

「紗季です よろしくお願いします」

「そういえば、紗季さんは巴恵も玉夫君も初めてだったよね 友達の紗季さんです」

健一は改めて紗季のことを紹介した。

「架純さんは玉夫君に会ったことあるの?」

「ううん ないよ でもすごい近くまで近付いたことはあるんだよね? タマちゃん?」

「ど どういうこと?」

健一は架純と玉夫を交互に見て言った。

「んふふ 内緒だよね」

架純は巴恵に笑顔で話しかけた。

「いやあ やめてよ架純さん 恥ずかしいから」

「そう言えば カメなんだけど学童のチョウさんを返してもらえばいいよね?」

玉夫が巴恵と架純にだけに話しかけた。健一には何のことだかよくわからなかった。

「だーかーらー その話はやめてって!」

巴恵が何かを思い出したように顔を赤らめて玉夫に怒りだした。

 大きなワイン樽のテーブルを囲んで皆それぞれの飲み物で乾杯をした。健一常連のコンビニからおつまみを持ち込んで来て、それをパーティー開けしてテーブルに並べた。従業員には賄賂といってチョコレートを渡すことで持ち込みがOKになっている。

五人は親交を深めていった。特に初対面の紗季と巴恵だがすぐに仲良くなっていた。紗季は玉夫のことをタマさんと呼んでいる。玉夫の呼び方が全員違うので、これを統一すべきかどうかを酔っぱらいながら議論をして時間を潰した。結局玉夫の呼び名が統一されることはなかった。

 「じゃあ 話をまとめるね 明日また笹塚に集合ね 何時?」

「九時でいいと思います」

玉夫が健一に言った。

「いやいや 九時は早いでしょう 一一時っしょ」

架純が健一と玉夫に言った。

「じゃあ 真ん中取って十時にしない?」

紗季が珍しく意見を出した。皆、紗季の意見には反対しないようだ。明日はレンタカーを借りてここから埼玉の実家まで巴恵と玉夫を送って行こうということになった。紗季も埼玉に久しぶりに帰りたいという事だったので一緒に来ることになった。健一のスケジュールとしては、紗季を深谷に降ろして、巴恵と玉夫を実家に送って、帰りは架純と二人で帰って来ようと思っていた。

 話がまとまるとそろそろお腹が空いたので、五人はぞろぞろと店を出ると、巴恵は走って廊下の奥にある雑貨屋さんに向かった。目当ては駄菓子だった。

「コラッ! 廊下は走らないで!」

先生みたいなお姉さんが巴恵を叱りつけていた。玉夫もお姉さんに怒られたかったようでわざとらしく廊下を走って巴恵の所まで行った。

「もうっ! そこの少年! 走ったらダメでしょ! ちょっとこっち来なさい!」

なんと玉夫はお姉さんのテナントに腕を掴まれて連行されてしまった。玉夫が連行されたお店はタイ料理屋さんで紗季も架純もタイ料理が好きで何度かここに食べに来たことがあるとのことだった。

「後で行くから先に食べてて」

巴恵が興奮しながら早口でみんなに言った。

「ダメダメ! 先にご飯食べてからにしなさい!」

健一が巴恵に怒ったところが架純と紗季にはなんだか珍しいものを見たように思えたらしい。

「おお! なんかお兄ちゃん なんだね」

架純が健一の腕に抱き着いてきた。負けじと紗季も健一のもう一方の腕にしがみついた。

「はーい」

巴恵は渋々と駄菓子たちに後ろ髪を引かれながらも兄の言うことを聞くことにした。

 笹塚駅まで巴恵と玉夫を送ると健一と架純と紗季は三人で健一の寮で飲み直しをした。明日はそのまま埼玉にみんなで行こうとなっていたので、架純と紗季のお泊りセットは健一の寮にもう用意してあったのだ。順番にシャワーを浴びて、健一はベッドに架純と紗季は敷布団を引いた状態で適当に寝転んだ。皆いつ寝たのかよくわからなかったが、全員同じシャンプーとボディーソープの匂いがした。健一は寮の七階に住んでいて、窓を開けても虫が入ってくることはなく、夏でも窓を開けっぱなししていると涼しい風が入ってきた。架純も紗季も自分の家より寝れると羨ましがっていたのだった。


 翌日の十時に笹塚駅の改札広場に五人は集合した。健一は笹塚の十号通り商店街の一番奥にあるレンタカー屋さんに六人乗りの車を予約していた。そこにみんなで向かうことになった。

 ゴールデンウイーク二日目は最高の天気となった。夏のような暑さが健一の気持ちをたぎらせた。おそらくこのドライブで聞く音楽たちはやがて健一の大切な思い出となってずっと心に留まるのだろうと予感した。

「では 行きましょうか」

健一を先頭に四人は商店街の入り口に入った。この商店街はとても活気があって賑わっている。両端に処狭しと食べ物屋さんや雑貨屋さんが立ち並ぶのだった。おしゃれな美容院や古着屋さんもあってこの商店街ですべてが完結出来てしまうほどの充実ぶりだ。

(あっ かき氷がもうすでに始まってるんだ)健一はかき氷の旗が店先で飾られているのを見ると、一足早く夏を感じられたような気がした。しばらく歩くとお総菜屋さんに人の列ができていた。コロッケが有名なお店で、今日は朝からまるでお祭りの様にコロッケを目当てにおじいちゃんやおばあちゃんが並んでいた。どこからか、風鈴の音が風に運ばれて健一の耳に届いた。南部鉄で作られた「リーン」と高く澄んだ音色はそれだけで体温を冷やしてしまうほどの効力があった。健一は夢中で商店街の様子を目に焼き付けていた。

 数々の誘惑を振り切って、予約の時間に間に合うように健一は少し早足になっていて、予約の時間に間に合ったのだが、健一が後ろを振り返ると誰一人、健一に付いて来ているものはいなかった。健一は受付を済ませてみんなを待つ形となった。

 最初に健一の元にたどり着いたのは玉夫だった。玉夫はさっきみたお総菜屋さんのコロッケを右手に持っていて、ほっぺたにはどこで付けたのかわからないが、ご飯粒が付いていた。次に紗季と巴恵が並んで嬉しそうに風鈴を手に持っていた。ガラス製の風鈴で夏らしい絵が描かれていた。健一に見てもらおうとわざわざ二人は箱から出して自慢げに「ちりんちりん」と風鈴を揺らしていた。最後にやって来たのは架純で、レモン味のシロップが掛かったかき氷を食べながら健一に近付いてきた。

「はい」

架純は健一にかき氷をストロースプーンですくって口に運んであげた。そのあと架純は小鳥たちに餌を上げる母鳥のように順番に黄色いかき氷を全員の口に運んであげた。

「あっそういえばさあ 健一の秘密基地にいるタマがいたよ 商店街の住居の二階で気持ち良さそうに寝てたよ」

架純が健一に伝えた。

「それはないでしょう」

健一は笑いながら架純に言った。タマみたいな雑種はどこにでもいるような平凡な模様をしているからきっと他猫のそら似だろうと健一は思った。ここから秘密基地は猫の足では結構遠いし、環七通りを通り越さなければならない。タマが結構な頻度で秘密基地に現れるのは恐らくあの辺に住んでいるからで、こんなところからはまずやって来ないだろうと思ったのだった。

「あっ 信じないんだ」

架純は健一の表情と返答に納得がいかないようで、今から一緒にタマを見て判断してもらおうということになった。健一はタマであるはずがないと思っていたが、架純がそこまで言うのならと商店街を少し戻る形となって、架純とタマの所まで歩いた。他のみんなはレンタカー屋さんの待合室で涼んで待っているとのことだった。

 それは紛れもなくタマだった。タマは普段と違う場所で、いつもの人間と会ったことに、なんだか興奮しているようで、健一の近くに近付いて足もとにまとわりついた。それはタマが機嫌が良い時にする行動だった。

「ねっ タマでしょ!」

「うん…… タマだ」

「だから言ったじゃん」

「うん 悪かった ごめん」

しかし、だとするとタマは何であんな遠くまで、やって来るのだろうか? しかしそんなことは今はどうでも良かった。健一と架純はみんなを待たせていることを思い出して、走ってレンタカー屋さんに戻っていった。


 埼玉までの道のりをよく知っている健一が運転することになっていた。助手席には玉夫が座り、後部座席では紗季を真ん中にして、両脇に架純と巴恵が座った。まずは首都高速に乗るために環状七号線から新宿方面に向かった。車は奮発してアルファードを借りた。都会の景色がしばらく続いてやがて埼玉の田園が広がっていく。音楽は東京FMから流れるものを聴くことにした。夏の特集でリスナーから「ドライブにまつわるゾッとした話」を聞き流しながら各々が会話を持ち寄って車内の楽しい雰囲気を作っていったのだった。

「……それでお兄さんは、お休みの日は何をされているんですか?」

「……あっ お兄さん 巴恵がトイレに行きたがってます 次のサービスエリアで止めてもらえませんか?」

「えっ! 別に私トイレ行きたくないよ」

「……お兄さん ガム食べますか?」

「お兄さんが今聴きたい曲って何ですか?」

「あっなるほど……それでお兄さんは……」

玉夫は助手席で健一に事あるごとに話しかけて来てくれた。本当の兄妹ではないことは巴恵から説明しているはずだ。それでも自分のことを兄として慕ってくれていることに健一は悪い気がしなかった。

「ちょっと待ったぁ! タマちゃんさあ ケンちゃんのことをただお兄さんって呼んでみたいだけなんじゃないの?」

架純が玉夫に鋭く突っ込んだ。

「私も同じこと思ったぁ」

巴恵も続いて玉夫に言った。

「えっ! そんなことないよ ねっ お兄さん! 私は決してお兄さんのことをお兄さんって呼びたいだけでお兄さんって呼んでるわけじゃないんです! 信じてください お兄さん!」

「うん 分かったよ 玉夫君」

健一は玉夫がムードメーカーを演じていることを察していたので、昔流行っていた早口言葉で(あんた私のことあんたあんたっていうけど私あんたのこと、あんたあんたって言ってないんだからあんたも私の事あんたあんたっていわないでよ あんた)という言葉遊びを思い出して楽しく対応していたが、架純と巴恵は冗談が通じないかのように玉夫を責めているようでなんとなく申し訳なく思った。

「じゃあ 玉夫さん カスミンのこともお姉さんって言わなきゃ!」

紗季の言葉で皆、一瞬時が止まったように沈黙したが、一拍置いて時間が流れ始めた。

「そっかあ そういう事か 架純さんも玉夫君にお姉さんって呼んでもらいたかったってことなんでしょっ?」

会話の迷路に一筋の光が見えたとき、健一は力強く架純に言った。

「ち ちがうしっ! タマちゃんが ケンちゃんのことをお兄さんって連呼し過ぎなのがちょっと不自然というか なんだろうって思っただけで……」

架純は自信がなくなってしまったかのような面持ちで声が段々と小さくなって、やがて外の流れる風景を見始めた。

「姉さん 僕はね 最初から 姉さんのことを姉さんだと思っていたんですよ!」

玉夫が助手席から振り向いて、架純を見た。架純はゆっくりと玉夫を見て、まんざらでもないという顔で恥ずかしそうに俯いた。健一は運転しながらでも真後ろに座っている巴恵の表情を想像してなぜか嬉しい気持ちになってしまった。


「もうそろそろお腹が空いたよね?」

健一は笹塚と埼玉県東松山市のおおよそ中間地点にある三芳パーキングエリアで車を一度止めた。トイレに行く人と缶コーヒーを飲む人とお土産屋さんに直行する人と色々バラバラでまとまらないメンバーではあったけど、気が付くと健一が目印となってみんなひとつのテーブルに集まって来た。巴恵と玉夫、紗季と架純と健一という大枠のグループの中で昼ごはんは健一が取り仕切っていた。玉夫にずっとお兄さんと呼ばれ続けていた効能かもしれない。途中からお姉さんと呼ばれ始めた架純もまんざらではなくて、まとまらないみんなを呼び寄せて、健一と架純は全員分の昼飯を奢ると言い出した。

「勝手に昼飯を買わないように ここからはお兄さんとお姉さんがお昼ご飯を奢りますんで、紗季さんも食べたいものを私たちに言ってね」

架純がみんなを呼び止めて、子供たちをコントロールする先生のように一列に並ばせた。

「わたしは自動販売機のチーズバーガーが食べたいです」

巴恵が言った。

「僕は自動販売機のカップスターラーメンが食べたいです」

玉夫が言った。

「わたしはあそこのじゃがバターと焼きそばをみんなでつつきたいです」

紗季が言った。

「どうだろう? みんなで適当に買ってきたものをこのテーブルに集めてみんなでバイキングみたいにシェアするのは?」

健一がみんなに提案をした。この提案がとても素直に通り、全員の食べ物や飲み物はシェアされて、指やもしかしたら唾液までもシェアをしてお昼ご飯を食べた。健一は少しこの食事が不自然なことに気付いていた。まるで夢の中にいるような非現実的なこの雰囲気を作り出している張本人はとても楽しそうだった。

「ねえ この後みんなで温泉に入ろうよ」

紗季が言うと健一と巴恵と玉夫は驚いた表情をした。

「いいねえ ケンちゃん 紗季さんの裸見れるなんてラッキーじゃん」

架純は紗季の言葉にタイミング良く反応した。架純は紗季の冗談を上手く処理してくれたようで、健一はほっとした。一方、紗季は何か切羽詰まったような顔をしているのが、健一は少し気になった。

 紗季はとても美人で魅力的なのだが、どこか子どもっぽくて危なっかしくてほっておくとこの世からすーっと溶けていなくなってしまうのではないかと心配してしまう感じがしていた。時折まるで親になった気分で紗季のことを見ている自分がいた。

「行こう 一緒に温泉に入りましょう」

健一は紗季の言葉を尊重したい一心でみんなに賛同を求めたのだった。紗季の切羽詰まった顔が緩んでいつもの安らかな美しい笑顔が見えた。

「ありがとう 私はみんなと一つになりたくてどうしようなくて 変なヤツだって思ってるでしょ?」

「いえ ぜんぜん 私も紗季姉さんと一緒に温泉が入りたいなーって丁度思っていましたっ! なあ? ともえっ!」

玉夫は少し焦りながらもお兄さんの言葉を信用して巴恵にも一応確かめた。

「ん? うんうんっ! 私も紗季さんと一つになりたいなあ…… なんてっ」

「あああっ 残念っ タマちゃんって姉さんがいっぱいいるんだねっ!」

架純は少しむくれた口調で玉夫に言った。

「いやいやいやっ! お兄さんのお姉さんは架純姉さんだけですよ! そんな 嫌だなあ ねえ お兄さん!」

架純は玉夫のあたふたした姿をみて笑っていた。話題のアプローチを変えて紗季の不思議な空気をリセットする方法を架純が使ったんだなと健一は架純の笑顔をみてそう思った。

実際は男と女で別れて温泉に入った。

「一緒じゃないんかいっ!」

健一と玉夫は女風呂に向かって叫んだのだった。

「イヤーいい湯だったねえ」

架純がコーヒー牛乳を飲みながら健一に言った。内心はドキドキしていたがほんの少しだけ紗季の裸がみれなかったことを残念に思っていた。

「次どうする? このままだとあと二十分くらいですぐに実家に付くけど」

健一はみんなに尋ねた。

「お兄ちゃんっ! あそこに連れてってよ 動物園」

巴恵もコーヒー牛乳を飲みながら、健一に近付いて話しかけてきた。健一と巴恵はかつて兄妹として一つ屋根の下で暮らしていたことがある。その一つの思い出として巴恵には忘れられないエピソードがあったのだった。


巴恵は中学二年生のときに両親と死別して、高橋家の元にやって来た。巴恵はショックでしばらく心が凍り付いたように何も感じられないでいた。

巴恵の両親は薪をもらいに、森林組合の特別セールへ行ったときの帰り道、対抗車線から居眠りのトラックと正面衝突をしてしまって二人とも即死したという事だった。そこからの手続きとかいろいろなことはよく分からない。気が付くと与えれた一部屋でうずくまりながら、ただただ一日を終えていたのだった。喉に何も通らないので、しばらくは点滴を受けて命を繋いでいた。巴恵は左腕に刺さった管を見つめながら、風に揺れるカーテンのひらひらを目で静かに追っていた。巴恵にとって毎日が恐ろしく新鮮だった。すべてが初めてのようなまるで自分が赤ん坊に戻ってしまったと錯覚してしまうほどに何もわからないまま日々が過ぎていくのだった。母親ではない年上の女の人がいつも隣にて、自分のことを世話してくれる。父親ではない男の人が巴恵の頭を優しく撫でる。巴恵は生まれ変わって前世の記憶を持ったまま新しい両親のもとにやって来てしまったのかな? と思ってしまった。いつの間にか空腹を覚えて、食事を食べることが出来るようになると新しい存在に気が付いた。それはちょうど物心がついた頃にやっと兄の存在を認識するような感じだった。

学校に通うことが出来るようになったのは、二カ月くらい過ぎたもうすぐ夏が終わって夜の気温が少し肌寒くなる頃で、健一に手を繋がれて、中学校まで連れて行ってもらっていた。巴恵は最初は何も感じていなかったが、実の兄ではなくてもいつまで経っても兄に手を繋がれて登校するのが、恥ずかしくなってしまったので、もう自分は大丈夫だと健一に伝えたことがあった。

「巴恵が大丈夫でも お兄ちゃんが大丈夫じゃないんだ」

健一は巴恵にそう言って必ず毎日、手を繋いで学校に連れて行ってもらった。本当はとてもうれしかった。健一に手を繋がれていると不思議と心が安心できた。

 しばらくすると学校の友達ができた。おとなしめの女の子のグループに入った。登校も学校の友達と一緒に行くようになって、健一に中学校まで手を繋がれて連れて行ってもらうこともなくなった。たまに左手が健一の右手に繋がれていたことを思い出すと、少し寂しい気持ちになった。健一の右手に依存していたことに巴恵は気付いてしまったのだった。

 最後に巴恵が健一と手を繋いだのは、二人で動物園に遊びに行ったときだった。巴恵は高校生になっていて、健一は大学生だった。夕飯時、叔父と叔母はお互いの顔を見合わせてこらえきれないというように笑っていた。

「そうかぁ 動物園か 分かった 気を付けて行くんだよ」

叔父は巴恵を見てそう言った。

「はい」

巴恵は笑顔で叔父に返答した。健一は自分の父親に右手を差し出して、デート用の小遣いをせがんでいた。

「健一が巴恵をしっかり守ってやれよ」

叔父さんは健一の右手をパチンっと叩いて舌を出した。

「チェエッ」

健一は残念という風に答えた。

 動物園では巴恵は大げさなくらいに元気にはしゃいで見せた。積極的に次に見たい動物を健一に伝えては健一の手を引いて縦横無尽に健一を連れ回した。

「おい 巴恵! 動物園というのはな コースの通りに順番に見るものなんだぞ 逆走したり、戻ったりするものじゃないんだぞ」

確かにその通りだったのだが、巴恵は動物を見るよりも健一の右手を自然に握るための行動をしていたのだった。

 巴恵は今、あの時と同じ動物園で兄と玉夫と架純や紗季と一緒にいることがとてもうれしかった。

 

「おにーぃっちゃんっ!」

健一は呼ばれ慣れない言い方で突然、大きな声で遠くから呼ばれた。巴恵が両手をメガホンの代わりにして叫んでいたのだった。巴恵の隣には玉夫がいて、手をしっかりと繋いでいる。

「トーモエーっ!」

何となく健一も巴恵に大きな声で呼び返した。手も振ってみた。

「ケンちゃん 今まで本当にありがとぅ」

巴恵の声は最後の方はよく聞き取れなくて、そのままトイレに行ってしまった。玉夫はこちらをみながら腕を組んで大きく頷いているようだった。どちらにしても遠くからだったので二人のやり取りは健一にはよく分からなかった。

 巴恵と玉夫に合流した健一は、残りの動物たちを一緒に見て回った。

「ケンちゃん あの像さんさあ 覚えてる?」

「ええ? あんま覚えていないよ」

「えっ! じゃあ あのキリンさんは?」

「うーん 微かに覚えているかも……」

「じゃあ じゃあ……」

健一は巴恵の質問に困っていると、玉夫と目が合ってお互いに頷いて合図をした。

「トモエさあ お兄さんが困っているでしょうが だいたい随分前でしょ? お兄さんとは動物園にいつ来たのお?」

「五年前だよ」

「……五年前かあ ちょっとお兄さん! 五年前だったら 覚えているんじゃないでしょうか?」

急に風向きが変わったような気がした。

「えっ! 五年前だよ 像さんもキリンさんもまだ生きてるの?」

「生きてるよ! ひどいよケンちゃんっ! 私との思い出は忘れちゃったの?」

「あーあ いーけないんだー いけないんだー あーらら こーらーらー」

 今にも泣きそうな巴恵を助長させるように玉夫が健一を断罪した。それを見かねたのか紗季が後ろからやって来て、巴恵を抱きしめて頭を撫でてあげた。

「二人とも 子どもじゃないんだから 女の子をいじめないの!」

ぴしゃりと紗季に叱られてしまい、不本意ながら健一はショックを受けてしまった。

「そういえば カスミンは?」

紗季が周りを見渡しながら架純を探し始めた。そういえば動物園に来てからずっと架純とははぐれっぱなしだった。全員架純とは会っていないようだった。健一たちは架純を捜索すべく動物園をくまなく歩き始めた。

架純はオランウータンのコーナーから一歩も出ずにずっと見ていたようだった。通常右回りで一周するのだが、すぐはじめにこのオランウータンの檻がある。架純以外の全員はオランウータンを一通り見終わると、すぐ次に進んで行ったのだが、架純だけはここでずっとオランウータンを眺めていたのだった。健一たちは架純を見つけると静かにして、いつ終わるとも分からない架純のオランウータン観察の様子をそっと見守っていたのだった。

オランウータンは檻の中にいて、架純とガラス一枚で対峙していた。もしかしたら何かわかり合う部分があるのだろうか? おそらくオランウータンは架純を意識していて目を合わせていた。そしてブロッコリーを口に含んで食べるふりをして実は食べていないという遊びを繰り返していた。オラウータンを飽きさせないために、ロープを吊るしたり、タイヤを置いて遊び道具の工夫が見られたが、オランウータンは飼育員に用意されたおもちゃで遊ぶのではなく、自分で考えた遊びを今はしていた。

「あっ」

架純は何かに気付いて振り返った。そして不思議そうな顔をして健一たちを眺め始めた。オランウータンに影響されたのか素っ頓狂な声を出して口をぼけっと開けているのだった。

「オランウータンが好きなの?」

健一が架純に質問してみた。

「別に……」

架純は力なく答えた。ずっと考え事をしていて、横から話しかけられたときに反射で答えているときのような応答だった。

心配になったのか巴恵が架純の近くまで走り寄って、手を顔の前で振って意識を確かめていた。

「よしっ! 行こうかっ」

架純は急に我に返ったように元の架純に戻って立ち上がった。

「他の動物は見ないで大丈夫なの?」

巴恵がなお心配そうに架純に質問した。

「うん 大丈夫だよ それより埼玉の実家に行こうね」

架純は振り返らずにどんどんと進んで行ってしまった。健一たちは架純のペースに合わせるために少し早歩きとなった。


深谷のとある公園

動物園を出発した一行は、紗季の実家がある深谷駅を目指していた。車の中ではもうじきお別れの時間が迫っているというのに、あんなに楽しい雰囲気で過ごしていたのに不穏な空気が流れた。架純と紗季がちょっとした口論になってしまったのだ。

「本当にお願い 私とサトシの間を邪魔しないで欲しいからカスミンは健一さんと一緒に帰って」

紗季が少し強い口調で架純に言った。周りのみんなは黙っていた。

「わかった 紗季さん わたしは絶対に邪魔しない けど私も紗季さんと一緒にこの車を降りるね」

「だーかーらー なんでカスミンが私と一緒に降りるの?」

健一は不思議でしょうがなかった。なぜ架純がこれほどまでに紗季と一緒に居たがっているのかが皆目見当が付かなかった。紗季はあからさまに迷惑だと架純に伝えている。いつもの優しい紗季さんとは少し雰囲気が違っている。それなのに架純は折れずに真剣な顔をして紗季を見つめている。バックミラーから二人の表情をみていた。健一は今までにないくらい頭を回転させて、この場を納めなくてはならないと感じ始めた。

「僕は巴恵と玉夫君と久しぶりに実家に泊ることにするよ 紗季さん悪いけど架純さんのことをよろしくお願いします」

これで良かったのかな? と健一は言葉を終えてから考えてしまったが、多分架純の考えは正しいような気がするのであとは黙った。もうバックミラーで二人の表情を見ることは恐くてできなかったが、なんとなく紗季さんが自分を睨んでいるような気がして内心はドキドキしていた。助手席の玉夫は健一に分かるようにガッツポーズをしてくれていた。

「もう 分かったわよ 仕方ないなぁ」

紗季が折れて、不穏な空気が車内から取り除かれた。架純は紗季の腕に抱き着いて顔を擦り付けている。健一は一か八かの掛けに勝ったような気がした。

 紗季に細かい道案内をしてもらって、細い道の一通のところで紗季と架純を下ろした。

「暑いから気を付けてね」

そう言って巴恵は二人にミネラルウォーターを一本ずつ渡した。

「ありがとう 巴恵さんもタマさんもまた会おうね」

紗季はいつもの優しい雰囲気だったが、健一の名前が呼ばれないところに健一はトゲを感じたがまあ仕方ないと思った。

「ケンちゃん ありがとう」

架純と目が合うと健一は口だけ動かして「よろしく」と伝えた。架純は健一の口の動きを理解してゆっくりと頷いた。

 公園

紗季はサトシと待ち合わせをしている公園へ急いで向かった。

「うわっ!」

公園のブランコに走っていく途中で男の子とぶつかった。歳は小学校低学年くらいだろう。

赤いロープジャングルがシンボルのこの公園で小学校低学年の男の子と女の子が三人グループで公園にあるコンクリートの舞台で楽しそうにはしゃいでいた。間もなく遅れて紗季とぶつかった男の子が合流した。

紗季は待ち合わせ時間よりも大分前に来てしまったことに気付いて、一人ブランコに腰を掛けた。日差しが強い。急いでいたので家から帽子を被ってくることを忘れてしまった。しかし紗季は日陰に隠れることはせずに、公園のブランコにただ座っていた。

サトシは公園のブランコに座っていた。

「久しぶり 元気だった?」

紗季はサトシに話しかけた。

「私は何とか元気でやってるよ サトシと会うのっていつぶりになるのかなあ? 私は東京で自営業をしているんだ お店も持っているんだよ 自営業だから気ままにこうやってお休みが取れるんだよ だからサトシの休みにだって合せられるんだからね」

サトシはしゃべらない子なので、紗季は反応がなくてもあまり気にしなかった。サトシはブランコに座って、ただ前を見ていた。

「しかしさあ サトシは相変わらずだね 全然年取らないんだね 私なんかもうすぐ三十歳になるよ いいおばさんだよね? そうだっ! 二人が初めて会ったあの場所に行こうよ 懐かしいね」

 紗季はブランコから立ち上って、サトシと手を繋いで病院に向かった。

「なんか まるで親子みたいだね ちょっとショックなんだけど」

紗季はサトシにお尻をぶつけて笑った。長い坂を上った天辺に病院が見えた。紗季はこの病院でサトシと出会った。この病院では色々なことがあって確かに嫌な思いもしたけど、それでもサトシに会う事ができたので、この病院は紗季にとってとても特別なところだった。

「ああ すごい懐かしいね どんぐらい前だ? 見て見て! 屋上に人がいるよ 先生と女の子だね 何してるのかなぁ? サトシ ちょっと屋上まで行ってみない?」

 陽は完全に沈んでいて、明るい月が出ていた。病院は賑やかに感じたが人がいないので、誰にも何も言われずに屋上まで行くことができた。

「ここでさあ サトシとポテトチップを食べたときにサトシの手が血だらけだったことに気付いて二人で大騒ぎしたこと覚えてる? なんかバリケードに指を差しちゃったときあったじゃん それでサトシと姉弟の契りを交わしたんだよね? 私も指を噛んで血と血をくっ付けたんだよねー」

紗季は笑ってサトシの顔を見つめていた。サトシも紗季をみて笑ってくれた。


紗季は今から発する自分の言葉の意味と発する声のイントネーションのギャップを想像して頭の中で何度か言葉を繰り返した。

「……ふぅ 今からここから飛び降りて死にまーす 今度こそちゃんと撮ってよね」

満月で大きな月が紗季とサトシの表情を照らした。

 紗季が病院の屋上のフェンスを上ろうとしたときにサトシに手を掴まれた。

「サキ ダメだよ 飛び降りちゃダメだ 生きろ」

サトシは真剣な顔をして紗季を見つめていた。紗季はサトシの手を振りほどいてフェンスの外に出ようとしたが、サトシの力が強くて後ろに倒れ込んでしまった。

「なによっ! じゃあなんであの時は 死ぬなって言ってくれなかったの! 私は本当は恐かったのにっ 死ぬのが本当に怖かったのにーっ なんで なんで今頃そんなこと言うの? サトシはずるいよ! なんで なんで急にいなくなっちゃったの? 先に死んじゃうなんてダメじゃん だったら一緒に死ねば良かったじゃん! ワーーーーンッ」

 紗季は大声で空を見上げて泣き出した。力強く背中に熱い体温を感じていた。本当は分かっていたのかもしれない。架純が紗季を後ろから強く抱きしめて飛び降りるのを止めていたのだった。

 あの事件があってからこの病院は廃墟となっていた。今は誰もいない病院なのだ。架純はとても怖かったけどそれ以上に紗季を守るためには最後まで終わらせないといけないような気がしたので、ギリギリまで見守っていた。その甲斐あってか紗季は落ち着くと正気を取り戻した。

「カスミン ありがとう ごめんね 怖かったでしょ? お化け出そうだよね?」

「うん めっちゃ怖かったよ」

「どうする? これから」

「とりあえず 美味しいものでも食べに行きますか?」

「うん」

架純は紗季の手をしっかりと握りしめて廃病院を後にした。


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