あるラーメン屋
近所に小さなラーメン屋がある。決して人気がある訳ではないが常連はいるようで、この街に越してきた頃には今と変わらない汚らしい店構えだったことを覚えている。
取り立てて行く程でもないので訪れたことはなかったが、大晦日の夜、他にやっている店も見当たらないので暖簾をくぐった。
店内も外観通り汚らしいが、メニューは豊富で値段は安い。
僕は醤油ラーメンを注文する。愛想の悪い店主が「あいよ」と返す。
店主が器か何かを戸棚から出そうとしたとき、ポロッ、と何かが落ちた。
店主が嫌にヘラヘラ笑いながら、しかし素早くそれを拾った。一瞬の出来事ではあったが、僕にはそれが何なのかすぐにわかった。明らかに袋麺だった。
僕は戸棚から落ちたものが、そして目の前に置かれたこれが何なのかを知っている。知った上で食べるとまさにその袋麺そのままの味である。
僕が茹でられた袋麺を食べているとき、隣の常連らしき老人が呟いた。
「あぁ、やっぱりここのラーメンはうまいね。」
僕は内心で彼を笑った。彼らはこの店主に騙され、袋麺をこんなにもありがたがっているのだ。なんと滑稽なことだろうか。
常連が御馳走かのように袋麺を頬張る顔は嗜虐心をくすぐった。ここの常連が袋麺を嬉しそうに啜る顔を見たい、というささやかな悪意から、僕はこの店に通うようになった。
ある日、僕はいつもどおり醤油ラーメンを頼む。店主が戸棚を開けると、 袋麺がどさっ、と溢れ出てくる。袋麺をなんとか戸棚に戻そうとする店主を、そこにいた全員が眺めていた。
この楽しみも終わりだな、と思った。しかし、常連は何も言わない。これまで自分を騙し続けた証拠が目の前にあるのに、誰も声を上げない。しまいには出てきた袋麺を美味しそうに平らげ、「うまかった。ラーメン、ごちそうさま。」と、いつも通り帰っていった。
僕が醤油味の袋麺を食べ終わる頃には、客は皆帰って店には僕と店主の二人だけ残っていた。僕は店主に尋ねた。
「袋麺だってこと、知っているんですか。」
「そうだろうね。」
「じゃあ何で食べに来るんです。家で食べればいいじゃないですか。」
「さぁ、何でだろう。でも知った上で食べに来るのは勝手さ。君もそうじゃないか。」
何も言えず、僕は店を出た。
「またおいで。」
この一言に、僕は呪われた。
それからしばらくして、僕はまたあの店に通っている。
「醤油ラーメン一つ。」
何故この店には常連がいるのか。
居心地の悪いこの店に。
「あいよ。」
大量生産された袋麺には特別などない。
「やっぱりうまいね、ここのラーメンは。」
こんなことを言ってみる。
「ごちそうさま、また来るよ。」
今日も常連は袋麺を食べている。僕と同じように。
僕は袋麺にも、店にも興味はない。
なぜ常連は常連なのか、それだけが知りたくて常連になる。
これが常連なのだろうか。
厨房の手洗い場には、小さな鏡が置いてある。
常連の鏡像を眺めながら、僕はラーメンを啜った。